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第10帳 上澄み一杯、相撲一番

 上澄み一番は、よく売れた。

 数量限り。

 味噌樽の上に浮いた本物の上澄み。

 江戸だれ味噌とは違う、軽く、香りが立つ飯。

 その札が出た途端、屋台には人が並ぶ。

 そしてその日、上澄み飯は最後の一杯になった。

「それをもらう」

 森長可が言った。

「俺が先だ」

 同時に、太い声がした。

 蘭丸は振り向いた。

 そこに立っていたのは、樽のような胸をした人足だった。腕は丸太のように太く、肩には味噌樽を担いだ跡がくっきり残っている。

 長可と人足が、屋台の前でにらみ合った。

 最後の上澄み飯が、二人の間で湯気を立てている。

「兄上」

 蘭丸は、すぐに嫌な予感がした。

「何だ」

「飯一杯で争ってはなりませぬ」

「飯一杯ではない」

 長可は上澄み飯を見た。

「最後の一杯だ」

 人足も頷いた。

「俺は朝から味噌樽を六つ運んだ。その飯を食う権利はある」

「俺は味を見てやる」

「味見で最後を取られてたまるか」

 人足の目も引かない。

 蘭丸は、少し驚いた。

 江戸で長可と正面からにらみ合う者は少ない。

 だが、この人足は逃げなかった。

 長可は、少しだけ口の端を上げた。

「面白い」

「面白くございませぬ!」

 蘭丸が止めるより早く、長可は一歩前に出た。

 人足も一歩前に出る。

 屋台の親父が、上澄み飯を抱えて後ずさった。

「多米殿!」

 蘭丸は助けを求めた。

 多米殿は、すでに帳面を開いていた。

「市中喧嘩、未遂」

「止めてください!」

「止めます」

 多米殿は静かに言った。

「相撲で決めなされ」

 蘭丸は固まった。

「……はい?」

「相撲です」

「なぜそうなるのでございますか!」

「殴れば怪我をします。斬れば大事になります。相撲なら、押し出せば済みます」

「確かに済むかもしれませぬが!」

 長可は笑った。

「よい」

 人足も、腕を鳴らした。

「相撲なら、受ける」

 蘭丸は頭を抱えた。

     ◇

 多米殿の動きは早かった。

 新しい荷道の脇にある空き地へ、人足を集める。

 米俵を並べて丸く囲う。

 土を踏み固める。

 井戸番に水を撒かせる。

 風魔に、人の流れを見るよう命じる。

 蘭丸は唖然としていた。

「多米殿」

「何でしょう」

「なぜ、手際がよいのでございますか」

「いつか使えると思っておりました」

「何を」

「人が集まる空き地にございます」

 多米殿は、丸く囲われた場所を指した。

「土俵です」

「もう名まで」

「分かりやすい名は広まります」

 その頃には、周りに人が集まり始めていた。

 人足。

 船頭。

 屋台の親父。

 宿の女将。

 呉服屋の若い者。

 味噌屋。

 炭売り。

 馬方。

 そして、なぜか菱屋の商人まで。

「長可様が相撲を取るらしいぞ」

「相手は権六だ」

「あの味噌樽を二つ担ぐやつか」

「勝てるのか」

「勝てねえだろう」

「でも見たいな」

 蘭丸は、人の輪が膨らむのを見た。

 嫌な予感は、もはや形になっている。

 屋台も集まってきた。

 上澄み飯。

 江戸だれ飯。

 辛味噌大根。

 蕎麦がき味噌だれ。

 茶売り。

 焼き魚。

 水桶まで来た。

「屋台まで」

 蘭丸が呟く。

 多米殿は頷いた。

「人が集まれば、飯が売れます」

「相撲を止める気は」

「止めるより、囲った方が安全です」

「囲うと商いになるのでございますか」

「はい」

 多米殿は札を書いた。

 見物札、一文。

 土俵内へ入るべからず。

 勝負中の飯持ち込み禁制。

「見物札を取るのですか!」

「人が集まっておりますので」

「集めたのは多米殿では!」

「集まったのです」

 多米殿は平然としていた。

     ◇

 風魔小太郎は、土俵の反対側に立っていた。

 蘭丸は近づいた。

「風魔殿」

「何だ」

「まさか、また予測など」

「できる」

「できる、ではございませぬ!」

「長可殿が勝つ」

「それは予測というより、見れば分かります」

 風魔は権六と呼ばれた人足を見た。

「だが、何呼吸もつかは分からぬ」

 蘭丸は眉をひそめた。

「何呼吸?」

「一呼吸で外へ出るか。三呼吸もつか。五呼吸もつか」

「それを何に使うのでございますか」

「予測だ」

「賭けですね!」

「予測だ」

 その後ろで、すでに人足たちが小声で言い合っていた。

「三呼吸はもつ」

「いや、一瞬だ」

「権六なら五呼吸いける」

「長可様に五は無理だろ」

 蘭丸は顔をしかめた。

「風魔殿!」

「人が勝手に予測している」

「絶対に仕向けましたね!」

 風魔は答えなかった。

 多米殿が、その様子を見て静かに言った。

「予測札も、いずれ表へ出した方がよさそうです」

「多米殿まで何を!」

「裏で銭が動くなら、表に出した方が見えます」

「それは、正しいようで正しくない気がいたします!」

     ◇

 長可と権六が土俵に入った。

 人の輪が、さらに厚くなる。

 権六は大きい。

 肩幅もある。

 腰も重そうだ。

 長可より背は少し低いが、横幅はある。

 蘭丸は少しだけ思った。

 案外、勝負になるのではないか。

 だが、長可は楽しそうだった。

「名は」

「権六」

「よい腕だ」

「味噌樽で鍛えた」

「なら、俺を樽だと思え」

「そんな細い樽はねえ」

 周りがどっと笑った。

 長可も笑った。

「気に入った」

 多米殿が手を上げた。

「勝負。押し出し、倒し、いずれも可。ただし、殴打、噛みつき、刀、鍋の使用は禁じます」

「鍋の使用とは何ですか!」

 蘭丸が叫ぶ。

「念のためにございます」

 長可が言った。

「鍋は使わぬ」

「当然です!」

 土俵の外で、最後の上澄み飯が置かれている。

 勝った方が食う。

 それだけのはずだった。

 多米殿が手を振り下ろす。

「始め」

 権六が低く当たった。

 重い。

 土が鳴った。

 だが次の瞬間、長可の腕が権六の脇へ入った。

 腰を寄せる。

 足を運ぶ。

 一気に押す。

 権六の大きな体が、米俵の外へ転がった。

 終わった。

 あまりに早かった。

 周りが一瞬静まり、次にどっと湧いた。

「強え!」

「権六が飛んだぞ!」

「一呼吸だった!」

「いや、二呼吸だ!」

「一だ!」

「二だ!」

 蘭丸は、嫌な方の盛り上がりを感じた。

 長可は、上澄み飯を受け取った。

 食べた。

 一口で、満足そうに頷いた。

「うまい」

 権六は土を払いながら笑った。

「参りました」

 長可は権六を見た。

「悪くない。また来い」

「へい」

 そこで終わればよかった。

 だが、長可は周囲を見回した。

 目が、完全に戦場のものになっていた。

「次、来いや!」

 人の輪が爆ぜた。

「俺だ!」

「いや、俺が!」

「船頭を出せ!」

「馬方の勘八を呼べ!」

「炭蔵の太兵衛ならどうだ!」

 蘭丸は青ざめた。

「兄上!」

「一杯では足りぬ」

「飯の話でございますか、相撲の話でございますか!」

「両方だ」

「最悪でございます!」

     ◇

 次々と人が土俵に入った。

 船頭。

 馬方。

 炭蔵の人足。

 米蔵の担ぎ手。

 皆、長可に挑む。

 皆、すぐ外へ出る。

 だが、負けても笑う。

 周りが湧く。

 屋台が売れる。

 水桶が減る。

 風魔の周りで予測が増える。

 多米殿の帳面が厚くなる。

 蘭丸は、途中で止めるのを諦めかけた。

 それでも言わずにはいられない。

「多米殿!」

「何でしょう」

「これは、もうただの揉め事ではございませぬ!」

「はい」

「ならば止めるべきでは」

「止めるには惜しい人出です」

「本音が出ました!」

 多米殿は土俵の周りを見た。

「飯が売れています。水札も使われています。口入れ所に人足の名が集まります。力のある者も分かります」

「力のある者」

「はい。蔵仕事、荷運び、火消し、警固。力自慢は江戸に必要です」

 蘭丸は、言葉に詰まった。

 ただの喧嘩に見えたものが、いつの間にか力自慢の見定めになっている。

 長可が暴れているのに、町が壊れていない。

 囲ったからだ。

 見せ物にしたからだ。

 帳面に入れたからだ。

 多米殿が静かに言った。

「金になります」

 風魔も、離れたところで言った。

「予測ができます」

 蘭丸は、両手で顔を覆いたくなった。

「お二人とも、同じ目をしておられます!」

     ◇

 夕刻。

 相撲は、ようやく終わった。

 長可は十人を土俵の外へ出し、上澄み飯を三杯、江戸だれ飯を二杯、辛味噌大根を四本食べた。

 権六は負けたが、人気が出た。

 人足たちは権六の肩を叩き、「次はもっと粘れ」と笑った。

 屋台は、ほとんど売り切れた。

 多米殿の帳面には、新しい項目が並んでいた。

 見物札。

 土俵場代。

 屋台場所代。

 水桶追加。

 力自慢名簿。

 長可様取組。

 権六、再戦希望。

 風魔小太郎、予測札調査。

 蘭丸は、帳面を見下ろした。

「多米殿」

「何でしょう」

「これは、明日もやるのでございますか」

「毎日は駄目です」

 蘭丸はほっとした。

「よかった」

「月に一度がよろしいかと」

「よくございませぬ!」

「力自慢が集まります。屋台も売れます。見物も取れます」

「やる気でございますね」

「はい」

 多米殿は木札を書いた。

 江戸相撲。

 月一度。

 無断取組禁制。

 土俵外での喧嘩禁止。

 勝負飯は事前に用意すべし。

「勝負飯とは何でございますか」

「最後の一杯で揉めぬためです」

「元はそれでしたね……」

 蘭丸は、疲れ切った声で言った。

     ◇

 翌朝。

 土俵のあった空き地には、もう新しい札が立っていた。

 江戸相撲場。

 見物札、一文。

 取組希望者は口入れ所へ届け出ること。

 予測札、無許可禁制。

 初例、森長可様と権六。

 蘭丸は、その札を見て深く息を吐いた。

 最後の上澄み飯一杯を巡るにらみ合いは、相撲になった。

 相撲は人を集めた。

 人は屋台を集めた。

 屋台は銭を集めた。

 銭は札になり、札は相撲場になった。

 江戸自由市では、兄上が暴れると、町が壊れる。

 そう思っていた。

 だが違った。

 囲えば、見世物になる。

 札を出せば、商いになる。

 帳面に載せれば、江戸の仕組みになる。

 長可は土俵の前で、満足げに腕を組んでいた。

「蘭丸」

「何でございましょう」

「次は、もっと強い奴を呼べ」

「呼びませぬ」

 その横で、多米殿が言った。

「呼びます」

「多米殿!」

 風魔も言った。

「呼べば、予測ができる」

「風魔殿!」

 長可が笑った。

「次こいや!」

 朝の江戸に、その声が響いた。

 そして屋台の親父たちは、その声を聞くなり、いそいそと仕込みを増やし始めたのであった。



――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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