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女王キリエ  作者: カイリ
第10章 運命の車輪
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第10章「運命の車輪」第8話

夫が側室と過ごす間、キリエは聖都クロイツに向かった。女王、そして王妃というしがらみから一時解き放たれ、心を癒すキリエに、主教ムンディは重大な秘密を打ち明ける。第10章完結。

 キリエがカンパニュラに到着した翌日、クロイツからヘルツォークが迎えに現れた。

「お久しぶりでございます、キリエ女王陛下」

 相変わらず礼儀正しいヘルツォークは折り目正しい挨拶をして見せた。

「お出迎えありがとう」

 暗い表情のキリエに、ヘルツォークは首を傾げた。

「お痩せになられましたね。せっかくお綺麗になられたのに」

 ヘルツォークにしては珍しい言葉にキリエは思わず顔をほころばせた。

「長旅だったから……」

「お疲れでございましょう。今宵はゆっくりおやすみ下さいませ。……しかし、大陸に緊張が走っている今、わざわざクロイツへ向かわれるのは……」

 そこで彼は口を閉ざすと詫びるように頭を下げた。

「申し訳ございません、差し出がましいことを……。大主教猊下も心待ちにされています。早速、クロイツへ向かいましょう」

「お願いします」

 カンパニュラを横断し、ユヴェーレン方面へ向かう。クロイツは三方をユヴェーレンに囲まれている。キリエがクロイツに向かっていることが知られれば、攻め込んでくることも考えられる。我ながら大胆な決断をしたものだと、キリエは今になって緊張感を漲らせた。だが、クロイツはいつか絶対に訪れたかった。大きな苦悩に直面した今だからこそ、聖都に行きたかった。

 国境を越える度に、周りの風景はがらりと変わった。何が違うというわけではないが、雰囲気だろうか。島国にいては味わえない感覚だ。緊張しながらもキリエは風景の変容に目を奪われた。

 そして、カンパニュラを出発して三日後、一行はようやくクロイツ入りを果たした。小さな自治都市、クロイツの人の多さにキリエは目を見張った。

見る限り、実に様々な身なりの人々がいる。大陸のありとあらゆる国々の人々。商人もいれば、傭兵も多い。学者のような人々も見受けられる。聖都クロイツは国際都市だった。

 聖女王騎士団の中でも特にジョンが選んだ強者の騎士たち。そして、ヘルツォークが引き連れた神聖ヴァイス・クロイツ騎士団が守る馬車に、人々は注目するものの取り立てて騒ぐことはなかった。クロイツではよくある光景のようだ。キリエはカーテンから見え隠れする街の様子を、息を殺して眺めた。やがて馬車は聖クロイツ大聖堂に到着した。正面ではなく、関係者が出入りする東門に乗り付けた馬車から、ヴェールで顔を隠したキリエが降り立つ。

「ご気分は、陛下」

 声をかけてくるモーティマーに「大丈夫」と答え、大聖堂を見上げたキリエは息を呑んだ。聖アルビオンや聖オルリーンなど比較にならないほど巨大な大聖堂。宮殿と言っていいだろう。中央の聖堂を囲む、天を突くような四つの尖塔。まるで太陽のように巨大なステンドグラスの薔薇窓。青い空から鳩の群れがやってくると聖堂のドームを霞めてゆく。キリエはあまりの壮大さに目眩を覚えた。そして、思い出したように両手を合わせ、片膝を突いて頭を垂れた。

 東門からアーチを潜り、大聖堂に入ったキリエはヴェールを外した。そこには、大陸中から集まった巡礼者が静かに祈りを捧げている。建物の中にいるとは思えないほど天井が高い。一行が中へ進むと、天井が少し低くなったホールに出た。

「……陛下」

 モーティマーに呼びかけられ、天井を見上げる。思わず口許を覆い、息を呑む。そこには、ヴァイス・クロイツ教の聖典で説かれた天の恵みの詩が見事に描かれていた。

「……リッピ殿……」

 ヴァレンティノ・リッピが手がけ、彼の名声を決定づけた大作。光輝く〈白正十字(ヴァイス・クロイツ)〉を囲む無数の天使。実り豊かな大地と海。人々の祈り。見る者を圧倒しながらも、不思議な癒しを与える天井画に、キリエは静かに手を合わせた。その時、辺りを行き交う司教たちが立ち止まり、声を上げる。

「……あれは、キリエ女王?」

「アングルのキリエ女王?」

 司教たちの指摘で、周りの信徒たちもざわめき始める。

「アングルの聖女王!」

「キリエ女王!」

 皆が口々に歓喜の声を上げ、次々とその場に跪く。キリエは戸惑いながら彼らを眺め渡した。いつの間にか全ての人々がキリエに向かってひれ伏した。キリエは震える手を合わせると片膝を突いた。その時、背後からざわめきが起こる。キリエが振り返ると、そこには多くの司教を連れた大主教ムンディの姿があった。

「猊下……!」

「キリエ」

 ムンディは微笑むと跪いたキリエの肩を撫でた。

「遠くからよく来てくれたな」

「猊下……」

 二人の様子に、人々は静かながら歓声を上げた。


 応接間に通されるとキリエはソファを勧められ、腰を下ろした。疲れが溜まっている彼女のために、滋養のある薬湯が用意された。

「あまり元気そうではないな」

 ムンディの言葉にキリエは申し訳なさそうに頭を下げる。

「これほどの長旅は初めてですので」

「それだけではあるまい」

 キリエは緊張に顔を強張らせた。

「……ガルシア王からの、告発は……」

「あんなもの、気にするでない」

 途端にムンディは顔を歪めて声を上げた。

「私があのような世迷い事をまともに取り合うと思ってか」

「……ご迷惑をおかけしました」

「真面目だのう、相変わらず」

 気の毒そうに呟くと、ムンディはわずかに身を乗り出した。

「ギョームとは、睦まじくしておるか」

 キリエはムンディの目が見られず、顔を伏せた。その様子に胸騒ぎを覚えたムンディは思わずヘルツォークと顔を見合わせる。キリエは俯いたまま答えた。

「彼は……、本当に私を大事にしてくれます。いつも感謝しています」

「誠か」

「はい。……今回は、ギョームのことでご報告が」

 そこでキリエが周りをちらりと一瞥したため、ムンディは側近たちを下がらせた。ヘルツォークやモーティマーも退出し、応接間には二人だけが残った。

「何があったのだ」

 ムンディの呼びかけに、キリエは吐息をついてから顔を上げた。

「ギョームが……、側室を迎えました」

 思いも寄らない言葉にムンディは言葉を失った。キリエは哀しげに、同時に諦めの表情で続けた。

「ギョームが望んだわけではありません。エスタドとユヴェーレンがいつ攻め込んでくるかわからない今、世継ぎがいないことを悲観した国民の声を受け、廷臣が進言したのです」

「しかし、だからと言って……!」

 怒りにも近い口調にキリエは顔を強張らせた。

「ギョームは……、最後まで拒みました。ですが、王が廷臣と長く対立するべきではありません。私が、廷臣の申し出を受けるよう、彼に……」

 ムンディはやるせない表情で頭を振った。

「……で、側室は……」

「……エレソナ・タイバーンです」

「何だと?」

 今度こそムンディは目を剥いて腰を浮かしかけた。

「エレソナ・タイバーンはそなたの……!」

「……姉です」

「何ということを……!」

 キリエは辛そうに目を伏せた。

「……愛人ならば誰でも良いのですが、ギョームは父君のように愛人を持ちたくない、と。正式に王家に迎えるためには側室という体裁でなければ……。そして、アングルとの同盟を鑑みて、アングル王家の血筋を引く者を……」

「ギョームはそれを受け入れたのか」

「……側室を迎えないのであれば、私を離縁して別の姫君を妃にと進言されて……」

 ムンディは呆然として目の前で小さな体を強張らせる少女を見つめた。思わず手を上げ、額を押さえる。

「……ガリア国内で世継ぎを求める声が上がっておるのは、報告を受けていたが……」

「……私……、いっそのこと、離縁してくれれば、と……」

 キリエの言葉にムンディは目を上げた。

「そうすれば、アングルに帰れる……。でも、ギョームは、私を離したくないと……」

 涙で震える声が部屋に響く。

「あんなに……、私を大事にしてくれる人はいません。私も、彼と一緒にいたいと願うようになりました。だから、側室を……」

「哀れな……。まだ、こんなにも若い二人に、酷い決断を……」

 ムンディは大きな手を上げるとキリエの肩を撫でた。

「……婚約した時、宰相がギョームに嘆願したのです。世継ぎを急がないでほしいと」

「クレド侯か」

「ギョームは約束を守ろうとしてくれました。でも、周りがそれを許さなくなって……」

「そなたは修道女だ。これまでの人生のほとんどを教会で過ごしてきた。受け入れるには時間がかかろう」

 キリエは俯いた。

「……彼は、私を愛してくれています。でも……、それが、怖いのです。どうしたらいいのか……、わからないのです」

ムンディは頷くとキリエの頭を優しく撫でた。

「初めてであろう。他人に愛されるのは。……ギョームに愛されている実感があるのであれば、彼を信じよ。そうすれば、おのずと彼を愛せるようになる」

「猊下……」

「側室は残念だが……、二人で決めたことならば、致し方あるまい……」

キリエはしばしムンディの温かな手の温もりを感じて俯いていたが、やがて息をつくと顔を上げる。

「それで、猊下にお願いが」

「何だ」

 キリエは固い表情で大主教を見上げた。

「もしもエレソナが子を生んだら……、王位継承権を認めていただきたいのです」

 ムンディは眉をひそめた。

「私は、いつか夫の子を生みたいと思っています。ですが、もしも生むことが叶わなければ……、エレソナの子を、ガリアとアングルの君主にせねば……」

 必死に訴えるキリエに、ムンディは溜息をついて頷いた。

「……わかった」

「……ありがとうございます」

 キリエは深々と頭を下げた。


 クロイツでは多くの教会を訪れたり、大学を視察したり、修道女に混じってムンディの説法を聞いたりと有意義に過ごした。見るもの聞くもの全てが新鮮で、憂いを束の間忘れたキリエは少しずつ健康を取り戻していった。

 聖都を訪れて一週間ほどした頃、キリエはヘルツォークに誘われ、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団の衛舎を訪れた。騎士たちは皆敬虔な信徒であり、〈聖女王〉の訪問を歓迎した。キリエのために馬上槍試合(トーナメント)を催すつもりでいたヘルツォークだったが、モーティマーから女王は剣戟の音が苦手だと聞かされ、急遽騎士たちによる馬術の披露を行うことにした。

 騎士たちが手綱さばきひとつで馬を意のままに操る様に、キリエは釘付けになった。重い馬具を身にまといながらも、軽やかなステップを踏み、器用な動きを見せる馬にキリエはようやく笑顔を見せた。

「すごいわ……! どうしたらあんなことができるの?」

 はしゃぐ女王にヘルツォークが声を低める。

「実は、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団に入団するためには、まず馬語が話せないといけないのです」

 目を丸くするキリエに、ヘルツォークは真面目くさった顔つきで続ける。

「今日は聖女王の御前だから、失敗したら後でお仕置きだぞ、と言い聞かせているのですよ」

「…………」

 思わず相手をまじまじと見つめていたキリエは、ぷっと吹き出した。

「ひどいわ!」

 声を上げて笑うキリエに、ヘルツォークは安堵の表情になる。

「何だか、アングルの馬よりも大きく見えるわ」

「クロイツは国際都市です。大陸から選り抜きの良馬が集まります」

 良馬と聞いてキリエは遠い目つきになる。

「……ヘルツォーク殿。どこに行けば馬が手に入りますか」

 思わぬ問いかけにヘルツォークは首を傾げる。

「馬をお求めですか」

「……再来月、夫の誕生日なのです」

 穏やかながらも、どこか寂しげな表情のキリエをヘルツォークはしばし黙って見つめた。

「去年、私の誕生日に素敵な贈り物をしてくれたから……」

 ギョームが側室を迎えたことを伝え聞いていたヘルツォークは複雑な面持ちで口を開いた。

「……ギョーム王陛下は、馬がお好きですか」

「大好きなの。毎日朝駆けに行くぐらいだから。私も時々連れて行ってもらうの。今の季節はとっても気持ちが良くて……」

 そこでキリエは口をつぐんだ。ギョームは今、どこで何をしているのだろう。急に、彼と遠く離れていることに不安と孤独を感じたキリエは、思い詰めた表情で目を伏せた。遠い距離を隔てて初めて、どんなに彼に守られていたか、どんなに彼を必要としていたか、キリエはようやく気がついた。

「お帰りになられるまでに、手配いたしましょう」

 ヘルツォークの言葉に、キリエは小さく頷いた。

「ギョーム王陛下にご満足いただけるような、飛び切りの良馬をご用意してご覧に入れますよ」

 励ますような力強い口調に、キリエも表情をほころばせる。

「誕生日でございますか。家族は良いものですね」

 その言葉にキリエが思わずヘルツォークを見上げる。神聖ヴァイス・クロイツ騎士団の騎士は、聖職者と同じく妻帯を禁じられている。

「……ヘルツォーク殿、あなたのご家族は……?」

 騎士団長はにっこりと微笑んでみせた。

「ユヴェーレンに両親と弟三人がおります。……もう、十数年会っておりませんが」

 ユヴェーレンとは五十年近く戦争状態にある。ヘルツォークは家族と祖国を捨てる覚悟でクロイツへやってきたのだろう。

「……あなたは神聖騎士団の騎士……。新しい家族が欲しいと思ったことはないのですか?」

 キリエの問いに、ヘルツォークはすぐには返答しなかった。彼は年若い女王をじっと見つめてから、視線を空に向けた。

「私の父は貧しい傭兵でした」

 その言葉にキリエは思わず身を乗り出して耳を傾けた。

「父はユヴェーレンの王宮騎士になることを夢見て、戦功を上げることを生き甲斐としていました。貧しくとも誇り高く、家族思いな父は私の理想であり、憧れでした」

 そう語るヘルツォークの瞳は懐かしさに溢れている。

「しかし、私は信心深い母の影響で幼い頃から聖職の道を目指していました。ですが、父に教え込まれた剣の腕で人々の役に立ちたいと思うようにもなりました。剣士と聖職を両立する方法、それが、クロイツを守ることでした」

 そこまで聞いてキリエは眉をひそめた。クロイツとユヴェーレンの戦いはその頃から始まっていたはずだ。

「でも、クロイツは……」

「そうです。私は、父の敵の許へと向かおうとしたのです」

 キリエの驚きとは裏腹に、ヘルツォークは落ち着き払ったまま言葉を続けた。

「私はどうしても、聖都クロイツを守りたかった。天の統べる世界をこの手で実現したかった。母もそれを望んだのです。ですが、当然父は許さなかった」

「説得できなかったのですか」

「……親不孝をしたと思っています。父の(もう)(ひら)くことができなかったのですから」

 静かにそう言い切るヘルツォークに、キリエは息を呑んだ。父と敵対してでも信仰に身を捧げたというのか。眉をひそめ、じっと見つめてくる女王にヘルツォークは穏やかに微笑んでみせた。

「弟の一人が父の願いを叶え、王宮騎士となりました。これまで二度ほど戦場で弟の姿を見かけました。嬉しいですよ。逞しく成長した弟と戦えるのは」

「ヘルツォーク殿……」

 信じられない、と言いたげな表情のキリエに彼は真顔で言い含めた。

「立派に成長した弟が父の傍にいると思うと安心です。……後悔はしていません。ですが、父に対する罪悪感には今も苛まれています。妻を娶り、子を生すことを捨てたのは自らに課した罰です」

 ヘルツォークは、それだけの覚悟を持って天に忠誠を誓っている。これまでに激しい戦いを幾度も潜り抜けたであろう百戦の騎士。実際の年齢よりもずっと落ち着いた風貌は、これまでの苦難を押し隠している。キリエは恥じ入るように顔を伏せた。

「……あなたは、強いわ」

 思わずそう呟く。

「でも、私は……」

「女王陛下」

 はっとして顔を上げる。ヘルツォークはキリエを安心させるように穏やかな表情のまま語りかけた。

「あなたは国の平和を願い、信条を曲げて人の妻となった。天はあなたに報いて下さるでしょう」

 目に涙を溜めて見つめてくる女王に、騎士団長は静かに頷いてみせた。

 その時、背後から一人の司教が控えめに声をかける。

「陛下。猊下がお呼びです。〈カエルムの丘〉でお待ちでございます」

 カエルムの丘。キリエは息を呑んで目を見開いた。


 カエルムの丘は、クロイツの郊外に位置する小高い丘だ。荒涼とした草原に朽ち果てた石造りの神殿。その神殿に向かって巡礼の信徒たちが大地にひれ伏し、祈りを捧げている。

 丘の麓にモーティマーらを待たせたキリエは、今にも崩れ落ちそうな神殿の中へと入っていった。神殿の奥には、空を見上げたムンディの姿があった。深い蒼の空。鮮やかな青空は崩れかけた壁を一層くっきりと浮かび上がらせ、寂寥感を掻き立てる。

「猊下。お待たせいたしました」

 ムンディは微笑を浮かべて振り返った。キリエは緊張した顔つきで囁く。

「まさか……、〈(カエルム)の丘〉に来られるとは、思ってもみませんでした」

「そなたにふさわしい場所だ」

 カエルムの丘は、ヴァイス・クロイツ教成立以前、古代の神話時代から数々の奇跡を起してきた聖地だ。クロイツがユヴェーレンから独立した時も、ここで時の大主教アルデオが独立宣言を行った。

「少しは元気そうになったな」

「ご心配おかけして、申し訳ございません」

「考えねばならぬことがたくさんあるだろうが、良い機会だ。そなたに大事な話がある」

 ムンディの言葉にキリエは顔を強張らせた。大事な話。しかも、ヴァイス・クロイツ教でも最も神聖な聖地で。まだ幼さの残る女王を見つめると、ムンディはおもむろに口を開いた。

「そなたが戴冠する時に話したことを、覚えておるか」

 キリエはごくりと唾を飲み込むと頷いた。

「……世界を、ひとつに……」

「そうだ」

 ムンディは満足そうに頷いた。

「世界をひとつにせねばならん。そして、その頂にはそなたを立たせる」

「しかし、猊下……。世界の頂には、猊下が……」

「よく聞くのだ。確かに、私は世界中のヴァイス・クロイツ教徒を導く立場にいる。それとは違う話だ。世界は今、二つの勢力に分かれている。ヴァイス・クロイツの教義を守るものと、守らぬもの。異端を奉じるクラシャンキ帝国、我らに従わぬエスタド、ユヴェーレン。それ以外の国々は概ね敬虔な教徒が多い。このままではならぬ。まずは、クラシャンキとエスタドに対抗するために、ひとつにまとまらねばならぬ」

 キリエは、あまりにも壮大な話に戸惑いの表情を見せながらも黙って離しに聞き入る。

「アングル、ガリア、カンパニュラ、ポルトゥス、ナッサウ、バーガンディ、レオン、レイノ。五つの王国、三つの公国。これらをひとつの神聖帝国にする」

 眉をひそめ、思わず口を覆い隠す。怯えの表情を見せるキリエに、ムンディはゆっくり諭すように続ける。

「すでにカンパニュラやポルトゥスには働きかけている。レオンやレイノもエスタドからの独立を願い、我々と通じておる。これは……、私が大主教に就任した時から計画していたことだ。そして、何とかしてガリアとアングルを結び付けたいと願っていたが、天のお導きにより、そなたとギョームが結ばれた」

「……ち、違います」

 キリエはかすれた声で呟いた。

「この結婚は……、天のお導きではなく、ギョームが私を望んだ結果です……!」

 ムンディは嬉しそうに微笑んだ。

「そうだ。ギョームがそなたを望んだ。そして、天も望んでいたことだ」

 自分たちが結ばれたのは、自分たちよりももっと大きな力によるものだったのか? 違う! ギョームが望んだのだ。運命ではなく、ギョームが……!

「……ギョームを愛しておるのだな」

 ムンディの言葉に、キリエははっと息を呑んだ。

「それで良い。それで良いのだ。二人の愛に勝るものはないのだから。だが、そのことは我々ヴァイス・クロイツ教徒にとっても大きな力となるのだ。まずは、ガリアとアングルを連合王国にする。そして、機を見て周辺の国々を束ね、神聖ヴァイス・クロイツ帝国を樹立する」

 帝国。思いもかけない言葉。キリエの顔が蒼白になってゆく。

「各国の独立を保ったまま、〈女帝〉が統べる世界だ。それこそ、私が理想とする世界」

「女帝……? 待って下さい、猊下!」

「頂に立たせるのはそなただと言ったはずだ」

 有無を言わさぬムンディに、キリエは震える手を握り締めて黙り込む。

「ギョームは確かに優秀な王だ。賢いし、何より信心深い。だが、そなたには敵うまい。そなたは天が遣わした天使なのだ。天に代わって世界を統べるのだ」

「猊下……」

「実質的な統治はギョームに任せる。その方が良いだろう。そして、教徒の精神的な支えになるのが、そなただ」

「ですが、それは猊下が……」

「私はあくまでヴァイス・クロイツ教の指導者だ。そなたは帝国の象徴だ」

 神殿に吹き抜ける爽やかな風がキリエの髪を揺らす。麗らかな春の陽射しが降り注ぐ中、自分たちだけが世界の行く末を決める秘密の話をしている。そう思うとキリエは恐ろしくなった。

「もう少し先になる話だと思っていたが……、大陸の動きが激しくなってきた。そう遠い話ではないぞ」

 キリエは目眩を感じると額を手で押さえた。自分が……、大陸の半分を統べる女帝に……。何かの間違いだ。私は……、ただの修道女……。


 キリエは、およそ一ヶ月の滞在を終え、四月の半ばに帰国の途についた。

 帰りの隊列には、ヘルツォークが選んだクロイツの名馬十頭が加わっていた。カエルムの丘を訪れて以降、塞ぎがちになった女王にモーティマーは不吉な胸騒ぎを感じていたが、何も語らない主君のために健康を気遣い、ゆっくりとした旅程を組んだ。

 クロイツを出国して一週間後、ガリアとカンパニュラの国境に接した街、ヴェルサンにバラが出迎えにやって来ていた。ヴェルサン城のアプローチでバラが恭しく跪く。

「お帰りなさいませ、王妃。お疲れでございましょう」

「ごめんなさい、少しあちらでゆっくりし過ぎてしまったわ」

「いえ、ご堪能できたのであれば、何よりでございます」

「ギョームは?」

 王の名を耳にして、バラは顔を引きつらせた。キリエは眉をひそめた。

「……どうしたの」

「いえ……、お元気でございます。王妃のお帰りを、一日千秋の思いでお待ちでございました」

 明らかに様子がおかしいバラに、モーティマーも顔をしかめる。キリエは思わず身を乗り出した。

「何かあったのね、アンジェ侯」

「王妃」

 バラは子どもに言い聞かせるような顔つきで囁く。

「お疲れでございましょう。まずは城内でごゆっくりお休み下さいませ。出発は明日……」

「アンジェ侯」

 キリエの大きな目に見つめられ、バラはごくりと唾を飲み込んだ。……王妃は勘が鋭い。キリエが輿入れしてからしばしば感じていたことだ。

「王妃……。お疲れの今、申し上げるわけには……」

「いつ聞いても一緒だわ」

 バラは哀しげに口をつぐんだ。やがて、観念したように口を開いた。

「……レディ・エレソナが……、ご懐妊されました」

 キリエは石のように固まった。モーティマーが蒼白になって女王を振り返る。キリエの顔から血の気が引いてゆく。彼女は視線を上げた。アプローチの天井に吊り下げられた煌くシャンデリアがぐるぐると回って見え、足元がぐらついたかと思うとキリエは膝を折った。

「陛下!」

 モーティマーが咄嗟に抱きとめる。バラも慌てて腕を取る。

「王妃! 王妃……!」

 キリエは両目を大きく見開いたまま、呆然とした。

 ギョームが、エレソナを抱いた。自分を三度殺そうとした姉を、彼が抱いた。ギョームは拒んでいたではないか。エレソナを側室に迎えることをあれほど嫌がっていたではないか。それを説き伏せたのは自分だ。そして、エレソナは……、ギョームの子を身篭った。自分がエレソナに頼み込んだのだ。自分の代わりに、生んでくれと。だが……!

「……ああッ……!」

 激しい嫉妬心が吐き気に変わり、キリエは口を押さえるとその場に倒れこんだ。


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