↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/60

第12帳 蕎麦は切れるか

 御屋形様が江戸を見た翌日、江戸自由市の絵図は、別物になっていた。

 荷道。

 客道。

 空車戻り道。

 荷捌き場。

 菱屋表口。

 菱屋注文口。

 菱屋荷受口。

 火元離れ。

 札が増え、杭が増え、人足の仕事が増え、蘭丸の帳面も増えた。

 森蘭丸は、朝からため息をついていた。

「多米殿」

「何でしょう」

「御屋形様が来られると、江戸は増えるのでございますね」

「はい」

「道も、札も、仕事も」

「はい」

「そして、私の帳面も」

「はい」

「少しは否定してください」

 多米殿は、首を横に振らなかった。

 そこへ、森長可がやって来た。

「蘭丸」

「何でございましょう」

「今日は飯か」

「視察の続きにございます」

「なら飯だな」

「なぜそうなるのですか」

「御屋形様は昨日、道を見た。今日は飯を見る」

「兄上にしては、妙に筋が通っておりますね」

「俺はいつも通っている」

「道はよく詰まらせますが」

 長可は聞いていなかった。

 その視線の先には、屋台通りがあった。

 上澄み飯。

 江戸だれ飯。

 辛味噌大根。

 蕎麦がき味噌だれ。

 焼き魚だれ飯。

 江戸飯は、もうただの腹ふさぎではない。

 町に人を留める匂いになっていた。

     ◇

 武田義信は、屋台通りを歩いていた。

 昨日と同じく、供は少ない。

 だが、屋台の親父たちは皆、火加減を気にしていた。

 味噌屋は、だれ鍋の前で背筋を伸ばしている。

 信濃者は、蕎麦粉の袋を抱えて震えていた。

 義信は、まず蕎麦がきを見た。

 灰色の塊である。

 湯で練った蕎麦粉に、江戸だれ味噌をつけて食べる。腹にはたまる。人足には評判がよい。

 だが、見た目は地味だった。

「これが蕎麦がきか」

「はっ」

 信濃者が頭を下げた。

「信濃の粉にございます。湯で練れば食えます」

 義信は一口食べた。

 江戸だれ味噌を少しつける。

 黙って噛む。

 蘭丸は、義信の顔を見た。

 うまいのか。

 まずいのか。

 分からない。

 長可が横から言った。

「腹にはたまります」

「兄上、御屋形様の前で」

 義信は少し笑った。

「確かに、腹にはたまる」

 信濃者の顔が明るくなった。

 だが、義信は続けた。

「だが、食いにくい」

 信濃者の顔が、また青くなった。

「申し訳ございませぬ」

「悪いとは言っておらぬ」

 義信は蕎麦がきを箸で割った。

「口へ運びにくい。熱いうちはよいが、冷めると重い。だれも絡むが、同じ味が続く」

 蘭丸は、少し驚いた。

 御屋形様は、ただ味を見ているのではない。

 食う速さ。

 冷めた時。

 客の飽き。

 だれの絡み方。

 そこまで見ている。

「御屋形様」

「何だ」

「これは、どうすれば」

 義信は、蕎麦粉の袋を指した。

「練るだけでなく、広げよ」

「広げる」

「薄く広げて、細く切る。それを湯で茹でる」

 その場にいた者たちが、ぽかんとした。

 蘭丸も分からなかった。

「御屋形様」

「何だ、蘭丸」

「蕎麦を、切るのでございますか」

「そうだ」

「粉を練るのではなく」

「練って、広げて、切る」

「それを茹でる」

「茹でる」

 義信は、江戸だれ味噌の鍋を見た。

「このだれを薄めろ。濃すぎれば蕎麦が死ぬ。湯で割り、干し魚と海藻の香りを残せ」

 味噌屋が青い顔をした。

「江戸だれを、薄めるので」

「薄める。だが、薄いだけでは駄目だ。香りを残せ」

 多米殿の筆が止まった。

 止まったのは一瞬だった。

「蕎麦切り。江戸薄だれ」

 蘭丸は、思わず言った。

「もう書いております!」

「御屋形様の御言葉にございます」

 信濃者は、蕎麦粉の袋を抱えたまま震えていた。

「できるか」

 義信が問う。

 信濃者は慌てて頭を下げた。

「やってみまする」

「失敗してもよい」

 義信は言った。

「失敗したものも、食えるなら江戸飯だ」

 長可が頷いた。

「失敗しても食う」

「兄上は黙っていてください」

     ◇

 試しは、すぐに始まった。

 蕎麦粉に湯を入れる。

 練る。

 板の上に置く。

 手で押す。

 さらに板で広げる。

 だが、すぐ割れた。

「あ」

 信濃者が声を漏らす。

 もう一度。

 今度は柔らかすぎて、刃にくっついた。

 長可が覗き込む。

「斬れぬな」

「兄上、刀を出さないでください!」

「細く斬るのだろう」

「刀で蕎麦を切ってはなりませぬ!」

 義信は、失敗した蕎麦を見ていた。

「つなぎが要るか」

「つなぎ、でございますか」

 信濃者が聞く。

「麦粉を少し混ぜてみよ」

 菱屋の商人が慌てて言った。

「麦粉ならございます」

「少しだ。入れすぎれば蕎麦ではなくなる」

 蕎麦粉に麦粉を混ぜる。

 湯を加える。

 練る。

 広げる。

 今度は、少しだけ形になった。

 細く切る。

 幅は揃わない。

 太いものもある。

 短く切れたものもある。

 だが、確かに紐のようになった。

 湯へ入れる。

 浮く。

 沈む。

 切れる。

 それでも、椀へ上げる。

 薄めた江戸だれを張り、葱を散らす。

 蘭丸は、その椀を見た。

 蕎麦がきとは違う。

 飯とも違う。

 だが、食べ物には見える。

 義信が食べた。

 一口。

 少し、間があった。

「悪くない」

 信濃者は、膝をつきそうになった。

 長可も食べた。

「足りぬ」

「量の話ではございませぬ!」

「だが、食いやすい」

 多米殿の筆が走った。

「食いやすい。長可様評」

「それは要りますか」

「売り文句になります」

「また兄上の名が使われる!」

 屋台の親父たちは、もう目を光らせていた。

「これは売れますかね」

「手間はかかるが、珍しい」

「熱い汁で出せば冬に売れる」

「冷ましてだれにつけてもいけるか」

「まだ早い!」

 蘭丸が叫ぶ。

 だが、多米殿はすでに札を書いていた。

 試し蕎麦切り。

 失敗あり。数量少し。

 江戸薄だれ付き。

「失敗あり、と書くのでございますか」

「正直は信用にございます」

「それで売れるので?」

「珍しければ売れます」

 義信は、その札を見て言った。

「最初は、それでよい」

     ◇

 試し蕎麦切りは、すぐに売れた。

 太い。

 短い。

 切れている。

 ところどころ団子のようになっている。

 それでも、客は並んだ。

「御屋形様が食ったらしいぞ」

「長可様は足りぬと言ったらしい」

「なら大盛りにしろ」

「大盛りにすると切れます」

「切れても食えればいい」

 信濃者は、汗だくで蕎麦を切っていた。

「多米様、これは手間が」

「手間がかかるものは、値が上がります」

「粉も散ります」

「散った粉は集めて、蕎麦がきに戻してください」

「失敗したものは」

「江戸だれで食わせます」

「全部売るので」

「食えるなら」

 蘭丸は、横で頭を抱えた。

「多米殿」

「何でしょう」

「失敗を前提に商いを組んでおられませぬか」

「はい」

「はい、なのですね」

「新しいものは、必ず失敗します」

「それは分かります」

「失敗を捨てれば損です」

「はい」

「失敗を別の飯にすれば、損ではございませぬ」

 蘭丸は、言い返せなかった。

 失敗した蕎麦切りは、短い。

 切れた端は、団子のようになる。

 茹でて崩れたものもある。

 だが、江戸だれをかければ、確かに食える。

 それを見た長可が言った。

「崩れた方が、腹にはたまる」

 多米殿の筆が止まった。

 蘭丸は嫌な予感がした。

「多米殿」

「崩れ蕎麦だれ」

「作らなくてよろしい!」

 屋台の親父が言った。

「安く出せば、売れるんじゃねえか」

「言わないでください!」

 多米殿は頷いた。

「売れます」

     ◇

 義信は、試し蕎麦切りの売れ方をしばらく見ていた。

 それから、信濃者に言った。

「最初から多く売るな」

「はっ?」

「珍しいうちは売れる。だが、まず腕を上げよ。切る者を増やせ。粉の加減を覚えろ。茹でる湯を汚しすぎるな。だれを濃くしすぎるな」

 味噌屋が、慌てて頭を下げた。

「承知いたしました」

「蕎麦がきも残せ」

 義信は続けた。

「切れぬ者は、がきで食わせろ。切れる者だけが、切ればよい」

 多米殿は深く頷いた。

「蕎麦切り札を分けます」

「分ける?」

 蘭丸が聞く。

「蕎麦がき札。試し蕎麦切り札。崩れ蕎麦だれ札」

「崩れ蕎麦まで入るのですか!」

「食えますので」

 義信は少し笑った。

「食えるものを捨てるな」

 多米殿は頭を下げた。

「はい」

 蘭丸は、蕎麦切りの鍋を見た。

 蕎麦がきは、切られて蕎麦切りになった。

 切れ損じは、崩れ蕎麦になった。

 崩れ蕎麦も、江戸だれで飯になる。

 江戸では、失敗すら逃げ道を持たされる。

 昨日、義信が言ったことを思い出した。

 詰まる前に、逃げ道を作る。

 それは、道だけの話ではなかったのかもしれない。

     ◇

 夕刻。

 試し蕎麦切りは売り切れた。

 蕎麦がきも売れた。

 崩れ蕎麦だれも、なぜか売れた。

 信濃者は、疲れ切った顔で座り込んでいた。

「手が、もげまする」

 長可が言った。

「鍛え方が足りぬ」

「兄上、蕎麦切り職人に何を求めておられるのですか」

 多米殿は木札を書いた。

 蕎麦切り修練場。

 蘭丸は目を見開いた。

「修練場?」

「切る者を育てます」

「蕎麦を切るために?」

「はい」

「武芸ではございませぬよ」

「商いも、手が要ります」

 多米殿は平然と言った。

「手が揃えば、町の飯になります」

 義信はそれを聞き、頷いた。

「よい」

「御屋形様まで」

「道も飯も、人が動かす。手を育てよ」

 蘭丸は、また言い返せなかった。

     ◇

 翌朝。

 屋台通りには、新しい札が立っていた。

 蕎麦がき味噌だれ。

 信濃蕎麦粉使用。腹にたまる。

 試し蕎麦切り。

 江戸薄だれ付き。数量少し。失敗あり。

 崩れ蕎麦だれ。

 切れ損じ使用。安し。

 蕎麦切り修練場。

 切る者、求む。

 ただし、刀の使用禁制。

 初例、森長可様。

 蘭丸は、最後の一行を見て固まった。

「多米殿」

「何でしょう」

「兄上は、蕎麦を刀で切っておりませぬ」

「切ろうとされました」

「未遂です」

「未遂も書きます」

 長可は札を見て、腕を組んだ。

「俺の名で、刀を使わぬ蕎麦切りが広がるか」

「兄上、何でも誇らないでください」

 その横で、風魔小太郎が言った。

「試し蕎麦切りと崩れ蕎麦、どちらが先に売り切れるか」

「風魔殿」

「予測だ」

「もう言い訳にもなっておりませぬ!」

 多米殿の筆が静かに動いた。

「予測札、再々調査」

 風魔は、少しだけ顔をしかめた。

 蘭丸は、蕎麦切り修練場の札を見た。

 蕎麦がきは、切られた。

 切られた蕎麦は、江戸薄だれを得た。

 切れ損じも、崩れ蕎麦として売られた。

 そして、蕎麦を切るための手まで集められることになった。

 江戸自由市では、飯もまた流れる。

 粉から、がきへ。

 がきから、切りへ。

 切り損じから、崩れ飯へ。

 御屋形様は、蕎麦を食べたのではない。

 蕎麦の流れを、作ったのであった。



――――――――――


『森蘭丸江戸帳』は、石田源志による戦国歴史改変小説『武田義信転記』の外伝作品です。


武田義信が築く江戸自由市を舞台に、森蘭丸、森長可、森可隆、森可成、風魔小太郎、多米らが、商い、物流、治安、食、町づくりに関わる日々を描いています。


【本編・関連作品】


『武田義信転記』シリーズ・既刊一覧

https://genjiishida.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


『森蘭丸江戸帳』はTalesでも連載しています。


――――――――――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。