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9th tale DV : brother

・ある少女の回想 五




 電話の呼び出し音が、冷たい廊下に木霊した。

 ジリジリと鬱陶しい音を、耳を抑えて遮りながら、私はベッドの布団を被り直した。その拍子に、枕元に置いておいたぬいぐるみが床に落ちて、私は苛立ちながら、ぬいぐるみを布団の下から手を伸ばして引っ張り上げる。

 ぬいぐるみをぎゅっと抱くと、綿がもこもこしていて気持ちいい。

 十数秒間、私の安眠を邪魔した後、受話器が取られ音は黙った。

 電話機は一階にある。

 二階のこの部屋に、朧気ながらお母さんが受け答えする声が聞こえる。お母さんが、謝っているように聞こえた。

 やがて声は聞こえなくなって、静けさが少しの間続いて。

 家の中に再び音が鳴り響く。今度は呼び出し音ではなく、お母さんの声だった。

 私は布団の中に顔を隠して、眠ったふりをする準備をした。階段を上がる足音がしたからだ。

 きっと、学校からの電話だったに違いない。お母さんは以前、学校に呼び出されたことがある。

 私がどうしても学校に行きたくなくて、登校せずに、近所の公園で夕方までを過ごした、次の日のことだった。

 でも、お母さんがノックしたドアは、私の部屋の物ではなく。

 隣の部屋。兄の部屋のドアだった。三つ年上の兄。物静かで、不気味な乱暴者。


「草貴……。起きてる……?学校から電話が来たよ。部屋から出てきなさい……」


 おどおどと恐がって、じれったくなるお母さんの喋り方。聞いているだけでも、腹が立つ。


「紫在も出てきなさい……。あなたにも関係のあることだよ……」


 結局、私も呼ばれるはめになって。

 兄と私は、廊下でお母さんに学校のことについて、問い詰められることとなった。

 お母さんは私たちに理由を尋ねる。

 私が同じクラスの子たちと上手くやれていないことの理由。そして、兄が今日、そのクラスの子たちに暴力を振るったことの理由。

 後者の話は、初耳だった。

 その話を聞いた時、私の中で怒りがふつふつと込み上げて。お母さんの言うことなんて、もう頭に一つも入ってこなくて。


「いい?二人とも。その……、学校では、いい子にね?」


 私たちが一向に返事を返す気がないのを悟り、お母さんは問い詰めるのを止めて、一階に戻って行った。

 兄はすぐに部屋へ戻ろうとしたけれど、私はそんな兄を呼び止めた。


「待って!」


 振り返った兄の顔には、露骨に不機嫌な表情が浮かんでいた。その顔を見ないように、私は微妙に顔を背けながら言った。


「なんでそんなことしたの!?私が明日からどんな目に会うか分かってるの!!?」


 兄は何も言わない。まるでこちらの話を聞く気のない兄の姿勢に、私の怒りは限度を超えた。

 私は兄の頬を強く、思い切り叩いた。

 けど、怒りが溜まっていたのは兄も同じだった。

 私が叩いたことでその怒りは限界に達し、兄は私の体を片手で突き飛ばした。

 廊下の床に崩れ落ちて、部屋へ戻っていく兄を視界の隅に入れながら、私は泣いた。

 悔しくて、悲しくて、これからどうしたらいいのか、分からなくて。

 私は誰にも聞こえないように、音を殺して泣いていた。






9th tale DV : brother







 黒く聳えるお城。

 世界で一番大きくて、私のためだけにあるお城。

 誰も立ち入ることのないお城。もう、今となっては、私以外に誰の姿もないお城。

 足繁く通っていた魔女は、もう死んだ。帰ってきた騎士は、邪魔だから追い出した。

 それから、それから。

 いつも私と一緒にいてくれた、あの人も、きっともう、ここにはいない。

 姿の見えない、透明人間。ただ、私が手を伸ばすと、私の手をそっと取ってくれた。

 その手の感触に、あの人は確かにいるのだと、私は信じていた。

 けれど、今はもう、私が手を伸ばしても、この手を取ってくれる人はいない。

 この城から、本当に私以外、誰もいなくなってしまった。

 私はふと、思い出す。

 憧れの人に似たお姉さんのこと。この世界で、お城に閉じ込めたホリーを救いだした人。

 現実で、私はあの人のことをずっと部屋の窓から見ていた。子供たちと親しげに戯れる、優しい顔をするあの人。夢の中でも変わらずに、いろんな人を助けて、気にかけて、仲良くなって。

 いくらでも辛いことはあったはず。怪物に追われたり、恐い人に殺されかけたり。

 けれど、あの人は未だに挫けてはいなかった。泣き叫ぶこともなく、自暴自棄になることもなく。誰かを助け、誰かと共に在る。

 あの人に似た女性。夢の中でも変わらない。現実のあの人のように素敵な人。だからこそ、私は待っている。

 あの人が、何もかもを諦めて、その下らない優しさを捨てる、その時を。

 


「早く、早くやめたらいいのに」


「どんなに強がっても、あなただっていつかは絶対に諦める」


「余裕があるから優しくいられるの。他に辛いことがないから、優しくいられるの」


「そうでしょう?」


 誰もいないと分かっていても。自分しかいないと分かっていても。


「どうせあなたも、人間なんだから」


 私の声が、玉座の間に響いて、消えていく。

 気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い、気持ち悪い。忘れたい、この気分を晴らしたい。

 何処かに行って、何かしよう。

 そうだ。あの鬱陶しい騎士はどうなった?

 どうせ、まだ動いているに違いない。丁度いいおもちゃだ。壊してあげよう、思い切り。

 全部、全部、全部!

 そうしたら。


 そうしたら、きっと――――







 鎧を軋ませて、騎士は針葉樹の枝葉に切り取られた夜空を見上げた。

 灰色の空と、所々に渦巻く黒い線が、どこからともなく光を届ける月の明かりを堪えていて。

 視界の悪さは、歩き辛い森林をさらに進み辛くさせる。騎士は日が昇るのをひたすら待った。歩を進めながら、取り逃した椎菜をどう追い詰めたものか思考を回す。


 ――――まずは、正体の分からないあの黒い花を崩さなくてはならない。


 突然現れた、椎菜を守る花。何故現れたのか。どうすればあの花を突破し、椎菜を殺すことができるのか。

 ただこの世から、椎菜を抹消することだけを考えて、休むこともせずに歩き続ける。

 椎菜の居場所を探る手がかりもなしに、森をさ迷う騎士の姿は悪鬼じみて恐ろしく。

 森の中に軋む金属音が、不気味な夜の森に鳴り響いていた。








 場所は変わって、騎士からずっと離れた森の奥。

 焚き火の明かりと暖かさを身に受けながら、椎菜は一人の男と対峙していた。

 対峙するといっても、焚き火を挟んで、お互い腰を下ろしているのだが。

 向かいに座る白髪の男、ディリージアはなかなか口を開かない。

 椎菜にはディリージアと何を話していいか分からなくて、仮面に隠されたその口が開くのを待つことしかできなかった。

 騎士が姿を消して数時間、椎菜はひたすらこの空気に耐えてきた。

 変わらず沈黙を守るディリージアを見るに、もしかすると彼もまた、椎菜と同じように何を話せばよいのか判断し切れないのかもしれない。

 夜になるまでに二人が話したことと言えば、スティープスの安否のことだけだ。

 ディリージアは椎菜の前に現れてすぐ、椎菜にスティープスが無事であることを教えてくれた。

 安心して、気の抜けた声を上げながら地面に倒れた椎菜を見て、軽く嘲笑したディリージアの態度は、彼女に怒りを抱かせた。

 邪魔をすることもあれば、助けてくれることもある。

 仮面の奥の考えがどうにも読めず、椎菜にとって信用し難い男だ。

 ディリージア城でホリーを逃がすのに一役買ってくれたこともあった。ホリーを町の外まで送ってくれて、その後、しっかり椎菜たちに引き合わせてくれた。

 椎菜としては、そのままどこかへホリーが連れて行かれてしまうのでは、と心配ではあったのだが。

 ディリージアは、約束を守ってくれたのだった。


「あなたは、何者?」


 ついに椎菜が話を切り出した。

 ディリージアは聞いているのか、いないのか、どちらともつかぬ様子だったが、やがて答えた。


「何者と聞かれてもな」


 その答えは冴えない物で。椎菜は苦々しい思いで付け足した。


「例えば、この火とか……。どうやってつけたの?道具とか持ってたの?」


 それを聞くと、ディリージアは人差し指を立てて、椎菜に見えるようにかざした。

 すると、指先から何の動作も無しに、小さな火が一瞬だけ灯った。

 椎菜は思わず目を見開いた。手品にも思える光景にディリージアは注釈を入れる。


「これは手品じゃない。これは俺に残された夢の力。このくらい小さなことなら、まだ俺にもできる」


「……」


「……」


 少し間があった。椎菜は驚きで返答する余裕がなく、ディリージアは何やら悩んでいるようであった。


「俺が何者かと言えば、そうだな……。呪いみたいなもの。幽霊やら妖怪やら、そういった類の怪物」


 ディリージアの言うことが、椎菜には一つとして理解できない。


 ――――幽霊?妖怪?


 どちらもあまりピンとこなかった。呪いという言葉に至っては、生き物ですらない。

 椎菜がディリージアの言葉から類推できたことはたったの一つ。

 夢の中に閉じ込められることがあろうとも、にわかに信じられることではない。

 幽霊。妖怪。ディリージアの正体。恐らく、彼は。


 ――――人間では、ないということ?


 またも、ディリージアは間を置いた。今度はあからさまに困った風に、片手で頭を押さえていた。


「何者かと聞かれたら、そう答えるしかない……。俺もスティープスも、人を夢の世界へ誘う怪物だ。普通の夢とは違う、もう一つの世界へ。俺はあいつと違って、生き物と地面以外には触れられないが」


 無意識に、おそらくは、無意識に。

 椎菜は、話題を大きく変えていた。ディリージアの言う通り、ディリージアとスティープスの正体が人間ではないのなら。


 ――――もし、この夢が終わったら、スティープスと私はどうなるの?


 己に向けて気付かないふりをしていても、彼女はもう勘付いてしまったのかもしれなかった。


「……。スティープスと、友達なんでしょう?」


 椎菜がそう言うと、ディリージアの様子が変わった。

 少しだけ、気が緩んだような。そんな気がした。

 スティープスが以前話していた、彼にこの世界のことを教えてくれる友達。きっと、ディリージアのことなのだろう。


「友達?」


「スティープスが前にあなたの話をしてたの。あなたは友達だって」


「へぇ……。そうか」


 気のない体を振る舞ってはいるが、椎菜には手に取るように分かった。

 ディリージアは照れているのだ。冷たい印象ばかりが目に付いていたが、人間味のある所もあるらしい。


「スティープスのやつは、殆ど人と話したことがないからな。何かあればすぐはしゃぐ。子供みたいなもんだ、あいつは」


「分からなくはないけど、子供って……。っていうかあなたたち、どんな所で育ったの……?」


 椎菜の疑問に、ディリージアは答えることもなく。椎菜はスティープスを子供と言ったディリージアを観察する。

 見た感じは、スティープスと同年代、と言うよりも、見た目に関して言えば、髪と服の色以外、全く同じなディリージア。地面に直に座り、焚き火の傍で落ち着いた姿勢を崩さない。

 確かに、スティープスより大人らしくはある。

 それにしても、もう少し楽な姿勢をとってもいいのでは。せめて、木にでももたれ掛かればいいのにと、椎菜が思って。


 ――――ああ、そうか。無理なんだ。


 ディリージアは生き物と地面にしか触れられないと言っていた。だから、木にもたれかかることもできないのだ。

 椎菜は、そんなディリージアが、少し可哀そうに思えた。


「お前は、スティープスと仲が良いんだな」


「うん。……、羨ましい?」


「……、何が」


 ちょっとだけ、椎菜はディリージアをからかってみる。

 焚き火に照らされたディリージアの耳の色は、分かりづらいけれど真っ赤に染まっていた。


「お前こそ、あいつのことが好きなんだろう?」


「え?!」


 椎菜は綺麗にカウンターをもらった。

 軽口を叩いて誤魔化せればよかったのに、主導権を握ったと確信していた椎菜に、そんな準備はできていなくて。椎菜も耳の先まで紅潮させて、全身を硬直させてしまう有様で。


「ふん」


 勝ち誇った笑いを掲げたディリージアの態度が、椎菜を激昂させる。椎菜は彼に対する態度を、再度改めることにした。


「そんなことどうだっていいでしょ。それよりも、あなたとスティープスのことを教えて」


「そんなことを知ってどうする」


「!」


 ――――なんだこいつは、ひどく苛つく。


 まず、態度が気に入らない。言葉づかいも気に入らない。何を食べて育ったら、こんな嫌味な人に育つのか。

 第一、椎菜にはこんなのが、スティープスの友達だということに腹が立つ。

 何処となく嬉しそうだった、ディリージアの話をしていた時のスティープス。


 ――――それが、これ?


 二人の間に、またしても沈黙が流れた。お互いに在るべき心の距離を測り合う、そんな時間だった。


「……。魔女のことは、残念だったな」


 椎菜は少し、驚かされた。ディリージアの持ち出した一言は脈絡もなく、優し気な物で。

 彼にもこんな優しさがあったのか、と椎菜は驚いて。


「うん……」


 驚きは、したけれど。椎菜に返せる言葉はこれが精一杯だった。件の魔女を思い出すと、椎菜には寂しさやら悔しさやら、様々な感情が渦巻いた。


「魔女は最期に、お前を庇い、姫に立ち向かった。力ではなく、勇気で立ち向かった」


 一瞬、椎菜は魔女が死んだのは自分のせいであると、ディリージアに責められるのかと身構えた。けれど、ディリージアの話は、亡き魔女への彼なりの賞賛であった。


「奴のことは昔から知っていたが、あんなことをできる人間ではなかった」


「知り合いだったの?」


「……。知り合いの、知り合いだ。何度か会ったことはあるが」


 ――――どういう関係だったんだろう。魔女のお婆さんと、この人にどんな接点があったんだろう。


「あなたも、他の人には見えないんだよね?スティープスみたいに」


「ああ。魔女と会ったのは昔の話だ。俺の姿が、まだ皆に見えていた頃の」


「見えていた頃って……。なんで今は見えなくなっちゃったの?」


「あいつの……、紫在のことは聞いたか?」


 露骨に。それはもう、思い切り露骨に。話を逸らされた。

 じとりと不審の目を向けて、椎菜が自分の心持ちを表しつつ、ディリージアに突っ込んでも無駄だろうと、話に乗った。

 紫在。

 椎菜がこの夢から出ていくために、見つけなければいけない人。椎菜もスティープスも、名前を教えてもらうまでは、ホリーのことを紫在だと思い込んでいた。

 スティープスから教えてもらった紫在の特徴。まだ小さくて、髪は黒くて、手の甲に深い傷がある。

 全てホリーに当てはまっていた。なのに、彼女は紫在ではなく、ホリーと名乗った。

 あのときのスティープスの驚き様は、椎菜もよく覚えている。スティープスの、落胆ぶりも。


「その紫在っていうのは、ホリーのこと?それとも本物の紫在さんのこと?」


 ディリージアは驚いた風に顔を上げた。そして、納得したように体勢を整えて、言った。


「“本物の紫在”のことだ。お前たちの呼ぶホリーのことじゃない」


「スティープスは、友達だって言ってた。それに、この夢は紫在さんの見ている夢で、私たちはそこに入ってきちゃったんだって」


 とりあえず、スティープスから聞いたことをかいつまんで椎菜は話す。


「この夢の主が紫在なら、その夢は当然、紫在の記憶と感情に強く影響される。紫在の周りにいる人間からも情報を吸い取って、こんな世界を作り出す」


「……。例えば?」


 ディリージアは何拍か置いて、答えた。


「今回の夢が始まった時に、この世界に現れた騎士だとか。元からこの世界にいた者の中では、この夢で紫在という存在に引き寄せられた魔女や、世界を壊して回る怪物だとか」


 騎士に魔女に、怪物。

 皆、聞き覚えのある言葉だ。夢の中で、紫在を探す椎菜に立ち塞がる者たちを示す言葉だ。


「スティープスやあなたも?」


「そう。そこらの景色も、町に置かれた本も、空を覆うあの黒と白も。俺もスティープスも、何もかもが紫在の心と思い出の象徴だ」


 椎菜は空を見上げた。

 星一つ見えないこの黒と白、それから灰色混じりの空に、どんな意味があるというのか。

 哉沢紫在という人間が、椎菜には手の届かない、ずっと遠くにいるような存在である気がした。

 それはとても恐くて、とても悲しくも感じた。


「……。スティープスは、ホリーのことを何か言っていたか?」


 夢のことに関して、ディリージアは深い理解がある様だった。スティープスにそれを教えたのがディリージアなのだから、当然のことではあるのだが、改めて椎菜はそう思った。


「ホリーのことは、何も……。友達だってことくらい……」


 どういう意味か、椎菜は分かりかねた。

 まるで、スティープスがホリーのことを知っているかのような口振りだ。

 実際、ホリーはスティープスのことを知っていたし、スティープスのホリーへの接し方も、会ったばかりの他人に対するものとは思えない。友達だと言っていたけれど、それ以上のことは、二人とも何も言ってはいなかった。

 ふと、浮かんだ疑惑。

 二人が、何か隠しているかもしれないということ。あのスティープスとホリーが隠し事を。二人だけの秘密を持っている。

 椎菜は下らない心配だと、忘れようとした。それでも、どうしても疎外感を感じてしまう。


「ホリーはスティープスのことも、あなたのことも知ってた。紫在さんだけじゃなくて、ホリーもあなたたちの友達なの?」


 またも、間があった。ディリージアにとっても、この会話は軽々しく口を聞いてはならないものであるらしいのは、もはや明白と言えた。


「ああ、そうだ。ホリーも紫在も、大切な友達だ。スティープスだって、そう思っているはずだ」


 力強い返答だった。

 本当に心の底からそう思っていると、直接心に伝わってくるような声だった。

 そして、椎菜は言葉を失った。そんなに大事なことを、スティープスはどうして自分に話してくれないのか。考えれば考える程、気持ちは沈んでいって。

 焚き火の音がパチパチと、二人の静寂を浮き上がらせる。

 椎菜は、頭も体も疲れ切っていた。

 段々、椎菜は眠気を催して、うとうとと舟を漕ぎ始めてしまって。それに気が付いたディリージアは、椎菜が眠ってしまう前に一つ話しておこうと、語り始めた。


「あの男の話をしておこう」


「……?」


 焚き火の暖かさに椎菜の眠気は増していく。瞼が重くなっていく。


「お前たちを追いかける騎士のことだ。あいつはまだ、子供なのさ」


 騎士の話。

 ――――子供……?誰が?


「何をしたらいいのか分からないんだ。現実でも、夢の中でも」


 自分に似ている、と椎菜は思った。

 “何をしたらいいのか分からない”。

 目的があっても、何をすればいいのか、はっきりとなんて分からない。


「だからあいつはお前たちを殺そうとするんだ。どうしていいのか、分からないから」


 ――――どうして。なんでそんな答えを出してしまったんだろう。


「兄として妹を……。いや、騎士として、姫を守るために必死だから。子供だからな。暴力を振るうことくらいしか、思いつかないんだよ」


 ――――それで、本当に解決するの?本当に望む結末に、辿り着けるの?


「今回の夢の中で生まれたあの騎士は、紫在の兄の分身だ。前の夢で生まれた、あの魔女と怪物と同じように。本人ではないが、よく似ている」


 椎菜は瞼を閉じた。体のだるっこさを携えて。


「忘れるな」


 椎菜は、誰かの夢の中で。


「ここは、紫在の夢の中だということを」


 微睡んで、微睡んで。眠りに落ちた。






 森を抜けた先に、ホリーとライオンは小さな村を見つけた。さほど盛んな所ではなかったが、宿は見つかった。

 しかし、宿を見つけても、ホリーは金銭の類を一切持っていなかったので、結局は村の近くで野宿となってしまった。

 ライオンはまだ日が昇らない空を見上げていた。感傷に耽っている訳ではない。

 一刻も早く椎菜の下へ戻るため、方角を確認しているのだ。太陽は見えなくても、薄っすらと月明かりで明るい方を見れば、方角は経験と勘で十分に分かる。


「疲れてるかもしれないけど、眠るなよ。朝になったらどこかの家に匿ってもらえ」


「分かりました……」


 ホリーは、また森の中へと入っていこうとするライオンに、心配する言葉をかけた。


「無事ですよね?椎菜さんも、スティープスも……」


 消え入りそうな声だった。ホリーにとっては恩人である二人が、同時に命の瀬戸際にある。

 ライオンにも、その心中を察するのは容易いことで。


「案外こういう時は、大丈夫なもんだ。もしまだ襲われてたら、俺があの騎士をやっつけてやるよ」


 空元気に過ぎないライオンの強がりも、弱っているホリーには嬉しかった。


「待ってます。みんなのこと」


「ああ。行ってくる」


 ライオンは走り出して、木々の向こうへ消えていった。

 ホリーが民家の軒先に隠れると、疲れ切った彼女の体を、冷たい夜の空気が包み込んで。寂しさと寒さに小さく身を震わせつつ、ホリーは大切な人たちの帰りを待った。






 急げ、急げ、もっと。もっと。

 四足を全力で動かす。自分の足音と息遣いが聞こえる。森の地面を蹴る足に、土くれと小石が当たる。ささる。

 夜の冷たい風を切り裂いて、一匹の獅子は走る。まだ間に合うと信じている。茂みを突っ切り、彼女らを迎えに、走る。

 ライオンは、ディリージア城での出来事を思い出していた。

 町中に入るのを躊躇い、城について行くのを拒んだものの、やはり心配で。椎菜が魔女に殺される間際、助けに来てよかったと痛感した。

 あの狂った魔女に言葉で立ち向かった勇気は認めよう。

 しかし、その勇気は余りにも危うい。椎菜の考え方が、彼女の生き方が、危う過ぎるのだ。

 今回も同じだ。ただホリーを逃がすことのためだけに時間を稼いでいるのなら、椎菜がまだ生きている可能性もあるかもしれない。

 だがもし、そうでないとしたら。

 あの騎士に、会話を求めようなどしたならば。恐らくは、もう。

 ライオンの鼻が、臭いを感じ取った。その臭いは、彼の予感を裏付けるものだ。

 鉄の臭いにも感じる、血の臭い。

 最悪の結果がそこに在った。離れた所で、ゆらりと歩く騎士の姿が確認できた。騎士は僅かに届く月明かりに照らされ、木々の間を歩いていて。

 ライオンは動きを止めて、絶望に戦慄いた。

 そして、怒りと悲しみを、土を蹴る脚の力に変えて、ホリーの下へと戻った。

 しかし、戻る途中。

 もう一つ、ライオンは鼻腔に纏わりつくような臭いを感じ取った。

 騎士のものとは比べ物にならない程の悪臭だ。

 およそ人の発せられる臭いではなく、その臭いは何度も何度も上塗りされた血液が、体中に染みつき、凝り固まったものであろうと思われた。

 ライオンは進行方向にその気配を察知して、逃げようとした。

 けれど、時は既に遅く。臭いの主、羊の角を持つ獣に一撃をもらい、ライオンは。

 無念を抱え、己の運命を恨んだ。

 






 森を行く一人の老人がいた。

 老人は、城下町やリトル・ベイの町にいる人たちとは違い、いくつもの箇所がほつれている、古びた服を着ていた。老人は腰に小さな籠を提げており、その中には山菜が詰められている。

 夜の森を歩くには、相応しくない装備だ。

 村から少々離れた場所に畑を持つこの老人は、夕方に畑での収穫を終え、帰路に着いた。

 暗くなる前に村に帰れるとは、彼も思ってはいなかった。

 しかし、現在は夕方どころか明け方になろうとしている。

 村にはまだ着かない。

 何故なら、老人は出会ってしまったから。暴れ狂う一匹の獣、誰しもが恐れるヴァン・ヴァラックに。

 畑から帰ろうとした矢先に、遠目に進行方向を横切っていくこの獣を見つけてしまった。そして、あちらも老人を。

 背中に背負っていた、根菜の詰まった籠を放り投げ、老人は逃げ出した。

 森の中であることが幸いし、何時間もの逃走の末、老人はヴァン・ヴァラックを振り切ることができた。

 だが気付けば、老人は帰るべき村から遠く離れた場所にいて。夜の森が危険なのを承知で、ヴァン・ヴァラックが現れたことを、いち早く村の者たちに伝えるため、老人はこうして暗闇を一人進んできたのだった。

 体が悲鳴を上げている。老体を引っさげ、ずっと歩き続けてきた。早く村に戻り、ヴァン・ヴァラックのことを伝えなくてはならない。

 あの怪物が村を一つ潰したなどという話は、そう珍しい物ではないのだから。

 老人の息遣いが大きくなっていく。全身の疲れを表す様に首は傾き、両目は地面ばかりを捉えた。

 もう少しで村だ。もう少し、もう少し。最後の一踏ん張りを意気込んで、老人が顔を上げると。

 災厄の獣が、ヴァン・ヴァラックが老人の目前に立っていた。それは御伽噺に語られる、恐怖の獣。

 羊の角を振りかざし、老人を食らおうと獣の咢が開かれて。

 哀れ老人の生涯に、幕が引かれる――――







 鉄の軋む、音がして。

 老人は、まだ己が命を保っていることに気が付いて。

 腰が抜け、食らわれるその瞬間を待つことしかできなかった老人は、獣に剣を向け、立ち塞がる騎士を見た。

 壊れかけの鎧が、勇気ある騎士の佇まいに不釣り合いに感じられる。

 老人には、騎士の姿が誰よりも勇壮に映っていたが、騎士の手は、足は、恐怖に震えていた。

 ヴァン・ヴァラックの腕が振るわれた。周りに並ぶ、どの大木よりも太いその腕は、騎士の体を軽々と殴り飛ばす。

 木にぶつかり、地面を削って転がった騎士は、まだ立ち上がる。


 ――――守らなくてはならぬ。


 それが彼にとっての、“騎士”であるから。

 剣を拾い、騎士は構えた。

 何故、自分が“騎士”であるのか。理由なんて知りはしない。


 ――――弱き者を守るのだ。例え、拒絶されようとも。例え、自身が弱き者であったとしても。


 鋭い牙が生え揃う大口が、騎士を捕らえた。鎧を突き壊し、騎士の体を食い破ろうとヴァラックは顎を動かす。

 騎士は噛まれながらも、剣を放さなかった。そのまま、獣の首へ剣を突き刺した。何度も、何度も突き刺した。


 ――――守るのだ。守るのだ。


 ――――例え、この身が砕けようとも。


 騎士の必死の抵抗に、ヴァン・ヴァラックも痛みを感じ、騎士を放り投げた。そして、ヴァラックは森の何処かへと去っていった。

 満身創痍の騎士に老人はお礼を言って、騎士を担ぎ、急ぎ村へと向かった。






「椎菜。椎菜」


 私を呼ぶ声がする。優しくて、穏やかな声。

 私の意識は、その声のする方へと向いて行く。やがて、意識は声の下へと辿り着く。

 すると、私は丘の上に立っていた。その丘から見える景色は、夢の世界とは違った趣で、真っ青に透き通った空と、私が現実で見たことのある街並みや、何処か見覚えのある紅葉並木が広がって。


「これは君と僕の夢。ディリージアの言った通りだ。僕にも彼と同じ力があるんだね」


 呆けながら、景色を見渡す私の隣に、黒い執事服の人が現れた。

 私の大好きな、スティープス。私の手を握ってくれる、スティープス。

 私はなんとなく分かり始めた。これは夢だ。私は夢の中で、夢を見ているんだ。ふわふわとした心地で、スティープスと二人で佳景を楽しんで。


「でも、そろそろ起きようか。このままでも時間は進まないらしいけれど、僕たちにはやることがあるんだしね」


 スティープスにそう言われ、私は、自分には何かしなくてはいけないことがあるのを思い出す。

 すると、段々と意識がはっきりしてきて。

 私は――――






 明け方近づく、森の中。

 椎菜は目を覚ました。寝ぼけ眼をこすって、座りながら眠ったせいか、痛む頭を押さえながら状況を整理する。

 早くホリーとライオンに合流しなくては。自分が無事であることを伝えなくてはならない。

 椎菜が立ち上がろうとした刹那。


「おはよう、椎菜」


 聞き慣れた、優しい声がして。

 枝葉の隙間から差し込む月明かりの中に、スティープスがいた。黒い執事服の彼だ。肩の傷とと、服に付いた土汚れが騎士との闘いを思わせて。


 ――――無事だった。スティープスが、無事だった。


「椎菜?」


 ――――よかった。よかった、本当に。


 自分を呼ぶ声がする。それが、椎菜にとっては幸せで、嬉しくて。

 スティープスの手が彼女の頬にそっと触れる。

 目を丸めた椎菜は、ようやく気付いた。その両目から流れる雫を、彼がすくってくれたこと。自分が、泣いていたこと。


「ごめん。あの人を止めることができなかった。でも、君が無事でよかったよ」


 椎菜は思いきり抱き着いた。執事服についた土も気にしない。椎菜は力の限り、スティープスの体を抱きしめた。


「馬鹿……、心配させないで……」


 ひたすら涙を溢れさせることを、椎菜はみっともないとも思わなかった。


 ―――この人なら、大丈夫。いくら泣いても受け入れてくれるから。


 そう感じたから、椎菜は気が済むまで彼の胸に顔を埋めて、泣き続けた。


「ディリージアに聞いたよ。彼から、いろいろ聞いたんだよね?」


 椎菜を抱き返して、スティープスが言った。椎菜は返事をしたけれど、その返事は嗚咽に混じって声にならなかったから、頷いた。スティープスの体に顔をもっと深く埋めるように、大きく頷いた。


「僕も、君に話さないといけないことがあるんだ。だから、まずはここを離れなくちゃいけない。今、この辺りは、危険すぎる」


 スティープスは椎菜の様子を窺がった。

 必死に抱き付いて、椎菜は泣きじゃくる。


 ――――こんなにも、僕を心配してくれていたなんて。


 スティープスの中に何か、暖かさを感じる何かが灯った気がした。前にも、この暖かさを感じたことがある。

 あれは、確か城下町で、椎菜と二人で夜光虫の光を見た時のことだった筈――――


「……。もう少しだけ、休もうか」


 スティープスの椎菜を抱きしめる力が、自然と強まった。

 自分を焦がす想いの正体をスティープスは探し続ける。スティープスは震える椎菜の肩を優しく包むように掴み、抱きしめて。

 そして、自分の秘密を彼女に打ち明けることに、さらに不安を募らせていった。






 朝がやってきた。

 物陰で一人、白黒の霧に濾過された、薄っすらとした朝日を受けたホリーは立ち上がり、起きている人がいる民家を訪ねて回ることにした。

 冷え切った体に当たる陽の光が暖かい。ホリーは眠た気な眼をなんとか開いて、視界に入った灰色混じりの太陽に美しさを感じた。

 誰かにそれを伝えたくて、振り向いたけれど。

 ホリー一人だけが、村に伸びる道にぽつんといるだけで。田舎らしく木と土が目立つ景色に家屋が点々と建つ、物悲しい雰囲気に寂しさが後押しされて、増していく。

 ホリーは駆け出した。また、一人になってしまった気がして。

 みんな生きている。みんなきっと無事でいる。そう信じようと思っていたのに。

 どうしてこんなにも寂しいのだろう。体の疲れも忘れて、自身も知らないどこかへ向かって走る。


 ――――絶対みんなに、また会える。一人になんて、もうなりたくない。


 走って、走って、走った。その先に。


 村人が集まっている場所があった。

 こんな朝早くに、何人もの人が集まっている。ホリーは急いで、そこに向かった。

 匿ってもらう場所を見つけなくてはならない。ホリーが見つかっては、元も子もないのだから。


「あの……、すみません!」


 人だかりに入っていったホリーは、その中心にいた人物を見た。そして、彼女の中に残った希望が失われていく実感に、ホリーは膝を折った。


「あれ、あれ。なんでこんな所にいるの?」


 ディリージア城にいるはずの、お姫様がいた。

 姫の足元にはどうしてか、ホリーたちを追っていたはずの騎士と、見知らぬ老人が倒れていて。

 姫の黒く塗りつぶされた顔にはまだ、人のものとは思えない、あの醜い表情は浮かんできてはいなかったが。


「こいつを虐めに来ただけなんだけどなぁ、どうしよう……。あなた、一人?」


 ホリーにとっては、そうでなくても恐ろしい相手だった。

 どうか願わくば、二度と会わずにいられますよう。そんな願いすら持っていた。


「ああ、そっか。捨てられたんだ。そうでしょ?」


 ホリーには状況が掴めない。ただ、恐怖だけが増していく。


「みんなどこかに行っちゃったね?どうする?また、牢屋に入れてあげようか?」


 ホリーは腰をついて後ずさった。

 きっとこの姫は、何度でもホリーを捕らえようとするのだろう。かつてホリーが牢屋に入れられていた時、姫は言った。




「どうしてあなたが捕まったのか、分かる?」


「それはね」


「あなたが、偽物だから」




 “本物”に、受け入れてもらえずに。永遠に追われ続けて、逃げ続けて。

 ホリーは孤独な牢獄での時間を思い出す。与えられる食糧と、一枚の布きれしかない冷たい牢屋。

 寒くて、寂しくかった、あの場所。


「それとも、ここで死ぬ?」


 姫の手の中に、どこからともなく杖が現れた。姫は杖の鋭利な先端をホリーの顎に突き付け、ホリーが恐怖する様を楽しんでいるようだった。


「心配しないで。死んだら、また作ってあげる」


 杖がホリーの喉に食い込んだ。先端が刺さり、血が流れ出す。


「もう嫌、って言うまで殺してあげる。そしたら、また作って」


 姫の声は興奮の色を隠さず高鳴って。けれど、どこか泣きそうな声で。


「また、殺してあげる!もう嫌、って言っても、殺して!作って!壊すの!!」


 逃げようと、地面を這うホリーの足を思い切り踏みつけて、姫は宣言した。


「この村ごと潰してあげるね。ここに逃げ込もうと思ってたんでしょ?どうせなら、混ざって一つになっちゃえばいい。そしたら、誰にも見つからない」


 ホリーは首を振った。泣きじゃくって、必死に嫌だと伝えた。


「嫌……、嫌嫌嫌……!」


 助けを求めるホリーの声が、村に響いた。

 村人たちは姫の言葉に恐れをなして、全員逃げ去ってしまった。

 姫に逆らう者は、誰であってもただでは済まない。この世界の常識で、どうしようもない事実。

 だから、誰も助けない。

 そこには、夢の外からやって来た椎菜はいない。

 いつも気遣ってくれる暖かな黒い執事服のスティープスも。力強く、人のいい獅子も。自分では認めないけれど、とても優しい白い執事服のディリージアも。

 どこにも、誰も、姿はなくて。

 ホリーを見て、姫は笑う。黒のクレヨンに隠された顔で、嘲笑う。

 水に溺れる蟻を見る子供の声。羽をもがれたトンボを見る子供の、笑い声。そういう類の笑い声だった。

 状況に相応しくない、心の底からの、笑い声。

 酷く気味が悪かった。聞いているだけで、これまで築き上げてきた良心やら、善悪の基準やらが根本から崩れていってしまう、そういったものだった。

 さあ、ついに。

 姫の手が振り上げられて、今、まさに。震える哀れな少女を消し去ろうと。

 一切の慈悲無く、姫の手が振り下ろされる――――






「俺は、どうしたらいいんだろうな」


「いや、どうしたいんだろう、か」


「なぁ、スティープス。正直言うとな」


「俺も、もうよく分からなくなってきてるんだよ」


「どうするのが正しくて、どうするのが間違いなのか」


「情けない話だ」


「人間の様に生きるってのは、こんなに難しいことなんだな」






 少女は、消えてしまった?

 誰も守る者はいなくて、逃げる勇気も力も失って。


 まだ。


 まだ、消えてはいなかった。一人の味方もいないはずのホリーを守る、騎士が一人。ホリーを庇うように、姫の前に立ち塞がっていた。

 騎士は剣を杖替わりに、なんとか立っているといった風体だ。

 老人に村まで連れてきてもらった騎士の前に、姫は突然現れた。老人もろとも瀕死の淵へと叩き落とされてしまった彼には、もはや立ち上がることすら難しい。


「何してるの?」


 姫の声は冷たく、騎士を刺し貫く。

 姫を守るのが騎士の役目。

 弱き者を守るのも、騎士の役目。

 自分が今何をしているのか、何のために立ち上がったのか。

 騎士には分からない。

 騎士は立ち上がれても、それ以上動けはしなかった。こうして、立ち塞がることで、姫の行動に異を体現することしかできなかった。

 騎士は、声なき故に。

 彼は、姫に何も言葉を伝えられない、だからこそ。

 興が冷めた姫は手を下ろした。騎士を見やって、二呼吸程置いた後。

 騎士の体が地面に埋まった。空から落とされる、見えない衝撃がいくつも騎士を叩き、轟音と共に地面を抉り、埋めていく。


「お止め下さい!」


 騎士を庇うのは、騎士に助けられ、彼を村まで運んだ老人だ。

 老人の顔には痛々しい切り傷ができている。姫に縋る老人は、痛めつけられる騎士がいたたまれずに、危険だと分かっていても、この拷問をただ見ているままではいられなかった。

 姫は無言で老人を振り払い、老人を杖で強く殴打した。

 ホリーには何がどうなっているのか理解できない。老人と騎士がひたすら姫に嬲り殺される所を、恐怖に震えて見ていることしかできない。

 老人は何度も姫に懇願した。

 “お願いします”。

 “どうかこの人をお許し下さい”。


「いや」


 ホリーにも、確かに聞こえた。姫の呟く一言が。

 騎士のために縋り続ける老人への、死刑宣告が。

 老人の顔が絶望に染まって、姫から手を離し、地を這いながら必死に逃げ出した。

 そこで、まだ動けずにいたホリーに、老人は。


「逃げるんだ……。早く!君も……!」


 そう言った老人の背後には、手を振りかざす姫がいて。

 “危ない”と、ホリーがそう思う前に。

 また、騎士が姫に立ち塞がった。

 地面から這い上がって、老人を救おうと、瀕死の身を姫の前に曝す。

 すごい、とホリーは思った。

 自分たちを殺すつもりで、どこまでも追ってきた人と同じ人物とは思えない程、その行動には優しさとか、誠意とかいった物があるように感じられて。

 騎士の手には剣が握られていた。今度は杖替わりにするのではなく、姫に切っ先が向けられていた。

 騎士としても、それは思いがけず取ってしまった行動だったのだろう。明らかに動揺し、剣の構えが酷く揺れていた。


 そして、そして。


 ホリーは見た。邪魔を続ける騎士を見る姫の顔に、何かが浮かび上がるのを。

 目と、口だ。

 過度に見開かれたその目は充血し、不揃いな歯列はおぞましく。

 狂気の笑顔が現れた。姫の顔を覆う黒霧の中に、赤く湧き上がるように浮かんだ表情は、ホリーの恐怖心を更に煽った。


「……っ!」


 ホリーの声にならない叫びが漏れた。

 恐ろしい表情が現れると共に姫の雰囲気も変わって、その場にいる全員が恐怖した。

 姫は怒っていた。

 表情は確かに笑っている。笑っていても、その内側の姫の顔は怒りに震えているのだ。

 地面が震え、ひび割れて。

 ホリーは、姫が今からしようとしていることを察した。

 潰してしまう気だ。この周辺一帯か、この村ごとか、ホリーたちをみんなまとめて。

 目を瞑り、自分を助けようとしてくれた人たちのことをホリーは想った。

 椎菜のこと。スティープスのこと。ライオンのこと。ディリージアのこと。

 他には。


 他には……、他には?


 その時、ようやくホリーは気が付いた。

 ホリーには、昔の思い出がないことに。具体的に言ってしまえば、椎菜と初めて出会った少し前のことまでしか、覚えていないということに。

 両親のことも、椎菜たち以外の友達も、誰のこともホリーは覚えていない。

 まるで初めから、記憶なんてなかったかのように。

 恐怖で忘れていた寂しさが、ホリーの中に急に蘇ってきた。

 もっと、椎菜たちと一緒にいたかった。もっといろんな場所に行って、遊んで、話をして。

 ホリーは心が空っぽになったように感じた。もう自分には、何もないのだと。

 ここで終わりで、初めから大切な物なんて、何も持っていなくて。


 ――――得たものを全て失くして、ここで死ぬんだ。






「ホリィイイイイイイ!!!」


 響く声は、男性の声。

 何処か遠くへ、遥か遠くへ行ってしまったと思っていた、彼の声だ。

 少女の名前を叫び、震える大地を蹴って駆ける男がいた。仮面を付けた男だった。死んだ筈の男だった。

 ホリーは声のする方へ振り向いた。何もない自分を呼んでくれる、彼の方。


 ――――ああ、そうだ。やっぱり、そうだ。


 そこには、必死に走るスティープスの姿が在った。全身傷だらけで、折角の格好いい服もぼろぼろで。なのに、何処までも一生懸命に走ってくれる。


「スティープス……」


 ―――― 一人じゃなかった。まだ、私は一人じゃなかったんだ。


 ――――こんな声じゃ、聞こえない。もっと大きく、叫ばなきゃ。あなたがいてくれるから、あなたが大好きだから。まだ、終わっていないから。まだ、私はあなたの名前を呼ぶことができるから。


「スティープス!!!」


 ホリーの叫び声に気を取られた姫に向かって、スティープスは体ごと突っ込んだ。予想外の出来事に、姫は自分に何が起こったか理解することもできず、地面を無様に転がった。


「痛っ……」


 倒れた拍子に、姫は土の匂いを嗅いだ。


 ――――胸糞が悪くなる匂いだ。何時の日か嗅がされた屈辱的な匂いだ。


 今、誰かこの場に一人でも動ける者がいただろうか?いや、いなかったはずだ。死にかけの騎士は言わずもがな、怯えるだけの老人と少女がいただけではなかったか。


 ――――ああ、痛む。痛む。何かがぶつかった体が痛む。土と小石で傷付いた腕が、手の甲の傷が、疼く。


 姫の目に少女の姿が映った。その姿は、まるで見えない誰かに抱き付き、抱き返されているように見えて。


 ――――まさか。


 姫は思う。

 まさか、そこにいるのは。ホリーを助けたのが、見えない誰かで。“見えない誰か”とは、まさか。

 思い浮かべたのは、玉座に座る姫の手を取ってくれた“彼”のこと。最悪の想像を、姫は頭から掻き消した。あるはずがない、そんなこと。あっていいはずがない。

 ここは姫の自由にしていい世界。ここは姫の夢の世界。そんなことが起こるものか。


 ――――絶対に、起こしてたまるものか。


 姫は粗暴に、がむしゃらに杖を振る。杖の先から黒い霧が迸り、霧は剣の如く地面を、家を、切り裂いて。

 スティープスはホリーを庇い、それを避ける。万人に恐れられる者が相手であろうとも、彼は闘う。立ち向かうだろう、決意を持って。

 霧に裂かれかけた老人を庇った騎士は、腕を肘上から切り飛ばされた。何故か出血はしなかったが、彼は膝を折り、明らかに弱り切っていた。しかし、血も決意も無い彼にも意地がある。何かを守ろうと足掻くのだろう。最後まで。

 姫の放つ霧が四度目に振られた時、横薙ぎに迫るそれに騎士は反応できなかった。老人を黒の霧に触れさせないよう、しゃがませるのが精一杯で。

 ついに姫の凶刃が、騎士を捉える。

 その直前に。

 騎士を守る花が現れた。騎士の周りに、ではなく。彼女の周りに、それは現れる。

 箕楊椎菜の下に。椎菜を守る漆黒の魔法は花を咲かせる。

 杖の霧を散らした花びらが、似た色の黒い粒子となって消えていく。すんでの所で、騎士の命は救われた。




「ダンエイの花」


 いつからそこにいたのだろう。椎菜の背後で、ディリージアは呟いた。魔法の力の正体と、その意味。


「魔女がお前に託した最後の魔法。お前が手に入れた、最高の希望。それは、魔女の償いに他ならない」


「あの老婆の願い通りに、お前を救う。その漆黒が、お前の道を照らすんだ」


「まだ姫は、自分の力の使い方を把握しきれてはいない。今なら、お前にも何か成せるのかもしれないな」


 ――――そうか。そうだったんだ。


 椎菜は黒い花に囲まれて、件の魔女を想う。

 苦しかっただろう。辛かっただろう。それなのに、こうして希望を残してくれた。

 血に塗れた姿を思い出す。最期までお姫様を慕っていた孤独な魔女。死にゆく顔は穏やかなようで、やはり悔しそうでもあった。

 魔女の気持ちを忘れない。魔女が心を開いてくれたことを、忘れない。

 胸を張って、凛と立つ。椎菜の治りかけの脚はまだ、まともに動かせるとは言えないが。椎菜はここまで走ってきた。スティープスを先に行かせて、霧を避け、よろけながら、転びながらもやってきた。


 呆気に取られていた。

 騎士が。


 ――――どうして、僕を助ける?


 姫が。


 ――――どうして、私の力に抗える?


 どうして。


 ――――どうして私の、邪魔をするの?


 かつてない怒りを姫は感じた。何度も何度も、邪魔が入る。

 騎士が、見えない誰かが、真っ直ぐにこちらを見つめ、対峙する椎菜が。

 

 ――――邪魔をするな。邪魔をするな。


「なんで……」


 ぼそりと、声が出て。そのまま、姫の思いが堰を切って溢れだす。


「なんで邪魔するの!!なんでその子ばっかり助けるの!!!??」


 見えない誰かに寄りかかるホリーに眼差しを向けて、姫が叫ぶ。不気味な表情が歪んで、泣いていた。

 目に涙が込められ、笑いながらも、悲しそうな形に表情を変えた。


「どうして私じゃないの!!??私がいるのに!!」


 空から見えない衝撃が降り注ぐ。

 空気が軋む音が空に広がり、急速に下降する。

 この姫にとって、村を一つ潰すことなど容易いのであろう。その範囲は余りに大きく、村全体の面積を遥かに上回る広さの衝撃が、音の響きから推測できた。


「ここに私がいるのに!どうして!!!」


 それほどの衝撃が、いくつもいくつも落下した。

 しかし、村は無事だ。傷付きすらしていない。

 建物も、住人も。

 何故ならば、守られているからだ。

 姫に対峙する椎菜の周りから広がって、無限に花びらは空に舞い上がる。

 花びらは衝撃を受け止めて、全てを守っていた。

 何者をも屈服させる姫の力に抗う魔法の奇跡。魔女の誠実なる想いが、魔法の力に更なる力を与えた。この夢の存在理由そのものから、更なる力を引き出した。

 箕楊椎菜の想いに応える漆黒の魔法。この夢の主にささやかであれど抗える、たった一つの力がここに在る。


「いらない……!そんなのいらない!!」


 姫は椎菜に訴えた。胸の苦しみをぶつけた。どこまでも独りよがりな妄言を。

 大地が揺れる。大気が震える。

 衝撃が槍に変わって降り注ぐ。空一面に現れた槍が、村に目掛け降下する。

 速い。花びらの展開が追いつかない速さで、槍は飛来して。

 防ぎきれなかった槍が村に何本も突き刺さる。槍が直撃した何軒かの家が落下した衝撃で倒壊した。


 ――――まずい。これ以上は、防げない。


 すぐ近くにも槍が落下し始めた。椎菜は焦る。


 ――――まずい、まずい。


 椎菜の緊張を漆黒の花は感じ取った。花びらが丸まり、鋭く尖った槍となる。姫へと向けて、花びらの槍が一気に伸びた。椎菜を脅かす姫へ、勢いよく奔る。

 花びらの槍は姫の顔を掠め、姫の顔を包む黒い霧が貫かれ、霧の軌跡が背後に伸びた。

 姫の表情が、泣き顔からゆっくりと、無感情なものへと変わっていって。


「……」


 姫は自分の顔を掠めた花びらの槍を、信じられない物を見るような目つきで追った。


 ――――これは、何?


 花びらの槍は止まらない。槍から槍が生え、突き出でる。さながら薔薇の蔓の如く、形を変えて姫を追う。


「邪魔しないで……!」


 姫が逃げる。

 絶対の力を以てしても、恐怖を消し去ることは叶わない。

 姫は思うがままに不可視の衝撃を振り落として、椎菜の槍を押し潰し、逃れる姫の声が焦りに猛る。


「邪魔しないで、邪魔しないで邪魔しないで!!」


 姫の視界外から伸びた槍が、再びその顔を掠めた。

 黒霧の端を引き裂いた花弁の槍を、姫はじっと見つめて。

 そして、姫は杖を地面に落とした。

 椎菜には、姫を殺すつもりは毛頭ない。呆然自失に立つ姫に、椎菜は追跡の槍を止めた。

 すると、空から降り注ぐ衝撃も、姫の槍もぴたりと止んで。空中で停止した槍たちが、ぼろぼろと粉々になって崩れていく。

 姫はうなだれて、動かなくなった。

 黒い霧から目と口が消え、表情もなくなった。

 姫の暴走が、ようやく沈静化したのだった。






 危険は、とりあえず去ったのだろうか。

 猛攻を受け続けた魔法の花も、空気に溶けて消えていく。姫に戦う意思はもう無い。そういうことでいいのだろうか。

 椎菜には判別付かなかったが、後ろから思い切り、何かがぶつかってきて思考は中断された。


「椎菜さん!」


 ホリーだった。背中にごりごり頭をこすり付けて、少し痛い。


「椎菜さん……」


 驚かされたけど、安心したホリーの顔を見ていると椎菜の気持ちも和らいで。スティープスと顔を見合わせて。なんだか可笑しくなって、二人して笑ってしまった。


「しっかり!しっかりして下さい!」


 聞き覚えのない声がした。椎菜が振り返ると、そこには倒れた騎士と、騎士に必死に声をかける老人が。

 どういうことかと椎菜は内心、首を傾げる。

 思えば、どうして騎士がここにいるのか。この老人は誰なのか。

 勢いに任せ飛び出してしまったけれど、よく考えれば、何故騎士が姫に殺されそうになっていたのだろうか。


「この人は、私とおじいさんを庇ってくれたんです」


 椎菜は驚いた。この騎士が、ホリーを。

 散々殺そうとしたくせに、ホリーを助けたと聞いては椎菜も何と言ったらいい物か。


「……、彼が僕たちを追っていたのは、何か理由があったのかもしれないね」


 スティープスが言った。何か思うところがあるような口ぶりだ。それがなんなのか椎菜は気になったけれど、まずは騎士を医者の所へ連れて行くべきかと思って。


「私、お医者さん探してきます!」


 椎菜が口に出す前に、ホリーは村の民家へと走った。

 潰れた家に怪我人がいるかもしれない。それも確認しなくては。

 けど、その前に。

 椎菜は騎士に近寄った。よろけてスティープスに抱えられ、そのまま腕を貸してもらって、騎士の下へ。


「お願いします!この人を早く助けてあげて下さい!私の、私の命の恩人なんです!」


 老人に頷いて、椎菜は手を伸ばす。

 全ての力を使い尽くしてしまった彼へ。

 己の信じる、騎士たらんとし続けた、彼へ。







 こちらへ伸ばされる、誰かの手が見えた。

 その手は、うつ伏せに倒れる僕の頭を優しく撫でる。感覚はないけれど、手の暖かさが堅く冷たい兜越しに伝わってくるようだ。

 誰だ。僕にこんな優しさを向けてくれるのは。こんな僕に手を伸ばしてくれるのは。

 自分の守りたい者に剣を向け、彼女の心を傷つけてしまった。こんな僕に。

 首を横に向けた。この手の持ち主を見ようとして。

 知りたかった。

 もし、もしこの手が、姫の物であったなら。

 そう期待して、土にまみれた兜を動かした。

 そこにいたのは、姫ではない別の女性だった。その人は、僕が追い続けた女性だ。姿の見えない何者かを従えた、僕が何度も殺そうとしてきた、あの女性だった。


「ありがとう。ホリーを助けてくれて」


 言葉の意味を解するのにいくらか時間を要した。

 この人はお礼を言っている。

 誰に?


 僕に?


「今、医者を呼んできてもらってるの。だから、もう少しだけ頑張って」


 穏やかな声だ。

 いつ以来だろう、こんな声をかけられたのは。

 随分と久しい気がした。思い出そうとしても思い出せないくらい。


 ――――こちらこそ、ありがとう。


 喋ることのできないこの体を、ここまで怨めしく思ったこともない。声にならない言葉を、思わず発しようとしてしまった。

 この人は、本当に敵だったのか。姫を脅かす者だと聞いていたのに。




「あの人は、私の敵なの。だから、あの人を見つけたらちゃんとやっつけておいてね?できるまで、帰ってこなくていいから。できても、帰ってこなくていいけどね」


「そう」


「二度と、このお城に来ないで」




 来るなと言われてしまっても、ずっとあなたのことを想っていた。

 彼女にとって好ましくないことだとは分かっていた。しかし、城下町で行われた魔女の処刑の噂が気になって、僕は城に戻った。あなたの世話を焼く例の魔女。あなたも、あの魔女には心を開いていたように思えたのに。

 もし僕が喋ることができたとしたら。悩みの一つでも聞いてさしあげることができたのだろうか。

 僕は兜に触れる女性の手を、そっと握り返した。

 手の動きで、彼女が驚き、緊張したのが分かった。けれど、すぐに緊張は緩まって。彼女の手が鉄に覆われたこの手を包み込む。

 ああ、もしかして。


「よかった。殺すとか、殺さないとか。私、もう、そういうのは嫌なんだ」


 話すことができなくても、こうすれば。

 こうすれば、僕にも返事をすることができたのかもしれない。






 握り返してくれたこの手が騎士の返事であるのだと、椎菜は理解した。

 きっと、もうこの騎士は椎菜たちを襲いはしない。そういう確信もあった。

 命を狙われてきたことは本当に恐ろしかったけど。スティープスもホリーも無事なのだから、問題ない。敵ではないと、騎士が分かってくれたのだから。

 それに、自分たちも、騎士のことを勘違いしていたのかもしれないとも、椎菜は思う。ホリーを助けてもらったことは、感謝してもしきれない。


「あとは、ライオン君だけだね……」


 スティープスが不安気に言った。

 そう。ライオンの姿はここにない。ホリーと一緒にいるはずのライオン。

 一体、どこへ行ってしまったのだろう。まさか、自分たちを探しに行ったまま、すれ違いになってしまったのかと椎菜は不安になった。

 ライオンの心配をする椎菜たちの背後で、何かが薄気味悪く、ぐにゃりぐにゃりと蠢いていた。

 うなだれて、呆然としていた姫の周りで、姫の顔を覆う黒い霧が大きくなっていた。

 何が起こっているのか、とにかくその様は不気味で 椎菜はぞっと背筋を凍らせた。


「スティープス、あれ……」


「下がって。まだ、何かするつもりかもしれない」


 黒い霧が姫を包んでいく。黒のクレヨンが、誰にも姫が見えなくなるように黒く塗り潰す。

 椎菜の横を、誰かが通り抜けて行った。

 姫の方へ、瀕死の体を動かして。剣を地面に突きながら、苦しそうに進む。

 騎士が、姫を救おうと歩んでいく。




「よせ」


「行くな。行ってはいけない。お前は、もう死ぬべきではない」


「だから、行くな。もう、そいつは――――」




 どこかからか、ディリージアの声がした。

 焦っている。椎菜は彼のこんな声を聞くのは初めてだった。何かを諭すように語りかけている、ディリージアの声。

 おそらくは、騎士に。

 椎菜もスティープスも、見守ることしかできない。姫と騎士の間に、気安く立ち入ってはいけない気配が張りつめていて。二人は圧倒されていた。

 塗りつぶされていく姫へ、騎士が手を伸ばす。

 騎士には、伝えたいことがあったから。騎士には、姫が泣いているのだと、分かったから。

 椎菜が彼にそうしてくれたように。

 黒い霧の中へと、騎士が手を伸ばす。

 すると。


 騎士の手が、掴まれた。


 黒霧から突然伸びた手に、騎士の手は、動きが取れない程強く握られて。

 みしり。

 音がして。

 騎士の手が、砕かれた。姫の手の握る力か、姫の纏う黒い霧の力か。

 伸ばされた手は、騎士の想いは。

 粉々に、砕かれてしまった。






 椎菜たちからも見えていた。騎士が痛みに手を押さえ、倒れる間もなくその体が宙に浮かされていくのを。

 鎧の下にあるはずの騎士の生身の手は、椎菜たちには見えなかった。血も出てはいないようだ。

 宙に浮かされた騎士の体に、黒い霧がゆっくりと巻き付いて、騎士の体の自由を奪っていく。

 この光景に、椎菜は見覚えがあった。

 そう。これではまるで、魔女の時と同じではないか。

 空を埋め尽くす、無数の歯車が現れた。その中に、際立つ二つの歯車がある。

 噛み合って回転する銅色の巨大な歯車だ。歯車の狭間は、騎士を飲み込もうと回り続ける。

 生き物の口のように、奥へ奥へと歯が動く。

 徐々に騎士が前進させられていく。歯車と歯車の中心へ。全てを砕く合間へと。

 騎士は必死に足掻いていた。縛り付ける黒い霧から抜け出ようとMひたすらもがく、もがき続ける。


「駄目!!」


 叫んだ椎菜の周りに、もう一度黒い花が現れた。騎士を飲み込まんとする歯車を打ち壊そうと、花びらは槍となり、伸びる。けど。

 間に合わない。

 もう既に、歯車が鎧を砕き始める。抵抗を続ける騎士を嘲笑う声がする。


「やめて……」


 騎士の体は、歯車の狭間に吸い込まれ、悲痛な音を立てながら。


 あっという間に、壊されていった。


「やめて、やめて!やめて!!」


 歪められた鎧の欠片が地面に落ちて、跡形もなくなった騎士の姿を、椎菜に突きつけた。


「お願い……。やめてよ……」


 椎菜は顔を手で覆って、両目を思い切り押さえつけた。涙を無理やり掻き伸ばし、強く己を保とうとした。

 目を開ければ、見えてしまう。無残に転がる騎士であった、何かが。

 空から歯車が消えて行って、歯車に付いていた鎧の破片が地面に落ちて。

 音が、目に映った光景が、椎菜の脳をかき混ぜていく。感情がうねる、理性が軋む。


 ――――酷い。こんなの、酷すぎる。


 これで、二度目。目の前で行われた残虐な処刑。

 城下町で行われた魔女の処刑と、今回。

 絶望に椎菜は眩暈を感じた。体中の力は抜けていって、抱かずにはいられない。

 疑問。

 黒霧に浮かぶ顔をにやけさせ、砕かれる騎士を見ていた姫への疑問。


 ――――なんで。なんで。こんなこと。


 姫の、気味の悪い笑い声が鳴り響く。


 ――――なんで。なんで笑うの?何がおかしいの?どうして、こんな酷いことをして、平気でいられるの?


 椎菜の体が自然と動いた。立ち上がり、よろけながら姫へと怒声を上げる。


「自分が何をしてるのか、分かってるの!?」


 姫は笑いながら、椎菜を見た。狂気の笑顔の下から、気味の悪い笑い声が聞こえてくる。

 暴れ、うねっていた黒い霧が収まって、また姫の顔に集まっていった。


「分かってないのはあなた。あなたたちが、邪魔なんだ」


 至極冷たい声色で、姫はそう言うと。


「待って!待て!!」


 椎菜たちの前から姿を消した。

 空に浮かぶ歯車もとうに消え失せて。残ったのは椎菜たちと、騎士の遺体。

 椎菜たちには、それを遺体と呼んでよいのか分からない。それは、人の亡骸ではなかったから。

 ただ、そこには潰れた鎧があるだけだった。騎士の体があるはずの鎧の中には、誰の体もありはしなくて。

 そう。まるで。

 初めから、誰も入っていなかったかのように。騎士の形をした、中身のない人形が、今までずっと騎士のふりをして、動いていただけだったと言うように。


「違う……」


 ――――違う、違う、違う。


 確かに騎士は生きていた。例え生身の体がなくても、彼は確かに生きていた。

 悩んで、苦しんで、戦っていた。

 砕け散った鎧を手に取って、椎菜は涙を流す。

 汚れだけではなく、鎧には細かな傷がたくさん付いていた。こうして近くで見るまでは、全く気付けなかった、騎士の生きた跡だった。

 騎士は、何のために闘っていたのだろう。


「私の手、握ってくれたのに……」


 一人の騎士の一生を想って。彼が死に際に思ったことを想、像して。

 横から抱きしめてくれるスティープスに、椎菜は自分でもはっきり分からない、取り留めのない騎士への想いを語って。

 また一人、友達になれたはずの人を失くした。















9th tale End






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