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第九章 君のいない世界は 1

 ハッシュラーザ侯爵家令嬢、エリザベスが外出していた先から屋敷へと戻ったのは、もう間もなく日が暮れようかという頃合いだった。出来ればローズマリー一人を屋敷に残して出掛けることは控えたかったが、エリザベスの生活もローズマリーを中心に動いているわけではない。

 どうしても断れない誘いに応じることを躊躇っていたエリザベスに、小さな笑顔と共に行ってくると良い、自分のことは大丈夫だからと送り出してくれたのはローズマリーである。

 後ろ髪が引かれる思いがしなかったかと言えば、嘘になる。出来れば彼女も共に連れて行きたかったけれど、一時の噂が落ち着きを見せ始めたとは言え、まだ人々の中には根強く好奇心ややっかみという感情を持ち合わせている者もいる。

 今のローズマリーには少しでも、彼女が傷つくような要素は近づけたくない。そう言う意味で、エリザベスは彼女がルイーザと共に行動することにも反対だったのだが、友人が泣くだけではなく自ら立ち上がろうとする姿を、邪魔することも出来ずに見守っていたのが実情だった。

 どんなに親しくても、第三者でしかないエリザベスには、助言をして見守ることくらいしか、ローズマリーに出来ることがない。彼女の人生の責任は彼女自身にあり、そこに自分が強引に手を差し出して、本来考えなければならない問題から目を背けさせる行為は、彼女の為にならないと思っている。

 けれど、そうした思いを無視してでも時々、エリザベスは自分を抑えられない怒りに囚われることがある。その怒りの対象は、ローズマリーではなくレイドリックと、ルイーザに対してだ。

 彼らの問題は、彼ら自身で解決すべきことのはずだ。だと言うのに、どうしてこれほどローズマリーが振り回されなければならないのだろう。

 始め、レイドリックとの縁談を聞いた時には本当に良い縁だと思っていたのだ。以前からローズマリーの話の中に度々登場する幼馴染みは、世間での噂はどうであれ彼女に対しては誠実であるように思えたし、ローズマリー自身口でどう言おうとも、本心では彼のことを慕っているのは明白だったから。

 レイドリック本人と顔を合わせた時にも、確かに少々軽薄に見える素振りもあったが、その様子は彼自身が自然に行っていると言うよりは、どこか演じているようにも見えた。

 実際の彼は、それほど浮気な性格でもないだろう…きっと何か、彼の中で譲れない禍根のようなものがあって、それが素直になることを邪魔しているのではないか…それがエリザベスの印象だったのである。

 彼がローズマリーに向ける笑顔には、確かに裏のない彼女への親愛が見え、心の底ではきちんと気持ちが繋がりあっているのだろうとも思えた。

 近すぎて逆に見えない、大切な言葉が言えない、話が出来ないと言う弊害はあるものの、それもいつかは解消するだろうと。

 ところがどうだ、エリザベスが思っていたよりもレイドリックの禍根は根深いものであったらしい。しかもそこに重なってルイーザの登場だ。

 二人の間にどんな過去があったのかは、様々な噂を耳にしていても本当のことは、やっぱり二人にしか判らないことだ。きっと彼らなりに納得できないこと、辛く苦しいことがあったのだと思う。

 思うけれど……それが、ローズマリーを泣かせる理由にはならない。

 いつまでも過ぎ去った恋だの愛だのを吹っ切ることも出来ずに、だらだらと、自分達を悲劇のヒーロー、ヒロインだとでも思い込んでいるのかと、罵れるものならばそうしてやりたいくらいだ。

 エリザベスが自分をぐっと抑えて、黙っているのは、ただローズマリーがそうすることを望んでいないから、ただその一点に尽きる。

 そのせいで、彼女の前では言えないことを、自分自身の幼馴染みであるエリオスの前では遠慮容赦なく口にしてしまうので、最近ではあの堅物の幼馴染みさえも困らせて、とにかく落ち着けと宥められる始末なのだが。

 とにかくも、そうした過去から立ち直れない、そして忘れられない駄目な男と女の二人はともかく、ローズマリー自身は少しずつでも自分なりに立ち上がろうとしている。

 本当は蹲って泣いている方が楽なはずなのに、ちゃんと見るべき物を見て、考えるべきことを考えようとしている。

 レイドリックに比べれば、彼女の方がよほど勇敢だ。背を背けるより、直視しようとすることの方がずっと苦しいことを、エリザベスも知っているから。

 さて、これから先二人はどうなるだろう。本当にこのまま別れてしまうのか、それとももう一度二人でやり直そうとするのか……もどかしい思いを抱きながら、もう少しだけ様子を見守ろうと決めていたエリザベスの元に、屋敷の執事から思わぬ出来事を聞かされたのはこの直後だった。

「ローズが何者かに浚われたですって!?」

「はい。つい先程、ローズマリー様の供に付けたパトリックから、そのように報告が入りました」

 執事の話ではこうだ。

 エリザベスの留守中、ローズマリーの元にレイドリックの名で、一通の手紙が届いた。その手紙を見て、すぐにローズマリーは外出して行ったのだという。

 君に全てを話す、今すぐに会いに来て欲しい。

 パトリックが拾ってきた、ローズマリーが浚われた現場で落として行ったカードには、そう言ったメッセージと待ち合わせ場所が記されていた。

 もちろん執事は止めた、せめてエリザベスが戻るまでは待って欲しいと。そこを押し切ったのはローズマリーだ。

 どう説得しても意思を変えそうにないローズマリーを、それ以上止めることも出来ず、また会うと言う相手がレイドリックであるとも聞いたから、それならばとせめて供を一人付けて行くことを条件に外出を許したらしい。

 パトリックは侯爵家の使用人の一人である御者だ。彼にはくれぐれもローズマリーから目を離すなと言い含めて、彼にローズマリーの望む場所まで送らせた。指定された場所は、もうすぐに夕暮れが近付きつつある、自然公園の東屋だ。

 そのすぐ近くでローズマリーは馬車を降り、帰りはレイドリックに送って貰うから、先に帰ってくれとパトリックに頼んで、東屋に近付いて行った。そうした彼女の様子を、パトリックは執事から厳命されていることもあり、ローズマリーの言う通りにすぐに帰ると言うことはせずに少し離れた場所で、伺っていたらしい。

 東屋に腰を掛けるローズマリーの元に、複数の男達が近付いて来たのはそれから間もなくしてのことだ。彼らは驚き、逃れようとするローズマリーを、恐らく薬か何かで黙らせて、崩れ落ちるように意識を失ったところで彼女の身を抱えて連れ去って行ったのだという。

 一部始終を見ていたパトリックは、咄嗟にその後を追うべきか、侯爵家に報告に戻るべきか迷った。だがすぐに、自分一人で後を追ったところで返り討ちに遭うだけだ、それならばと一刻も早く報告すべきと屋敷に取って返して来た。

 それが、エリザベスが帰宅する直前にあった出来事のようだった。

 ローズマリーを連れ去った男達は、みな目立たぬ地味な恰好をしていて、特徴という特徴も無かった。

 けれど本来多くの人の目があるはずの自然公園で、誰に見咎められることもなく連れ去る手慣れた様子から、こういった力なき女性を浚うことを躊躇いもしない種類の人間であることは間違いないらしい。

 そう報告を受けながらもエリザベスには、全く訳が判らなかった。一体、ただの一貴族の男爵令嬢にしか過ぎないローズマリーが、浚われなければならないどんな理由があるというのだ。

 彼女の交友関係はエリザベスもおおよそ把握しているが、とてもではないがそんな物騒な真似をする人間との繋がりはなかったはずだ。

 唯一、考えられるとすれば………

「馬車を出して。いいえ、馬で良いわ。今すぐ走れる、一番足の速い馬を出しなさい! レイドリック様の元へ行きます」

「お嬢様、そのようなことは…!」

「デュオン様とエリオスの元にも使いを出しなさい。もたもたしないで、今すぐによ! でも決してそれ以外の他の人の耳には入らないように気をつけて」

 再び執事が何かを言いかけて、けれどすぐに口を閉ざすと深く頭を下げた。

 今のエリザベスに何を言ったところで、聞き入れて貰えないことを察したのだろう。

 普段の彼女は使用人にも穏やかに優しく、そして明るく接する侯爵家自慢の淑女だが、一度頭に血が上れば自分が納得するまで行動することを諦めないと言う、内に隠された激しさがある。ましてそれが大切な親友に関わることなら尚更だ。

 うら若い年頃の令嬢であるローズマリーが、何者かに浚われたという事実は、彼女自身の身の安全が心配だと言う一番大きな問題もあるが、同時にこのことが世間に知られたなら社交界での彼女の名誉は地に落ちるだろう。

 正体の知れない男達に浚われて、例え命が助かったとしてもその身の純潔もが無事であるとは、誰も考えない。女性が浚われると言うことは、誰もがそう言う意味での損失を当然のように考える。

 そうなれば、もう二度とローズマリーの元に良縁と思える縁談が来ることは無くなるし、兄であるデュオンの立場も辛い物になる。

 もちろんレイドリックの評判もこれ以上なく揺るがされるだろうが、エリザベスにとってはもうそんなことはどうでも良い。が、今この場において誰よりもローズマリーを取り戻す為の力を持っているのが彼であると言うことは否定出来ない。

 機動力と戦闘力、状況に応じての判断の秀逸さは騎士の専売特許である。それだけを見るならば、レイドリックよりもエリオスの方が優れているが、きっとローズマリーが望むのは、レイドリックの救いの手だ。

 既に夕闇が間近まで迫り来る中、表に連れてこられた馬の鞍に飛び乗って、供の者が後ろから付いて来ようとするのを振り切って単騎でエイベリー子爵家への道を疾走した。屋敷に彼がいるかどうかは、正直なところ半々の確率だろう。

 通常騎士は騎士団に存在する…王宮騎士の場合は、王宮に存在する騎士団棟で寝泊まりするか、自分の屋敷を持つ者はそちらで生活する。

 だが王宮の騎士団棟へは基本、婦女子の出入りは禁止されている。エリザベスが自ら乗り込んでいけるのは、子爵家の屋敷の方だ。

 そこでレイドリックを見つけられれば良し、もし騎士団棟の方が正解ならば、使者からの連絡を受けたエリオスがきっと彼を捕まえてくれるはずだ。

 エリザベスの判断は、間違ってはいなかったようだ。

 突然の侯爵家令嬢の姿に、子爵家の使用人は執事やその屋敷の主人である子爵と夫人まで驚かせたが、収穫はレイドリックがこの時屋敷に滞在していたことだ。

 どうやらこれから王宮の騎士団棟に向かうつもりだったようで、屋敷を出る寸前に彼を捕まえることに成功したのである。

「レイドリック様!」

 エリザベスが供も連れず、一人で馬を駆って現れた姿には、もちろんレイドリックも驚いた。だがそれ以上に驚かせたのは、一体どうしたのかと彼が問うよりも先に、馬から飛び降りたエリザベスが、足早に傍らまで近付いて、物も言わずにその頬を打った行為である。

 女の平手など、その気になれば容易く避けられたのだろうが、あまりにも驚き過ぎたレイドリックには、すぐには彼女の行動が理解出来なかった。

 打たれた後も、二度三度と瞬きを繰り返して、それからようやく遅れてやって来た痛みと共に自分の身に起こった出来事を理解したらしい。ぎこちなくこちらに顔を戻すレイドリックを睨み付けて、エリザベスはその口を開く。

「少し前にローズが何者かに浚われました。あなたの名前でこの手紙が届き、これを見てローズは出て行ったわ。あなたに心当たりはありますか」

 どんと胸に叩き付けられるようにして渡された剥き出しのカードに、視線を走らせたレイドリックの表情が見る間に強張っていく。自分の名で出された手紙、文字も自分の筆跡に良く似せてある……けれど、これを書いた記憶がレイドリックにはどこを探しても存在しないのだから、無理もない。

「男達はローズを薬で黙らせて、それから何処かへ連れ去って行ったと、供につけた我が家の使用人が告げています。誰がそんな真似をしたのかも、何の為なのかも、どこへ行ったのかも何も判らないわ。でもあなたには少しくらい、想像がつくのではない?」

 ローズマリー自身が誰かの恨みを買って、身柄を浚われるなどとは考えられない。可能性があるならば、彼女が浚われることでダメージを受ける誰かに対する攻撃だ。もちろんそれは、兄のデュオンに対して恨みを持つ者の仕業だと考えることも出来る。

 デュオンは男爵家を繁栄させるために、その才能でいささか強引なことをしていると言う話を聞いたことがあるから。けれど今、このタイミングでのこの出来事は、デュオンにではなくレイドリックに対してと考える方が自然だ。

 彼を陥れる噂が流れ、その噂のせいで一時レイドリックは確かにその立場を危うくさせた。けれどその後、ローズマリーとルイーザの行動により噂の効果は薄れ、逆に今はその噂を流した当人は誰なのかと追求する声が強くなっている。

 その声を率先して煽っているのはルイーザだ。恐らく彼女は、少しばかり熱心になり過ぎたのだろう。噂が下火になった時点で、不本意でもその行動を止めていれば、まだ当人の逃げ場もあったものを。

 徐々に逃げ道を塞がれ、今追い詰められているのはその当人で、自分の身を守る為に、世間の目を反らすために、また再びレイドリックを陥れるために、彼にもっとも関わりの深いローズマリーに目を向けたとしても何ら不思議はない。

 同じことをすぐにレイドリックも思い当たったらしい。見る間に表情が険しく変わっていく彼に、エリザベスは叫ぶように言葉を続ける。

「ローズは私の大切な親友です。そのローズを不当に傷付けるようなら、彼女は渡さない。あの子に愛のない結婚なんて似合わないわ、あなたには彼女に永遠の愛を誓えるの? もしそれが出来ないのなら、潔く身を引いて。過去に自分で決着が付けられない臆病な殿方に、大切な親友を任せられない」

 痛烈な批判に咄嗟に返す言葉も無い。が、エリザベスの言葉はそれで終わりではなかった。

「でも、もしもあなたがローズを大切なら、生涯の伴侶として愛したいと思っているのなら、どうかお願いですからあの子を救って下さい。あの子はあれからずっと、いつも泣いているわ。涙は流さず、大丈夫だと言いながら、でもずっと泣いている。どんなに傍にいても、私じゃ駄目なの、だって私はあなたじゃないんだもの…!」

 恐らくは子供の頃から。

 うんと小さな、物心が付いた頃から、ローズマリーの心に存在しているのはレイドリックだ。幼すぎて、愛だの恋だのと言う言葉も意味も知らなかったけれど、誰より近くにいて、誰より心を添わせていたのは間違いない。

 疎遠になっても大人になっても、彼女がレイドリックのことを忘れることは無かった。誰に憧れて見せても、何を言って見せても、結局心は同じ場所に帰る。それほど一途に想い続けている恋ならば、どうか実らせてやって欲しい。

 それが駄目なら彼女が諦められるように、そして新しい恋に目を向けられるようにきちんと振ってやって欲しい。無理矢理押し付けられる別れがどれ程辛いかを、レイドリックは知っているはずなのだから。

 一瞬だけ、レイドリックは瞳を伏せた。けれどすぐに傍らに立つヒンティに乗り上がると、馬上からエリザベスを見下ろして、微かに微笑んで見せる。普段彼が浮かべて見せる伊達男の笑みにはほど遠いけれど、その分素直な彼の心が滲んで見えるようで、知らずに零れ落ちた涙を彼女が自分の手の平で拭った時、彼は言った。

「後のことはどうか俺に任せて下さい。後日、二人で侯爵家にお邪魔します」

「レイドリック様…」

「このような時ですから、このまま失礼する非礼をお許し下さい、レディ・エリザベス。あなたに、心からの感謝を。あなたがローズの友人で本当に良かった」

 手綱を引き、馬首を巡らせてすぐにレイドリックは馬を走らせた。主人の心境を理解したようにヒンティは特別急かされることをせずともその速度を上げ、見る間にその姿を視界から消していく。

 残されたエリザベスには、もうただ待つことしか出来ない。どうか無事で戻りますようにと。そして、友人の一途な恋が、今度こそ実りますようにと祈りながら。

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