幕間1 琥珀色の好きな場所
現在全編改稿中のため幕間を今回投稿します
別名義 別タイトルでアルファポリスさんで改稿版投稿始めました。そちらで完了後こちら改稿版へ修正します。名義も統一予定です。読んでいただけると嬉しい。
人間の町へ行ってみたいと思ったのは、秋人に会うずっと前だった。
山の外には、夜になると灯りのともる家がある。甘い匂いのする店も、山では見たことのない服を着た人たちもいる。そんな話を聞くたびに、ぼくは町のことを想像していた。
十月三十一日の夜、ぼくは初めて山を下りた。
狐の耳と尻尾は隠せなかったけれど、みんな仮装だと思ってくれると聞いていた。だから、ぼくでも少しくらい話をしてもらえるかもしれないと期待していた。
最初に訪ねた家では、女の人が笑顔で扉を開けてくれた。
「まあ、ずいぶん凝った仮装ね」
差し出されたお菓子を受け取り、ぼくは首を振った。
「仮装じゃないよ。本物だよ」
女の人は一瞬だけ目を丸くした。それから、困ったように笑った。
「そういう冗談はいいから。もう遅いし、おうちに帰りなさい」
扉が閉まる。
お菓子はもらえた。どうやら、怒らせてしまったわけではないらしい。
でも、もう少しお話ししたかったな。
次の家でも、その次の家でも、耳と尻尾を見られると、話はすぐに終わってしまった。
もらったお菓子を袋にしまい、ぼくは町の中を歩き続けた。
通りの先に、こどもたちが何人も出入りしているアパートがあった。楽しそうな声が聞こえてくる。あそこなら、ぼくの耳や尻尾を見ても気にしない人がいるかもしれない。
二階へ続く階段を上り、廊下を歩いていると、部屋の表札に名前が書かれいた。
天音秋人。
扉を開けた人は、ぼくの耳を見ても、尻尾を見ても、驚いた顔をしなかった。
「こんばんは。お菓子をもらいに来たのか?」
差し出されたチョコレートは、栗味だった。
「これ、栗味だ」
「気に入った?」
「うん。栗、大好き」
秋人はぼくの耳を見て、変じゃないよ、と言った。きれいな色だし、よく似合っている、と。
あのとき、ぼくは初めて自分の耳を隠さずにいられた。
名前がないと話したら、秋人が「こはく」と名付けてくれた。
その名前を何度も何度も口にした。忘れないように、秋人の名前も一緒に覚えた。
次の年も、ぼくは秋人の家へ行った。
栗のお菓子を一緒に食べた。秋人が自分の分を半分にしてくれたので、ぼくも同じように分けた。
秋人は甘いものを食べるとき、最初の一口を少しだけゆっくり味わう。ぼくはその食べ方が好きだった。
お菓子を食べ終わっても、秋人はすぐに席を立たない。ぼくが話している間は手を止めて聞いてくれるし、知らないことを尋ねると、面倒がらずに教えてくれた。
次に持っていくお菓子を選ぶとき、秋人がどんな顔をするか考えるようになったのは、その頃からだ。
その次の年には、部屋に入れてもらえるようになった。
秋人のそばでお菓子を食べるのは、玄関先でもらうのとは違う楽しさがあった。秋人がぼくのためにお茶を用意してくれることも、隣に座ると少しだけこちらへ身体を向けてくれることも、いつの間にか当たり前になっていた。
ある日、部屋に狐のぬいぐるみが増えていた。
ぼくはその子をじっと見た。
「それ、可愛いね」
「そうだろ。見つけたとき、こはくに似てると思ったんだ」
似ていると言われたのは嬉しかった。
でも、秋人がそのぬいぐるみを棚に飾るのを見て、なんだか面白くなかった。
「僕のほうが可愛い?」
「どっちも可愛いよ」
「どっちか選んで」
秋人は困った顔をしていた。
ぼくは秋人が困るのは嫌だった。
それでも、次に来たときも、その子は同じ場所にいた。
ぼくは少しだけ、そのぬいぐるみが羨ましかった。秋人の部屋にずっといられるから。
春になり、秋人と帽子屋へ行った。
人間の姿を長く保てないぼくのために、耳を隠せる帽子を探すことになったのだ。
いくつか試してみたけれど、耳が押し上げてしまったり、尻尾を隠すために俯くとずれてしまったりした。
「どれがいい?」
秋人に聞かれて、ぼくは棚に並んだ帽子を見た。
本当は、どれでもよかった。
秋人が選んでくれるなら、それが欲しかった。
「秋人が選んで」
焦げ茶色の帽子を選んでもらった。琥珀色の飾りがついている。
鏡の前で被ってみると、秋人がよく似合っていると言った。
ぼくはその言葉を、帰り道にも何度も思い出した。
帽子がきつくなって、自分で内側に布を縫い足したときも、早く秋人に見せたかった。大きくなったことを褒めてもらいたかったのかもしれない。
背比べをしたとき、いつか秋人より大きくなると言ったのも本気だった。大きくなれば、もっと一緒に出かけられる。隣を歩いてもらえる。今よりたくさんのことを一緒にできる。
秋人の家にいる時間が増えるにつれ、ぼくは山へ帰るのが惜しくなっていった。
帰り際に、また来ていいか尋ねることもあった。秋人は来たいなら来ればいいと言ってくれた。
その言葉を聞くたび、次に会える日が楽しみになった。
四年目の夏の終わり、山から迎えが来た。
一人前の妖狐になるための試練。人間の姿を長く保ち、人間の世界で暮らしていくために必要な修行だった。
受けると決めたものの、秋人に話すのは怖かった。
帰ってこられないかもしれない。何年も会えなくなるかもしれない。
それでも、今のままでは秋人と同じ時間を生きられない。
秋人の隣を歩きたい。帽子がなくても一緒に出かけたい。いつか、自分で買ったお菓子を持って、秋人の家へ帰りたい。
そのために、ぼくは試練を受けることにした。
別れの夜、秋人は栗チョコを二つ、巾着に入れてくれた。
一つは山に着いた日に。もう一つは、帰りたくなった日に。
ぼくはそれを、四年前にもらった銀紙と一緒に大切にしまった。
山へ戻ってから、最初のハロウィンが来た。
朝から続いた稽古は、日が暮れても終わらなかった。何度やっても課題をクリアできず、仲間たちは先に帰っていく。
「今日はここまでにしよう」
指導役に言われても、ぼくは首を振った。
「もう一回やる」
「明日もある。焦るな」
「今日、十月三十一日なんだ」
指導役はぼくを見たあと、それ以上は何も言わなかった。
稽古が終わると、ぼくは岩に腰を下ろし、巾着を開いた。栗チョコを一つ取り出すと、包みから甘い匂いが広がった。
秋人と一緒に食べたかった。
今夜、秋人は何をしているだろう。栗のお菓子を用意しているだろうか。玄関の棚には、あの帽子があるだろうか。
秋人がチョコを食べるときの、最初の一口をゆっくり味わう仕草まで思い出した。
帰りたくてたまらなくなった。
それでも、チョコは食べずにしまった。
帰るときは、秋人と一緒に食べる。
そう決めて、翌日の稽古に備えた。
修行の二年目からは、人間の姿を保つ術を集中的に学んだ。
最初は耳を隠すだけでも難しく、少し気を抜くと尻尾まで出てしまう。何度も失敗を繰り返し、鏡の前で自分の姿を確かめた。
ある日、ようやく人間の姿を長く保てるようになったと思い、指導役に見せに行った。
「できたよ!」
ところが、褒めてもらう前に、頭の上で耳がぴくりと動いた。
指導役が鏡を指さす。
「まだ出ているぞ」
ぼくは慌てて頭を押さえた。鏡には、片方だけ狐の耳が残った自分が映っていた。
「あと少しだったのに」
「あと少しを詰めるのが修行だ」
悔しくて、もう一度最初からやり直した。
毎日続けるうちに、少しずつ長く保てるようになった。初めて数時間も人間の姿でいられた日は、真っ先に秋人の顔が浮かんだ。
見せたら驚くだろうか。大きくなったねと言ってくれるだろうか。
帽子がなくても、隣を歩けるようになりたい。
その思いが、次の稽古へ向かう力になった。
人間の姿を保つ練習と並行して、山の外で暮らすためのことも教わった。お金の使い方、買い物、料理、洗濯。初めての買い物ではお釣りを受け取り損ね、料理では鍋の底を焦がした。
「秋人に作ってあげようと思ったの」
「その前に、自分で食べられるものを作れるようになれ」
焦げた鍋を洗いながら、ぼくは何度も手順を思い返した。
秋人なら、失敗した料理でも食べてくれるかもしれない。
でも、せっかくなら、おいしいと言ってほしい。
それから、料理の稽古にも前より真剣に取り組むようになった。秋人に食べてもらうなら、自分で作ったものを渡したい。そう思ったからだ。
人間の町で買い物をする稽古があった日、ぼくは栗のお菓子を見つけた。
店先に並んでいたのは、小さな栗の焼き菓子だった。表面には薄く砂糖がまぶされていて、焼き色もきれいについている。
秋人と一緒に食べたら、きっと喜んでくれる。
そう思って値札を確かめたものの、持っていたお金で足りるのか分からなかった。教わったとおりに硬貨を数え、店の人に差し出す。受け取ったお釣りは、手の中で何度も数え直した。
「お使い、できたね」
隣にいた指導役が声をかけてくれた。
ぼくは包みを胸に抱えた。これを秋人に渡せる日が来る。そう考えるだけで、帰り道まで足取りが軽くなった。
ところが、山へ戻って包みを開けると、焼き菓子は少し崩れていた。持ち歩いているあいだに、ほかの荷物に押されてしまったらしい。
「……あ」
形は悪くなってしまったけれど、食べられなくなったわけじゃない。
ひとつ口に運ぶ。栗の味がした。甘さも、秋人と食べたお菓子に少し似ている。
ぼくは残りを大事にしまい直した。
次は、つぶさずに持って帰ろう。
買い物も料理も、失敗するたびにやり直した。少しずつできることが増えていくと、秋人と暮らすときのことを考える時間も増えた。
仕事から帰ってきた秋人に、温かいご飯を用意しておく。休みの日には一緒に買い物へ行く。栗のお菓子を見つけたら、今度はぼくがお金を払う。
そんな暮らしを思い描くたび、早く帰りたくなった。




