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第7帳 公方様も勘定に入ります

 江戸自由市に、古河公方が来る。

 その知らせが入った朝、森蘭丸は帳面を抱えたまま固まった。

「古河公方様、でございますか」

「はい」

 多米殿は、いつもの無表情で頷いた。

「足利義氏様にございます」

「関東の公方様ではございませぬか」

「はい」

「なぜ江戸へ」

「見に来られます」

「何を」

「江戸を」

 蘭丸は、思わず通りを見た。

 泥。

 荷車。

 上澄み飯の屋台。

 辛味噌大根の札。

 長可避けの道。

 口入れ所。

 菱屋。

 炭蔵。

 味噌蔵。

 見せてよいものなのか、よく分からないものばかりだった。

「父上」

 蘭丸は、森可成を見た。

「古河公方様をお迎えするのであれば、相応の支度を」

「する」

 可成は頷いた。

「ただし、長可を近づけるな」

「はい」

 蘭丸は即答した。

 だが、遅かった。

「なぜだ」

 背後に森長可が立っていた。

「兄上」

「古河公方とは、強いのか」

「そういう方ではございませぬ!」

「公方なら強いだろう」

「公方様は、斬り合う相手ではございませぬ!」

 長可は不満そうに腕を組んだ。

「ならば、何をする者だ」

 蘭丸は少し詰まった。

「……関東の名分を持つ御方にございます」

「名分か」

「はい」

「斬れるのか」

「斬れませぬ!」

 多米殿が横から言った。

「斬れば、大変高くつきます」

「そういう問題でもございませぬ!」

     ◇

 昼前、古河公方・足利義氏の一行が江戸へ入った。

 供はそれなりに多い。

 武士。

 小者。

 荷持ち。

 茶道具を持つ者。

 酒を運ばせる者。

 座るための床几まで持つ者。

 蘭丸は、道の脇で頭を下げた。

「ようこそ、江戸自由市へお越しくださいました」

 足利義氏は、馬上から江戸を見回した。

 公方らしい衣をまとい、顔には気位がある。だが、その目は少し戸惑っていた。

「ここが、武田の江戸か」

 蘭丸は答えた。

「江戸自由市にございます」

「武田の市ではないのか」

「武田が開いた市にございます」

「同じではないか」

 蘭丸は困った。

 そこへ多米殿が一歩出た。

「同じではございませぬ」

 義氏の目が細くなる。

「そなたは」

「多米にございます。江戸の帳面を預かっております」

「帳面」

「はい」

「公方の前で、帳面か」

「公方様も、帳面に入ります」

 空気が止まった。

 蘭丸は心の中で叫んだ。

 多米殿、言い方!

 だが義氏は怒鳴らなかった。

 ただ、少しだけ眉を上げた。

「公方を、勘定に入れると申すか」

「はい」

「面白い」

 面白い、と言いながら、声はあまり面白そうではなかった。

 蘭丸は、さらに背筋を伸ばした。

     ◇

 古河公方の一行は、江戸を見て回った。

 まず菱屋。

 京布を見て、義氏は少しだけ表情を緩めた。

「都の物も入るのか」

「はい。京、堺、伊勢湾、駿河、尾張、信濃、甲斐、相模より」

 多米殿が答える。

「遠いな」

「遠いものほど、江戸では値が付きます」

 次に、口入れ所。

 仕事を求める者が札を見て並んでいる。

「盗人を働かせると聞いた」

 義氏が言った。

 蘭丸は緊張した。

「盗みを許しているわけではございませぬ」

 多米殿が答える。

「盗む前に働かせます。盗んだ者は、働いて返させます」

「斬らぬのか」

 義氏の視線が長可に向いた。

 なぜか、長可が少し得意そうにした。

「斬る前に連れてくる」

 蘭丸は小声で言った。

「兄上、余計なことを」

 だが義氏は、少し笑った。

「恐ろしい口入れ所だな」

「はい」

 多米殿は頷いた。

「よく働きます」

「どちらがだ」

「両方にございます」

 義氏は、今度こそ少しだけ笑った。

     ◇

 次に、長可避けの道を通った。

 義氏は札を読んだ。

 長可避け。

 荷車二台、すれ違い可。

 この道での煮炊き、無用の滞留、喧嘩、荷下ろしを禁ず。

 初例、森長可様。

 義氏は、長可を見た。

「そなたが、長可か」

「はい」

「道幅になった男か」

 蘭丸は、顔を伏せた。

 長可は腕を組んだ。

「荷が通るなら、悪くはない」

 義氏はしばらく長可を見ていたが、やがて小さく頷いた。

「名は残るものだな」

「残り方に問題がございます」

 蘭丸は、つい口にしてしまった。

 多米殿は、その横で筆を動かしている。

「古河公方様、長可避け御覧」

「多米殿、何を」

「御覧になりましたので」

「それも帳面に入るのでございますか」

「はい」

 蘭丸はもう驚かなかった。

 驚かない自分に、少しだけ驚いた。

     ◇

 昼には、屋台通りへ案内した。

 公方を屋台へ案内するのはどうかと、蘭丸は思った。

 だが義氏は、意外にも足を止めた。

「よい匂いだ」

 辛味噌大根の屋台だった。

 屋台の親父は、公方の姿を見て固まった。

「こ、公方様」

 義氏は串を見た。

「これは何だ」

「煮大根にございます」

 蘭丸が答える。

「ただし、練り味噌だれを」

「練り味噌」

 義氏は興味を示した。

 多米殿がすかさず言う。

「甘味噌と辛味噌がございます」

「では、甘い方を」

 義氏が一串取った。

 供の者たちが慌てた。

「公方様、屋台の物など」

 義氏は一口食べた。

 黙った。

 蘭丸は緊張した。

「いかがでございましょうか」

「……悪くない」

 その一言で、屋台の親父の顔が変わった。

 長可の時と同じ顔だった。

 蘭丸は、危険を感じた。

 屋台の親父が木札を取り出す。

「多米様」

「何でしょう」

「これは、書いてよろしいので」

「何を」

「公方様御賞味」

 蘭丸は即座に止めた。

「なりませぬ!」

 だが、多米殿は少し考えた。

「名札料を取ります」

「取るのですか!」

 義氏が眉を上げた。

「わしの名で銭を取るのか」

 多米殿は頭を下げた。

「御名を勝手に使わせるわけには参りませぬ。使うなら、札料を取ります」

「その銭は、どこへ行く」

「公方様の御休み処の費えに充てます」

 義氏は、しばらく多米殿を見ていた。

「わしの名で銭を取り、わしの茶代にするか」

「はい」

「なるほど。損はないな」

 蘭丸は、心の中で叫んだ。

 納得なさるのですか!

     ◇

 午後には、屋台通りに新しい札が立った。

 古河公方様御賞味。

 甘味噌大根。

 その隣には、以前からの札がある。

 長可様おすすめ。

 辛味噌大根。

 屋台の前に、人が集まった。

「公方様は甘味噌か」

「長可様は辛味噌だ」

「どちらがうまい」

「両方食えばよい」

「それは高い」

「なら半分ずつにしろ」

 屋台の親父は笑いが止まらない。

 多米殿の筆も止まらない。

「甘味噌、伸びています。辛味噌も落ちませぬ」

「多米殿、なぜ競わせるような札に」

「競うとは申し上げておりませぬ」

「では、何でございますか」

「選ばせております」

 風魔が、どこからともなく現れた。

「甘味噌と辛味噌、どちらが売れるか」

「風魔殿、また予測ですか」

「予測だ」

「賭けでしょう!」

 義氏が、少し楽しそうにそれを見ていた。

「江戸とは、騒がしいな」

「申し訳ございませぬ」

 蘭丸が頭を下げると、義氏は首を横に振った。

「いや。古河では、名ばかりが残る。ここでは、名まで売られる」

 その声には、怒りよりも、奇妙な感心があった。

「武田義信は、妙な町を作る」

 蘭丸は答えに迷った。

 多米殿が代わりに言った。

「名も、荷も、人も、止まれば腐ります」

 義氏が多米殿を見る。

「公方の名もか」

「使えば、動きます」

 多米殿は平然と言った。

 蘭丸は、もう止める気力がなかった。

     ◇

 夕刻。

 義氏の一行は、江戸を出る前に休み処へ入った。

 茶。

 菓子。

 甘味噌大根。

 上澄み飯。

 酒。

 供の者たちの飯。

 馬の世話。

 荷の置き場。

 蘭丸は、もてなしとして当然だと思っていた。

 だが、多米殿は帳面を差し出した。

「本日の御休み処の費えにございます」

 蘭丸は、震えた。

「多米殿」

「何でしょう」

「公方様に、勘定を?」

「はい」

 義氏の供が色めき立った。

「無礼であろう!」

 多米殿は、静かに頭を下げた。

「すでに一部、御名札料より差し引いております」

 義氏が手を上げ、供を止めた。

「残りは」

「こちらに」

 義氏は帳面を見た。

 しばらく黙った。

「甘味噌大根の名札料は」

「よく売れました」

「わしの茶代は」

「おおむね賄えました」

「酒代は」

「足りませぬ」

 義氏は、少しだけ顔をしかめた。

「酒が高いな」

「よい酒をお召しになりました」

「公方だからな」

「はい。ゆえに高くつきます」

 蘭丸は、息を止めていた。

 義氏はやがて、小さく笑った。

「よい。払え」

 供の者が驚く。

「公方様」

「ここは江戸であろう」

 義氏は帳面を見たまま言った。

「公方も勘定に入る町らしい」

 多米殿は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

     ◇

 翌朝。

 屋台通りには、さらに新しい札が立っていた。

 古河公方様御賞味。

 甘味噌大根。

 長可様おすすめ。

 辛味噌大根。

 そしてその下に、小さく一行。

 公方様も御代済み。

 蘭丸は、その札を見て固まった。

「多米殿」

「何でしょう」

「この一行は、さすがに外した方が」

「なぜでございますか」

「公方様の御名に関わります」

「御代を払われたことは、信用にございます」

「信用」

「はい。公方様も払われた。ならば、他の者も払うしかございませぬ」

 蘭丸は言葉を失った。

 確かに、その日から屋台の未払いは減った。

 人足も船頭も商人も、札を見て笑いながら銭を置く。

「公方様も払ったならな」

「長可様でも払うのか」

「長可様はまだらしいぞ」

「では、公方様の方が上だな」

 長可が、その噂を聞いて屋台へ来た。

「俺が公方に負けるのか」

「兄上、そういう勝負ではございませぬ」

「払えば勝てるのか」

「勝ち負けではございませぬ!」

 多米殿が帳面を開いた。

「では、長可様の未払い精算を」

 長可は黙った。

「……今日はよい」

「逃げましたね」

 風魔が言った。

「逃げておらぬ!」

 蘭丸は深く息を吐いた。

 江戸自由市では、公方の名もただでは動かない。

 名は札になり、札は銭になり、銭は茶代と酒代に消える。

 そしてその日から、屋台通りには新しい言葉が広まった。

 公方様も払った。

 その一言は、長可避けよりもよく効いたのであった。


――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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