7th tale Brightness of will
私は、あなたが嫌い。
何も知らなかったあなた。誰かが言うように、ただただ良い子でいようとしていたあなた。
だからあんなに、苦しむことになったというのに。
この夢の中で、私があなたをたくさん苦しめてあげる。自分の愚かさに気付けるように。たくさん。たくさん。
あの人だって、あなたなんか嫌いになるに決まってる。
良い子に振る舞おうと必死になっているあなたを、どうして好きになんてなれるだろう。あなたが大事に抱えてるその優しさが下らない物であると、そんなことにも気付けない。
あの頃の優しさなんて、全て偽物。誰かの優しさを真似をしているだけの、空っぽなあなた。
あの人なら、きっと本当の私を好きになってくれる。選んでくれる。正直な、上辺の自分を捨てた私を。
あの人なら。
あの人なら。
絶対に。
SIN-CIA - Domestic Violence -
・ある少女の回想 三
「お母さん」
「ん?どうしたの?」
夜は苦手。
暗くなった家の中は、何か怖いものが隠れているような気がするから。閉じられた窓のカーテンは、私の部屋を世界から包み隠してしまうから。
「怖くて眠れないの?」
返事の代わりにお母さんの袖を掴んで、引いた。もう一日中その場所から動かないお母さん。
「ごめんね。今日は……」
今日はたくさんの人が家に来た。
親戚の人や、近所の人。みんな悲しそうな顔をして、この部屋でお祈りをしていった。あるだけで空気が重くなる、部屋に備え付けられた無駄に立派な仏壇の前で。
「……」
引っ張る、強く。私の所に来て欲しかったから。
「ごめんね、ごめんね……。お母さんの代わりにお父さんと……」
私は首を振る。
嫌。あの人は嫌い。乱暴でいつも怒鳴り散らしている怖い人。
「じゃあ、お兄ちゃんは……?」
私はまた首を振る。
あの人も、嫌。自分勝手で何をするか分からない嫌な人。
お母さんは困っていた。困っていたから、私は袖から手を放して部屋を出て行った。
嫌い。みんな、みんな、嫌い。
そんなにあの子が大事?もういない、あの子のことが?
自分の部屋でベッドに潜って、大好きなクマのぬいぐるみを抱いて泣いたけれど。そのぬいぐるみも元々はあの子の物だったことを思い出して、私は。
自分には何も無いのだと、気付いた。
7th tale Brightness of will
陸に波を打ち寄せる水の音が柔らかく耳を揺らす。
湖畔に立ち並ぶ家々は町となり、湖に浮かぶ小舟は、糸を垂らす釣り人を乗せて水面を滑る。微かに透き通った水の中を泳ぐ魚たちが、集まっては散っていく。
穏やかな時間が流れる町だ。看板が示すその名は、リトル・ベイ。
黒い髪を風になびかせて、水辺に男が一人寝そべっていた。
奇怪にも顔を覆い隠す、真っ白な仮面を被り、着ている服は格調の高い執事の制服。
彼、スティープスは人を待っていた。
かのディリージア城から助け出した友人に、待ち人たる彼女の手当の邪魔だからと、外に追い出されふてくされていた次第である。
スティープスは懐から懐中時計を取り出した。
金色の懐中時計。
ここが現実の世界であれば、相当高価な物であったはずだ。ずっしりとした重さ、目を引き付ける光沢、小さな実を房に実らせた植物を描いた繊細な彫刻とを見れば、その時計が生半可な価値の物ではないと鑑識眼のない素人でも推し量ることができるだろう。
金時計はカチコチと、針を揺らし時を刻む。
けれど、その動きは明らかに通常の時計とは異なって、至極ゆっくりであった。文字盤に時間を示す数字が描かれていたなら、金時計は朝でも夜でもない、今この時に関わらず、時刻八時を指していたであろう。
だが、文字盤には零時以外に数字はなく、持ち主である彼も気に留めていない様だった。
「お待たせ」
待ち人がやって来た。
黒と灰色の混じり合う空を見上げる青年を覗き込むのは、まだ年若い、仕草や表情に些か陰のある少女だ。
遥か遠くに見える、黒影のディリージア城において、スティープスの友達である女の子を助けるため、その風貌に似つかわしくない勇気を見せた。
彼女の右足には包帯が巻かれており、動かせないその足の代わりに一本の松葉杖を使っている。
名前は、箕楊椎菜。
「何してるの?」
椎菜はスティープスの隣に腰を下ろす。
束ねられた、色深い滑らかな茶髪を肩にかけ、湖の上にそよぐ風に揺れる前髪を気にしながら。椎菜の髪を束ねる髪飾りは、湖よりも青く輝いて。
「ちょっと、昼寝でもしようかなって」
「あの子と私に追い出されちゃったから?」
椎菜はぶすっとしたスティープスの口調を感じ取り、にこやかに笑いながら、からかった。
スティープスからすれば、恥ずかしいやら怨めしいやら。
それでも、椎菜としては致し方ないことであった。
椎菜が怪我しているのは足。それも重傷だ。手当をするためにはどうしてもスカート部分を捲り上げるか服自体を脱ぐしかなかったわけで。
「だってしょうがないでしょ?あのままじゃあなたに見られちゃうし」
「見られるって、何を?」
「は?」
――――また、この人は。
椎菜はスティープスの素っ頓狂な質問に顔を引きつらせた。度々、彼は非常識な一面を覗かせる。わざとではない、と思う。もしわざとなら、ただでは置かない所存だが、どうやら彼は本気で言っているのだと、椎菜はこれまでの経験から判断した。
「……、なんだと思う?」
それでもたまには、こちらからも困らせてやろうと、椎菜がスティープスに質問を返す。
少し考えれば分かることだ。まさか、下着を知らないわけではあるまい。
思いのほか、唸るように考え込んだ彼の姿は、悪く言えば滑稽で、良く言えばかわいらしくもあったけど。やはり、異様に見えた。
「絵かな?」
「え?」
「あれ?違う?」
――――え、え、絵?
恐らく、絵のことを彼は言っている。落ち着いて考えてみれば他に有り得ないような気もして。
「なんで、絵?」
「見られて恥ずかしい物って言ったら、絵かなって……」
――――ああ、本当に、この人は。
本当にスティープスは椎菜と同じ現実からやって来た人なのだろうか。椎菜には、スティープスが自分と同じ世界で暮らしていたとは、とてもじゃないけど思えなかった。
僅かに沈黙が流れて、椎菜の中に言葉にしづらい苛立ちが込み上げて。
「で、正解は?」
「正解?」
「そう、正解」
さも当然のように、スティープスは聞いてくる。
――――言えない。言いたくない。言える訳がない。
「……、下着だけど……」
「?」
ぼそぼそとした椎菜の声は、不幸なことにスティープスに届かなかったようだ。
スティープスに悪意はなく、ただ純粋に、彼は己が持った感想を述べた。
「見られて恥ずかしい物なら持ち歩かなければいいのに」
イラッときて。
「下着!!ここと!ここに!付けるやつ!!」
「!!」
椎菜は思わず、言ってしまった。
胸と腰を指差して、目の前の馬鹿相手に声を荒げ。いくらなんでもその反応はおかしいだろう、と。何故抑えられなかったのか、その声は閑静な湖畔の町に大きく広がって。
くすくすと笑う声がした。哀れみの瞳が向けられた。
この仮面を被った奇抜な風体の男は、椎菜以外の人には見えもしなければ声も聞こえない。
つまりは、町の人の目に映っているのは椎菜のみ。突然興奮して叫びだす可哀想な少女が一人、水辺に縮こまり顔を真っ赤に染めているのだった。
「……」
哀れな少女に語りかける怪しげなスティープスは、彼女の心境を慮ってか、できる限り丁寧に優しく、純真にも自らの疑問を投げかけた。
「下着ってなに?」
「さいっってー!!」
宿に戻って早々、怒鳴られた。
私ではなく、スティープスが。
この怒鳴った女の子こそ、先日私たちが助け出した女の子。私以外にスティープスが見えるただ一人。この子が居てくれればあんな恥ずかしい思いもしなかったであろう。
いや、そうでもなかったかな。叫んだ単語が、単語だけに。
城から逃げ出して以来、この子は毎日私の脚の包帯を取り換えてくれている。一人でできるからと言っても、どうしてもと言って聞かなくて。
「え!?なんで?!」
何故、彼が怒鳴られたかと言えば、ついさっき私にした質問をそのまま彼女に聞いてしまったからで。
「なんでって……」
罵倒され続けるスティープスを傍目に、やれやれと松葉杖を置いて私は椅子に座った。
城の一件で負った足の傷は深く、ここが現実だったら、もう動かないかもしれないと思える程酷いものだった。
そう、現実なら。
リトル・ベイに建つ診療所の医者に診せた時には、塗り薬を付けられただけで済まされてしまった。雑な治療もあったものではない。
しかし、実際の所、その傷は信じられない速度で治っていき、二日も経った頃には痛みもなくなり、指先程度なら動かせるようになってしまった。
本当の所、もう松葉杖が無くても少しくらいなら歩けるのだけれど、この女の子がちゃんと治るまでは使った方がいいと言うから。
「あんまり馬鹿なこと言ってると、嫌いになっちゃうから」
「ご、ごめん………」
「もういい、スティープスは椎菜さんのこと診てあげて。私は洗濯物取りに行ってくる」
呆れ返って、女の子は部屋から出て行ってしまった。
この世界の良い所の一つに、洗濯機の存在がある。洗剤を入れるのも乾燥させるのも自動で綺麗に仕上げてくれる、魔法のような洗濯機。
この世界に電気はないらしいのだけれど、そもそもこの洗濯機にはコンセントは付いていない。
洗いたい物を放り込んで、二十分も待てば皺も汚れも消え去った姿で返って来るのだ。しかも、すっかり乾いた状態で。こんな素晴らしいことはない。
最高の洗濯機の所へ行った女の子に置き去りにされた、すっかりしょげてしまったスティープスに憐れみを感じて、私は。
「私はもう気にしてないから、元気出して?」
肩に優しく手を置き、救いの声をかけた。
「僕、そんなにいけないことを聞いたの?」
対してスティープスの声は、心なしか震えているような。
――――あれ?ひょっとして、泣いてる?
仮面の下から涙が溢れてきたりはしてないけれど、これは多分……、泣いてる。
「まぁ……、女の子に聞いていいことじゃないかな……」
がっくりと黙りこくって、溜息を吐いたスティープスは、そのまま全く動かない。
「そんなに落ち込まなくても……」
反応無し。どうやら今は何を言っても駄目らしい。
これは一人にしてあげた方がいいのかな、と私はそっと部屋を後にして。
「あんまり考えすぎないでね?もう、同じこと聞かなければいいだけなんだから」
なんとも馬鹿馬鹿しい話と思いつつも、最後に一応、声をかけてあげた。
宿から出て、壁に寄りかかりながら胸一杯に水と緑の香りを吸い込んだ。
澄んだ空気が気持ちいい。
針葉樹が並ぶ山間に溜まった湖が、爽やかな景観を作り出し、シベリアの森林地帯を思わせる。
ここの湖には、自然に発光する妖精たちが、夜間にだけ水の底から水面間近にまで浮き上がってくるのだとか。毎晩確認してはいるものの、中々見れるものではないらしく、今の所見れてはいない。
けれど、水辺の小屋の外壁に立てられた掲示板を覗いてみれば、そこには正にミミズが踊るといった、滅茶苦茶な文字でこう書かれていた。
“今晩水棲妖精の兆し有り。妖精観覧の際には是非当店のボートを。”
――――見られるんだ。今日。
どうせなら、スティープスと一緒に見たかったかな。当の本人があんな調子では、今晩はちょっと厳しいかもしれないけれど。
「椎菜さん?」
呼びかけに振り向いてみれば、スティープスの心をベッコベコにへこませた件の女の子がいて。
予想するに、スティープスと顔を合わせるのが気まずかったのでは。
滅多に出歩かないこの子が、宿から少々離れたこの湖まで一人で来るとは珍しい。
城に囚われていた頃の、ぶかぶかのボロきれのままでは気の毒だと買ってあげた服。細身な体に合った、子供用だけれど大人びたワンピースがとても良く似合っている。
何を着せても可愛いから、ついついとっかえひっかえに着せ替えさせてしまって。その節は可哀想なことをしてしまった。
「洗濯物、ありがとね」
「いえ、あのくらいのことなら私がやりますから……」
私がこんな怪我をしているからだろうか、言われずとも、この子は随分熱心に雑用をこなしてくれる。
こんな小さな子にばかり働かせるのは正直気が引けるのだけど、まだ私は思うように動けるわけでもないのは事実。スティープスにもやらせないのは、彼も私と同じようにまだ完全に傷が癒えたわけではないから、きっとこの子は彼にも気を使っているんだと思う。
「あ!これ、今日見れるんですか?!」
掲示板の掲示に気が付いて、女の子は目を輝かせて喜んだ。
この町に来てからずっと気になっていたらしく、女の子は湖を見る度にそわそわしていた。
待ちに待った、と言った所か。
普段の落ち着き振りとは対照的に、年相応にはしゃいでいる。
「あ……。でも、椎菜さんはやっぱりスティープスと行きたいですよね」
「ん!?」
「きっとまだウジウジしてるんじゃないかな……。しっかりするように言ってこなきゃ」
「待って待って!ちょっと待って!!」
――――何を。突然何を!言い出すの、この子は。
「いやあの、今はね、今はそっとしておいてあげて?」
そうじゃない。そうじゃないけど、これでいい。
下手に掘り下げればボロが出そうだ。とにかく恥ずかしい。顔が熱い。
「そうですか?でも私、お邪魔なんじゃ……」
「そんなことないよ。みんなで一緒に行こう?」
女の子は暫しぼぅっとして、そして、嬉しそうに笑った。
了承してくれたようだ。
とりあえず、この場を乗り切ったことに心底安堵していた私は女の子の表情に驚かされる。誘ってもらった女の子の目元には、うっすらと浮かぶ涙が在って。
「私、スティープスに怒り過ぎちゃったかな……」
「大分落ち込んでたからねー……」
女の子も、まさかスティープスが泣いてしまっているとは思うまい。
スティープスにとってこの子に怒られることが、それほどショックなことだったということなのか。
まるで親に叱られた子供のようなスティープスの痴態を思い出して、私は哀れに思いつつ笑ってしまう。
そういえば、二人の関係をまだ聞いていなかった。
スティープスは友達だと言っていたけど、本当にそれだけ?
ただの友達というわけではなさそうだと感じられた。二人が仲直りできたら、それとなく聞いてみようか。
「私、謝ってきます」
女の子は宿に向かい駆け出した。大丈夫。あの二人なら、すぐにわだかまりも解けるはず。
すれ違って、怒って、泣いて。
私は思い出す。
一人のお婆さんのことを思い出す。
臆病さの中に深く埋もれてしまった優しさで、私を包んでくれたあの人。結局、詳しいことは何も聞くことはできなかったけど。
あの人が何かを強く後悔していることを知った。私に見せてくれた優しさが本物であったことを知った。
髪飾りを優しく撫でて、私は。
お婆さん自身と、お婆さんが殺してしまった人たちを想って。お婆さんが今も私の隣にいる、もしもの未来を思い浮かべていた。
遠く遠く、遥か彼方に見える城の中。
お姫様が玉座に独り、座っていた。
部屋には、他に誰の姿もない。
幾何学的な模様で彩られたその部屋を見た者は、皆が感嘆の息を漏らすだろう。どれだけの職人が集まったところで、どんな機械を使ったところで、これほど細部まで作りこまれた装飾を施すことはできまい。
無意識の海から掬い上げられ、形を持った模様だ。夢幻の力だけにこそ可能な技だ。
部屋を埋め尽くす神秘の中で、そっと呟く姫は信じている。
今、自分の傍には“彼”がいると。
誰にも、姫にも見えないディリージア。姫の座する城と同じ名前を持つ彼が、ここにいると。姫は、そう信じて。
「いらないものは、消しちゃうよ?また欲しくなったら、作ればいいんだから。どうせ、ただの夢だもん。好きなことしても怒られないし。怒る人がいたら、どうかしてる。だから、私はあの人たちで遊ぶの」
そこには誰もいない。お姫様はただ独り。その部屋に、その城に、たった独り。
姫は気が付かないで囁き続ける。いつまでも。
「駄目になっちゃったら、また作ればいいだけ。そうでしょ?」
この世界で全てが許されたお姫様。自分の全てを許したお姫様。答えはなかった。
それでも、声は響く。
聞こえずとも。
聞こえずとも――――
「椎菜さーん!」
不意に聞こえた大声に驚いて、椎菜は我に返った。
女の子が遠くから呼びかけて、椎菜に向けて手を振っていた。
その隣には、スティープスが。
中々バツが悪そうだ。男性としては、女子の前で泣いてしまったのは、相当格好のつかないことであろうことは、椎菜にも易々と察せられた。
「あー……」
「……」
お互いに切り出す言葉が見つからない。
何と言ったら良い物か。軽々しく同情してはスティープスのプライドに傷がつくかも分からない。他の人に比べたら、彼はプライドの高い方ではないと椎菜は思うけれど。
「仲直りしました」
「は、早かったね……」
――――それなら、まあいいか。
スティープスもすぐに元の調子に戻ってくれるはず。スティープスの視線と椎菜の視線が重なった。椎菜は特に何も言わず、にこりと笑う。
――――よかったね。
そう気持ちを込めて。
「そうだ。私、ちょっと林の方に行ってきてもいいですか?ライオンさんも誘ってあげなきゃ」
実は、町の向こう岸の林にはライオンが一匹隠れている。
すっかり忘れていたが、彼もこの町まで付いてきたのだ。肉食動物がこんな町の近くに住みついていると知れば、リトル・ベイの住人は気が気ではなくなるだろう。
「ライオンくんが町の人に見つからないように気を付けて」
「うん。行ってきます」
「行ってらっしゃい。ホリー」
椎菜はライオンの所へ向かう女の子の名前を呼んで、スティープスと見送った。
女の子は鮮やかな黒髪を風に揺らして、湖を迂回して。
――――ホリー。
それが、あの子の名前。そう彼女は確かに名乗った。苗字は無いらしい。
というよりも、苗字というもの自体をそもそも知らないようだった。
スティープスがこの夢の主だと言った哉沢紫在は、彼女ではなかったのだ。
ホリーという名前を聞いた時、椎菜は胸がどくんと高鳴った。同じ名前を、つい最近聞いたものだったから。
同一人物か、とも一瞬疑ったけれど。よく考えてみればそんな筈はなかった訳で。一緒に名前を聞いていたスティープスも、驚き様から見るに同じことを思っていたらしかった。
「ホリーがね、さっきは言いすぎてごめんって」
こうしている間にも、椎菜には自分が何をするべきなのか、段々分からなくなってきていて。
「あはは。よかったよかった」
「あと、下着の意味も教えてくれたよ」
「はは……、よかったね」
あの子が哉沢紫在ではないと分かったとき、落胆すると同時にほっとしていた自分がいたから。
この夢に慣れてしまったせいなのか、椎菜は現実に帰りたいという気持ちが次第に薄れていっている自分に気付いて。
ずるずると、夢の奥に沈んでいく心地に、ぞっとした。
夜。
椎菜はスティープス、ホリーと共に宿を出て、湖へと向かった。
道中、椎菜がおもむろに財布の中身を確認してみると、またも知らない内にぎっしりとお札が詰め込まれていて。
現実でもこんな風にお金が手に入ればいいのに、と思いつつ、財布を懐に深くしまい直した。
昼間見た掲示板に書かれていたボートを借りるため、水辺の小屋へとやってきた三人。掲示板にボートの料金は書かれていなかったが、「まぁなんとかなるでしょう」、と椎菜は小屋へと入って行った。
小屋の中は意外と空いていて、大した時間もかからずに受付に立つことができた。
どうやら名前を書いて料金を払うだけでいいらしい。受付の男性から用紙を受け取って、さて、名前を書こうとした所で椎菜の手は動きを止めた。
この世界の文字といえば看板やら掲示板やらに使われている、例のぐにゃぐにゃ文字だ。
ひょっとしてひょっとすると、日本語では駄目なのかも。しばし悩んで、びくつきながらも日本語で「箕楊椎菜」とサインした。
「はいどうも。由緒ある妖精たちの輝きですよ。楽しんでいってください」
何の問題もないことが、椎菜には逆に期待を裏切られたかのように感じられた。
手続きを終えて振り向けば、壁に貼られた大きな魚拓を眺めながらスティープスとホリーが何か話している。
ホリーは人前でスティープスと話すのに抵抗がないようだ。つい先ほど痛い目に会ったばかりの椎菜には、信じられない度胸。
受付の人にボート貸出の説明を受けて二人の下へ戻った椎菜に、スティープスが言った。
「これも妖精なんだって。すごいね。こんな大きいんだ」
スティープスの言う“これ”とは壁の魚拓のことで。
目測でもざっと三メートルはある魚に見えた。人の大きさどころか、今から乗ろうとしているボートの大きさをも優に超えている。
「えぇ……、これはちょっと怖いかも……」
「飲み込まれちゃいそうですよね……」
ホリーも同意見らしい。
長いひげと鰭が伸びるその魚は、魚拓の前に置かれた資料によれば、体の各部が発光するようになっているのだとか。
いくら綺麗でも、こんな馬鹿みたいに大きな生き物を落ち着いて見ていられる自信は椎菜にはない。
「恐い?」
「んー、ちょっとね」
「恐くなったら僕が岸まで運んであげるよ。大丈夫」
椎菜のことを心配してはいるが、やけに興奮しているスティープスは早く実物を見たくて仕様がないといった様子。
「それじゃ、ボートのとこまで案内しますんで」
「椎菜さんには優しいねー。スティープスは」
案内人について小屋を出ながらホリーがスティープスをからかった。
「私も恐いって言ったのに。私は助けてくれないの?」
「いやいや、ちゃんと運ぶよ!」
楽しそうにスティープスの周りを跳ねるホリーは、これまた楽しそうに笑っていた。
助け出した時に比べれば、随分元気になった。しばらくは、椎菜たちから話しかけなければ口も滅多に開かなかったのに。城に捕まっていた頃は、ずっと一人で閉じ込められていたと言っていた。
食事もろくに与えられず、あの暗い独房でひたすら耐えていたのだ。
――――元気になってくれて、よかった。
スティープスはすっかり困らされているようだが、そんな彼も内心ホリーの元気が戻ったことに喜んでいるはず。
椎菜とスティープスの怪我が治れば、また紫在を探しに行かなくてはならないけど。椎菜は決めていた。
今は、ゆっくりしていよう。せめて、ホリーが笑っていられるように。
ボートを滑らせて湖に浮かばせると、小高い波がいくつもいくつも経ち始める。
湖のどこかへと消えていく波は、水中を照らす光を歪ませ、地上に届ける。
椎菜たちはボートに乗り込み、湖の上へ。
そこからは、岸から見るのとは違う趣が見えて、椎菜に息を漏らさせた。
水面だけではない。
湖の水底から水面まで、黄赤緑、蒼から紫まで、鮮やかな色々が光り輝き、湖の底の形を透き上がらせて。
羽のような鰭を持った魚たちが、光っては消え、光っては消え。底に生える水棲の植物の形まで、はっきり見えるくらいに明るく湖を照らす。
湖を泳ぐ魚の姿をした妖精たちの灯りは、星の光を思わせた。
ボートの下に広がる小さな宇宙が、椎菜に思い出させる物がある。この夢の中では決して見ることのできない空の色。
灰色と黒色に塗り潰されたこの夢の空には、決して浮かび上がることのない、瞬く星々。
それと、もう一つ。城下町でスティープスと二人で見た、夜光虫の輝きを。
そっと椎菜はスティープスの方を見た。
ボートから頭を乗り出して、水底に見とれるホリーに気付かれないように、そっと。
あの時の嬉しさが、また心の中に浮かんできて、それが自分だけではないといいなと、椎菜はそう思って。
スティープスと目が合った。仮面が隠す顔は見えないけれど、スティープスも椎菜の方に顔を向けて、確かに椎菜を見ていたから。
むずがゆくなって、二人は笑った。
思わず溢れそうになった笑い声を、ぎゅっと押さえ。少しの間不安を忘れて、ボートに揺られていた。
「あ、そうだ。ライオンさん、迎えにいかなきゃ」
町の対岸で待機しているであろう彼のことを、そこで彼女たちはようやく思い出したのだった。
「ひょっとして、俺のこと忘れてた?」
ボートを対岸までスティープスに漕いでもらい、丈の長い草むらに隠れていたライオンを飛び移らせて。散々待たされた彼の開口一番がそれだった。
「ごめんごめん」
「ごめんなさい!」
「ごめんね。聞こえないと思うけど」
口々に謝る面々に獅子は憤慨した。
転覆上等に、四足でボートをぐらぐら揺すり、怒りを表現する様は愛玩動物的な愛らしさがある。
しかし、このままボートの上で騒がれるのは大変よろしくない。本当にボートが転覆しかねない上に、ボートで遊覧する人は他にも見受けられる。ライオンの姿を誰かに見られては、大騒ぎになりかねない。
「明日美味しそうな物持ってってあげるから!大人しくして!」
「……」
その程度のことで許してなるものか。そんなライオンの唸り声も次第に緩んで、悔しそうに大人しく、ボートにお座りの姿勢を取った。
「ホリーが誘いに来たから来てやったのに。許さんからな」
「そうだ、私、お菓子持ってきたんです。よかったら食べてください」
ライオンはホリーの隣で文句を垂れる。
ホリーが鞄から取り出した箱には、クッキーが詰められていて。ライオンは差し出されたクッキーに飛びついた。
肉食性の欠片も見られないが、彼は割とどんなものでも食べられるようだった。現実のライオンとは体の仕組みが違うのかと、椎菜は推測しつつ。
「椎菜さんもどうぞ?」
「じゃあ一個だけ……」
内心、食べたくてうずうずしていたが、椎菜は自分の食欲を無理矢理押さえ込んだ。
こういう時、仮面が邪魔で、食べるということができないスティープスは、除け者にされてしまうから。
折角の楽しい時間、椎菜は隣に座るスティープスに、嫌な思いをさせたくはなくて。
「うわっ!椎菜さん!下!下見て!」
いきなり騒ぎ出したホリーが示すボートの下には、巨大な光のかたまりが見えた。
ボートよりずっと大きな一匹の妖精だ。
紫の光が鱗と髭から発せられていた。水の中を照らしながら、湖を波立たせてボートが揺れる。
余りの大きさに、椎菜は体を強張らせていた。実物を目の当たりにした衝撃は、怖がりの彼女には少し刺激が強かったらしい。
椎菜は顔を固めたまま、スティープスの服を掴んだ。ホリーとライオンからは見えないように、スティープスの服の背中の方を。
察してくれたのか、スティープスは椎菜にそっと囁いた。
「恐い?」
「……、ううん。大丈夫」
――――これくらいなら、まだ大丈夫。
椎菜としても、まさか本当に運んでもらうわけにもいかないし、何より他人の目がある。
それに、恐さよりもあの妖精の雄大さと、神々しさに感動する気持ちの方が強かった。
「でっかいなおい。あれぐらいのやつを一度でいいから食ってみたいね」
「食べちゃうんですか?」
スティープスの声を聞いて落ち着いた椎菜は、改めて湖に広がる妖精たちの光に酔いしれて。
そっと、目を閉じた。
ふと、思い出す。
こんな風にボートに乗って、湖の上で景色を眺めたこと。前にもあった。
夢の中ではなくて、現実での話。
両親と遊びに行った自然公園で、同じようにボートを借りて、お父さんがオールを漕いで、私とお母さんはお父さんを応援しながら、緩やかに流れていく景色を楽しんだ。
――――楽しかった。
いつも家ではだらだらしてばかりのお父さんが、その日ばかりは逞しく。
いつも家では厳しくて、少し恐いお母さんが、その日ばかりは優しく、なんだか可愛らしく。
お父さんと、お母さん。二人とも、大好き。
来年は受験だからと、まだ進学も決めていない私を余所にそわそわし始めて。
できることなら、仲の良い友達二人、佳代と美琴と同じ地元の大学に行きたいと思っていた。
小学校の時からずっと一緒のあの二人。やっぱり、離れたくないから。
この夢から出た時、一体、現実ではどのくらいの時間が経っているんだろう。
スティープスが言うには、夢の中で過ごす時間は現実のそれよりもずっと速いのだとか。
しかし、このままずっと夢の中にいれば、いずれは現実に支障が出るに違いない。目覚めない私は病院にでも入れられてしまうかもしれない。もしかすると、死ぬまで――――
不安になった私は、考えるのを止めた。これ以上は、よくない。動悸が異常なほど激しくなっているのが分かる。
これは、よくない。
なんとなくではあるものの、自分がおかしくなってしまうような感覚に襲われた。息は普通にしているのに、心臓の鼓動だけが速くなって。
どうなってしまう?どうなってしまった?
頭がぐちゃぐちゃになっていって、何処かへ落ちていく感覚が始まって。
恐くなって胸を押さえた。
すると、私は。
私は――――
椎菜は、ボートがどんどん傾いて行くのを感じた。
「危ない危ない!」
目を開ければ、そこには水に前足を突っ込むライオンの姿が。
元より成人男性二、三人分の体重がある獣が乗っているのだ。ただでさえ、ボートの底は水面下に深く沈み込んでいるというのに、その上で一番の重しがこうも身を乗り出したとあっては。
ホリーがライオンの体をなんとか引っ張ってくれたおかげで、最悪の事態は免れたが、一歩間違えば一人を除いて全員が水の底へ沈んでいたかもしれない。
椎菜はライオンを叱りつけた。
「どうしてあんなことしたの?」
「魚捕りたいなって……」
「大人しくしてって言ったよね」
「言ったけど……、だって魚が……」
「大人しくしないなら、もうお菓子あげません」
ライオンは気落ちして、ホリーの足に顔を乗せて倒れ伏した。
優しいホリーに甘えるライオンの仕草に、椎菜は果てしない苛立ちを覚え、その尻を蹴飛ばした。
「はは。まあまあ、何事もなかったんだから」
何故か楽しそうにしているスティープスに、椎菜は怒っているのも馬鹿らしくなって溜息を一つ。
「彼も悪気があった訳じゃないんだしね。もう十分だよ」
さては、同情してるのでは、と椎菜はスティープスを看破する。
昼間、散々ホリーに叱られたスティープスには、このライオンが自分と重なって見えているのかもしれない。
――――さぞかし、下着のことを存分に教えてもらったのでありましょう。
「ライオンさん。スティープスがもういいよって言ってるよ?」
「お?」
ライオンが顔を上げて、きょろきょろとスティープスを探した。スティープスが今までずっと椎菜といたことも、椎菜とホリー以外には姿が見えないということも、既にライオンには伝えてあった。
「いるの?どこに?」
「椎菜さんの隣に座ってるよ」
ライオンがスティープスの膝に鼻を付けて、ふがふがと匂いを嗅ぐ。そこら辺の野良猫と大差ないその様は、ライオンがネコ科の動物であることを椎菜に納得させた。
「確かに、なんか臭うなぁ」
「え?僕そんなに臭う?」
「そういうことじゃないと思う」
――――その確認の仕方は、どうだろう。
椎菜には、現実のライオンの充分な知識がないため、ライオンの鼻がどれほどの性能を持っているのか分からない。
「なんで見えないの?不便だろ」
「うーん……、僕も知りたいくらいなんだけどね。それは」
「スティープスにも分かんないんだって」
ホリーが逐一、間に入ってライオンにスティープスの言葉を伝えている。これは確かに大変であると思われた。
「筆談できると楽かもね。明日メモ帳とか探してみる?」
「そうか。文字にすれば彼にも見えるんだ」
「じゃあ明日はお買いものですか?」
ホリーはライオンの背中に寝そべって、期待に満ちた視線を向けた。
「そうしよっか。確か雑貨屋みたいなお店あったと思うし」
「お土産、よろしくお願いします」
ライオンは恭しく頭を下げた。
「はいはい。何かリクエストは?」
一緒に行けるなら、それが一番いいのだけれど、流石に動物を町中に連れて行くのは難しい。可哀想ではあるが、ライオンには、また森で待っていてもらうことにした。
下げた顔にたてがみが被さってしまっているライオンに、椎菜は負い目を感じていた。
魔女の一件でライオンが失った物は大きく、彼も魔女を恨んでもいるに違いない。
そんな魔女を嫌いになれない自分の存在が、彼にとってどんな物であるのか。気にはなっても、椎菜には聞ける筈もなく。
「肉!肉が食いたい!」
「あ、やっぱり食べるんだ。お肉」
「当たり前だろ。俺をなんだと思ってるんだ?」
小馬鹿にした風に溜息混じりに言われて、またも苛立つ椎菜。負い目も忘れて、また蹴飛ばしてやろうかと思ったものの、隣のスティープスの反応が気になって、なんとか堪えた。
「じゃあじゃあ!明日はお弁当作って、ライオンさんと一緒に食べましょう!」
「面白そうだね。僕は賛成」
ライオンが町中に行けないなら、椎菜たちが森に行けばいい。
ホリーがいい案を出してくれた。スティープスも乗り気なようで、偶にはそういうのもいいかもと、椎菜も思い。
「椎菜が作った料理見てみたいな」
「え?私の?」
しまった、と内心焦る。
この流れは椎菜にも予想できていなかった。家事の手伝いをよくしていたので簡単なものなら作れるが、いざ作るとなると自信がない。
もし期待されていたら、失望させてしまうかもしれない。物を食べることのできないスティープスに、そんなことを言われるなんて思っていなくて。
椎菜は冷や汗を垂らした。
「いいけど……。あんまり期待しないでね?」
「ああ、楽しみだ」
「期待しないでって言ってるのに!」
明日も騒がしくなりそうだ。こうやって皆で集まって、遊ぶ約束をして。
楽しい。楽しい、けれど。
――――このままでいいのかな。
そう思ってしまうのは、現実に戻りたいという気持ちがあるからで。
小さな舟の上で、三人と一匹の時間がゆっくりと、でも着実に過ぎていく。
椎菜は空を仰ぎ見た。波に揺られながら、妖精の光に包まれて見る空の色は、やはりどこまでも、暗かった。
夜も更け、他の見物人もほとんどいなくなり。
ライオンと別れた後、はしゃぎ疲れたホリーを膝に寝かせて、椎菜は涼やかな夜の風を感じていた。
すっかり静かになったボートの上で、オールを回すスティープスに尋ねる。
「なんで、この世界は星が見えないのかな?」
空を覆う黒と白の霧は、一度として晴れたことはない。
朝も夜も、太陽と月を何処かに隠し続ける不穏な霧。あれが何なのか、正体を知る者はおらず。雲とも見えず、白と黒が行き交って、所々に灰色の混じる様は何とも気味が悪い。
「なんでだろうね。紫在は星が嫌いだったのかな」
この世界は紫在の夢なのだから、そういうこともあるのかもしれない。嫌いな物を隠してしまうことだって、ありそうなことだ。
「それとも、単にあの霧が邪魔してるだけなのかもしれないね」
星だけでなく、月も太陽も隠してしまうあの霧にこそ、何か意味があるのか。
何故、空を覆うのか。
この世界で空を見上げた人たちは、どんな気持ちであの霧を見るのか。
見えない星を想った椎菜に、思い出せる記憶が一つ。
「星はね、人と同じなんだって」
「同じ?」
オールを止めて、椎菜の話にスティープスは聞き入った。
「そう。真っ暗な空で、たくさんの星が強く光ってる。真っ暗で恐くても頑張って光って、自分はここだよって、言ってるんだって」
「みんな……、頑張ってるんだね。面白い例えだ。それは誰が言ってたの?」
「私のお婆ちゃん。もう死んじゃったけど、私にいろんなこと教えてくれた」
「そっか……。僕も会ってみたかったな」
それぞれ、心の中の何かに思いを馳せて、押し黙る。
虫の声が夜の空気に染みわたり、まばらに輝く湖の妖精たちが、椎菜たちの乗るボートの底を暗闇に浮かばせて。
「私、こんな風に遊んでていいのかな?」
スティープスは椎菜の言葉の意味を思案した。
光り輝いていた妖精たちはその光を弱めていて、辺りは夜の色を取り戻し始めていた。
弱弱しく発行する一匹の妖精が水面に浮かび、また水底へと帰っていく。
「紫在さんが、私のこと待ってるかもしれないんでしょ……?」
「君と仲良くなりたいっていう紫在の思いが、この夢の始まりだ。だから、きっと君のこと、今でも待ってるだろうね」
光り無き湖が、二人の声を際立たせて。
「それに、現実の私がどうなってるのか……。あなたは大丈夫だって言ってくれたけど、やっぱり心配だし……」
「……、そうだね……」
ボートに当たる波の音が聞こえた。いくつもいくつも、何度も何度も。
止まった舟に吹く風は止んだけれど、舟の揺れは大きくなって。
「君はきっと、現実に戻るべきなんだろう。君が何を望むかに関わらず」
寝息を立てるホリーの髪を優しく撫でながら、椎菜はスティープスの言葉に耳を傾ける。
暗い暗い夜に、自分と共にいてくれるスティープスの言葉に。
「君もそれが分かってるんだ。僕らはこのまま遊んではいられない」
椎菜は不安を感じていた。
現実に帰るという目標が、どこか遠くへ行ってしまったような気がして。
――――このままではいけない。
そう思っても、まだこの右足の怪我は前に進むことを許さない。
「その子は紫在じゃなかった。ならまずは、紫在がどこにいるのか探さなくちゃ」
湖には、もう一つの光もなかった。何も見えない程、夜闇は濃くて、スティープスの仮面も、ホリーの顔も見えなくなってしまった。
「私……、ちゃんと見つけてあげられるのかな……」
探していた女の子を助け出し、一応の目的を失ってしまってからずっと、椎菜は心に現れたこの先のことに対する恐怖が拭えなくて。
自分はどうなってしまうのか、どうすればいいのか。
考えなくてはいけないことが次から次へと思い起こされて。
頭がどうかしてしまいそうだった。
ホリーがいる手前、弱みを見せないよう努めてきたけれど。こうしてスティープスと二人でいると、どうしても我慢できなくなってしまう。
「心配しなくていいさ」
湖の底に輝きが見えた。つい先刻にボートを揺らした、あの大きな妖精の光だろうか。暗闇の奥の奥に、ぼんやりと。
「君は一人じゃない。分からないことがどんなにあっても、僕たちが一緒に考えるよ」
その妖精の周りに、再び光が湧き上がる。大きな一つの光を囲んで、広がって。
「ゆっくりしててもいいじゃないか。目的を持って進んでいれば、きっといつかあの子に辿り着けるんだ」
スティープスはオールを回し、舟を動かし始めた。
心地の良い風が吹く。スティープスの進める舟の上で感じる風は、向かい風ではあるけれど、嫌じゃない。
「まだ不安かい?」
妖精たちが集まって、湖のどこかへと泳ぎだす。大きな光を守るように、揃って、寄り添って。
「不安なら、今はそれでもいいんじゃないかな。僕たちは多分、そんなに簡単には変われないんだから」
暖かな光は消えていった。
その光を失ってしまったからではない。見えない所へ行ってしまっただけだ。今もどこかで、強く光り輝いているに違いない。
「スティープス、私ね」
椎菜もスティープスも気付かなかった。二人の上に、ずっとずっと上の方に。
「もう少し……、頑張れそう」
塗りつぶされた夜空に一つだけ、瞬く星が。一瞬だけれど、覗いていた。
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7th tale End




