五 対決
いくばくも歩くことなく、村落の内を流れる川というものが見えてきた。
川が存在するからこそ、このような山あいに村落が開かれることになったのだろう。川の幅は三丈ほどもあり、そこには古びた板を蔦かずらでつなげた吊り橋が掛けられていた。
「確かに川向こうにも、いくつかの家が見えているな。さて、これはどうしたものか……」
葵が思案していると、亜門寺が「どうしたのだ?」と問い質した。
「妖異めをすみやかに討滅すれば、どちらの村落にも危険はなかろう? 村人たちは、誰もがああして家にたてこもっておるのでござろうしな」
「妖異めは一匹でないという話であったろうが? こちらで討滅に手間取れば、村落のものたちが危険にさらされよう」
「ああ、それで二手に分かれるべきかと論じてござったのか。ならばここは、我々が橋を渡ってあちらの村落を守ってみせようではないか!」
「降魔師でもないお前たちに、それほどの力は備わっておるまい」
亜門寺の言葉をあっさりと切って捨て、葵は楓丸に向きなおった。
「楓丸よ。やはり私かお前のどちらかが橋を渡り、あちらの村落を守るべきであろう。そうして妖異の主めが現れたならば、左右から挟撃するのだ」
「相分かった。では、おれがあちらに渡ることとしよう。橋の上で襲われようとも、降魔刀さえあれば危険はなかろうからな」
葵はしばし黙考してから、「うむ」と応じた。
「では、そのように取り計らう。ゆめゆめ油断するのではないぞ」
「うむ。葵も用心をな」
楓丸は降魔刀の柄を握りなおして、橋のほうに向きなおった。
すると、大男の亜門寺がそのかたわらに進み出る。
「では、こちらからは某が参ずることとしよう! よろしゅう頼むぞ、楓丸よ!」
「なに? おれも余人を庇っているいとまはないのだが」
「先刻も申した通り、我々が生命を散らすことになろうとも気にかける必要はござらん! 我々はおのれの信念を全うするために、妖異を退治しておるのだからな! この村落とて我々の故郷たる久留里の一部であるのだから、それを捨て置くことはできんのでござるよ!」
「そうか。……お前は愉快なやつなので、できれば死んでほしくないのだが……」
楓丸は、ちらりと葵のほうを見やった。
葵は感情を殺した目つきで、それを睨み返す。
「私はすでに何度となく、このものたちに山を下りよと告げている。その忠告を聞き捨てたものたちに、情けをかける必要はない。お前は妖異の討滅だけを考えよ、楓丸」
「相分かった。……なるべく死ぬなよ、亜門寺よ」
「うわははは! おぬしこそ、某の腕を見くびるなよ、楓丸!」
大きな笑い声を響かせるや、亜門寺はその手の金砕棒にぺっと唾を吐きかけた。
足を踏み出しかけていた楓丸は、きょとんとした顔で亜門寺の巨躯を見上げる。
「なんだ? それは何かのまじないか?」
「百足は、人の唾を嫌うと聞く! それ、俵藤太の百足退治伝説よ! おぬしも念入りに唾を吐きかけておくがよいぞ!」
「ううむ。形見の品に唾を吐きかけたら、葵にこっぴどく叱られてしまうような気がするのだが……」
楓丸は、再びちらりと葵のほうを盗み見た。
葵は石の如き無表情のまま、ただ眼光だけで楓丸を威圧する。楓丸は首をすくめつつ、川のほうに向きなおった。
「おれはやっぱり、やめておこう。では、ゆくぞ」
言うなり、楓丸は若鹿のような勢いで駆け出した。
一歩遅れて亜門寺が、さらにその後を葵と桐塚鈴之進が追従する。
やがて先頭を駆ける楓丸が、古びた橋に足をかけようとした瞬間――その身が真紅の妖気に包まれて、葵の手にした錫杖が乱れ鳴いた。
「来るぞ!」
駆けながら、葵は杖刀を抜き放った。
濁った川が大きく波打ち、その下から巨大な妖異を出現させる。
黒光りする胴体に、うじゃうじゃと生えのびた黄色い足、平たい頭部に触角と牙を生やした、まごうことなき百足の姿である。ただし、その胴体は人間の足よりも太く、身の丈も亜門寺より長いほどであった。
そんな大百足が三匹、ずるりと川辺に這い上がってくる。
ただし、吊り橋からは一丈ほども離れた場所だ。葵と桐塚鈴之進は、すぐさまそちらに方向を転じた。
「こちらにはかまわず、お前は向こう岸に渡れ!」
「相分かった!」と、楓丸は吊り橋に踏み込んだ。
亜門寺がそれに続くと、足もとの板がみしみしと軋んだが、吊り橋はそうまで揺らぎもしない。それはこの大男が巨躯に似合わぬ身軽さで駆けている証であった。
しかし、両名が中ほどまで渡ったところで、吊り橋が大きく揺れ動いた。
それと同時に、吊り橋の左右からざぶんと大百足が姿を現す。その奇怪な見てくれに、亜門寺は「うおう!」と蛮声を張り上げた。
「た、確かにこやつは、百足だな! えい、薄気味の悪い姿をしおって! こちらに近づくな! 亜門寺金剛流棒術の餌食になりたいか!」
「いや、おれたちはこやつらを退治に来たのだぞ。近づかなくては、話になるまい」
楓丸は片手で吊り橋の蔦かずらをつかみ、逆の手で降魔刀を振りかざした。
すでにそこには、巨大な漆黒の刀身が顕現している。黒い炎を凝り固めたかのような、禍々しい調伏の刃だ。
しかし大百足は、意外な素早さで水中に身を隠してしまう。
するとまた、吊り橋が大きく揺れ動いた。大百足が、下から吊り橋を揺すっているのだ。
「こやつら、おれたちを川に落とす気だな! 気をつけろよ、亜門寺!」
「う、うむ! 水中でこやつらに絡みつかれるなど、想像しただけで背筋が粟立ってしまうな!」
騒ぐ両名をよそに、川辺では葵と桐塚鈴之進が三匹の大百足を相手取っていた。
しかしこれは、難敵である。大百足の黒い胴体は、杖刀の斬撃をも弾き返したのだ。
その身に刀を振り下ろすと、岩でも叩いたような硬い音色が響きわたる。そうして大百足は痛痒を受けた様子もなく、大蛇のようにのたうって、鋭い牙を繰り出してくるのだった。
「なんと頑丈なやつらだ! これではこちらの刀がへし折られてしまいそうだぞ!」
二刀を抜いた桐塚鈴之進も、その見事な剣技でもって大百足を相手取っていたが、傷ひとつつけることはかなわない。それでも自らの身を守れているだけ、大した力量であった。
(しかもこやつらは、しょせん分かれ身に過ぎぬはずだ。分かれ身ごときに手間取っているいとまはない!)
そのように念じた葵は大百足の牙をかいくぐりつつ、いっそう心魂を集中させた。
そして、その一匹とのすれ違いざまに、すうっと杖刀を振り上げる。
それは空気を撫でるような、ごくなめらかな太刀筋であったが――それに触れた大百足は平たい頭を斬り飛ばされて、黄色い脚をうじゃうじゃと蠢かしながら黒い塵と化した。
「武芸者! 胴体の繋ぎ目の節を狙うのだ! その場所であれば、刃も通る!」
「ふ、節? このように素早い妖異の、甲の隙間を狙ったというのか? さすがは、葵殿だな!」
大百足の胴体は硬い甲に覆われているが、自由に動くために節が存在する。大百足が身をよじれば甲に隙間が生まれるので、葵はそこを狙って寸断したのだ。
残りは二匹となったので、葵と桐塚鈴之進は一匹ずつを相手取ることになる。優美な所作で二刀を振りかざしていた桐塚鈴之進は、大きく跳びさすさってから大百足のもとに刀を振り下ろした。
黒光りする大百足の胴体が、腕一本分ぐらいの長さで寸断される。
ただし、塵と化したのは短いほうの側のみであった。それは大百足の頭ではなく、尻の側であったのだ。
「おお、確かに斬れるぞ! 次こそ、頭を刎ねてくれよう!」
快哉の雄叫びをあげながら、桐塚鈴之進は大百足に躍りかかった。
目の端でその姿をとらえつつ、葵はひそかに思案する。
(こやつらは、まぎれもなく未熟者。……だが、嵬空山で修行をすれば、私以上の力を身につけられるのやもしれん)
ただしそれは、嵬空山の苛烈な修行に耐えられたらの話である。
また、彼らにその気がないのならば、葵がいくら思案しても詮無きことであった。
そこに、亜門寺の喚声が響きわたる。
亜門寺と楓丸はまだ吊り橋の上で、水中の大百足に翻弄されていた。
「おのれ! 姿を見せぬとは卑怯でござるぞ! 尋常に勝負せい、この長虫めが!」
吊り橋の蔦かずらにしがみつきながら、亜門寺はわめきたてていた。
その眼前に、大百足の頭がぬうっと出現する。
亜門寺は「わわあっ!」と悲鳴まじりの声をあげて、金砕棒を振り回した。
したたかに頭を打たれた大百足は怪鳥じみた咆哮をあげながら、また水中に没してしまう。
「なんと頑丈なやつだ! 楓丸よ、このままでは吊り橋そのものが落とされてしまいそうでござるぞ!」
「うむ。いっそこちらから水の中に飛び込んでやるべきか……ううむ、あまり泳ぎは得手ではないのだがなあ」
「いやいや、このように濁った川の中に飛び込んでは、どれだけ泳ぎが達者でも危うかろう! こうなったら、おぬしだけでも向こう岸に渡るがよい!」
亜門寺はその手の金砕棒を口にくわえると、空いた手で楓丸の襟首をひっつかんだ。
楓丸が何を答えるいとまもなく、その小さな体躯が軽々と吊り上げられてしまう。そうして楓丸の身は大きく弧を描き、川の向こうへと投げ飛ばされてしまった。
その途上で、水面からのびあがった大百足が楓丸に襲いかかる。
楓丸は空中で降魔刀を振りかざし、それを一刀のもとに斬り捨てた。岩のように頑強な甲であろうとも、降魔刀の前には障子紙も同然であるのだ。
楓丸はとんぼを切って、川べりに着地する。
それと同時に、吊り橋を支える蔦かずらがぶちぶちと引き千切れていった。
「おい、亜門寺――!」
愕然と立ちすくむ楓丸の前で、亜門寺の巨体は吊り橋の残骸ごと川に落ちた。
何匹もの大百足に絡みつかれながら、亜門寺の姿は濁った水中に没していく。
金砕棒をくわえていたためか、断末魔の声が響くことはなかった。
「くそっ!」と叫んで、楓丸は川のほうに足を踏み出した。
それを嘲笑うようにして、川の水面が大きく揺れる。
そこから顔を出したのは、ひときわ巨大な大百足であった。その胴回りは人間よりも太く、巨大な頭部には青白い目玉が爛々と燃えている。
「お前が、大百足の主だな! 亜門寺の仇だ!」
楓丸は、降魔刀を水平に薙ぎ払った。
すると大百足の主は、思わぬ俊敏さでまた水中に没してしまう。その勢いであふれかえった川の水が、楓丸の小さな体躯をざぶんと呑み込んだ。
「うっ」とうめいた楓丸は、自分の足もとに降魔刀を振りおろそうとする。
それよりも早く、楓丸の身は水中に引きずり込まれてしまった。別なる大百足が楓丸の足に牙をたて、その身を引き寄せてしまったのだ。
「葵殿! 亜門寺も楓丸も、川の中に沈められてしまったようだぞ!」
「わかっている! こちらはとにかく、こやつらを仕留めるのだ!」
葵と桐塚鈴之進は、まだ一匹ずつの大百足に手古摺っていた。刀の届く場所で甲の隙間が開かぬ限り、仕留めることはかなわないのだ。どれほど迂遠でも、その好機が訪れるまではひたすら相手の牙から逃げ惑う他なかった。
「ええい、浅ましき妖異どもめ! これでもくらうがいい!」
桐塚鈴之進は大きく踏み込んで、左の刀を一閃させた。
刀は大百足の頭を打ったが、ついに真ん中からへし折れてしまう。
ただその斬撃の勢いに押されて、大百足は逆の側に身をよじっていた。
それで生じた甲の隙間に、右の刀の切っ先をねじ入れる。
そうして桐塚鈴之進が手首を返すと、青黒い体液を撒き散らしながら、大百足の首が吹き飛んだ。
(なるほど、その手があったか)
葵は自らの不明を恥じつつ、地面に落としていた杖刀の鞘を拾い上げた。
それで大百足の頭を打ち、桐塚鈴之進と同じ兵法で甲の隙間から首を寸断する。
「よしっ! それでは亜門寺らの助勢に向かおうぞ!」
「待て。あれを見よ」
川べりに、新たな大百足が五匹ほど現れていた。
葵たちが佇んでいる場所から、何丈も離れた位置だ。そしてその大百足どもは、たがいにもつれあうようにして村落のほうを目指そうとしていた。
「村人たちに害を為し、あらたな怨念を糧にしようというのであろう。まずは、あやつらを滅さねばならん」
「では、亜門寺たちはどうするのだ!?」
白い面を朱に染めて、桐塚鈴之進は怒号をあげた。
葵は、凍てついた眼差しでそれをねめつける。
「お前はお前の好きにするがいい。私は、降魔師としての使命を果たす」
あとは相手の返事も待たず、葵は忌まわしき妖異のもとを目指した。
楓丸と亜門寺を呑み込んだ水面は、すべてのものが死に絶えたかのように静まりかえっていた。




