第1話 気弾しか使えない魔導士
魔物の爪が、鼻先をかすめた。
湿った風が頬を撫で、次の瞬間には、灰色の牙が目の前まで迫っている。
俺は半歩だけ後ろへ下がった。
避けるには、それで十分だった。
巨大な狼――グレイウルフの爪が空を裂き、勢い余って石畳に食い込む。前脚が止まった一瞬を見逃さず、俺は右手を突き出した。
「気弾」
手のひらの前で、青白い光が弾けた。
直径十センチほどの光球が、風を引き裂いて飛ぶ。狙いは狼の頭ではない。爪が食い込んだ石畳、そのすぐ脇だった。
気弾が地面に触れた瞬間、乾いた爆音が響いた。
石畳が砕け、狼の前脚が崩れた地面に沈む。巨体が大きく傾いた。
俺は二発目を撃った。
今度は、倒れかけた狼の胸元へ。
青白い光球が毛皮を突き破り、内部で炸裂する。グレイウルフは短く吠え、そのまま地面に倒れ込んだ。
しばらく待っても、起き上がる気配はない。
俺は杖も持たず、詠唱もせず、ゆっくりと右手を下ろした。
「……終わりか」
返事の代わりに、森の奥で鳥が一羽、甲高く鳴いた。
俺は倒れた狼へ近づき、胸の上下を確認する。完全に息絶えていた。
気弾は、魔力を圧縮して作る球状の魔法だ。
火球のように燃え広がるわけでもない。雷のように速いわけでもない。派手な光線を放つこともできない。
ただ、撃つ。
圧縮した魔力を、球の形にして飛ばす。
それだけの魔法だった。
魔法学院にいた頃、教師たちは俺の気弾を見て、決まって同じことを言った。
『そんな単純な魔法では、上級魔導士にはなれない』
だから、俺は上級魔導士を目指すのをやめた。
代わりに、気弾だけを磨いた。
魔力を小さく圧縮すれば、速度が上がる。
大きくすれば威力が増す。
撃つ角度を変えれば、地面や壁に当てて跳ね返すこともできる。
相手に直接当てる必要すらない。
気弾は、使い方次第で変わる。
問題は、それを理解してくれる人間がほとんどいないことだった。
俺はグレイウルフの魔石を取り出し、布袋へ入れた。
今日の獲物は三体目。これを売れば、しばらくは食べていける。
森を抜けると、夕暮れの街が見えた。
城壁の向こうで、赤い屋根が茜色に染まっている。大通りには荷馬車が行き交い、酒場からは笑い声が漏れていた。
俺が冒険者ギルドへ入ると、受付の女が顔を上げた。
「また一人ですか、カイルさん」
「他に誰がいる」
「そういうところですよ」
彼女は呆れたように言いながら、差し出した袋を受け取った。
中身の魔石を確認し、帳簿に数字を書き込む。
「グレイウルフ三体。討伐報酬と魔石の買い取りを合わせて、銀貨八枚です」
「受け取る」
「相変わらず、気弾だけで倒したんですか?」
「ああ」
「剣も使わず、火属性の魔法も使わず?」
「ああ」
受付の女はため息をついた。
「カイルさん。何度も言いますけど、冒険者はパーティーを組んだ方が安全です。あなたは魔力こそ多いですが、近距離では――」
「問題ない」
「問題があります。先月だけで三回も治療所に運ばれているでしょう」
「三回だけだ」
「回数の問題ではありません」
俺は返事をせず、掲示板へ向かった。
依頼書が何枚も貼られている。
薬草採取。
荷物の護衛。
街道に出た小型魔物の討伐。
どれも報酬は安い。けれど、危険も少ない。
その中に、端が破れた一枚の依頼書があった。
『旧鉱山周辺の調査』
依頼主は街の北にある鉱山組合。
内容は、三日前から鉱夫たちが戻ってこない原因の確認。報酬は金貨二枚。通常の調査依頼にしては、妙に高い。
俺が依頼書を剥がすと、背後から笑い声が聞こえた。
「おいおい、気弾屋がそんな依頼を受けるのか?」
振り返ると、鎧を着た男たちが三人立っていた。
全員、俺より体格がいい。腰には剣。肩には弓。いかにも冒険者らしい装備だった。
「旧鉱山はやめとけ。俺たちでも断った依頼だ」
「なら、お前たちは何を受ける」
「薬草採取に決まってるだろ」
男たちは笑った。
「魔法一つしか使えない奴が、鉱山で何をする? 石でも撃つのか?」
「必要なら撃つ」
俺が答えると、笑い声が少し大きくなった。
受付の女だけが、笑わなかった。
「カイルさん。本当に受けるつもりですか?」
「報酬が高い」
「それだけですか?」
俺は依頼書へ視線を落とした。
行方不明になった鉱夫は、五人。
最後に連絡があったのは、鉱山の第一坑道。
そして、依頼書の下の方に、小さく追記があった。
『坑道内で、原因不明の振動を確認』
振動。
魔物がいるだけなら、こんな書き方はしない。
「調べる価値はある」
「危険かもしれません」
「だから報酬が高い」
受付の女はしばらく俺を見つめていたが、やがて諦めたように依頼書を受け取った。
「明日の朝、出発してください。日が落ちる前には戻ること。無理だと思ったら、必ず引き返すこと」
「分かった」
「本当に分かっていますか?」
「分かっている」
俺は依頼書を受け取り、ギルドを出た。
空はすでに暗くなり始めていた。
街の外れまで来たところで、北の山から低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴ――。
地面が、かすかに揺れる。
道端の水たまりに波紋が広がり、遠くの鳥たちが一斉に飛び立った。
俺は足を止め、北の山を見た。
旧鉱山は、そこにある。
暗い山肌の中に、ぽっかりと開いた坑道の入口。
まるで、何かがこちらを待っている口のようだった。
右手に魔力を集める。
青白い小さな光が、手のひらの前で明滅した。
「……明日は、少し大きめに撃つか」
山の奥で、もう一度地鳴りがした。
今度は、さっきより近かった。
読んでいただきありがとうございます。
毎日投稿のモチベーションのために、応援や評価いただけると嬉しいです!




