閑話 門番ヨハンとアストルの手向け花
こちらは書籍版に入りきらなかったショートです。
『第一部第十三章 老航海士アストルと約束の島』のサイドストーリとなります。
我輩は猫である。名はまだないが、最近は「トラ」と呼ばれている気がする。
住処は王都の東門。正確には門番詰所の軒下だ。ここには我輩に毎日ほぐした魚をくれる、都合のいい人間がいるからだ。
その人間――ヨハンは、今日も箒で石畳を掃いている。
我輩は彼の足元にすり寄り、空腹を告げるために一声鳴いた。
「にゃあ」(おい、爺さん。腹が減ったぞ)
ヨハンは箒の手を止めると、我輩の喉を優しく撫でた。
「おや、トラか。……そうか、もうそんな時間か」
彼はゆっくりと顔を上げ、街の中心にそびえ立つものを見上げた。
それは街のどこからでも見える、巨大な時計台だ。
青灰色の石を積み上げた塔は長い年月を経て、蔦や苔にその身を優しく包まれている。だが、その頂上部で輝く真鍮の文字盤と長針・短針は、曇り一つなく磨き上げられていた。この街の職人たちの、誇りの象徴だ。
ちょうど今、その二本の針が天を真っ直ぐに指し示そうとしていた。
ゴーン、ゴーン……。
腹の底に響くような澄んだ鐘の音が、街全体に正午を告げる。
ヨハンはその音を最後まで聞くと、我輩に向き直った。
「今日はこれで仕舞いだ。午後は休みをもらっていてな」
彼は詰所に戻ると、昼食の残りだろう、焼いた白身魚の身を丁寧にほぐし、小さな木皿に乗せて差し出した。我輩はその無上の喜びを享受する。
ヨハンは我輩が夢中で食べるのを満足そうに眺めると、門番の上着を脱ぎ簡素な外套を羽織った。
「さて、と。トラ、留守を頼むぞ」
彼は我輩の頭をもう一度撫でると、門をくぐり王都の中へと歩き出した。
我輩は魚を食べ終えると、彼の後を追うことにした。午後の散歩も悪くない。
ヨハンが向かったのは、港へと続く坂の途中にある小さな花屋だった。
「こんにちは門番さん。今日はお休みかい?」
「ああ。いつもの頼めるかな」
「はいよ。今日は海の青によく映える、白いのが入ってるよ」
店主は潮風に強いという、素朴で可憐な白い花を数本束ねヨハンに手渡した。
花を受け取ったヨハンは、そのまま坂を上りきった、街で一番見晴らしの良い高台へと向かった。
そこからは、彼が毎日見守っている東門も、活気ある港町も、そしてその先に広がる広大な海も、すべてが一望できた。
その高台に、一つの墓が海を見つめるようにしてぽつんと立っている。
ヨハンはその墓石の前に立つと、持ってきた花を供え静かに手を合わせた。
我輩は、その墓石に刻まれた名を知っている。
『アストル』
この墓ができてから、ヨハンは決まった日に必ずここを訪れていた。
我輩は彼の邪魔をしないよう、少し離れた場所で丸くなり午後の陽光に微睡み始めた。
「……こんにちは、門番さん。やはり、いらしてましたか」
穏やかな声に目を開けると、一人の若い男が立っていた。ヨハンも彼に気づき、顔を上げた。
「おお、孫殿か。息災だったか」
「はい。今日は祖父の命日ですので」
男――アストルの孫はそう言うと、ヨハンの隣で静かに手を合わせた。
その腕には小さな赤ん坊がすやすやと眠っている。
「おや。……その子は」
「ええ。昨年生まれまして。……祖父のひ孫です」
男は愛おしそうに、赤ん坊の頬を撫でた。
「この子にも海を見せてやろうと思いましてね。……門番さん。祖父は、最期まで幸せだったと思います。あなたに見送っていただけて、本当によかった」
「……いや。あの方は、自分の力で約束の場所へ辿り着いただけさ」
ヨハンはアストルの墓の向こうに広がる海を見つめながら、静かに言った。
赤ん坊がふと目を覚まし、小さな手を空へと伸ばす。その小さな手のひらが、まるで遠い海の何かを掴もうとしているかのようだった。
「はは。こいつも海が気に入ったようです」
男は誇らしげに笑った。
「ひい爺さんのように、いつか立派な船乗りになるかもしれません」
ヨハンはその光景を、ただ穏やかな目で見つめていた。
一つの偉大な旅が終わり、また新しい小さな命が同じ海を見つめている。
高台には港から吹き上げてくる潮の匂いを纏った風が、優しく吹いていた。
【お知らせ:幻の未収録エピソード公開!】
いつもお読みいただきありがとうございます!
カクヨムコン期間中の応援への感謝を込めまして、書籍版には入り切らなかった未公開SS『門番ヨハンと陽だまりの予約席』を、サポーター限定ノートで公開しました!
ヨハンたちの「陽だまり」のような時間を、ぜひ楽しんでいただければ幸いです。
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