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8th tale I can't say, I can't know

・ある少女の回想 四




「ねぇ、あのぬいぐるみ、学校に持ってきてって、私、言ったよね?」


 自分の机で本を読んでいた私に、同じクラスの女の子が話しかける。

 明るい茶髪の女の子だ。別の子を何人も従えて、私の机を囲んで見下ろしていた。

 その中には、そばかすの濃いあの子も、何食わぬ顔で混ざっていて。

 なんで彼女がそこにいたのか。

 私は考えようとしてしまって、考えてはいけないことだと直感して。

 私は、意識を逸らした。私を内側から固めていく感情がそうさせた。負けたくないと思わせた。弱みを決して見せたくないと。私の、意地だったのかもしれない。

 頭が真っ白になるあの感覚を、今でも鮮明に思い出せる。怒りが湧いた。悲しさが押し寄せた。でも、何も言えなくて。私は何が何だか分からなくなって。

 私は顔を下げて、汚い教室の床を見つめ続けた。


「……」


「なんで黙ってんの?坂井さん困ってるでしょ。理由くらい言いなよ。卑怯」


 取り巻きの子が私を責める。いつも人を小馬鹿にした態度で悪態を吐く。

 私のことが嫌いなら、近寄ってこなければいいのに。


「お金持ちの人って、私たちみたいな普通の人のこと馬鹿にしてるんでしょ?お父さんも言ってた」


「哉沢さん家のお父さんって、嫌な人だって有名じゃん。うちのお母さんもすごい嫌ってたし」


「……」


 私は何も言わない。何も言いたくない。

 私とこの人たちは、住んでいる世界が違う。だから話したって無駄だし、私の言葉が通じるとすら思わない。


「なんかつまんないね、この人。あっち行こう?遊ぶ時間なくなっちゃうよ」


 言いたいことだけを言って去っていく。いつも通りに、私の中に気持ちの悪い何かを残して。

 誰の意識にも残らないように、誰の興味も引かないように、私はじっと、椅子に座って。


 心にぬめる感情を誤魔化し続けていた。

 独りで、ずっと。







8th tale I can't say, I can't know







 夢を見るとき、夢の主は何処からその世界を見ているのか。

 高い高い空の上からか。

 深い深い水の底からか。

 それとも。


 歪な形を影に映し、世界の奥に佇み、黒く尖る。

 誰もいない。誰も入ろうとしない黒影の城、ディリージア。

 姫が一人、そこにいた。

 玉座に座り、何かを想い耽っていた。

 姫は気付いていた。

 もう既に、自分の隣に、見えざる彼がいないことに。

 姫は、彼がずっと隣にいるものだと思っていた。信じていた。

 なのに、なのに。

 いつの間にかいなくなってしまった彼。少女が伸ばした手を掴んでくれた、彼。

 彼の名は、城の名前と同じ。ディリージア。

 無論、少女は彼の名を知りはしない。ディリージアは城の中から忽然と、どこかへ行ってしまったのだった。

 黒い影が、少女の顔を覆って隠す。

 誰にも表情を見せることのない、皆に怖がられる、嫌われ者のお姫様。

 城下町で暮らす人々は言うだろう。彼女のことが恐ろしいと。

 被害に会った者たちは数知れず、気まぐれに起こす惨劇は、姫の力を知らしめた。

 城を訪ねるものなど、いはしない。この城に入ろうとする輩とは、命知らずとも言えない愚か者に他ならない。

 かつていた、老いた魔女を除いては。

 城に出入りしていた、たった一人の人物だ。魔女が森から、足繁くこの城まで通っていた理由は、ただ一つ。

 城にて世界を見下ろす、この姫に会うためであった。

 どれだけ罵声を浴びされようとも、姫に母親の様に尽くしていた魔女。姫に生きる希望を見出して、姫に愛を注ぎ続けた。

 短い間ではあったが、魔女といた時間は、姫にとっても充足したものだった。

 何度痛い目に会わせても、懲りずに城までやってきた魔女。

 そんな魔女も、もういない。

 先日、この城にやってきた椎菜とスティープスが起こした出来事の結末に在ったのは、その魔女の死であった。

 椎菜たちの前で、魔女を虐殺して見せたお姫様。その真意は、未だ誰にも知られることはない。知る者がいるとすれば、それこそ、ずっと姫の傍にいた、ディリージアぐらいのものだ。

 城にて独り、姫は掲げた自分の手を呆然と眺め続けていた。

 そして、城に誰かがやって来た。

 誰も訪ねる者はいないはずのディリージア城の門をくぐるのは、一人の騎士。

 高貴な装飾が施された鎧を全身に着込み、腰には剣を提げていた。背中にかけた細長い袋からは、一丁の銃の柄が覗いている。

 物言わぬ騎士だ。

 門を見張る衛兵の挨拶にも耳かさず、聞こえていないかの如く馬の歩を進ませた。

 騎士は城の中庭に、乗ってきた馬を休ませて、城の中を進んでいく。

 廊下を進み、階段を上り、城の奥。お姫様のいる玉座の間へと、騎士はたどり着いた。


「……、どうして来たの?」


 姫の声は明らかに怒りを含んでいた。

 玉座の前に恭しく膝を折った騎士は、一言も発することなく。猛り狂う姫の声を身に受けて。


「もう来ないでって言ったでしょ……!」


 瞬間、金属が軋む音を響かせながら、騎士の体が弾き飛ばされた。姫の怒りが、そのまま世界を揺るがす見えない衝撃となって、騎士を襲ったのだった。


「この前だって勝手に城に入ってきて……!また何処かに捨てられたいの!?」


 痛みに苦しみながらも立ち上がろうとする騎士に向かって、姫の怒りがぶつけられる。


「私の前に!!」


 騎士の鎧が歪んで、何度も、何度も、壁に叩きつけられて。


「私の所に!!!」



「私の前から消えてって!!言ったでしょ!!!!!」



 城の壁が抉られて、深い穴が出来ていた。姫の息が上がるまで、全身でその暴力を受けた騎士は、指先一つ動かせず倒れ伏していた。

 轟音が収まるにつれて、姫の息遣いは落ち着いていく。崩された壁から転がり落ちる瓦礫が、騎士の鎧に当たって、鈍い音を響かせた。

 一向にして、騎士はぴくりとも動かない。容赦のない姫の仕打ちに、騎士の命は失われてしまったのかとも思われた。


「弱っちぃくせに、調子に乗らないで……!」


 そんな騎士に、姫は一切の躊躇なく暴言を浴びせていく。


「あなたなんていらないの!何の役にも立たない、愚図!!」


 言葉を吐き出せば吐き出すほど、姫の憤りは勢いを増していって。最後にもう一度、騎士に向かって、一際大きな衝撃が振り落とされた。


「何にも言わない……、つまらないやつ……!すぐに出て行って!今すぐ!!さあ!!!」


 姫の声は騎士の耳へと届いて、騎士は何かを言おうとしたけれど。その喉は、その舌は、いつもと同じに少しも動きはしなかった。

 姫が右手を振り上げて、その腕が慈悲なく振り下ろされる。

 すると、騎士は空を舞っていた。

 騎士は城の中にいたはずだった。

 しかし、騎士の体は見知らぬ森の上へと移っていて。投げられた石の勢いを見せながら、木々の中に振り飛ばされ、騎士は樹木を突き折りながら地面へと落下した。

 それでも、騎士はまだ生きていて。ボロボロになった鎧を軋ませながら、なんとか起き上がり。


 よろめきながらもどこかへ向かって、歩き出した。






 家からほど近い紅葉並木。

 十一月の紅葉は住宅街を明るく輝かせ、登下校する私に感動を教えてくれた。

 私が小学生の頃、七年くらい前になるんだろうか。

 私は大好きな祖母と一緒にその中を歩いていた。手を繋いで、お婆ちゃんは、はしゃいで走る私に引っ張られて何度もよろけていたっけ。


「こらこら、もっとゆっくり歩きなさい」


 お婆ちゃんは怒っているように言ったけど、楽しそうだった。

 学校の帰り道に見かけたこの並木道にどうしても行きたくなって、その時、家にいたお婆ちゃんに一緒に行こうって、我がまま言って。

 お昼寝していた所を邪魔しちゃったのに、ああして、ひらひら落ちる葉の中へ私と来てくれた。


「見て、見て!ほら!これ楓!楓の葉っぱ!」


 足下に落ちてきた黄色い葉を一枚拾って、お婆ちゃんへと自慢げに掲げた。学校で紅葉する木のことを教えてもらったばかりで、お婆ちゃんに教えてあげるつもりで、私は銀杏の葉を自信満々に見せつけた。


「それは銀杏だよ。馬鹿だね。こっちが楓」


 私の馬鹿さ加減に笑いながら、お婆ちゃんに楓の葉を渡されて。

 私は面白くなくて、ふてくされた。でも、すぐ機嫌を直して、落ちてくる葉を追いかけ始めた私に、転ばないよう気を付けろって、優しく注意してくれた。

 笑ってた。お婆ちゃん。


「こんにちはー」


 それから、向かいから歩いて来たお姉さんたちが、私たちに挨拶してくれたのを覚えてる。

 お婆ちゃんは快く返事をして、落ち葉に夢中な私は「返事をしなさい」とお婆ちゃんに怒られた。

 多分、あの人たちは、高校生じゃなかったかと思う。制服を着ていて、落ち葉を手に取って、楽しそうに話すあの人たちは、なんだかとても大人びて見えた。


「椎菜もいつか、あんな風になるのかなあ……」


「?」


「お婆ちゃん。椎菜が立派な大人になったところ、見たいねぇ」


 私はお婆ちゃんの言っていることが気になって、お婆ちゃんの顔を見ようと必死に見上げたけれど。お婆ちゃんもずっと紅葉を見上げて、顔を下ろそうとしてくれなかった。

 私も、見せたかった。

 大人になった私。

 まだ、全然足りていないけど。絶対にいつかなってみせる。

 私、ずっと頑張ってるよ。例え大人になれても、もうお婆ちゃんには見せてあげられないけれど。

 お婆ちゃんに辛く当たったあの頃のこと、謝ることもできないけれど。

 何時か、お婆ちゃんみたいに優しい人になれるように頑張るから。だから。

 だから――――


「……」


 瞼が開いていくに連れ、私は自分が何を夢見ていたのか忘れていく。自分が目覚めたことに気付いた時には、もう何も思い出せなくて。

 目に映る天井が、夢の世界の宿の物であることを認識して、私は溜息を吐いた。






 湖畔の朝。

 椎菜は目覚めて、ほどほどに髪のセットを済ませる。それから、服を着替えて松葉杖を持って、宿の部屋から出て階段を降り宿の中にある食堂へと向かう。

 すると、既に朝食を食べ終わったホリーとすれ違った。


「椎菜さん、おはようございます」


「おはよぉー」


 早く起きて、一日の準備を終えているホリーとは対照的に、寝ぼけ気味な椎菜の返事は甚だゆるいものだった。


「おはよう椎菜」


「……、おはよぅ……」


 食堂にはスティープスもいた。

 彼自身は食事をすることはないのだが、察するに、朝食をとっているホリーと話でもしていたのだろう。

 一応、身だしなみは整えておいたが、まだ眠さが残っている顔をスティープスに見られるのは椎菜にとって、余り好ましいことではなく。椎菜は朝から気分を落とすことになった。

 食堂のメニューには、相も変わらず捻くれた名前の料理がずらりと並ぶ。

 泥団子握り(鮭)、海のサラダ、森の蒸し焼き、ハンザラ漬け定食、等々。

 海のサラダと書いてはあるが、どうもこの世界に海はないらしい。ホリーも食堂の渋いおじさんも知らないと言っていた。なら、何故書いたのかと問うてみれば、インスピレーションときたものだ。

 森の蒸し焼きは以前頼んだことがあるが、出てきたのは芋虫を蒸したものだった。なんとか完食は果たせたものの、あの気色の悪い食感はなかなか忘れられそうもない。


「どれもいらない……」


 何度言っただろうか、この台詞。

 どうしてこう、安心して頼めるものがないのだろう。まともな料理をずっと探しているのに、椎菜は今の所一つとして当たっていない。

 席に置かれたメニューを睨み続ける椎菜に、スティープスが助言した。


「この泥団子握りって、要するにおにぎりじゃない?」


「鮭って書いてあるから?」


「さっきおにぎり食べてる人がいたよ。あれが泥団子握りじゃないのかな。多分だけど」


「……」


 寝起きの椎菜が覚醒しきれていないだけなのか、スティープスの口調はやや速く。ほんの少々得意気なように聞こえた。

 そんなことを言われては、泥団子握り以外は頼みづらい。朝からいらないスリルを味わうこの状況こそ、毎朝繰り返している、椎菜の苦行に等しい日課であった。


「お待たせしましたー」


「……?」


 席に置かれた皿に乗せられていたのは、握りこぶし大の丸く握られた赤い塊が三つ。

 パッと見、椎菜はその塊を作っているものが何か分からなかったが、手に取ってみて理解した。


「鮭とばだ、これ……」


 鮭とばとは、鮭の身を縦に細く切り分け乾燥させたものだ。塩味があり、何よりも硬い。とても硬い。


「鮭とば?」


「後で説明する……」


 泥団子という名前と鮭とばに、全く接点が感じられないことも気になるが、まずは目の前のこの物体を食べきることが最優先である。

 常識の範囲内ならば、出されたものは食べる。それが椎菜の流儀。この料理は常識から外れていないのかと聞かれれば、迷わず首を横に振るが。

 問題となるのは硬さだ。一口サイズに切られているとはいえ、まともに口に頬張ればすぐさま顎の筋肉が崩壊するのは確実。

 そんなものが三つもあるのだから、如何に効率良く鮭とばを削り、体力を温存するかが勝利の鍵となってくる。


「食べないの?」


「ちょっと黙って」


 正攻法で戦うべきではない。何か策を講じる必要がある。


「……」


 硬いのなら、柔らかくしてやればいい。必要なものが見えてきた。


「水!」


 発作的に立ち上がった椎菜にスティープスは小さく飛び跳ねた。水道とコップが置かれた給水所へと、急ぎ足で向かう椎菜の背中をスティープスはどぎまぎしながら見つめていた。

 勢いよく机に叩きつけられたコップには波波と水が入れられていて、コップの数は塊と同じく三つ。


「こんなに飲むの!?」


 手始めに、一番大きな塊から崩していくことにした。固められた鮭とばをむしり取る。そう、むしり取る。

 思えば、乾燥物の鮭とばをどうやって丸めていたのか。


「ご、ご飯粒……」


 その答えは塊の中に。鮭とばと少数の米粒を混ぜ合わせ、米粒の粘力によって鮭とばを固定していたのだ。


「あー、やっぱりそれだ。ほら、椎菜。おにぎりだよこれ」


「ああ?」


「おにぎりってご飯と具を丸めたやつでしょ?……、違ったっけ?」


 割と本気で、スティープスの言っていることは椎菜には理解しがたいもので。

 椎菜は溜息を吐いてから、もはや隣でスティープスが見ていることすら気にせずに、鮭の塊にかぶりついた。

 存外、おいしかった。

 しかし、その硬さは椎菜の顎から即座に力を失わせていく。硬度だけではない。鮭とばには噛み切ることを許さない弾力がある。

 このまま食べ続ければ、一つ目を食べ終わる頃には椎菜の顎は完全に破壊されてしまうだろう。しかし今、椎菜の手元には三杯の水がある。そのうちの一つを椎菜は手に取った。

 一噛みするごとに、少しずつ水を口の中へと流すことで鮭とばの硬度、弾力共に弱めさせることができる。筋肉の疲労は最小限に抑えられている。塊を一つ食べ終えた所で、椎菜は勝利を確信した。


「いける……!」


「なんだ。やっぱりおいしいんだ」


 そして十数分ほどの戦いの末、椎菜は見事、泥団子握りを完食せしめたのだった。






「前から思ってたけど、椎菜って、食べてるとき元気だよね」


 満足気に椅子に腰掛ける椎菜に。スティープスはおもむろに言った。


「そんなことないと思うけど……」


 大飯食らいに思われるのは椎菜としても望むところではない。大げさに否定すると却って逆効果かと推し量り、敢えてやんわりと否定した。


「でもすごい真剣だなー、とは思うよ」


「いやいや、そんなことないってば……」


 椎菜からすれば、これほど掘り下げたくない話題もない。話を逸らすため、適当な話題を振ってみた。


「そういえばホリーは?部屋?」


「うん。先に戻ってるって」


「ふーん……」


「……」


「……」


「椎菜は食べるのが好きなの?」


「私たちも部屋戻ろっか」


「あれ?」


 スティープスもようやく椎菜がわざと話を逸らしているのだと気が付いて。

(知られたくなかったのなら、食べている所を見せなければよかったのに)


 スティープスは、そう思いながら椎菜に付いて行く。


「今日はライオン君のところに行くんだったよね」


「あー、そっか。お弁当の準備しなきゃいけないんだった」


 ちらっと、椎菜はスティープスの顔を窺がった。仮面は無表情に形を保って、一瞬椎菜は不安になったけれど。


「椎菜が作った料理か……、食べてみたかったなぁ」


 残念そうではあるものの、スティープスの口調は案外明るいものだった。

 ほっとしつつ、椎菜は料理を食べることができない彼への埋め合わせを考えておくことにした。

 部屋に戻ると、ホリーが椎菜に興奮収まらなぬ様子で飛びついてきた。


「椎菜さん!仕度しましょう!仕度!」


 ホリーのあまりの勢いに、食べたばかりの朝食が喉まで出掛かった。

 椎菜は腹部に若干痛みを感じつつ、無理やり喉から這い上がろうとするそれらを押し戻す。鮭とばの香りを鼻腔に感じる。


「ちょっとだけでいいから、休ませて……」


「調理場を貸してもらえるように頼んでおきました!」


「そだね。ちょっと休んだらね……」


 椎菜はベッドに腰を下ろして、松葉杖を置いた。ホリーは待ちきれない気持ちを抑え切れていない。スティープスの首元にも飛びついたものの、背の高い彼の首には届かない。

 結局、スティープスに抱え上げられて、ホリーは抱っこの体勢に落ち着いた。

 ホリーを抱えるスティープスは、言った。


「森に行く前に文具屋に寄りたいな。紙とペン、買わないとね」


「うーん……。そもそも文具屋ってこの町にあったっけ?」


 ホリーの疑問も最もだ。リトル・ベイは他の町と比べて、大分小さな町である。この町に辿り着いた時は、宿屋すらないのでは、とおっかなびっくりで町を散策したものだ。


「文具屋って呼べるお店はなかったけど、メモ帳とペンくらい売ってそうな所ならいくつかあったかな」


 怪我を負った右足のリハビリがてら、ちょくちょく出歩いている椎菜には心当たりがあった。夢の中の店舗には、一体どんな品が並んでいるのか、興味もあって。

 実際には、軽く触れただけで町一つ吹き飛ばしてしまう爆弾や飲むだけで頭が良くなる薬があるわけでもなく、食べれば減っていくお菓子や齧れば無くなっていく果物など、在っても自然な物ばかりが売られていた。

 ただ、おもちゃ等の娯楽品には奇抜な物が多いとも思われた。七色に光る水晶玉然り、部屋の中を星空に変える砂然り。


「じゃあそこに行ったら、すぐにライオンさんのとこに行きましょう!」


「そうだね」


 大まかな予定も決まって、少しの間椎菜たちはだらだらと過ごした。

 さて、じゃあ行くか、と椎菜がお弁当作りのため調理場へ行こうとした、その時だった。

 窓から見える外の景色に、人だかりができていた。

 町の入口のあたりで、道に沿って多くの人たちがずらりと並び、何かを見ていた。

 誰かが、人々が挟み、囲むその中心を、力なく、けれど鬼気迫る雰囲気を纏い、歩く。

 それは、物言わぬ騎士だった。ウッドサイドの町で、ディリージア城で立ちはだかった、無言にして、椎菜たちに凶刃を向けた一人の騎士。

 騎士の姿を確認した瞬間、椎菜は窓の下に身を隠していた。


 ――――どうして、あいつがここに?


 もう居場所がばれてしまったのか。せめて怪我が治るまでは、と思っていたが、やはり甘い考えだったのかもしれない。


「どうしたの?」


 焦る椎菜に、スティープスも状況の変化を感じ取ったようだ。スティープスはホリーを降ろして、守るようにホリーの体を抱きかかえた。


「町の中にあいつがいる!あの、すぐ襲ってくる騎士みたいなやつ!」


 椎菜がぎりぎり聞こえる程度の小声で叫んだ。それを聞いたスティープスも事の重大さを理解した。

 もし騎士に見つかれば、今度こそ命を落としてしまっても何らおかしくはない。


「とにかくここから出よう!あいつが私たちを探しに来たんなら……」


 椎菜の予想する通り、やって来る。

 宿の扉を開き、思い金属音響かせて。


「まずは絶対、宿を調べに来る!」


 階下で騒音が起こった。いくつか、叫び声も。

 椎菜は荷物を持って部屋から出て、外の人たちに見られないよう廊下の窓からスティープスに外へと降ろしてもらった。

 急がなくては、今はホリーもいる。

 遠くに隠れてやり過ごさない限り、逃げ切る術はない。

 それに、椎菜の脚も完全に治ってはいない。少しは動かせるようになっているとは言え、まだまともに走れるとは思えなかった。


「まずはライオン君と合流するべきだ。森に隠れながら湖の向こうまで行こう」


 走り出そうとして脚に力を込めた椎菜は、やはり急激な違和感に襲われ、よろけてしまった。


「私のことはいいから、スティープスは椎菜さんをおぶってあげて!」


 急ぐあまり、椎菜は松葉杖も持たずに出てきてしまった。歩くことならともかく、走ることともなると、脚の力が入り辛くてよろけてしまう。

 椎菜はスティープスに背負ってもらい、三人はこの場から離れようと急いだ。

 椎菜がふと振り返ると、彼女たちが飛び降りた窓から、誰かが。

 殺気漂わせる騎士が、椎菜たちを顔の見えぬ兜の奥から覗いていた。

 生い茂る草々を踏み倒して走る。ひたすら、速く、速く。


 ――――見つかった!見つかった!!


 もう、今すぐにでもあの凶刃は、背後から振り下ろされるかも分からない。

 恐怖が椎菜を駆り立てる。

 けれども、その脚は動かせず、今はスティープスに運んでもらう他ない。

 椎菜たちは森の深くへと入っていく。湖に沿って、その向こう側まで一気に駆け抜ける。

 まだ、騎士の姿は見受けられない。騎士が完全にこちらを補足できていない内に、騎士が諦めるくらい遠くまで、逃げる。

 森の中を逃げていく椎菜たちを観察する影があった。

 スティープスととてもよく似た外見をした、白い執事服の男。

 木々の上、高い空から見下ろすように椎菜たちへと、これまたスティープスとよく似た、花の装飾が施された仮面を被った顔を向けていた。






 湖の水面に顔を付けて、がぶがぶと水を飲むライオンの下へ椎菜たちがやって来たのは、宿を飛び出して十分と少し経った頃。

 その際、ライオンに飛びついたホリーの勢いによって、ずるずるとライオンの体は湖に沈み、哀れ着水してずぶ濡れになったのは彼一匹。

 ちなみに、ホリーはスティープスに助けてもらい、難を逃れた。自力で水から這い上がり、体を震わせ水滴をまき散らすライオンに椎菜は顔をしかませた。


「すぐ逃げましょう!危ない人が追いかけてきてるの!」


「誰だよ危ない人って。お前だろ」


 焦りから要領を得ない説明を繰り出したホリーに、ライオンは苛立ちつつ答える。こんな問答をしている時間はない。


「説明は後でするから!とにかく今は一緒に逃げて!お願い!!」


 いつになく必死な椎菜の頼みに、ライオンは事の重大さを悟ったらしく、すぐ様その鋭敏な鼻で周囲の様子を察知した。


「鉄の匂いがする。いや、鉄っていうより……」


 椎菜たちの後方、遠目にある低木樹の裏、視界を遮る草木の隙間から。


「血の匂いだ」


 騎士が姿を現した。

 椎菜たちを見つけた騎士は走り出す。引きずられる抜身の剣は、地面を削りながら轟々と音を立てて迫りくる。

 気付くのが遅かった。例え、今から走り出しても間に合わない。騎士の俊敏さは椎菜たちの速度を遥かに超える。

 ライオンとホリーは逃走を続行するつもりで森の奥へと向き返り、スティープスはその行為に最早意味がないことを悟り、立ち向かった。椎菜をライオンに預け、騎士と対峙する。

 スティープスは振り返りもせずに、言った。


「君が逃げる時間くらいは稼いでみせる。みんなと何処かに逃げるんだ」


「でも……、でも……、スティープス……」


 前回、騎士に負わされたスティープスの傷はまだ完治していないのに。

 危険すぎる。殺されてしまう。今度こそ。

 心配収まらぬ椎菜はライオンの背中に乗せられて、ホリーと共にスティープス一人を残し、その場を離れた。

 切りつける騎士の体をスティープスが蹴り飛ばす。騎士は横転して剣を手放したが、瞬時に立ち上がり、背中に提げた袋から細長い銃を取り出して、構えた。

 構えたが、スティープスの居場所を特定できず、騎士の狙いは定まらない。その内にスティープスは騎士の剣を拾い、騎士へと力強く振る。

 騎士はその剣を手で掴んだ。

 小手で守られた手は刃を通さず。スティープスの姿は見えずとも、剣なら騎士にも見えている。腕の力でスティープスから剣を取り上げ、騎士は一旦、スティープスから距離を取った。

 スティープスは自問する。


 ――――もう少し時間を稼いで、自分もこの騎士から逃れる。自分に、できるのか。


 ――――やれる、やれるさ。やらなければ、いけないんだ。


 剣を腰の鞘に納め、騎士が銃を構え直した。少しでもスティープスが動けば、その音から騎士は彼の気配を察知し、撃ちぬくことだろう。

 張り詰めた空気の中、二人の男が静かに対峙する。一瞬でも気を抜けば、それがそのまま命取りとなる。

 戦いのイメージを組み立て、先に動いたのはスティープスだった。

 自分が動けば騎士が即座に銃を向けると読んで、木々の中へと跳び込んだ。草木の揺れを感じ取った騎士が瞬時に銃を向け、撃つ。

 騎士は、弾丸がスティープスに当たることなく樹の幹を穿ったのを音で知り、腰のベルトに銃を刺し、木々の中へ剣を構え、素早く入り込んだ。

 スティープスの居場所は、枝が揺れる様子だけで鋭敏な感覚を持つ騎士には手に取るように分かる。


「なんで分かるんだ!?」


 スティープスの進行方向を読み切って、騎士がスティープスに切りつける。

 宙で自在に動けるスティープスは、剣が迫るのに気づいてからでも体を剣の軌道から逃すことができる。しかし、それも長くは続かない。

 森の中は銃弾を遮り、剣を振る場所も狭めるが、それらから逃れる場所も減らしてしまう。

 騎士はスティープスに執拗に食らい付き、常に近接距離で、剣を器用に最小の動きで振り、突いてくる。

 ぎりぎりの回避を続けるスティープスに、ついに騎士の手が当たってしまった。

 すると、騎士は素早くスティープスの服を掴み、彼を木に叩きつけ、地面に落とし、彼の上に乗った。

 騎士がスティープスの首を断ち切ろうと剣を持ちかえる時。その隙とも癒えぬ微小な隙を、スティープスは強引に活かして、騎士の腰に提げられた銃を引き抜いた。


「学習しろ。この僕を見習ってな!!」


 スティープスは引き金を引く。

 だが、弾は出なかった。既に銃に込められた弾は撃ち尽くされていたのである。


「え、なんで!?」


 剣が振られ、スティープスの首に迫る。

 スティープスは己の首が飛ぶ恐怖に、咄嗟に顎を思い切り引いた。

 運か、本能の結果か、スティープスの仮面が、丁度、剣から首を守る位置に来る。そして、騎士の剣は仮面に当たり、弾かれた。剣が当たった衝撃に、スティープスの頭も大きく揺らされた。

 弾かれた剣はスティープスの肩を切ったが、首に届くことはなかった。スティープスは銃の柄で騎士の頭を殴りつけ、体の上に乗る騎士をよろけさせ、逃れた。


「痛ぁ……、首が折れるかと思った!」


 再び距離を取り、スティープスは肩の傷を手で押さえる。じっとこちらの居場所を探る騎士の実力は、自分を大きく上回ることを実感させられた。

 だが、なんとしてもこの騎士を引き付けておかなくてはならない。椎菜たちが逃げる時間を、まだ充分に稼げたとは思えなかった。

 しかし、そんなスティープスに背後から声がかけられる。それは淡々と、非情な現実を彼に告げた。



「時計を見ろ」



 声が聞こえて、スティープスは焦り、懐の金時計を取り出した。

 二つの針は、零時を指す直前で。


 ――――まずい。


 そう思った時には既に、スティープスの体は消えかかっていた。


「椎菜……!」


 遠くに逃げた、まだ傷の癒えぬ彼女の名前を呼んで、スティープスが消えていく。

 時計の針が零時丁度を指した時、スティープスの姿は完全にこの世界から失せていた。

 騎士は暫しスティープスの攻撃を警戒した後、邪魔者がいなくなったことを理解して、再び椎菜たちを追いかけた。






「やばいやばいやばいやばい!なんなんだあいつ!!」


 ライオンの背中で激しく揺られながら、椎菜はライオンの震えた声を聞いていた。ホリーもなんとか付いてきているが、体力的に限界が来ているのが目に見えて分かった。


「一旦休もう?ホリーも疲れてる……」


 歩を緩めて、ライオンはまた臭いを嗅いだ。


「大分臭いが遠く感じるな。少しくらいなら大丈夫だろ」


 ホリーはほっとした面持ちで腰を突き、木陰に座り込んだ。

 椎菜はあの場に残ったスティープスの身を案じる。

 これまでに二度も襲ってきた、あの謎の騎士。

 一度はウッドサイドの町で、二度目はあのお城の中で、その度にスティープスが助けてくれた。

 いつもいつも、すんでの所でスティープスが騎士を追い払ってくれたのだ。

 何とかしなくてはならないのだろう。せめて、騎士の正体を知るくらいのことはしなくては。

 神出鬼没なあの脅威は、紫在を探す上で、大きな障害として椎菜たちに立ちはだかり続けるに違いない。


「大丈夫でしょうか……。スティープス……」


 不安げな声を漏らしたホリーの声は、今にも泣き出してしまいそうだ。椎菜はしっかり歩くよう努めて、ホリーの側に移動した。

 そして、椎菜はホリーの頭に手を置いて、言った。


「大丈夫。ああ見えて結構強いんだよ?スティープスは……」


 安心させようと発した椎菜の声は、同じく泣き出しそうに震えていた。ホリーの嗚咽を聞きながら、椎菜は情けない思いでスティープスの帰りを待っていた。

 木々が、風にざわめいて。

 木々は風の向こうにいる誰かに怯えるように葉を揺らす。ざわざわと、脅威の存在を告げる。


「おい……」


 ライオンが立ち上がった。その顔は人外のものではあるが、恐怖の色をありありと浮かべ。


「来てるぞ、風上の方から……。こっちに来てる!もう近い!!」


 椎菜も急いで逃げる姿勢を立て直す。

 騎士は、まだ椎菜たちの居場所を掴めてはいないはず。

 なのに、なのに。

 騎士は迷わずに森の中を進んでいた。草木は視界こそ遮れど、音までは完全に防ぐことはできなくて。

 何処かから聞こえてくる少女の泣く声を頼りに、騎士は椎菜たちの居場所を割り出した。


「おい!食い止めてたんじゃないのかよ!なんであいつがこっちに来てんだよ!!」


 ライオンが叫ぶ。

 そうだ。騎士がここまで来ているということは、未だ健在でいるということは。


 ―――スティープスは?彼は一体、どうなってしまった?


 足下から地面が崩れていくような感覚がする。大事なものが壊れてしまう、そんな感覚が。


 ――――スティープスが、死んだ?


 椎菜から、逃げる気力すら失われていく。例え、騎士から逃れられたとして、その先の未来には、彼がいない。


 ――――もう、会えないの?


 考えられない。考えたくない。椎菜の思考は巡って、巡って。行き詰まり、今度こそ泣いてしまいそうだった。


「おい大丈夫か!?走れるか!!?」


 ライオンは必死にホリーに呼びかけている。

 ホリーはもう限界だ。休息もろくに取れていないのだから、当然。まだ、息の乱れすら収まっていない。


「大丈夫……、行きましょう……」


 無理を押して、立ち上がろうとするホリーの顔には、涙の跡が残っていて。

 椎菜は自分を心の中で叱責した。

 こんな小さな子が、気を強く持とうと頑張っているのに。ずっと年上の自分が、何を。

 弱気になっている場合じゃない。今やれることをしなくては。

 自分にできることを、しなくては。


「お願いがあるの」


「?」


 ライオンは焦った様子で椎菜の顔に目を向けた。時間がないと言いた気に、目を泳がせる。


「私じゃなくて、ホリーを運んであげて。私は、ここに残る」


「は!?」


「また、そんな……。椎菜さん……」


 椎菜はスティープスが死んでしまったと、認める気にはなれなかった。

 きっと彼は、何か事情が在って騎士を見失ってしまったに違いない。だから、彼ともう会えないなんてことはない。絶対に。

 そう信じると椎菜は決めた。

 今は。

 今、だけでも。


「私があいつを引き留める。足は動かなくても、話すことぐらいはできるから」


「私のことなら、心配しないでください!一緒に逃げましょう!」


 小さい体で、こんな時でも優しく気を使ってくれるホリーに椎菜の頬は思わず緩む。


「ごめんね。でも、私はあの人に聞きたいことがあるの。だから、お願い。先に行ってて?私も絶対、後で追いつくから」


 椎菜の決心は揺るがない。その瞳には力が満ちて、ライオンは椎菜が相応の覚悟を決めたのだと察した。


「……。こいつを町まで送ったら、必ず迎えに来る」


 最後にそう言って、ライオンはホリーを無理矢理背中に乗せた。ライオンが木の間を縫って、森のさらに奥へと走っていく。

 椎菜はホリーとライオンが離れたことを確認し、両足に力を込めて、風上へと体を向けた。

 まだ、平衡感覚に違和感を感じる。それでも、やらなくては。

 やがて、足音が聞こえてきた。

 一歩、また一歩。確実に近づいてくる。椎菜は髪飾りに手を添えて、祈った。


 ――――どうか、私に、勇気を。


 騎士が、椎菜の真正面にその姿を現す。

 近くでしっかりと見てみれば、騎士の着ている鎧はひどく傷んでいる。所々へこみができて、土汚れも付いていた。

 正面に堂々と立つ椎菜に、騎士は今までと違う気配を感じた。逃げ惑うのでも、襲い掛かるのでもなく、武器も持たずに目前に在る。


「あなたに聞きたいことがあるの」


 騎士は銃を取り出した。弾は既に込められている。


「どうして私たちを殺そうとするの?」


 騎士は銃を構えた。椎菜の頭に狙いを定める。

 椎菜の脚は震えていた。まだ右足が本調子でないからだけではなく、恐怖していたから。


「あなたはお城から来たんでしょ?あのお姫様と何か関係があるの?」


 一瞬、騎士が反応を示したように見えた。事実、銃の構えは解かれ、下ろされた。

 椎菜が即興で考えた質問だったが、どうやら本当に何かあるらしかった。


「簡単にでもいい。お願い、事情を教えて?」


 騎士は何かを言おうとしていた。考えながら、確かに言葉を発しようとしていた。

 でも、結局何も言わずに。騎士は、自分の喉を鎧の上から手で抑えた。


「まさか……」


 まさかと思う。そういえば、椎菜はまだ彼の声を聞いたことがない。


「喋れないの……?」


 椎菜の声に、多少の同情が混じる。

 それを聞くと、騎士は再び銃を構えて。

 椎菜へと狙いを定め、引き金を引いた。


 そして、椎菜を穿つ弾丸が、爆音と共に放たれた。






「ここまでか」


「まぁ、よくもったと言うべきか」


「残念ながら。もう、終わりだ」


「お前にも、俺たちにもあいつを救うことはできなかった」


「それだけの話だ」


「意味なんて……、初めから、なかった」






 目を瞑り、椎菜は己の死を覚悟した。

 弾丸が己を貫く痛みを恐れ、身構えた。

 けれど、死にゆくことを知らせる痛みを、椎菜は感じていなかった。

 椎菜は恐る恐る、目を開ける。

 自らの死を確信していた椎菜が見たものは、彼女を囲む大きな、人を一人囲んでしまえる程大きな、黒い花だった。

 椎菜を守るように、足下から生えて、ぐるりと椎菜の周りに咲き誇る、花びら。

 どこかで見た色だった。

 それはもう、思い出になってしまったあの魔女が、ディリージア城を染め上げた魔法の黒色に似ていた。

 誠実なる輝きを守る、漆黒の魔法。

 それは、かつて生きた老婆の力だ。未来を失った魔女にできる、唯一の償いだ。


「お婆さん……?」


 花びらから地面に落ちる物があった。

 金属音を立て転がっていく、それは銃弾だった。

 椎菜はこの花が自分を守ってくれたのだと気が付いた。この力が如何なるものか、まだその正体にまで理解が届きはしなかったが。



「ダンエイの花か」



 誰かの声がした。

 落ち着いた口調だが、驚きが含まれた声。

 騎士が剣を取り出す。そして、強く、素早く花を切りつける。

 しかし、漆黒の花は剣撃を一切受け付けない。

 何度剣が振られようとも、花には一つの傷も付きはしない。それどころか、花はその一部を槍の如く尖らせて、騎士を貫かんと何本も勢いを持って突きだした。

 騎士が飛び掛かり、花びらを跨いで椎菜に向かおうとするも、花は椎菜を包んで蕾を形成し、騎士から彼女を守った。

 蕾を破壊しようと、騎士は剣を叩きつける。花びらの槍を受けながら、命を削り剣を振る。

 槍と剣が行き交って、傷付いて。

 椎菜は悲しくなった。

 こんなにも、誰かを殺すのに必死になるなんて。椎菜は花と剣がぶつかる音に気圧され、耳を塞いだ。

 激しく、暴力的な音が響く。ひたすら、ひたすら。

 やがて、騎士はこれ以上は不利であると判断したのか、剣と銃を収め、ついにその場から立ち去った。

 騎士が去ると、黒い花は空に舞い上がるように消えていった。

 溶けていく絵具のように。クレヨンの線が、端に行くにつれ薄れるように。

 椎菜は気力を使い果たし、余りにも非現実的な事態を目の当たりにし、へたり込んだ。騎士の脅威は去った。でも、椎菜がまず思うのはスティープスのこと。

 彼は、無事なのか。

 それとも、本当に。


「スティープス……」


 我慢していた涙が溢れ出して、もう止まらない。いつも不安を払ってくれたスティープスを想い、椎菜は森の中で一人、泣き続けた。






「何を泣いている?」


 また、声がして。

 椎菜が顔を上げると、空から仮面を被った男がゆっくりと下りてきた。


「生き延びたことを喜びはしないのか。人間は、死ぬのが恐いんじゃなかったのか」


 スティープスに似ているようで、似ていない。

 白髪の白い執事服の男、ディリージアがそこに居た。














8th tale End



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