第9帳 上澄みは湧きませぬ
江戸自由市では、水が整うと、飯がさらに売れた。
上澄み飯が売れる。
焼き魚に上澄みだれをかける。
宿の飯にも少し欲しがる。
辛味噌大根の屋台まで、下味に少し欲しがる。
最初は、捨てるはずの汁だった。
だが、捨てるはずのものほど、足りなくなるのが江戸である。
「上澄みが足りませぬ」
味噌屋が、真っ青な顔で多米殿に訴えた。
森蘭丸は、蔵前に並んだ味噌樽を見た。
「足りないとは、どういうことでございますか」
「そのままにございます」
多米殿は、いつもの無表情で答えた。
「上澄み飯の屋台が欲しがる。魚焼きが欲しがる。宿が欲しがる。大根屋まで欲しがる」
「では、味噌樽を開ければよいのでは」
蘭丸が言うと、味噌屋が首を振った。
「樽を開けても、上澄みは少ししか取れませぬ」
「そういうものなのですか」
「はい。味噌は味噌にございます。上に浮く汁だけを取るためのものではございませぬ」
味噌屋は、少し恨めしそうに味噌樽を見た。
「しかも、上澄みばかり取れば、下の味噌が乾きます。味噌そのものの値が落ちます」
蘭丸は、そこでようやく分かった。
捨てるものだったから、銭になった。
だが、銭になると分かった途端、今度は捨てるほど余らない。
「多米殿」
「何でしょう」
「江戸は、面倒な町でございますね」
「はい」
「はい、なのですね」
「売れれば、足りなくなります」
「足りなくなれば」
「揉めます」
「揉めれば」
「帳面に載ります」
「その前に、どうにかしてください」
◇
上澄み不足は、すぐに屋台通りへ広がった。
「今日は上澄み飯を出せねえ!」
「魚にかけるだれがない!」
「宿の客に出す飯が弱くなる!」
「昨日と味が違うなら安くしろ!」
「薄くしても魚と酒は入れてるんだ!」
屋台の前で、人足と船頭が揉める。
宿の女将は、味噌屋へ詰め寄った。
「昨日まで出せたのに、今日は出せぬとはどういうことです」
「ないものは、ないので」
「客は待ちませぬ」
呉服屋の若い者まで口を出した。
「上澄み飯を食わせると、客が長居するんです。困ります」
「長居して困るのでございますか」
蘭丸が尋ねると、呉服屋は真面目な顔で答えた。
「長居した客は、布を余計に見るので」
「それは良いことでは」
「見たうえで、買うとは限りませぬ」
「江戸の商いは難しゅうございますね」
その横で、森長可が味噌樽を覗き込んでいた。
「兄上」
「何だ」
「まさか、上澄みを直接」
「味を見る」
「やめてください」
「足りぬなら、足りぬ理由を知るべきだ」
「兄上が味を見ても、たぶん何も解決いたしませぬ!」
長可は構わず、柄杓で上澄みをすくった。
一口。
すぐに顔をしかめた。
「辛い」
「だから申したではございませぬか!」
「飯にかければうまいが、そのまま飲むものではないな」
「当然でございます!」
多米殿は筆を動かした。
「森長可様、上澄み直飲み。飲用に向かず」
「書くな!」
「商品にするか判断するために必要です」
「商品にするな!」
蘭丸は叫んだ。
風魔小太郎が、いつの間にか味噌樽の陰にいた。
「飲むなら、薄める」
「風魔殿まで何を」
「酒で割れば、飲む者はいる」
「いません!」
船頭が横から言った。
「いや、少しなら」
「いないでください!」
◇
多米殿は、その日のうちに味噌屋を呼んだ。
場所は蔵前。
並んだのは、味噌屋、上澄み飯の屋台、魚焼き、宿の女将、大根屋、そしてなぜか長可である。
「なぜ兄上まで」
「味を見た」
「見ただけでございます!」
多米殿は構わず、味噌屋に尋ねた。
「上澄みを増やすことはできますか」
味噌屋は困った顔をした。
「普通に仕込めば、限りがございます」
「普通でなければ」
「……味噌を少し緩く仕込み、売る前に酒と湯でのばし、火を入れるなら、だれにはできます」
蘭丸は目を瞬いた。
「それは、上澄みなのですか」
味噌屋は首を振った。
「上澄みではございませぬ」
「では」
「味噌だれにございます」
多米殿の筆が止まった。
止まったのは一瞬だった。
「続けてください」
味噌屋は、少し嫌な予感がした顔になった。
「上澄みは樽の上に浮いた汁。量に限りがございます。ですが、味噌を少し取り、酒と湯でのばし、火を入れれば、飯にも魚にも使えるだれになります」
「味は」
「上澄みとは違います。ですが、整えれば使えます」
「整えるとは」
「干し魚を入れる。海藻を入れる。酒を入れる。少し寝かせる」
多米殿の筆が走る。
「上澄み一番。江戸だれ味噌。用途分け」
蘭丸は、眉を寄せた。
「上澄み一番?」
「本当の上澄みは、量が少のうございます」
多米殿は言った。
「ならば、上物として分けます。宿、公方様用、料亭、特別な飯に」
「では、普段の屋台は」
「江戸だれ味噌」
「また新しい名が」
「分かりやすい名は売れます」
味噌屋がぽつりと言った。
「味噌を売るために味噌を仕込んでいたのに」
「はい」
多米殿は頷いた。
「これからは、だれを取るための味噌も仕込んでください」
「だれを取るための味噌……」
味噌屋は、少し遠い目をした。
◇
試しの鍋が用意された。
味噌を少し取る。
酒を入れる。
湯でのばす。
干し魚を入れる。
海藻を入れる。
火にかける。
灰汁を取る。
少し煮詰める。
上澄みよりは濁っている。
だが、香りは強い。
魚焼きが少し舐めた。
「焼き魚には、こっちの方がよく絡むな」
宿の女将が頷いた。
「夜の飯に出すなら、こちらの方が腹に残ります」
大根屋が笑った。
「辛味噌に少し混ぜてもいい」
上澄み飯の屋台は、少し悔しそうに言った。
「上澄み飯とは別物だな」
「別物でよろしいのです」
多米殿は淡々と答えた。
「別物なら、別の値が付きます」
長可も舐めた。
「飯だ」
「兄上、何がでございますか」
「飯が欲しくなる」
多米殿が頷いた。
「十分です」
「それでよろしいのでございますか」
「飯が欲しくなるだれは、売れます」
その場で、炊いた飯に江戸だれ味噌をかけた。
焼き魚を乗せる。
葱を散らす。
湯気が上がる。
見た目は上澄み飯に似ている。
だが、味は少し違った。
上澄み飯より濃い。
魚の香りが強い。
味噌の角がある。
腹に残る。
人足が一口食べて言った。
「これはこれで、いいな」
船頭も頷いた。
「昼飯なら、こっちだ」
宿の女将が言った。
「夜の客にも出せます」
多米殿は、すでに札を書いていた。
江戸だれ飯。
蘭丸は頭を抱えた。
「もう名が決まっております」
「はい」
「上澄み飯とは別でございますか」
「別です」
「客は混乱しませぬか」
「札を分けます」
「また札でございますか!」
◇
その時、信濃者が小さな袋を出した。
「多米様」
「何でしょう」
「この粉にも、だれは合うかもしれませぬ」
袋の中には、灰色がかった粉が入っていた。
蘭丸は首をかしげた。
「これは」
「蕎麦粉にございます」
「蕎麦」
「はい。湯で練れば食えます」
「粉を、湯で」
信濃者は、椀に蕎麦粉を入れた。
湯を注ぎ、木杓子で練る。
灰色の塊が、もったりとまとまった。
蘭丸は眉を寄せた。
「これは、餅でございますか」
「蕎麦がきにございます」
「飯ではないのですね」
「飯の代わりにはなります」
そこへ、江戸だれ味噌を少しつける。
長可が、すぐに手を出した。
「兄上!」
「味見だ」
「味見が多すぎます!」
長可は蕎麦がきを食べた。
少し考えた。
「……腹にはたまる」
「褒めておられるのですか」
「戦向きだ」
多米殿の筆が止まった。
蘭丸は嫌な予感がした。
「多米殿」
「蕎麦がき味噌だれ」
「また名が増えました!」
信濃者は、少し嬉しそうだった。
「蕎麦粉は軽うございます。山から運びやすい」
多米殿が頷いた。
「軽く、腹にたまり、味噌だれに合う」
「はい」
「では、信濃蕎麦粉も帳面に」
蘭丸は、灰色の蕎麦がきを見た。
飯でもない。
餅でもない。
だが、味噌だれをつけると食える。
これもまた、江戸飯になるらしい。
「多米殿」
「何でしょう」
「これも屋台で売るのでございますか」
「売れます」
「まだ少ししか試しておりませぬ」
「長可様が食べました」
「それが根拠になるのですね」
「腹にたまるものは、長可様の判断が早うございます」
長可は腕を組んだ。
「悪くない」
蘭丸は、ますます嫌な予感がした。
◇
翌日、屋台通りには三つの札が立った。
上澄み飯。
上澄み一番使用。数量限りあり。
江戸だれ飯。
味噌屋仕込み。飯に強し。
蕎麦がき味噌だれ。
信濃蕎麦粉使用。腹にたまる。
客は迷った。
「上澄み飯は高いのか」
「今日は少ねえらしい」
「江戸だれ飯は安いのか」
「昼ならこっちだ」
「蕎麦がきは何だ」
「粉を練ったものらしい」
「うまいのか」
「長可様が悪くないと言った」
「なら腹にはたまるな」
多米殿は、静かに売れ行きを見ていた。
「どうでございますか」
蘭丸が尋ねる。
「分かれました」
「分かれた?」
「軽い飯には上澄み。腹を満たす飯には江戸だれ。粉ものには江戸だれを濃く。魚にはそのまま」
「使い分けでございますか」
「はい」
「足りないものを増やすのではなく、分ける」
「はい」
蘭丸は、少し感心した。
上澄みが足りない。
だから、上澄みを無理に増やすのではない。
本物の上澄みは上物にする。
代わりのだれを作る。
用途を分ける。
札を分ける。
値を分ける。
江戸は、足りないものまで商いに変える。
その時、味噌屋が恐る恐る言った。
「多米様」
「何でしょう」
「江戸だれ味噌を仕込むなら、別の蔵が要ります」
「はい」
「樽も要ります」
「はい」
「人も要ります」
「口入れ所から出します」
「銭も」
「取ります」
「誰から」
「江戸だれを使う者から」
味噌屋は黙った。
だが、今度は逃げなかった。
「……仕込みます」
多米殿は頷いた。
「では、だれ蔵を作ります」
「だれ蔵」
蘭丸は声に出した。
「味噌蔵ではなく?」
「味噌蔵は味噌を守ります。だれ蔵は、江戸の飯を守ります」
多米殿は平然と言った。
「名も分けます」
◇
だれ蔵の話が出ると、また揉めた。
「うちの屋台が先に使っていた!」
「魚焼きにも必要だ!」
「宿の客に出す分を確保して!」
「蕎麦がきにも回せ!」
皆が言い合う。
多米殿は、それを聞いて水札の時と同じように木札を出した。
「だれ札を作ります」
蘭丸は、もう驚く前に疲れた。
「やはり札でございますか」
「はい。上澄み一番札。江戸だれ飯札。魚焼き濃だれ札。蕎麦がき味噌だれ札」
「細かい!」
「混ぜると揉めます」
「分けても揉めそうですが」
「分ければ、どこで揉めているか分かります」
風魔が横から言った。
「だれ札の偽物が出る」
「風魔殿、言わないでください」
「出る」
多米殿は頷いた。
「では、だれ札にも焼き印を」
「また焼き印が増える!」
蘭丸の声が、屋台通りに響いた。
◇
夕刻。
江戸だれ飯は、売り切れた。
上澄み飯も、数量限りの札を出したせいで、かえって早く売り切れた。
蕎麦がき味噌だれは、最初こそ怪しまれたが、人足たちが食い始めると意外に売れた。
味噌屋は、疲れた顔でありながら、どこか嬉しそうだった。
「まさか、味噌のだれで蔵を作ることになるとは」
蘭丸は言った。
「大変でございますね」
「大変です」
味噌屋は頷いた。
「ですが、味噌を売るだけより、忙しい方が銭になります」
多米殿が静かに頷いた。
「よい言葉です」
「書かないでください」
「書きます」
長可は、江戸だれ飯を食べていた。
「兄上」
「何だ」
「それは何杯目でございますか」
「二杯目だ」
多米殿は筆を動かした。
「三杯目です」
「多米!」
「一杯目は味見と称しておられました」
「味見は数に入らぬ」
「入ります」
蘭丸は、いつものやり取りに深く息を吐いた。
その時、長可がぽつりと言った。
「握り飯に塗ってもよさそうだな」
「握り飯に?」
「冷めても食える。味が強い。戦でも食える」
多米殿の筆が止まった。
蘭丸は嫌な予感がした。
「多米殿」
「何でしょう」
「今、何か思いつきましたか」
「思いつきました」
「何を」
「江戸だれ握り飯」
「また始まった!」
味噌屋が、今度は逃げるように後ずさった。
「私は、今日はもう」
「明日、試します」
多米殿は言った。
長可は満足げに頷いた。
「握り飯なら、戦でも食える」
「兄上、江戸飯をすぐ戦場へ持っていかないでください!」
「飯はどこでも食うものだ」
「そういう話ではございませぬ!」
◇
翌朝。
だれ蔵の予定地には、もう杭が打たれていた。
その前に、新しい札が立っている。
上澄み一番。数量限り。
江戸だれ味噌。飯・魚・蕎麦がき用。
だれ札なき者、勝手に持ち出すべからず。
上澄み直飲み禁制。
初例、森長可様。
蘭丸は、札の最後の一行を見て固まった。
「多米殿」
「何でしょう」
「これは必要でございますか」
「昨日、長可様が直に飲まれました」
「一度だけです」
「一度あれば、二度目があります」
長可は札を見て腕を組んだ。
「俺の名で、上澄みが守られるか」
「兄上、何でも誇らないでください」
風魔が、だれ蔵の杭の陰から言った。
「だれ札に賭ける者が出る」
「何を賭けるのでございますか」
「上澄み一番と江戸だれ、どちらが早く売り切れるか」
「風魔殿!」
「予測だ」
多米殿の筆が静かに動いた。
「予測札、再調査」
風魔は、ほんの少しだけ顔をしかめた。
蘭丸は帳面を抱え直し、だれ蔵の杭を見た。
江戸自由市では、捨てるはずの上澄みが飯になった。
飯になれば足りなくなった。
足りなくなれば、味噌屋がだれを仕込む。
だれは札になり、札は蔵になり、蔵はまた町を広げる。
そして信濃の蕎麦粉は、まだ切られることなく、まずは丸められて味噌だれを背負うのであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
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『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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