18-① 敗北
自分を抱き締めてくれるぬくもりが、その力強さが、確かに夜昊様が無事……ではないかもしれないけれど、とにかく、今ここで確かに生きていてくださっていることを教えてくれる。
――ああ、よかった。
――私は、間に合えたのね。
文字通りの間一髪だったけれど、私はこの方のもとに辿り着けたのだ。その事実に不覚にも涙がにじんだ。取り急ぎ作り上げた俊足を誉れとする大兔の精霊に、改めて感謝せずにはいられない。
この玉座の間に辿り着くまでに見た光景に、何度「もうだめかもしれない」「間に合わないかもしれない」「何もかもが遅いのでは」と絶望しかけたことだろう。納屋から大兔の背に乗ってやってきたこの場に至るまでの道中、あちこちで火の手が上がり、あらゆる神牌が行使され、誰が味方で誰が敵なのか、さっぱり解らなくて。だからこそ誰かに手を貸すことも助けることも、逆に誰かを攻撃することも邪魔することもできなかったのだ……とは、ううん、違う、これは私の言い訳だ。見知らぬ誰かに構っているひまがあったら、その分一刻も早く夜昊様のもとに辿り着きたくて、だから何もかも見ないふりをして大兔に走ってもらった。私の頭にあったのは、自分でも驚くほどに夜昊様だけだった。
結果として、その判断は正解だったのだと思う。何せ彼は、私の目の前で今にも青龍に飲み込まれようとしていらしたのだから。血の気が引く、どころの騒ぎではなく、もう反射的に大兔に向けて「お願い!」とばかりに全力で龍氣を叩きこんでいた。自分よりもはるか高みに存在する四神の一柱に突っ込むだなんてさぞかし恐ろしかっただろうに、優しく勇敢な大兔は、私の思いに応えてくれた。
本当に、ギリギリだった。間に合った、間に合えたのだという感覚がじわじわと身体においついてきて、けれど、今はそんな感謝や感激や感動に浸っている場合ではない。まだ、何一つ事態は好転していないのだから。
「あの、夜昊様。すみません、苦しいです」
「うん」
「あの、お気持ちは、その、嬉しいのですが、いつまでもこのままでいるわけには……」
「うん」
「ですからですね、喜ぶにはお互いまだ早いと思います」
「うん」
「……聞いていらっしゃいます?」
「うん。聞いてる。全部、聞いているよ」
宝珠、と。噛み締めるように、どこか恐る恐る、不思議とためらいがちに、けれど確かにそう私の名前を呼んでくださった夜昊様は、そうしてようやく、私をその両腕から解放してくださった。
それでもなお片腕を私の腰に回し、そっと寄り添ってくださるのは、なんというかこう、手慣れていらっしゃるなぁ、なんて、そんな場合でもないのに感心してしまう。密着した身体から伝わってくるぬくもり、そして高鳴る鼓動は、いったいどちらのものなのだろう。そんな場合でもないというのにらしくもなくどきどきしてしまう私は本当に危機感が……って。
「…………宝珠」
「は、はい?」
なぜか唐突にとんでもなく低くなった声で名前を呼ばれ、反射的に姿勢を正す。そんな私の片手を、すとんとあらゆる感情が抜け落ちた無表情になった夜昊様が持ち上げる。え、と主間もなく、彼はその私の片手、それからもう一方の手へも視線をやって、やはりこれ以上なく低い声で続けた。
「この手、何」
「え」
な、何、と言われましても。問いかけの意味が掴めずに首を傾げつつ、夜昊様に持ち上げられている自分の手へと改めて視線を向ける。いや普通に私の手である。ただ、ちょっと……どころではなく、それはもう夜昊様の前に出すのが申し訳なくなるくらいに、ボロボロの切り傷まみれなだけで。
ええと……と視線を逸らそうとして、失敗した。そっと痛くないように、そのくせ決して逆らうことは許してくれない力強さで私の手を握り締めた夜昊様は、無表情だったかんばせに、明らかな怒りをにじませた。
「こんなにも傷だらけになって……まさか拷問でも受けた?」
「ち、違います! これは自分でやったんです!」
拷問なんてそんな大それた事実なんて何一つない。いくら私のことをそれはそれは許しがたく思っている黒妃様や、理由は解らないけれど夜昊様の命を狙う青妃様でも、さすがに、そうさすがにそこまではしないだろう。……しない、はずである。実際にされなかったし。
私の両手にもはや数えきれないほど存在する切り傷はすべて、私自身の手によるものだ。痛くないのかと問われれば、それはもちろん「ものすごく痛いですが何か」と神妙に答えるくらいには痛いし、何より、夜昊様の前に出すにはやはりためらわれるものがありすぎて申し訳ない。ここは気付かないふりをするのがより洗練された殿方の所作ですよ、なんてごまかす……もとい、反論する間もなく、夜昊様の金色の瞳が、完全に据わり切った状態で私に向けられる。ひえ、こわい。
「……どういうこと?」
言い訳もごまかしも嘘も冗談も決して許さない、と言葉もなく覇王サマは語っていらっしゃる。となれば私にできることは、素直に正直に話すことしかない。
いや別に大した理由なんてないんですけども、と思いつつ、夜昊様の手から自分の手を取り戻し、両手をひらひらと振ってみせる。
ほーらこの通りぜんぜん平気なんですよ。痛いだけです痛いだけ……ってだめだぜんぜん笑ってくれない。いつもの穏やかな微笑みはどこに放り投げてしまわれたのだろうこのお方。
「ええと、その、どういうことも何も、何せ、絵筆も顔料もすべて奪われてしまっていたので。新たに神牌を用意するには、こうするしかなかったんです」
「血を、顔料にしたってこと?」
「はい。ついでに衣装を支持体にしたので、この通り裾や袖が引きちぎられた状態になりました」
まっさらな神牌の支持体を用意する余裕なんてどこにもなかったのだからこればかりは仕方がない。せっかく朱妃様や白妃様が、綺麗な衣装と化粧を用意してくれたけれど、衣装も化粧も、結局、この方が生きていてくださってこそのものだ。
ああ、でも。一つだけ、どうしても諦めきれない、後悔がある。その存在を改めて思い出した途端に、私の表情が曇ったことに気付かれたのだろう。夜昊様が「宝珠?」と重ねて問いかけてきて、黙っているわけにはいかなくなってしまったので、私は大人しく懐に手を差し入れた。そうして取り出したのは、できる限り集めてきたけれどもう復元することは叶わないであろう、血まみれの蝋梅のかんざしの破片だ。
「申し訳ございません、夜昊様。夜昊様からいただいたかんざしを、その、こんなことにしてしまいまして。これしかなくて、でも、あの……」
せっかくこの方がわざわざ選んでくださったものだったのに。そう思うとやはり後悔が押し寄せてきて、言葉が出てこなくなってしまう。ほとんど吐息のような声でもう一度「申し訳ございません」と繰り返す、その半ばで、がしりと両肩を掴まれる。え、と思う間もなく、間近から顔を覗き込まれる。
「っそんなの、どうだっていい!」
えっ酷い。私にとってはちっともどうでもよくないのに。そう反論しようとして、できなかった。夜昊様が今にも泣き出しそうな顔になっていらしたからだ。怒りとも悲しみともつかない、もっと他のあらゆる感情までごちゃまぜにしたような、涙をこらえたかんばせで、彼は怒鳴る。
「違う、違うでしょう、宝珠。かんざしなんかより、君の身体のほうが、君の命のほうがどれだけ大切か! 生きていてくれたら、僕は、僕はそれだけでいいのに。それだけ、で、よかった、のに」
それなのに、と声を震わせる夜昊様に、声がかけられなかった。どんな言葉をかければいいのか解らないというのもあるし、それ以上に、ああ、なんてことだろう。夜昊様は今にも泣き出しそうになっていらっしゃるのに、私はそれを、あろうことか嬉しいと思ってしまっているのだ。
私のためにそんな顔をしてくださるこのお方だからこそ、私は、かんざしのことを今もなお諦められないのだと、どうしたら伝わるだろう。いいや、どうしたらも何もなく、ちゃんと伝えなくてはいけない。
だから私は彼を見つめて、改めて口を開く。
「夜昊さ……」
「……逃げればよかったのに」
「は?」
おっと、あまりにも聞き捨てならない台詞に私まで低い声が出てしまった。しかも無礼極まりないにらみ上げ付きである。いや夜昊様、あなた、ここにきて「逃げればよかったのに」とか、それはあんまりにもあんまりでは。私が何のためにここまで頑張ったと思っているのだ。いくらなんでも酷すぎる。
再会してからこの方ちょいちょい酷かったけれど、これ以上なく酷い発言をかまされた気がする。私がまとう空気に怒りがもれ出たことに気付いたのだろう、夜昊様は「だって」とまるで迷子になってしまった幼子のように声を震わせた。
「生きていてくれたなら、逃げてくれればよかったんだ。どこへなりとも、そう、この国すらも飛び越えて、はるかかなたへ逃げてくれればよかったんだよ。それなのに」
それなのに、ともう一度繰り返して、くしゃりと夜昊様はその美貌をもっとゆがめた。それでもなお――――いいや、より一層不思議と美しくなったかんばせに思わず見とれてしまう。
腰に回された彼の腕にぎゅっと力がこもって、ますます彼に引き寄せられ、ひえ、と思う間もなく、夜昊様の震える声が間近から耳朶に届く。
「君が逃げてくれないなら、僕はもう、君を手放せなくなってしまう」
その、すっかり途方に暮れてしまった声に、私は思わず笑ってしまった。そんな私をどこか恨めしげに見つめてくる彼の金色の瞳に宿る熱に焦がされながら、なおも笑う。
「――――『賭け』、を。夜昊様は、覚えていらっしゃいますか?」
そうして口火を切れば、きょとんと金色の瞳がまばたいた。思ってもみなかったことを言われたとばかりの反応だ。私もそう思う。随分と唐突な、今更すぎる話題だ。
私と夜昊様の『賭け』とはつまりアレだ。夜昊様の “後宮のお妃様方全員を追い出してほしい”という望みを叶えたら、私は円満に後宮を後にできる、というアレである。もし私が夜昊様の望みを叶えられなかったら、私の生涯は後宮に閉じ込められて終わり。
うむ、思い返すだに理不尽極まり『賭け』だ。そもそも『賭け』になんてなっていない。それでも乗るより他はなかった『賭け』だったから、私は今もなおこうしてこの場にいる。夜昊様の、そばにいる。
「いいんですよ、夜昊様」
「な、にが?」
「だから、『賭け』の話です」
笑みを深めてみせると、なぜか夜昊様は息を呑んだ。構うことなく続ける。
「あなたを放っておけなかった、私の負けなんです」
だからいいのだ。仕方ないのだ、こればかりは。
もうこうなってしまっては私が自分の力でお妃様方を追い出すことは叶わない。そもそもそんな場合ではない。
ただ、そういうことではなくて。ただただ、負けた、と、そう思ったのだ。
惚れた方が負けだぞ、とは、今は亡き養父の名言である。だってこのお方ときたら、本当にもうこちらが諦めざるを得ないくらいに、どうしようもないひとなのだ。慣れと諦めと妥協。これこそが人生をうまく生きていくコツだとしたら、なるほど、だからこそ私はこのお方を選んだのかもしれない。そして、夜昊様もまた、私を、選んでしまったのだ。
ううむ、夜昊様ばかりか、こうなると私自身も大概どうしようもない。でも、それでもこれだけは確かなことがある。
「でもね、夜昊様。これだけは勘違いしないでくださいませ」
「……うん?」
気付けば不思議と穏やかになっていらっしゃる夜昊様が、どこか甘い響きを宿して先を促してくる。そこに宿る期待に気付けないほど、私は鈍くはないつもりだった。彼の期待と不安に揺れる瞳をまっすぐに見上げて、嗤う。
「私は確かに『賭け』に負けましたが、でも、負けたからあなたのおそばにいようと思ったわけではございません」
そうだとも。それで人生を棒に振るほど愚かではない。そんなにも馬鹿だったら、私はとっくの昔にどんな手を使ってでも後宮から逃げ出していた。ねえ夜昊様。私、前にも言ったでしょう?
「あなたがあなただから、おそばにいたいと思いました。あなたが生きていてくださったから、私はあなたを選びました」
少しだけためらったけれど、こうなってはもう何もかも同じだと思ったから、傷だらけの両手を伸ばして、呆然としている夜昊様の顔を包み込む。絶対に伝えなくてならないことを、今、口にする。
「夜昊様。生きていてくださって、ありがとうございます」
「――――ッ!」
夜昊様がどんな顔になられたのか、確認することはできなかった。何せ、またしても思い切り抱き締められてしまったので。抵抗なんてできるはずもなく、そもそもそんな気になれるはずもなく、そっと両手を彼の背に回して撫でる。
あいたたた、傷口が、傷口が……まずいなこれ、夜昊様の背中を血まみれにしてるのでは……? と、自らの失態を悔やむ私の耳に、ぱちぱちぱち、と、軽やかな拍手の音が届く。
あ、と思う間もなく、私を背に庇う夜昊様の視線の先にたたずむのは、言うまでもなく青妃様だ。




