第10章「運命の車輪」第7話
ついにガリアにエレソナがやってくる。自分の夫の側室になってほしい。自らそう願い出る異母妹キリエに、エレソナは……。
バレクラン城では、憂鬱な表情で窓から中庭を眺めるキリエの姿があった。結婚してから何度かギョームと訪れたバレクランはオイールに比べてずっと田舎で、クレドやグローリアを彷彿とさせた。そのためキリエはここが気に入っていたが、これからエレソナを住まわせることになればここへは頻繁に訪れることはできなくなるだろう。また一つ、心安らげる場所を失う。キリエは重い溜息をついた。エレソナに会ったら、何からどう伝えればいいのだろう。この期に及んでまだ決めかねていたキリエは、不安げに目を伏せた。
エレソナたちの到着が告げられたのは昼過ぎだった。部屋の外が騒がしくなったことに気づいたキリエが椅子から立ち上がる。
「……到着されたようです」
一足先に、昨晩からバレクランに到着していたモーティマーがそっと声をかける。人々の足音が近づき、扉を叩かれる。モーティマーが扉を開けに向かい、キリエは胸に手をやって深呼吸を繰り返した。開かれた扉から最初に姿を現したのはジュビリーだった。自分を目にした途端、思わず涙目になるキリエにジュビリーは眉を寄せ、小さく頷く。そして、ジョンに促されるようにしてエレソナとバラがゆっくりと現れた。
二人が会うのは実に半年ぶりだった。最後に会ったのはレノックスが戦死した時。兄の死に絶望し、怒り狂ったエレソナは妹の首を絞めた。キリエの脳裏にその時の光景が蘇り、胸の鼓動が早まる。エレソナはやぶ睨みの目を細め、異母妹を凝視した。相変わらず細身の体。だが、以前に比べて顔色は良い。冷たく光る銀髪が肩の上でうねる様は蛇を思わせる。それは、彼女のやぶ睨みの瞳のせいか。キリエはちらりとバラに目をやった。ガリアの宰相は神妙な顔つきで頭を下げた。ジュビリーがジョンに目配せをする。彼は不安そうな目を返したが、やがて義兄の指示通り、モーティマーとバラを連れて部屋を辞した。重い扉が大きな音を立てて閉まる。その余韻が消え、再び沈黙に満たされてから、キリエはおずおずと口を開いた。
「……遠くからありがとう」
頭の中で慎重に言葉を選び、怯えた表情で言葉を続ける。
「……体調はどう?」
「本題に入ったらどうだ」
エレソナはにべもなく言い放った。すでに泣き出しそうな顔つきの妹に、エレソナは苦笑した。
「……これでは立場がわからんではないか」
「エレソナ……」
姉の突き放す物言いに、キリエは黙り込んでしまった。エレソナは鼻息を荒く吐き出した。
「おまえの身代わりになれば良いのだろう?」
身代わりという言葉にキリエは青くなった。身代わり……。姉とて幽閉期間が長かった。体が強いとは言えない。その姉に、夫の後継者を生ませるのか。
「おまえの代わりにギョームの子を生めば、私の命が保障されるらしい」
どこか小ばかにしたような口調で言い放ってから、エレソナはふんと鼻を鳴らした。
「私は、塔に閉じ込められるぐらいなら殺された方がいいがな」
「エレソナ」
キリエは目を閉じ、震える声で遮った。エレソナの声と話し方はレノックスを思い出させた。
「……あなたに、生きてほしいの」
小さな声に目を眇め、耳を傾ける。
「だって……、悔しいじゃない……! 身勝手な父上のせいで人生を振り回された挙げ句、死んでいくなんて……!」
「おまえに言われたくないな」
「エレソナ……!」
「だが……、おまえだからこそ言える言葉だな」
キリエは怯えきった目で姉を見上げた。彼女には何を言っても敵わない。そんな思いが首をもたげる。ジュビリーはいつの間にかキリエの隣に黙って寄り添っていた。エレソナは氷のように冷たい目で妹を見つめた。
「何故、結婚などした」
「……アングルのためよ。アングルと、ガリアのため……」
「あの若造の子を生まなければならないとは、考えなかったのか」
キリエは顔を歪めると俯いた。実際、そこまでは考えていなかった。ただ、結婚さえすれば全てが解決するぐらいにしか思っていなかった。子を生むにしても、もっとずっと先のことだと、楽観していた。だから、こんなことに!
「……浅はかな奴め。そんな奴が女王でいられるのだからな」
悔しさと情けなさがない交ぜになり、キリエは頭がどうかなりそうだった。拳を握りしめ、絞り出すように囁く。
「……私は、国のために結婚した。結婚なんか本当は望んではいなかった……! でも、あなたは……、生きるために……、少しでも自由に生きるために……。お願い、ギョームの側室に……」
エレソナが目を眇める。キリエは小さく言い添えた。
「あなたを……、幽閉したくないの。十二年間、幽閉されたあなたを……」
瞬間、エレソナは妹の頬を張り飛ばした。
「ッ!」
咄嗟にジュビリーが身を乗り出すが、キリエは体全体で押し留める。荒い息遣いで呼吸を繰り返すと、キリエは真っ赤に充血した目で姉を見上げた。そして、その場に座り込むと頭を下げた。
「お願い、エレソナ……! ギョームの子を生んで! 私の……、代わりに……!」
「キリエ……!」
ジュビリーが険しい表情で腰を屈めて腕を取るが、彼女は動こうとしない。
「キリエ」
エレソナの呼びかけに、涙を滲ませたキリエが顔を上げる。姉は腕を組むと見下ろしてきた。
「私は三度、おまえを殺そうとした」
一度目は幼い頃、プレセア宮殿で斧を振るった。二度目はローランド会戦で。そして三度目は、プレセア宮殿の北塔で首を絞めた。エレソナは鼻先で笑った。
「一度ぐらいは助けてやるか」
「エレソナ……」
「だが、本当にそれがおまえを助けることになるのか?」
キリエは息を呑んだ。姉が夫の子を生むことを、自分たちは割り切って考えることが果たしてできるのか。これから先、またどんな問題が起こるかもわからない。床に座り込んだままのキリエに、エレソナは腰を屈めて顔を寄せた。
「おまえ……、ギョームを愛しているのか?」
キリエがびくっと体を震わせる。顔を強張らせ、項垂れるキリエの肩にジュビリーがそっと手をかける。エレソナは目を細めた。
「答えられないのか」
「……わ……、私……」
キリエは悔しげな表情で口元を歪めると囁いた。
「私……、ギョームが好きよ……。大好き……!」
ジュビリーは思わず目を逸らした。追い打ちをかけるようにエレソナが畳みかける。
「『愛してる』とは言えないのか」
「……うぅっ……!」
苦しげに嗚咽を漏らす妹に、エレソナは不意に手を伸ばすと胸倉を掴んで引き上げた。
「あッ……!」
顔を引きつらせるキリエの耳元に口を寄せると囁く。
「理由は聞かないでおくぞ」
「……!」
「エレソナ!」
ジュビリーがエレソナの手を掴むが、彼女は手荒く妹を突き放した。
「さっさとギョームを連れてこい。私の気が変わらんうちにな」
忙しなく呼吸を繰り返すと、キリエはよろめきながら立ち上がった。
「……ありがとう、エレソナ……」
「良い子でいるのも大変だな」
冷徹な笑みを浮かべて言い放つエレソナに、キリエはきっと振り返った。
「わかってるわ……! 私が一番悪いのよ!」
叫ぶや否やキリエは部屋を飛び出した。
「キリエ!」
慌ててジュビリーが後を追う。キリエは早歩きで長い石造りの廊下を行く。
「キリエ……!」
「アンジェ侯に伝えて。エレソナを説得したと」
「待て、キリエ!」
ジュビリーの呼びかけにもキリエは立ち止まらず、振り向きもせずに固い声で言い放つ。
「明日、オイールに向かうわ。あなたも来て。マリーが会いたがってる。元気な男の子も生まれたし……」
「キリエ!」
ジュビリーはキリエの腕を掴むと引き寄せた。が、彼女は顔を歪めて叫ぶ。
「離して! 私はガリアの王妃よ!」
だが、ジュビリーは益々強く腕を握りしめた。キリエの細めた目が涙で揺れる。
「……どうして、離してくれないの……!」
「……一度離した手だ」
ジュビリーの言葉にキリエは顔を背けた。握りしめた右手に鈍い痛みを感じ始めたが、ジュビリーは力をゆるめなかった。
「私……、ギョームが好きになったわ」
キリエの目から涙がこぼれる。
「……彼が大好き。私を、とても大事にしてくれる。愛おしんでくれる。でも……、皆、待ってくれない……。彼を受け入れるのを、待ってくれない……」
苦しげに囁くキリエを、ジュビリーはじっと見つめた。
「……ギョームにとっては、王妃は私でなくてはならない。でも、皆にとってはそうじゃない。誰でもいい。子どもを生める、アングル王家の血を引く女性なら、誰でもいい……! 修道女なんか、最初から願い下げだったのよ!」
「キリエ……!」
ジュビリーはキリエを抱き寄せたが、キリエは抗った。
「……私、ひどい女だわ……」
涙で震える声。いつにも増して小さく見えるキリエにジュビリーの胸がきりきりと痛む。
「ギョームが大好きなのに……、あなたを……、忘れられない……」
ジュビリーは強引にキリエを抱きしめた。誰かに見られたら、そんな考えは頭をよぎりもしなかった。
「……すまん……」
「……謝らないで……」
「すまない」
「謝らないで……!」
二人は、しばらく息を押し殺して抱き合っていた。
翌日の夜、王妃の一行はひっそりと王都オイールに到着した。ギョームが側室を迎えることは当面伏せられ、エレソナの妊娠が確認された時点で公表されることになっている。そんな下世話なことまで事細かに会議で決められ、キリエもギョームも心の底からうんざりしていた。
ビジュー宮殿に入城すると、ジュビリーは大廊下ではなく、中庭のバルコニーから直接王の間へ案内された。アングルの宰相が姿を見せれば、物見高い貴族たちの好奇の目に晒される。そのことを恐れたガリア側の配慮だった。
王の間に通されると、そこには緊張で顔を強張らせた廷臣と、沈んだ表情のギョームが待っていた。ジュビリーは眉間の皺を深めると一同を眺め渡した。廷臣たちは顔を引きつらせるとおざなりに会釈をする。後ろで控えるジョンとモーティマーは心配そうにジュビリーの背を見守っている。そんな中、ギョームはわずかに青ざめた表情で歩み寄った。
「……クレド侯」
若い王は妻の寵臣を見上げた。ジュビリーは険しい顔つきのまま片膝を突き、頭を垂れた。
「……すまない。詫びの言葉もない」
ギョームははっきりとした口調で詫びた。側室を迎えることに最も怒り、絶望したのは彼だろう。周囲の反対を押し切ってキリエを妃に迎えたというのに、無理矢理側室を持たされるのだ。ジュビリーはひそかに同情した。
「立ってくれ」
王の言葉にジュビリーは立ち上がると目の前の青年を見下ろす。
「……レディ・エレソナを、バレクランにお連れしました」
ギョームは顔を歪めて頷いた。そこでジュビリーはさっと廷臣たちを振り返った。
「側室を迎えよと、最初に申し上げたのはどなたかッ」
「義兄上……!」
慌ててジョンが義兄の腕を掴む。廷臣たちが息を呑む中、エイメ侯が一歩前に出る。
「……私だ。クレド侯」
不穏な表情で身を乗り出すジュビリーを、ジョンとモーティマーが両脇から押さえ込む。
「義兄上!」
「侯爵……、陛下の御前です……!」
ジュビリーは奥歯を噛みしめた。エイメ侯はごくりと唾を飲み込んでから口を開いた。
「……女王陛下にも、アングルの国民にも申し訳ないと思っている。だが、ガリアのためでもあり、アングルのためなのだ……!」
「そう言えば全て許されるとでも思ったか!」
いつでも冷静沈着で礼儀正しいジュビリーの言葉に、皆は顔を引きつらせた。ジョンにはわかっていた。アングルの面目を保つためには必要な行為だ。だが、義兄の場合、多分に私情が絡んでいる。
「おやめ下さい、義兄上……!」
ジョンは悔しげに囁きながら両手で義兄の肩を押さえ、下がらせる。
「皆、下がれ」
ギョームの言葉に廷臣らは顔を上げた。
「……クレド侯と話がしたい」
「陛下……」
「下がれ」
王の固い口調に、廷臣らは恐々とジュビリーを振り返る。
「義兄上……」
ジュビリーが小さく頷き、皆は心配そうな顔つきで静かに王の間を退出していった。ジュビリーは静かに息を吐き出すと頭を下げた。
「……申し訳ございません。大人げない真似を……」
「……そなたが怒るのは当然だ」
低く呟く王に、ジュビリーは眉をひそめた。
「……陛下、少しおやつれに……」
「……キリエほどではない」
ギョームは寂しげに呟いた。
「……痩せていただろう。元々小食だったが、更に食べなくなった。アングル料理に変えてから、少しは食べるようにはなったが……」
ジュビリーは控えめに身を乗り出した。
「王妃は以前から不眠気味でございましたが……」
「あまり、眠れないみたいだ」
若い王はわずかに顔を赤くすると俯いた。
「……一人の方がよく眠れるなら寝室を別にするかと聞いたが……、本人が嫌がった」
「……左様でございますか」
あの夜以来、ギョームはキリエに手を出せなくなっていた。もっとも、心労で体調が優れないキリエが心配で、手を出すどころではなかったのだ。だが、いつか本当にこの手でキリエを抱けるのか。ギョームは不安で仕方がなかった。
キリエが不眠症だということにはすぐに気づいた。彼は、眠れないキリエのために夜具の中で毎晩ガリアの話をしてやった。ギョームは父が存命中、王都にいることを嫌ってよく国内を遊学していたため、その旅先での思い出話をしてやると、キリエは思いのほか喜んだ。これでは子どものまま事ではないかと思う時もあったが、腕の中で寝息を立てるキリエを見つめていると、この時間が愛おしくてならなかった。
「……陛下」
ギョームはジュビリーの呼びかけにはっと顔を上げた。黒衣の宰相は、気の毒そうな目で見つめてきた。
「月並みな言い方でございますが、ご夫妻の絆が困難を乗り越える第一の条件でございます」
「……そうだな」
ギョームは溜息をついた。そして、複雑な表情でジュビリーを見つめ返す。
どうしても、ジュビリーに対するわだかまりが拭えない。彼と妻は親子ほど歳の差がある。自分を数奇な運命に追いやった実父を嫌っているキリエだ。実直な宰相に理想を重ね合わせているのだろうか。それとも、あくまで自分の身を守ってくれる彼に絶対的な信頼を寄せているだけなのだろうか。だが、ギョームは軽く目を閉じると頭を振った。もう決めたのだ。自分はキリエを愛し続ける。妻を、信じていく。
「……クレド侯」
「はい」
「そなたは、奥方を出産の時に亡くしたのだったな」
ジュビリーはわずかに目を眇めた。
「……はい」
「……子は欲しい……」
ギョームの切実な囁きにジュビリーは表情を固くする。
「だが、キリエの幼さが怖い……。母は予を生む時に死にかけた」
この青年は、母のように包み込んでくれるキリエを失うことを何よりも恐れている。自分と同じだ。ジュビリーは不意に孤独を感じた。今度こそ、キリエが自分の手を離れていく。
「……陛下。王妃は……」
ギョームはそっと目を上げた。ジュビリーは、彼を安心させるように穏やかに呟いた。
「大好きなあなたと離れたくないと……、仰せでした。ご自分を心から愛し、大事にしてくれる陛下と共にいたいと……」
あの夜の、キリエの囁きが蘇る。
(ギョーム、私、あなたが好き。大好き)
ギョームは震える息を吐き出した。
「……ありがとう、クレド侯……」
王の間を辞した後、ジュビリーはジョンと共に彼の居室へと向かった。部屋では、マリーエレンが生まれたばかりの息子ギルフォードと共に兄を迎えた。
「兄上……」
嬉しそうに微笑む妹に抱かれた赤ん坊はすやすやと穏やかな寝息を立てている。
「……マリーエレン」
ジュビリーは思わず声を詰まらせた。静かに歩み寄ると、マリーはギルフォードを抱くように促す。ジュビリーは瞬間躊躇った。が、マリーは半ば強引に兄に子を抱かせた。
危なっかしい手つきで甥を抱く。その瞬間、彼の脳裏に十六年前の光景が蘇った。十六年前、こんな風にレディ・ケイナが生んだ娘を抱いた。赤ん坊を取り巻く人々は皆笑顔で寄り添っていたのだ。そんな周囲など知る由もなく、生まれたばかりの赤ん坊はあどけない表情で眠っていた。それがキリエだ。
ジュビリーは目を細めた。宮廷に出仕することなく、クレドでずっと過ごしていれば、こんな風にエレオノールと共に子を囲む暮らしをしていたかもしれない。虚しいと思いながらも、彼は想像しないではいられなかった。何の恐れも不安もなく、無心に眠り続けるギルフォード。ジュビリーは久しぶりに穏やかな気分になった。
「ギルフォード……、伯父上ですよ」
マリーの優しい声にジョンも微笑む。ジュビリーは妹に目をやった。
「……体は大事ないか」
「ええ」
「……ご苦労だったな」
マリーは微笑むと身を乗り出した。
「二人目の子の名前はもう決まっているんですよ。ヘンリーと名付けます」
ヘンリーは、ジュビリーとマリーエレンの父親の名だ。ジュビリーは顔をしかめた。
「無理はするな」
「はい」
「……女子でもかまわん」
ジュビリーはギルフォードの寝顔を覗き込みながら呟いた。その時。彼の脳裏に在りし日の光景が蘇った。
(ねぇ、あなた。もしも女の子が生まれたら、ケイナ様のお名前を頂きましょうよ。ね?)
結婚した時、エレオノールが口にした言葉だ。夫の幼馴染の早すぎる死を、エレオノールも悼んでいた。こんな風に、無事に健康な子が生まれることは奇跡だ。そして、自分たちが悩み苦しみながらも生き抜いていることも、また奇跡だ。生きていれば道は開ける。そう言ったのは自分ではないか。
「良い子だ。……大事に育てろ」
「ありがとうございます、義兄上……」
「マリーエレン、ジョン」
「はい」
「……キリエを頼んだぞ」
二人は寂しげに口をつぐんだ。
「たとえエレソナが子を生んでも……、ギョームの妃はキリエだ。キリエは、ガリアの王妃であり続ける」
「兄上……」
マリーは涙ぐむと囁いた。
寝室に向かったギョームは、キリエが花瓶に生けた百合の花を見つめている姿を見てぎょっとした。真っ白な百合は、何故か不吉な予感を感じさせたのだ。
「……キリエ?」
妻は少しだけ顔をほころばせて振り返った。
「見て。バレクラン城に咲いていたの。ガリアの〈白百合〉よ。こんなに大きな百合の花、見たことがないから驚いたわ。さすがガリアね……」
「キリエ」
夫の沈んだ声にキリエは首を傾げた。眉をひそめるギョームに、キリエは寂しげに呟いた。
「……バレクランへは、いつ発つの?」
「……嫌だ」
ギョームが駄々っ子のように呟き、キリエは溜息をついた。
「ギョーム」
「私の妻はそなただ。そなただけだ」
キリエは、今まで我慢していた枷が外れたように、口を覆い隠すと嗚咽を漏らした。そして、か細い声で囁く。
「……ありがとう、ギョーム……」
ギョームは妻の細い体を抱き寄せた。求婚を受け入れられた時にも感じた、あまりにも細い体。守らなければ。キリエは、自分が守らねば。しばしの沈黙の後、胸の中でキリエは囁いた。
「……ギョーム。私……、しばらくガリアを離れようと思うの」
ギョームは驚いて体を離した。
「帰るのか」
キリエは顔を横に振る。
「クロイツに行きたいの」
「……クロイツ」
「聖都クロイツを訪れるのは、ずっと小さい時から夢だったの。……大主教にも、側室を迎えるお許しをいただかないと……」
「しかし、今でなくとも……」
キリエはギョームの胸に顔を押し付けると囁いた。
「……私がオイールにいては、あなたはなかなかバレクランへ行けないわ」
ギョームは悔しそうに顔を歪めた。妻に、そんな気遣いまでさせてしまうなんて。情けない……!
「……キリエ……」
夫の呼びかけにキリエは顔を上げた。ギョームは不安げな眼差しで見つめてくる。キリエは夫を安心させるように微笑んだ。
「ちゃんと帰ってくるから、安心して。あなたが毎晩お話を聞かせてくれるように、今度は私が旅の思い出をお話するわ」
ギョームは寂しげに頷いた。
「グローリア伯を連れていくか」
「駄目よ。ギルフォードが生まれたばかりなのよ。モーティマーを連れていくわ」
「そうか……。気をつけて行ってこい。クロイツはユヴェーレンとも近い」
「あなたも……、お気をつけて」
ギョームは静かに「おやすみのキス」を交わした。が、いつもよりも長く、何回も繰り返されるキスに、キリエは胸が締め付けられた。
エレソナが到着してから一週間後、妹夫婦と久々に共に過ごしたジュビリーが帰国することになった。時同じくして、キリエはクロイツへ旅立つ日を迎えた。
あらかじめクロイツに使者を送り、途中で同盟国カンパニュラにヘルツォークが護衛のために出迎えてくれることになっている。大陸に緊張が走っている今、キリエがクロイツへ向かうことにジュビリーは良い顔をしなかった。だが、夫が側室と過ごしている間、ガリアにいたくないのは当然だろう。
帰国の間際、挨拶をしにジュビリーが王妃の間を訪れると、少しは落ち着いた表情に戻ったキリエが待っていた。
「アングルへ帰らせていただきます、王妃」
「……今回はごめんなさい。嫌な役目をさせてしまったわ」
キリエの気遣いにジュビリーは沈痛な表情を見せた。
「クロイツは元々ユヴェーレンの地方都市。道中は充分お気をつけて……」
「サー・ロバートが一緒だもの。大丈夫よ、ねぇ?」
傍らに控えたモーティマーが頭を下げる。隣のジョンが心配そうに前へ出る。
「本当に……、ご同行しなくてもよろしいのでしょうか……」
「ギルフォードが生まれたばかりじゃない。出産を終えたばかりのマリーも心配でしょう?」
「しかし……」
「傍にいてあげて」
その一言を聞かされると、ジョンは何も言い返せない。キリエはふと申し訳なさそうな表情でモーティマーに目を向けた。
「あなたも……、早く結婚式をさせてあげないとね」
「えっ?」
伏し目がちのモーティマーが驚いて顔を上げる。
「クレド侯、調整をお願い」
「はい」
「……申し訳ございません」
モーティマーはすっかり恐縮して一礼した。
ジュビリーの帰国の挨拶が済むと、キリエは夫に見送られてビジュー宮殿を後にした。
「行ってくるわ、ギョーム」
そう告げたものの、夫はなかなか手を離そうとしない。
「……ギョーム」
眉をひそめて囁くが、ギョームは思いつめた眼差しで見つめてくるばかりだ。駄目だ。これでは、旅に出られない。そう感じたキリエは勇気を振り絞り、背伸びをすると夫の唇に口付けた。
「……キリエ!」
ギョームが面食らっている間、キリエの手がすり抜ける。踵を返し、背を向けるキリエに思わず追いすがろうとする王をバラが制する。
「……陛下」
振り向かずに馬車に乗り込むキリエ。一人きりで乗り込んだ馬車は、やけに寂しかった。キリエは涙を堪えて顔を伏せた。
オイールを出発して三日後、キリエ一行はカンパニュラに入国した。この訪問は公式なものではなく、あくまで私的な旅行のため、キリエたちは護衛を連れてひっそりと入国した。が、途中で逗留した地方都市コジモでは、思いがけない人物の出迎えを受けた。
「初めてお目にかかります、女王陛下」
「初めまして」
キリエを出迎えたのは、カンパニュラのアルベルト王太子だった。
「ご結婚おめでとうございます、王太子殿下。お子様もご誕生されたとか」
「ええ」
ポルトゥスのアマリア王女と結婚したアルベルトは、最近子どもが生まれたばかりらしい。
「お名前は?」
「バルトロメオと名付けました」
キリエは優しい微笑を浮かべた。
「未来のカンパニュラ王ですね」
「ええ」
アルベルトは穏やかな表情で頭を下げた。が、気の毒そうに眉をひそめる。
「失礼ながら……、ガリア国内は不安な情勢だとお聞きしております」
キリエは寂しそうな表情で頷いた。アルベルトは少しの間黙り込んでいたが、思い切った様子で口を開いた。
「……お世継ぎのことは、あまり深くお考えにならぬ方がよろしいですよ」
思わぬ言葉にキリエははっとして顔を上げた。背後に控えたモーティマーも落ち着かない様子でキリエを見守る。
「父が戦死した際、まだ幼かった私が王位に就くことを誰もが不安がりました。本来ならば私が王位を継ぎ、母が摂政に就任するはずでしたが……、その頃国は戦争の真っ最中。母は廷臣の反対を押し切って自ら王位を宣言しました」
キリエはアルベルトが語る言葉に引き込まれた。
「しかし、国民は母を支持したのです。母は体勢を立て直し、絶体絶命の危機を乗り越えました。今では、私に譲位するべきだ、なんて言う者はおりませんよ」
アルベルトは肩をすくめると苦笑してみせた。
「……偉大な母君ですね」
「偉大すぎて少々困っております」
キリエはくすりと笑った。戴冠式で会ったフェルナンドと比べると、アルベルトは顔つきは似ているものの、雰囲気はまったく違う。王太子にふさわしく、威厳もあり、知的な雰囲気だ。
「国民は君主を選べないと申しますが、時代がふさわしい君主を用意するのだと思っています」
「……殿下」
アルベルトは微笑んだ。
「アングルはあなたを選んだ。後継者も……、おのずとふさわしい形で現れるでしょう」
「……だといいのですが」
まだ寂しげに俯くキリエに、アルベルトは身を乗り出して声をひそめた。
「ガリアではお世継ぎがいらっしゃらないことが不安材料のようですが、子がいればいい、というものでもありません」
「はい?」
アルベルトは苦り切った顔つきで囁いた。
「私の弟、フェルナンドにはすでに庶子が二人おります」
キリエは目を丸くし、そして思わずあんぐりとさせた口元を慌てて手で隠す。
「まったく、何を考えているのやら……。王太子は私ですが、弟にも王位継承権があります。彼にはその自覚がない。困ったものですよ」
キリエは、何と感想を述べていいものやら、困惑気味にアルベルトを見つめる。
「後々、どんな問題が引き起こされるかわかったものではありません。それに比べ、ギョーム王陛下は大変な愛妻家とお聞きしております。夫婦仲が良いのが一番でございますよ」
そこでアルベルトは口をつぐんだ。目の前の女王が沈んだ表情で俯いている。後ろに控えた秘書官も沈痛な表情だ。
「……陛下?」
「あっ……」
キリエは慌てて顔を上げた。そして、無理矢理笑顔を作る。
「ええ……。夫は、本当に私を大事にしてくれます。わがままな私を……」
アルベルトは目を細めると女王を見つめた。
「……あなた方はまだお若いから、周りが色々とうるさいでしょう」
「……はい」
「ご夫君を信じて下さい。きっと幸せにしてくれるでしょう」
アルベルトの言葉に、キリエは微笑んで頷いた。
アルベルト王太子との会見後、キリエは城館の窓から町並みを眺めた。アングルともガリアとも異なる、独特な雰囲気の家々。教会の尖塔も見える。キリエはオレンジ色に染まる夕空を見つめ、遠くガリアの夫を思った。ギョームは、バレクランに到着したのだろうか……。
日が落ち、暗闇に呑まれたバレクラン城。冷たい石造りの廊下に不安を掻き立てるような高い靴音が響く。暗い石壁に、侍女がささげ持つランプの明かりが広がる。壁に浮き上がる人影はふたつ。殺風景な長い廊下の突き当たりの部屋までやってくると、侍女は扉を叩いた。ややあって返事が聞こえてくる。重たい扉を開くと、明かりを孕んだ天蓋が迎えた。侍女は黙って寝室へ入ると、「失礼します」と声をかけてから天蓋のカーテンをそっとめくり上げた。そこには、寝台にもたれたエレソナ・タイバーンの姿があった。彼女はようやく現れたガリア王に舌打ちしてみせる。
「やっと来たか」
ギョームは顔をしかめてゆっくり寝台に歩み寄った。扉がばたんと閉まる音が大きく響く。エレソナはふんと鼻を鳴らした。
「怖じ気付いて逃げ出したかと思ったぞ」
ギョームは無言で妻の異母姉を眺めた。エレソナは枕に寄りかかり、足を組んだ姿で見上げてくる。ギョームにとってエレソナは、自分の目の前で妻の首を絞めた女という印象しかない。明らかに侮蔑的な目を向けてくるギョームに、エレソナはやぶ睨みの目を細めた。
「キリエは難攻不落だったか」
「やめろ……!」
そこで初めてギョームは口を開いた。彼は悔しげに口元を歪めた。
「余計なことは、言うな……!」
キリエと違い、ガリア語が話せないエレソナのためにギョームはアングル語で吐き捨てた。
「ずいぶんだな」
エレソナは目を逸らすと呟いた。
「おまえがキリエを抱いていれば何の問題もなかったのだ」
「キリエはまだ子どもだ!」
「私と二つしか違わない」
ギョームは怒りを鎮めようと呼吸を繰り返した。
「……必ず、キリエに子を生ませてみせる」
「せいぜいがんばってくれ」
エレソナはうんざりした顔つきで言い放った。が、彼女は目を細めるとギョームに鋭い視線を送った。
「……おまえは、まだキリエに恋をしているな」
ギョームは息を呑んだ。顔は冷静さを保ったつもりだったが、胸に突き刺さる言葉だった。彼はかすれた声で呟いた。
「キリエは……、予の妃だ……!」
「だが、夫婦になりきれていない。だからこんなことになった」
「そなたに言われる筋合いはない!」
「まったくだ。元より私はおまえらの関係などに興味はない。……こっちはとんだとばっちりだ」
そう言われれば一言も言い返せないギョームは、ひそかに歯噛みした。そして、眉間に皺を寄せると歪めた口から呻くように囁く。
「……そなた、本当にキリエの姉なのか」
「こっちが聞きたいわ」
溜息混じりに呟くと、エレソナは足を組み替えた。
「嫌なら帰れ。私だって好きでここにいるわけじゃない」
ギョームとて、できることならこのまま背を向けて帰りたかった。だが、この寝室の両隣には、廷臣の指示で医師と女官が控えている。ごくりと唾を飲み込むギョームに、エレソナはわずかに身を乗り出した。
「ひとつ、言っておくぞ」
やぶ睨みの瞳に射すくめられ、ギョームは微動だにせず相手を凝視した。
「キリエは私の妹であり、レノックス兄様の妹だ」
ギョームは顔を歪めた。彼の脳裏に、エスタドの使者を痛罵した妻の姿がよぎる。
「冷たい心と、激しい心。あの修道女はその二つを併せ持っている。……甘く見ないことだ」
〈タイバーンの雌狼〉の言葉に、ギョームは不吉な鼓動を感じた。




