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第5話:不完全性定理(あるいは、コーヒーを巡る対話的無駄話)

 事件の後。


 大学には、少しだけ「無駄」が戻ってきた。


 旧校舎の壁には、また頭の悪そうな落書きが増え始めている。


 購買前では意味のない雑談が行われ、


 中庭では講義をサボった学生が、人生に必要のない会話をしていた。


 実に素晴らしい。


 世界は多少、非効率なくらいがちょうどいい。


「……で」


 五月雨雫が、じとっとした目でこちらを見る。


「阿久津。あんた、砂糖何個入れる気?」


 談話室。


 放課後。


 僕は今、学食から半永久的に借用しているスティックシュガーを、三本目まで投入したところだった。


「誤解しないでください、五月雨さん。これは嗜好ではなく、脳への燃料補給です」


「ブラック飲めないだけでしょ」


「ええ。苦いので」


「子供舌」


 即答だった。


 失礼な。


「人間、苦味に耐えるだけで大人を名乗るのはどうかと思うんですよ。ピーマンを食べた程度で人格が成熟するなら、八百屋は聖人だ」


「なにその理論」


 五月雨は呆れたように息を吐き、自分のカップを口元へ運んだ。


 湯気。


 白い髪。


 窓から入る夕方の光。


 妙に絵になる。


 本人に言うと面倒なので黙っていたが。


「……それで」


 彼女がカップを持ったまま、こちらを見る。


「あの時の話」


「どの時です?」


「生徒会長を壊した時」


 人聞きが悪い。


 まあ間違ってはいないが。


「“今の言葉は嘘である”ってやつ。あれ、結局なんだったの?」


「自己言及パラドックスですよ」


「分からないから聞いてるの」


 ごもっともだった。


 僕はスプーンでコーヒーをかき混ぜる。


 黒い液体が渦を巻く。


「数学者に、クルト・ゲーデルという人間がいます」


「知らない」


「でしょうね」


「その『でしょうね』やめなさいよ」


 軽く睨まれた。


 最近分かってきたが、この人はわりと表情が豊かだ。


 初対面の頃は、ずっと毒針みたいな目をしていたのに。


「ゲーデルは、“どんな完璧なシステムにも、証明できない命題が存在する”と証明したんです」


「……?」


「例えば、生徒会長の能力」


 僕は続ける。


「あれは“正解”を固定する力だった。ですが、世界には“正しいとも間違いとも決められない言葉”が存在する」


「それが、“この言葉は嘘”?」


「ええ」


 五月雨は少し考え込む。


 たぶん今、頭の中で必死に整理している。


 そして数秒後。


「……つまり、あんたは屁理屈で勝ったのね」


「随分と雑な要約ですね」


「違うの?」


「違いません」


 僕は頷いた。


「論理とは、突き詰めると高級な屁理屈です」


 五月雨が吹き出した。


「なによそれ」


「哲学科全員を敵に回した気がします」


「元から友達いないでしょ」


「否定できないのが悲しいところです」


 談話室に、小さな笑い声が落ちる。


 静かだった。


 だが、悪くない静けさだった。


「……ねえ、阿久津」


「なんです」


「もし、あの生徒会長がもっと適当な人だったら?」


「適当?」


「矛盾とか気にしないタイプ」


「ああ」


 僕は少し考える。


「その場合、たぶん僕が負けてましたね」


「え」


「適当な人間は強いですよ。論理が通じないので」


 スプーンを置く。


「自分の言葉に責任を持たない人間は、予測できない。僕みたいな“理屈っぽい嘘つき”とは、相性最悪です」


「……なんか、それ」


 五月雨が少し笑う。


「あんた、自分のこと結構ちゃんと分析してるのね」


「自己嫌悪は趣味なので」


「暗い趣味」


「インドア派ですから」


 また笑う。


 その時だった。


 五月雨がふと、僕のマグカップを覗き込む。


「……あ」


「?」


「今、見えた」


「何がです」


 彼女は少し迷うように視線を逸らした。


「……あんたの“嘘ですが”のルビ」


「ほう」


 僕は笑う。


「ついに“最低”から“救いようがない”へ進化しましたか」


「違う」


 五月雨は小さく首を振る。


 そして、少しだけ照れたみたいに言った。


「“照れ隠し”って見えた」


 沈黙。


 スプーンを持つ手が止まる。


 窓の外で、風が吹いた。


「……五月雨さん」


「なによ」


「注釈の誤読は危険ですよ」


「いいの」


 彼女はコーヒーを一口飲む。


 それから、どこか楽しそうに笑った。


「私はもう、“注釈”じゃなくて、あんた自身を見ることにしたから」


 困る。


 そういうのは。


 僕みたいな人間には、少し。


 あまりにも。


「……コーヒー、冷めますよ」


「話逸らした」


「嘘つきなので」


 甘すぎるコーヒーを飲む。


 だが今日のそれは、妙に苦かった。


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