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第13帳 南蛮芋、消える

 試し蕎麦切りが江戸に出た翌日、菱屋は朝から騒がしかった。

 京布。

 堺小鍋。

 南蛮小瓶。

 香。

 硝子玉。

 薬種。

 鉄器。

 見本を見に来る者、注文を出す者、荷を受け取る者が、御屋形様の指示で分けられた入口から出入りしている。

 菱屋は、昨日より動きやすくなっていた。

 だが、動きやすくなった分、商人たちの声は大きくなった。

「これはどちらの口へ持って行くのだ」

「見本なら表口!」

「注文なら脇口!」

「荷受けは裏へ回れ!」

 森蘭丸は、帳面を抱えたまま菱屋の前に立っていた。

「多米殿」

「何でしょう」

「御屋形様が来られてから、江戸は便利になったのでございましょうか」

「はい」

「なのに、なぜ皆、前より忙しそうなのでございますか」

「便利になれば、荷が増えます」

「荷が増えれば」

「忙しくなります」

「便利とは、楽になることではないのですね」

「流れることにございます」

 多米殿は当然のように言った。

 そこへ森長可がやって来た。

「蘭丸」

「何でございましょう」

「今日は、何が食える」

「菱屋は飯屋ではございませぬ」

「昨日は蕎麦を食った」

「昨日は屋台通りでございます」

「菱屋にも南蛮物があるだろう。南蛮の飯はないのか」

「南蛮物を、すぐ食べようとしないでください」

 蘭丸がそう言った時、菱屋の奥から商人が声を上げた。

「多米様、これはどちらへ」

 商人が抱えてきたのは、木箱だった。

 中には、見慣れぬ芋が入っていた。

     ◇

 木箱は二つあった。

 一つ目には、細長く、赤みを帯びた芋が十本。

 二つ目には、丸く、ごつごつした芋がいくつか。

 蘭丸は眉を寄せた。

「どちらも芋でございますか」

 菱屋の商人が頷いた。

「南蛮船より入ったものにございます。こちらの細長い方は、甘いと聞きました。丸い方は、煮れば食えるとか」

「食えるのか」

 長可が、すぐに手を伸ばした。

「兄上!」

「味見だ」

「まだ誰も食べ方を知りませぬ!」

「煮れば食えると言った」

「それを兄上で試すわけには参りませぬ!」

 多米殿は、二つの木箱をじっと見ていた。

「南蛮芋。細長きもの、十本。丸きもの、二十六」

「数えるのが早うございますね」

「数えねば、減ります」

「減る前提でございますか」

 多米殿は長可を見た。

「はい」

 長可は不満そうに腕を組んだ。

「まだ食っておらぬ」

「まだ、でございます」

 蘭丸は、細長い芋を見た。

 泥がつき、形も揃っていない。

 だが、商人は妙に期待した顔をしていた。

「甘い芋なら、菱屋の見本になりますかね」

 小間物売りが言う。

「甘いなら奥向きに売れる」

 宿の女将が言う。

「焼けば客に出せるかもしれませぬ」

 屋台の親父も、いつの間にか覗き込んでいた。

「芋なら焼ける。焼き芋にすれば売れる」

 長可は頷いた。

「焼け」

「兄上が決めないでください」

 その時、菱屋の空気が変わった。

 武田義信が、入口に立っていた。

     ◇

 御屋形様は、昨日の視察を終えたはずだった。

 だが、供を二人だけ連れ、ふらりと菱屋へ戻ってきた。

 蘭丸は慌てて頭を下げた。

「御屋形様」

 義信は頷いただけで、木箱へ近づいた。

 最初に、丸い芋を見る。

 手に取り、重さを見る。

 表面を見る。

 芽の出そうな窪みを見る。

 次に、細長い芋を見る。

 一本ずつ持ち上げる。

 傷を確かめる。

 折れていないかを見る。

 端の細いところをじっと見る。

 蘭丸には、ただ芋を見ているようにしか見えない。

 だが、多米殿の筆は止まっていた。

 風魔小太郎も、いつの間にか菱屋の柱の陰に立っていた。

 義信はまず、丸い芋を木箱へ戻した。

「これは、売るな」

 菱屋の商人が目を瞬いた。

「売らぬのでございますか」

「まだ売るな。食わせる前に、作らせよ」

「どこで」

 多米殿が問う。

 義信は、丸い芋を指した。

「田が弱い地だ」

 蘭丸は聞き返した。

「田が弱い地、でございますか」

「水がつきにくい。冷える。米の出来が悪い。そういう畑に回せ」

「畑でございますか」

「畑だ」

 義信は、短く言った。

「これは、米の代わりにはならぬ。だが、米が弱い地で腹をつなぐものになる」

 その言葉は、静かだった。

 だが、重かった。

 米が弱い地。

 蘭丸は、江戸へ入る米俵ばかり見ていた。

 だが、御屋形様は米が入らない地を見ている。

「多米」

「はっ」

「丸い方は、種として回せ。食わせるな。芽と青いところは食わせるな」

「芽と青いところ」

「毒になる」

 商人たちがざわめいた。

 長可は、伸ばしかけた手を止めた。

「毒か」

「兄上、ようやく手を止められましたね」

「毒なら仕方ない」

 義信は、さらに言った。

「名は、今は丸芋でよい。田が弱い地で試せ。数を増やすまでは、飯屋へ出すな」

 多米殿の筆が、ようやく動いた。

 丸芋。

 田弱き地にて試作。

 生売り禁制。

 芽、青きところ、食用禁制。

 種扱い。

 蘭丸は、その字を見た。

 同じ芋でも、これは飯屋へ行かない。

 畑へ行く。

 江戸の屋台ではなく、まだ見ぬ土地の腹を守るものになる。

     ◇

 次に、義信は細長い芋を見た。

 十本。

 それだけだった。

 菱屋の商人は、少しだけ期待していた。

「こちらは、甘いと聞いております。奥向きにも、屋台にも」

 義信は答えなかった。

 一本ずつ、静かに見た。

 傷の少ないものを選ぶ。

 細いものも捨てない。

 折れたものがないか確かめる。

 箱の底の土まで見る。

 長可が、そわそわしていた。

「甘いのか」

「兄上、黙ってください」

「甘い芋なら、焼けばうまい」

「まだ焼かないでください」

 義信は、十本すべてを木箱に戻した。

「包め」

 菱屋の商人が固まった。

「はっ?」

「十本、すべて包め」

 蘭丸は驚いた。

「御屋形様、すべてでございますか」

「すべてだ」

「お召し上がりに?」

 義信は答えなかった。

 多米殿も、珍しく口を挟まなかった。

 ただ、帳面に筆を置いたまま、義信を見ている。

 義信は供の者へ言った。

「折るな。傷つけるな。乾かすな。熱に当てるな」

「はっ」

「砂を詰めて運べ」

「砂でございますか」

「土が合わねば死ぬ。まずは生かして運べ」

 商人たちは、顔を見合わせた。

 芋を生かして運ぶ。

 その言い方が、蘭丸には妙に引っかかった。

 食べ物ではなく、生き物を扱うようだった。

「多米」

「はっ」

「帳面には載せよ」

「名は」

「南蛮甘藷」

 多米殿の筆が動く。

 南蛮甘藷。

 十本。

 御屋形様御持ち帰り。

 そこで義信は言った。

「行き先は書くな」

 多米殿の筆が止まった。

「承知いたしました」

 蘭丸は、思わず義信を見た。

「御屋形様」

「何だ」

「こちらは、田の弱い地ではございませぬか」

 義信は、少しだけ蘭丸を見た。

「これは、別だ」

「別」

「増やし方が違う」

 それだけだった。

 蘭丸には、分からなかった。

 丸い芋は、田の弱い地へ。

 細長い甘い芋は、行き先も書かずに持ち帰る。

 同じ南蛮の芋なのに、扱いがまるで違う。

     ◇

 義信が去った後、菱屋はざわついた。

「甘い芋を、すべて持ち帰られた」

「売れたかもしれませぬのに」

「奥向きなら高く売れたでしょう」

「屋台に出せば、長可様が食ったかもしれぬ」

「それは売れるのか、荒れるのか」

 長可は不満そうだった。

「一本くらい焼けばよかった」

「兄上」

「何だ」

「御屋形様が、すべて持ち帰られました」

「十本もある」

「十本しかないのです」

 長可は少し黙った。

 それでも言った。

「甘いのかどうか、分からぬままだ」

 風魔が柱の陰から言った。

「分からぬから、隠した」

 蘭丸は振り返った。

「風魔殿」

「御屋形様は、丸い芋は言葉を残した。甘い芋には、言葉を残さなかった」

「それは、なぜでございますか」

「言えば、追う者が出る」

 蘭丸は息を呑んだ。

 多米殿が、静かに帳面を閉じた。

「御屋形様が何も仰せにならぬものは、江戸で値を付けてはなりませぬ」

「多米殿にも、分からぬのですか」

「分かりませぬ」

 珍しい答えだった。

 多米殿が、分からないと言った。

「ただ」

「ただ?」

「分からぬものほど、後で大きく帳面に戻ってまいります」

 蘭丸は、義信が持ち帰った木箱を思い出した。

 十本の南蛮甘藷。

 行き先は、帳面にない。

     ◇

 一方、丸い芋は、すぐに別の帳面へ移された。

 飯屋ではない。

 菱屋でもない。

 種の帳面である。

 多米殿は、木札を作った。

 丸芋。

 田弱き地にて試作。

 生売り禁制。

 芽、青きところ、食用禁制。

 飯屋持ち込み禁制。

 増えるまで食うべからず。

 蘭丸は、その札を見た。

「多米殿」

「何でしょう」

「これでは、誰も食べられませぬ」

「はい」

「食べ物なのですよね」

「増えるまでは、食べ物ではございませぬ」

「では、何でございますか」

「腹の備えにございます」

 多米殿は、丸芋の木箱を見た。

「米が強い地は、米を作ればよろしい。米が弱い地は、別の腹を探さねばなりませぬ」

 蘭丸は黙った。

 江戸は米が集まる町だ。

 だが、御屋形様の目は、米が集まらない地にも向いている。

 長可が丸芋を見た。

「これも、いずれ食えるのか」

「増えれば」

「では、増やせ」

「兄上が言うと、なぜか力任せに聞こえます」

「土に埋めれば増えるのだろう」

 多米殿の筆が止まった。

「長可様」

「何だ」

「今の言葉は、書きます」

「なぜだ」

「珍しく正しいので」

「多米殿!」

 長可は少し得意そうだった。

「俺でも分かる」

「ですが、兄上」

 蘭丸は丸芋を見た。

「これをどこに埋めるかは、御屋形様がお決めになります」

「田の弱い地だろう」

「はい」

「なら、強い地へ持っていくな」

 多米殿の筆がまた止まった。

 蘭丸も、長可を見た。

「兄上」

「何だ」

「今日は、なぜそんなにまともなのでございますか」

「食えぬものには、腹が立たぬ」

「なるほど」

 多米殿が静かに書いた。

 丸芋、強き田へ回すべからず。

 長可様、珍しく正論。

「多米殿、最後はいりませぬ!」

     ◇

 翌朝。

 菱屋の前には、新しい札が立った。

 丸芋。

 田弱き地にて試作。

 生売り禁制。

 芽、青きところ、食用禁制。

 飯屋持ち込み禁制。

 増えるまで食うべからず。

 その下に、小さく書かれていた。

 南蛮甘藷。

 在庫なし。

 蘭丸は、その二つの札を見比べた。

 片方は、行き先が書かれている。

 田が弱い地。

 米が頼りにならない地。

 腹をつなぐための地。

 もう片方は、何も書かれていない。

 在庫なし。

 それだけである。

「多米殿」

「何でしょう」

「南蛮甘藷は、どこへ行くのでございましょうか」

「分かりませぬ」

「本当に?」

「はい」

「多米殿の帳面にも?」

「行き先は、ございませぬ」

 風魔が、どこからともなく言った。

「追わぬ方がよい」

「風魔殿にも、分からぬのですか」

「分からぬ」

「では、なぜ追わぬ方がよいと」

「御屋形様が、隠す顔をしていた」

 蘭丸は、菱屋の奥を見た。

 昨日までそこにあった十本の南蛮甘藷は、もうない。

 江戸自由市では、珍しいものにはすぐ値が付く。

 売り物になり、札になり、屋台になり、騒ぎになる。

 だが、あの甘い芋だけは、値が付かなかった。

 御屋形様が、値を付けさせなかった。

 蘭丸には、それが妙に恐ろしかった。

 その横で、長可が丸芋の札を見て言った。

「増えたら食う」

「兄上、気が早うございます」

「何年かかる」

 多米殿は答えた。

「分かりませぬ」

「多米にも分からぬか」

「はい」

 長可は少し考えた。

「では、増えた時に呼べ」

 蘭丸は、深く息を吐いた。

 江戸自由市では、南蛮の芋もただでは終わらない。

 丸い芋は、田の弱い地へ送られる。

 甘い芋は、行き先を消される。

 食べ物は種になり、種は帳面から姿を隠す。

 そして御屋形様が何も言わずに持ち帰った十本の甘藷は、江戸の誰にも知られぬまま、まだ見ぬ畑へ向かうのであった。



――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


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