閑話 遠い陽だまりの記憶
夜の森。
湿った薪が爆ぜる、乾いた音がする。
エラーラは毛布にくるまり、一定のリズムで寝息を立てている。
無理もない。死線から逃れ、休まず歩き通した。
王都までは、まだ遠い。
私は手元の剣を布で拭いながら、遺跡の広場での出来事を反芻していた。
クラリス――セラフィナと名乗った女が、自ら切り飛ばした腕を接合した瞬間。
あの時に溢れ出した、温かな魔力。
私は手を止め、自分の右腕を左手で強く掴んだ。
魔力には、質がある。
それは生まれ持った魂の形であり、他者が決して模倣できない唯一無二の痕跡だ。
セラフィナから感じたものは、模倣などという生ぬるいものではなかった。
あれは、本物だった。
記憶の底にある親友の波長と、何一つ違わなかった。
けれど、決定的に「何かが」欠けていた。
封じられている私の記憶は、まだ完全には戻っていない。
ある時期を境に、すっぽりと抜け落ちている。
だが、親友――ダリアとの思い出だけは、はっきりと思い出せるようになった。
焚き火の炎が揺れる。
私の視界は、現在の夜の森から、遠い過去の光の中へ沈んでいった。
◇◇◇
三百年前。
世界は、前代の魔王である獣人たちによって蹂躙されていた。
討伐の旅の道中。
獣人たちとの連日の死闘は、私たちの身体と精神を削り取っていた。
ある夜の野営地。私は倒木に腰掛け、血脂と泥で汚れた剣を無心で拭っていた。
腕が、鉛のように重い。剣を振るいすぎたせいで、指先が微かに痙攣していた。
「レノーアさん。もう休んでください」
聞き慣れた声がした。
見上げると、純白のローブを纏った少女が立っていた。ダリアだ。
血生臭い戦場には似つかわしくない、清廉な姿。彼女は私の隣に座ると、有無を言わさず私の右腕を両手で包み込んだ。
「……問題無い。少し疲れただけだ」
「強がらないでください。腕を痛めているのでしょう」
「他の兵士達が怪我した時のために温存しておけ」
「魔力なら、まだ十分にあります」
ダリアの手のひらから、ぽわ、と淡い光が灯った。
白魔法。治癒の光。
「……不思議だな」
私は、自分の腕を見つめた。
「強張って、石のようになっていた筋肉が、お前の手が触れた場所からじんわりと解けていく。痛みが嘘のように引いていく」
「魔法は祈りですから。明日もあなたが無事に剣を振るえるようにって、祈っているんです」
ダリアは、ふっと柔らかく微笑んだ。
彼女の魔力は、陽だまりのようだった。
ただそこに触れているだけで、殺伐とした戦場でささくれ立った心が、静かに凪いでいく。
ダリアは私の腕の治療を終えると、視線を焚き火の向こう側へと移した。
そこでは、レイヴンが一人、夜の闇に向かって剣の素振りを繰り返していた。
来る日も来る日も、彼はそうやって自分を追い込んでいた。
ダリアの視線は、彼の背中に釘付けになっていた。
瞬きすら惜しむように、彼が剣を振るうたびに揺れる黒髪を、ただ静かに追っている。
「……レイヴン様、喉が渇いていないでしょうか」
ダリアは手元の水筒を胸に抱き寄せ、ぽつりと言った。
「持っていってやればいい」
「今はダメです。レイヴン様は、剣を振っている時は周りが見えなくなりますから。邪魔をしてしまったら、申し訳ないです」
「不器用な男だ。お前がずっと見ていることにも、気づいていない」
「いいんです。私は、見ているだけで十分ですから」
ダリアは水筒の表面を指先でそっと撫でた。
「彼は、誰よりも傷だらけになって、みんなを守ろうとしています。だから、私は……せめて彼が帰ってきた時に、一番温かい魔法で癒してあげたいんです」
焚き火の光が、彼女の頬をほんのりと赤く染めていた。
私は、何も言わなかった。
剣を振るうことしかできない私にとって、この旅はただ命を奪い続けるだけの削り合いだった。
どこまで行っても血の匂いがついて回る。
だが、この野営地には、彼女がいた。
彼女の不器用で、ひたむきな想い。誰かを生かしたいという祈り。
その温かさだけが、私が人間らしさを保つための、唯一の錨だった。
この戦いが終われば、また里に戻り、いつまでもこの温かな魔力に包まれて過ごすのだと、信じて疑わなかった。
◇◇◇
パチン、と。
大きめの火の粉が跳ねた。
私は小さく息を吐き、瞬きをした。
視界には、現在の夜の森がある。
私の記憶は、魔王討伐の旅の終わりで途切れている。
ダリアと別れた時の記憶がない。
どうやってあの旅が終わり、なぜ私が記憶を封じられ、この三百年の時をやり過ごすことになったのか。その空白は、未だ白い霧に覆われている。
だが。
今日、遺跡で見た彼女。
体も、私を呼ぶ声も、私から受けた傷を癒したあの魔力の波長も。
すべてが、間違いなくダリアのものだった。
ただ、あの子の魔力にあったはずの「祈り」だけがなかった。
レイヴンの背中を見つめていた、あの温かい心が。
私は手元の剣を布で包み、カチャリと音を立てて鞘に納めた。
立ち上がり、周囲の闇に視線を向ける。
追手の気配はない。
エラーラの寝息だけが、静かに聞こえている。
私は、東の空を見た。
木々の隙間から、王都の方角が見える。
失われた記憶の先に、何があるのかは分からない。
だが、そこに真実があるのなら、私は進まなければならない。
私は再び倒木に腰を下ろし、静かに火の番に戻った。
夜明けは、まだ遠かった。




