第6帳 大根は味噌で化ける
江戸自由市では、道が広がると、屋台も増えた。
飯を売る者。
魚を焼く者。
蕎麦を茹でる者。
上澄み飯を真似する者。
味噌樽の前で、やたらと真剣な顔をする者。
森蘭丸は、帳面を抱えたまま屋台通りを歩いていた。
長可避けと呼ばれる新しい荷道の脇に、簡素な屋台が並んでいる。まだ町というには泥が多い。だが、湯気と匂いだけは、すでに立派な町のものだった。
「多米殿」
「何でしょう」
「屋台が増えすぎではございませぬか」
「増えた方がよろしゅうございます」
「なぜ」
「腹を空かせた者は、すぐ怒ります」
蘭丸は少し黙った。
「……なるほど」
「飯があれば、喧嘩は減ります。飯屋が増えれば、人は留まります。人が留まれば、銭が落ちます」
「結局、銭でございますか」
「飯と銭は、だいたい一緒に動きます」
多米殿は淡々と言った。
その時、屋台のひとつから怒鳴り声が聞こえた。
「安くしろ!」
「無理だ!」
「大根だろう!」
「大根だが、ただの大根じゃねえ!」
蘭丸は、すぐに声の方へ向かった。
屋台の前には、森長可が立っていた。
「兄上」
「蘭丸」
「今度は何で揉めているのでございますか」
「大根だ」
長可は、串に刺さった煮大根を指さした。
大きく切られた大根が、湯気を立てている。その上に、茶色く艶のある味噌だれが塗られていた。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「ただの煮大根に、二文は高い」
長可は言った。
屋台の親父が言い返す。
「ただの煮大根じゃねえ。練り味噌だれだ」
「味噌を塗った大根だろう」
「その味噌を塗るのが銭になるんだ!」
蘭丸は、大根を見た。
大根だけなら安い。
畑から来る。煮れば増える。腹も膨れる。
だが、この匂いは違った。
味噌に酒を入れ、火で練った匂い。少し甘く、少し焦げ、奥に油の丸さがある。上澄みだれより重い。飯より酒が欲しくなる匂いだった。
「これは、何のたれでございますか」
蘭丸が問うと、屋台の親父は少し得意げに答えた。
「信濃味噌を酒でのばして、菜種油を少し。米飴をほんのちょいと入れて、火で練ったもんで」
「米飴まで」
「甘い方が女房衆に売れる」
多米殿が、ぴくりと筆を動かした。
「女房衆に」
「はい?」
「続けてください」
屋台の親父は、少し怯えた顔をした。
「辛いのがよけりゃ、唐辛子を少し入れる。船頭や人足は、そっちを好みます」
多米殿の筆がさらに走った。
「甘味噌。辛味噌。客層分け」
「多米殿、今ので何か始まりましたか」
「始まりました」
「何が」
「大根です」
「大根が始まるとは、どういうことでございますか」
多米殿は答えず、屋台の大根を一串買った。
蘭丸は驚いた。
「多米殿が買われるのでございますか」
「調べます」
「食べたいだけでは」
「調べます」
多米殿は、煮大根を一口食べた。
黙った。
蘭丸は、その横顔を見た。
「いかがでございますか」
「売れます」
「やはり」
「よく売れます」
「その言い方は危険でございます」
◇
大根屋台の前には、いつの間にか人だかりができていた。
匂いが人を呼ぶ。
まず人足が来た。
「辛い方をくれ」
次に船頭が来た。
「酒はないのか」
宿の女将が来た。
「甘い方を十本。奥の客に出す」
呉服屋の若い者が来た。
「布を買いに来た女房衆が、匂いで止まります」
そして森長可も、まだいた。
「兄上」
「何だ」
「先ほど高いと仰せでした」
「うまいかどうか、試さねばならぬ」
「試したのでございますか」
「まだだ」
「では、なぜ二本持っておられるのでございますか」
「甘い方と辛い方だ」
「兄上!」
長可は平然と甘味噌の大根を食べた。
次に辛味噌を食べた。
少し目を細める。
「辛い方がよい」
それを聞いた人足が、どっと辛味噌に寄った。
「なら俺も辛い方だ!」
「長可様がよいと言ったぞ」
「強そうな味がするのか」
「辛味噌、こっちにもくれ!」
屋台の親父が、目を輝かせて声を張る。
「辛味噌、残り少ねえぞ!」
蘭丸は唖然とした。
長可が一言「よい」と言っただけで、売れ方が変わった。
多米殿は、それも帳面に付けている。
「森長可様、辛味噌宣伝効果あり」
「多米殿、それも書くのでございますか」
「はい」
「兄上の名で大根が売れるのでございますか」
「売れました」
長可は、少し得意そうにした。
「そうか。ならば俺の名を付けろ」
「なりませぬ!」
「長可大根」
「斬られそうな大根になります!」
風魔小太郎が、いつの間にか蘭丸の横に立っていた。
「辛味噌は売れる」
「風魔殿、今度は何の匂いで」
「唐辛子」
「それは分かりやすい匂いでございますね」
風魔は屋台の裏を見た。
「唐辛子は盗まれる」
多米殿が頷いた。
「辛味噌用の唐辛子は、市蔵預かりにします」
「そこまで」
「少量で値が上がります。小さく、盗みやすく、隠しやすい」
蘭丸は、唐辛子を見た。
ただの赤い実に見える。
だが江戸では、それすら銭になるらしい。
◇
昼過ぎには、大根屋台は売り切れた。
屋台の親父は、空になった鍋を見て笑っていた。
「まさか、大根がこれほど売れるとは」
多米殿は言った。
「大根が売れたのではございませぬ」
「へ?」
「たれが売れたのです」
親父は、ぽかんとした。
蘭丸も、少し考えた。
大根は安い。
だが、温かく煮る。
串に刺す。
甘味噌か辛味噌を選ばせる。
匂いで足を止めさせる。
すると、大根はただの大根ではなくなる。
「多米殿」
「何でしょう」
「江戸では、大根まで化けるのでございますか」
「大根は化けませぬ」
多米殿は鍋を見た。
「値が化けます」
蘭丸は、少しだけ笑いそうになった。
その時、宿の女将が戻ってきた。
「多米様」
「何でしょう」
「甘味噌だれだけ、分けてもらえませんか」
「何に使うので」
「里芋にも合いそうです。焼き魚にも。餅にも」
多米殿の筆が止まった。
止まったのは一瞬だけだった。
「たれのみ販売」
蘭丸は慌てた。
「多米殿、また何か始まりましたか」
「始まりました」
「今度は何が」
「味噌だれです」
「先ほどは大根が始まったと」
「大根は入口にございます」
多米殿は、真面目な顔で言った。
「たれが広がります」
◇
夕刻。
大根屋台の親父は、明日の分の大根を仕込んでいた。
甘味噌。
辛味噌。
たれだけの小壺。
いつの間にか、屋台の横には新しい札が立っていた。
甘味噌大根。
辛味噌大根。
味噌だれ分け売り。
蘭丸は、その札を見て頷いた。
「これなら分かりやすうございます」
多米殿も頷いた。
「分かりやすい名は売れます」
その時、長可が筆を持った。
「兄上?」
「俺が書く」
「何をでございますか」
「名を」
「やめてください」
蘭丸が止めるより早く、長可は札の端に大きく書いた。
長可様おすすめ。
蘭丸は固まった。
屋台の親父は、目を輝かせた。
「おお、これは目立つ」
「目立たせてはなりませぬ!」
「いや、売れますぜ」
「売れては困るのです!」
「売れて困る屋台はございません」
蘭丸は、助けを求めて多米殿を見た。
「多米殿」
「売れます」
「止めてください!」
「止める理由がございませぬ」
「兄上の名を勝手に使うことになります!」
「本人が書きました」
長可は満足そうに腕を組んでいた。
「俺がすすめた。間違いではない」
「間違いではございませぬが、正しくもございませぬ!」
風魔が札を眺めた。
「賭けになる」
「何の賭けでございますか」
「甘味噌と辛味噌、明日はどちらが売れるか」
「風魔殿!」
「これは賭けではない。予測だ」
「その言い方で逃げられると思わないでください!」
◇
翌朝。
屋台通りには、さらに大きな札が立っていた。
辛味噌大根。
長可様おすすめ。
人足も船頭も、その札を見て辛味噌を買っていく。
「長可様おすすめなら辛味噌だな」
「強そうだ」
「昨日より辛くしてくれ」
辛味噌大根は、飛ぶように売れた。
長可は腕を組んで、満足げに頷いている。
「見ろ、蘭丸。俺の名で売れている」
「確かに売れております」
「ならば、俺にも銭が入るのか」
多米殿が静かに言った。
「入りました」
長可の顔が明るくなった。
「どれほどだ」
「本日の名札料、十二文」
「おお」
「屋台の親父より受け取りました」
「よいではないか」
「これを、これまでの未払い飯代に充てました」
長可は固まった。
「……残りは」
「まだ足りませぬ」
「なぜだ」
「食べる方が、名で稼ぐより早うございます」
蘭丸は、深く息を吐いた。
屋台の親父は、満面の笑みで大根を売っている。
多米殿は名札料を帳面に付けている。
長可は、納得のいかない顔で辛味噌大根を見ている。
「兄上」
「何だ」
「そこで食べると、また未払いが増えます」
長可は、ゆっくりと串から手を離した。
「……難しい町だ」
「ようやく分かっていただけましたか」
その横で、風魔がぽつりと言った。
「辛味噌に賭けた者は、皆勝った」
「風魔殿!」
「予測だ」
「絶対に賭けでございます!」
多米殿の筆が止まった。
「その予測の場所は」
風魔は黙った。
「風魔殿」
「匂いがした」
「答えになっておりませぬ!」
多米殿は静かに帳面を開いた。
「予測札、調査」
風魔は、初めて少しだけ面倒そうな顔をした。
◇
その日の夕刻。
辛味噌大根は、甘味噌大根の三倍売れた。
屋台の親父は笑いが止まらなかった。
多米殿の帳面には、新しい項目が増えていた。
甘味噌大根。
辛味噌大根。
味噌だれ分け売り。
唐辛子、市蔵預かり。
長可様おすすめ名札料。
森長可様、未払い飯代一部減。
風魔小太郎、予測札調査。
蘭丸は、帳面を覗き込み、震える声で言った。
「多米殿」
「何でしょう」
「兄上の未払いは、本当に減っておりますか」
「はい」
「なのに、まだ残っておりますか」
「はい」
「大根で?」
「大根で」
「兄上の名で?」
「兄上の名で」
「それでも足りませぬか」
「はい」
長可が遠くで叫んだ。
「俺の名を使うなら、俺にも食わせろ!」
屋台の親父が叫び返す。
「御代をいただければ!」
多米殿が静かに言った。
「払えば食えます」
「当たり前でございます!」
蘭丸の声が、屋台通りに響いた。
江戸自由市では、大根は味噌で化ける。
味噌は札に化ける。
札は銭に化ける。
銭は兄上の未払いを、ほんの少しだけ減らす。
そして兄上の食欲は、その減った分をすぐ取り返そうとするのであった。
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『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。
武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。
【本編・関連作品】
『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧
https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html
『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。
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