17-② 夜昊(後)
続けてこちらも宝珠視点ではなく、夜昊視点寄り三人称です。
万策は尽きた。けれどもう何もかも、どうでもよかった。どうでもいいと、思ってしまっている。
そも、芥宝珠という存在を知ったのは、妃達全員を後宮から追い出すにあたって、相応の能力を持つ市井の創牌師を調べていたときのことだった。
顔に大きな傷のある、はぐれ創牌師。その腕が確かなものであることは周辺の情報から明らかであったし、性別が女であることも加点材料となった。妃達を追い出すという目的のために、より都合のいい条件だからだ。だからこそこの目で本人を確かめようと、わざわざ下町まで足を伸ばした。
そして見たのは、琥珀の瞳を戦意の高揚で輝かせながら、なんとも心地の良い龍氣を扱い、神牌を操る『キズモノ』の女。
なぜだか、目が離せなかった。本人は意識していないようだったが、彼女がそのとき相手取っていた牌狩りの男と彼女の実力差は圧倒的で、そこで助けに入って借りを作り、自分に協力させる、という案は使えそうになさそうだ、などと状況を見守っていたら、まさかの脱衣の見世物の始まりだ。子供一人くらい見捨てればいいものを、彼女は驚くほどあっさりと覚悟を決めて、神牌も絵筆も手放し、その衣類に手をかけた。
黙ってみていられなかったのは、なぜだろう。自分でも理解できない苛立ちに襲われて、気付いたら彼女を助けていた。
そして文字通り彼女をそのまま後宮にさらい、『賭け』を持ちかけた。我ながら随分と身勝手で理不尽な真似をしたものだと思う。逆らうことのできない彼女は『賭け』に乗り、そして後宮に新たな住人が一人増えることになった。
彼女の顔に走る、そのかんばせを真っ二つにするような大きな傷が、化粧によるものであるとは、二、三度顔を合わせた時点で既に気付いていた。もったいないことをするものだと思ったけれど、下町で年若い娘が一人で暮らしていくには必要なことなのかと納得もしていた。とは、いえ。
――まさか、あんなに綺麗だなんて、思わなかったんだよ。
気まぐれでともに出かけた下町で目にした、彼女の本当のかんばせ。息を呑むほどの美貌など、鏡で見慣れていたし、妃達だって誰もが十分すぎるほど美しいというのに、それなのに夜昊は、宝珠の素顔に一瞬見惚れた。なるほどこれは傷痕が必要だと、深く納得したものだ。
けれど彼女の本当の美しさは、その魅力は、彼女の容姿にこそあるわけではないのだということを、夜昊は日々を重ねるごとに学んでいくことになった。
真剣に神牌にたずさわる姿、からかえばくるくると変わる表情、素直で正直なその気性。数え上げればキリがない。そんな彼女に、日に日に惹かれていく自分に気付いたのは、いつだったか。自分にはそんな資格はないのに、それでもなお、気付けば目で追いかけていた。彼女が馬鹿にされれば腹が立ったし、笑ってくれると嬉しかった。自分の胡弓を聞きながら寝入ってしまう彼女の寝顔に心は凪いで、これはちょっと悪いなぁと思いつつもそのぬくもりを抱き締めて眠ることで、何年ぶりかもしれない安眠を味わった。
――宝珠。
何もかも失ったと思っていた夜昊のもとに、失ったはずの季家の祈りを運んできてくれた彼女のその名を何度呼べば、彼女は戻ってきてくれるだろうか。
いいや、解っている。もう彼女は夜昊の手には届かないところに行ってしまった。悲しみも怒りもなく、ただその事実の前に呆然と立ちすくむ自分がいる。
香煙牌のときですら、こんな絶望を……そう、絶望と呼ぶべき感情など覚えなかったのに。そもそも香煙牌のときは、不安も焦燥もあったけれど、それよりも何よりも、ただただ目が離せなかった。見惚れることしかできなかった。
あらゆる神牌を使いこなし、次々と妃達を降していく宝珠の姿に見惚れ、見入り、魅入られた。
四戦目である淑蕾との香煙牌で、彼女が黄龍の神牌を使用したことには驚かされたけれど、もっと驚いたのは、彼女の手を取って彼女の勝利を宣言した審判役の将軍の姿を見たときのことだった。宝珠の手を握り掲げる彼に、正直に言おう。殺意を抱いた。
――さわるな。
――それは、僕のだ。
そう、思った。思ってしまった。そんな自分に信じられないくらいに驚いて、その上さらに彼女は自分を驚かせてくれた。もう目覚めてくれないかもしれないという恐怖から夜昊を救ってくれた宝珠が望んでくれたのは、夜昊の未来だ。夜昊自身が諦めてしまった未来を、彼女は誰よりも何よりも優しくあたたかく望んでくれた。
思えば彼女はずっとそういう女性だった。自らに差し向けられた刺客の助命を願う彼女は言っていたではないか。生きていれば、と。その言葉が、今になって胸に突き刺さる。
――そうだね、宝珠。
――生きていれば、未来は、あったのに。
彼女の未来を奪ったのは、淑蕾でも黒妃でもなく、夜昊だ。夜昊こそが、宝珠の輝かしい未来を奪ってしまったのだ。
彼女が目覚めたあの日、思わず奪ってしまった唇の感触が、もう思い出せない。ああ、ああ、ああ、もっともっと奪ってやればよかった。いいやその前に、ちゃんと、この想いを、伝えなくてはならなかった。それなのにどうしても気恥ずかしくて逃げることを選んで、花を贈ることしかできないで。
そうやってまた夜昊の罪は重なった。生きていくことができないならば、せめて死なないでいようと思っていたけれど、それでもなお夜昊の存在は災いを招く。
――死ねば、よかった。
もっと、ずっと前に。久々に感じるかつてと同じ後悔を胸に高い天井を仰ぐと、ふふふ、と嬉しそうな、鈴を転がすような笑い声が耳朶を打つ。ゆぅるりとそちらへと視線を向けると、やはり淑蕾は嬉しそうに笑っていた。頬を薔薇色に紅潮させ、そのまなじりに歓喜ゆえの涙すらにじませて、全身で喜びを表現していた。
「ああ、その姿。その姿が、私は、見たかったのでございますよ、夜昊様」
そして彼女は、懐から一枚の神牌を取り出す。それが何たるかを問いかける気にはなれなかったが、淑蕾はあえてその神牌に描かれた絵姿を、夜昊に示してみせた。
鮮やかなきらめく青の顔料で描かれた、見事な龍の姿がそこにある。その姿を知っている。淑蕾が宝珠との香煙牌でも使用した、彼女の最高傑作たる、青龍だ。それがどうかしたのかと視線で先を促すと、淑蕾は誇らしげに笑みを深めた。
「私が描く青龍を、いつも藍霞様は褒めてくださいましたわ。私の青龍こそがもっとも強く、美しく、優れた神牌であると。私はいつもいつもそれが嬉しくて、本当に誇らしくて…………だから」
だから、と繰り返して、淑蕾は青龍の神牌を掲げた。
「もはやこの青龍こそが、私と藍霞様の最後の絆。この青龍こそで、夜昊様。あなた様を弑します――――来来」
――――――――――豪っ!!!!
淑蕾の宣誓とともに、春の嵐が吹き荒れる。そうして顕現したるは巨大な、青く美しい龍だ。淑蕾を守るように彼女の周りにとぐろを巻いた青龍は、殺意でも戦意でもない、深い悲しみを宿した瞳で、じっと夜昊のことを見つめてくる。淑蕾はそれに気付いている様子はなく、「さあ」と両腕を広げた。
「お覚悟を、夜昊さ……」
「最後に、いいかな?」
はい、と軽く片手を挙げてみせると、あら、とばかりに淑蕾が柳眉を寄せる。困ったように小首を傾げた彼女は、片手の袖口を口元へと運び、もう、と溜息を吐く。
「今更命乞いですの?」
なんて情けない、とでも言いたげな様子に、夜昊は苦笑した。姉のように自分に接してきてくれた彼女だからこその反応は、こんな局面においても変わらないらしい。なるほど勉強になったな、などと冗談のように思って、「勉強になってもこれで終わりなら意味はないか」と重ねて笑ってしまう。
「今更こんな命に未練はないよ。でも、これが最期になるのならば、君には真実を伝えておくべきだと思ってね」
そう、今回の件のすべてを、今は亡き想い人たる、かつての青太子、藍霞のために起こしたというのならば。ならば淑蕾は、知っておくべきだ。夜昊が墓まで持っていこうと決めていた、今となっては夜昊以外には誰も知らない真実を、淑蕾だけは知っておかなくてならない。そうでなくては、不公平だ。
「……真実?」
「そう。三年前の、僕が起こした弑逆について」
「真実も何も、あなた様が先代陛下と藍霞様方を手にかけたという事実に変わりは……」
「だからね、淑蕾。そもそもそれが間違っているんだよ」
「…………なんですって?」
淑蕾の声音が明らかに変化する。柔らかで穏やかだった声音に、確かにいぶかしげな響きが宿り、その青い瞳がゆらゆらと惑い始める。微笑む夜昊を前にして、まるで得体の知れない不安そのものを前にしたかのような態度だ。そんな彼女の姿に心が痛まないわけではなかったけれど、それよりも何よりももう、もういいか、もういいや、なにもかもどうでもいい、なんていう思いのほうが圧倒的で、だからこそ淑蕾の様子に構うことなく、夜昊は続ける。
「三年前の弑逆は、すべて、当時の青太子――藍霞兄上による企てだ」
その、瞬間。淑蕾の花のかんばせが、今度こそ本当に凍り付いた。大きく見開かれた青い瞳が、信じられないと言わんばかりにこちらを見つめてくる。はくはくと花弁のような唇が音もなくあえぎ、そうして、やっと、とばかりに、彼女は声を漏らした。
「な、にを、おっしゃって……」
信じられない。信じられるはずがない。どうせこの場をしのぐための偽りだろう。そう言われてもおかしくなかったのに、淑蕾はそうは言わなかった。こんなときにそんな質の悪い冗談や嘘偽りを口にするほど、夜昊が馬鹿ではないと、彼女は長い付き合いの末に理解していてくれているからだ。ありがたい限りだ、と思いながら、夜昊は整った眉尻を下げる。今でもまざまざと思い出せる。あの日、あの瞬間、夜昊のすべては塗り替えられた。
「当時の藍霞兄上がおっしゃるにはね、次代の皇帝にふさわしいのは、この僕なんだそうだよ。藍霞兄上ご自身よりも、この僕こそが、次代の皇帝としてこの五星国を治め、龍脈を鎮めるべきだとご判断された」
藍霞という青太子は、真実、皇帝にふさわしい人間だったのだろうと思う。敬愛する異母兄は、誰よりも皇帝にふさわしく、誰よりもこの五星国の行く末を案じていた。
案じて、案じ続けて、その未来を紡ぐために考え抜いた先に出した結論が、この自分、夜昊こそを次代の皇帝の座に据える、というものだった。
夜昊としてはたまったものではないが、夜昊が藍霞に「父上とお前に話したいことがある」と玉座の間に呼び出されたときには、もう何もかもが終わったあとだった。何もかもが、遅かったのだ。
「そう、そうやって勝手にご判断されて、藍霞兄上は、自分の父と、僕を除いた自分の異母兄弟すべてを殺して、それからあの人は、自ら命を絶たれたんだ。残されたのは僕と、父上と兄上方のご遺体だけ。そこから先は、淑蕾、きみも知っての通りだ」
――夜昊、よく見ておくがいい。
――これは、お前が犯した罪だ。
――お前こそが皇帝にふさわしい。
――私では駄目だ、皇帝はお前でなくてはならない。
――お前が皇帝となり、この国を導け。
――夜昊、お前は、皇帝として生きてゆくのだ。
全身を父と異母兄弟の赤き血に染めて、呆然と固まるばかりの自分に、異母兄はとうとうとそう語った。本来青をまとうべき、本来皇帝になるべきだった異母兄は、そうして自らの心臓を長剣で貫いた。鮮やかな赤い血が親しき異母兄の胸から噴き出して、その身体がどうと倒れて、ただ血を浴びて立ち竦んで、そうして、どれほどの時間が経ったのだったか。異変に気付いた官吏や武官がやってきて、凄惨な光景に息を呑む中で、夜昊は藍霞兄上と慕った死体から長剣を抜き、嗤ってやった。嗤う以外に、何ができたというのだろう。
――控えよ。
――我こそが、皇帝である。
そう宣言して、そうやって夜昊は、皇帝として即位した。気付けば覇王などと呼ばれるようになっていたことには失笑したものだが、とにもかくにも夜昊は、皇帝として、五星国を治め、龍脈と寄り添い続けた。
母も、異母兄も、生きろと言った。けれどこの背に背負わされた罪はあまりにも重くて、重すぎて、生きていくことがあまりにも難しくて、だからせめて死なないでいることにした。死なないでいるだけで、精一杯だった。
――生きなさい、夜昊。
――夜昊、お前は、皇帝として生きてゆくのだ。
耳にこびりついて離れないその言葉は、母と異母兄にとっては祈りであり願いであり祝いであったのかもしれないけれど、夜昊自身にとっては間違いなく、呪い以外の何物でもなかった。
ただ死なないでいるだけの人生に、未来などどこにもない。けれど死ぬわけにはいかなかった。どれだけ誰かに死を望まれても、背負った罪がそれを許さない。楽になることなど決して許してはくれない。
――でも。
もう、いいだろう。よくやったと、自分で自分を褒めてやっていいのではないだろうか。あーあ、と夜昊は内心で嘆息する。淑蕾が両手で顔を覆い、ぶつぶつと何かを呟いている。耳を澄まして聞いてみれば、彼女は幾度となく「うそ」と繰り返していた。
「うそ、嘘よ嘘、ありえない、藍霞様がそんなことをなさるわけがない、藍霞様こそが皇帝にふさわしいのに、うそ、うそうそうそうそ、藍霞様、藍霞様が、私を置いていかれるはずがない……!」
うそよ、と繰り返す淑蕾を見つめながら、かわいそうなひとだな、と、夜昊は思う。あの青の異母兄は、こうなるとは予想していなかったのだろうか。自分と同じくらいにはあらゆる才覚にあふれたひとであったけれど、女心にはとんと疎いひとだったから、考えていなかった可能性が極めて高い……のだ、けれど。
――藍霞兄上?
青龍が、淑蕾のことを悲しげに見下ろしている。淑蕾は気付かない。ただ、ただ、「うそ」と繰り返して、何度も何度も繰り返して、そして。
「――――青龍よ! 私から藍霞様を奪った憎き仇を、どうか打ち滅ぼしてくださいませ!」
涙を流し、それでもなお微笑んで、再び淑蕾は大きく両腕を広げた。深い悲しみを宿したまなこで、青龍は夜昊を見据え、そしてその牙を剥く。
いよいよここまでなのだと、夜昊は心から穏やかな気持ちで微笑んだ。向かい来る青龍を見つめ返し、ただたたずむ。
ああ、そうだとも。本当は、知っていたのだ。夜昊という忌み名が、名付けられたその理由を。
忌み名は、その名の持ち主を護るためのものだ。生まれたときから身に余る龍氣を宿していた夜昊を守るために、父である皇帝と、母である黄妃は、どんな敵からも身を護る暗闇を夜昊に授けてくれたのだと、本当はずっと知っていて、けれど知らないふりをしていた。暗闇は確かに夜昊の命を守ってくれたけれど、心のことは守ってはくれなかったからだ。一切の光のない暗闇の世界で、夜昊の心は疲弊し、摩耗していった。もう限界だった。やっと見つけたと思った光すら失われたこの暗闇の世界に、もはや意味はない。
――宝珠。
――僕は、きっと、君とおなじところにはいけないね。
暗闇の世界に今度こそ堕ちるだけだ。それでいい。それがいい。罪深きこの身に、ふさわしき罰だ。そう目を閉じた、その、瞬間。
「――――――――――夜昊様!!」
その、声を。暗闇の世界に差し込む、一条の光のような、その声を。どうして聞きまがうことがあるだろうか。閉じていた目が本能で開き、そして、夜昊は目にすることになる。
迫りくる青龍の顔に横から飛び掛かる、巨大な白兎を。そしてその背に、乗っているのは。
「……ほ、う、じゅ?」
「はい、夜昊様! 遅くなって申し訳ございません!」
青龍とぶつかって吹っ飛ばした白兎に「謝謝」と告げた、ぼろぼろの黄衣の女が駆け寄ってくる。顔の化粧はすっかり崩れ、あちこち煤や血で汚れ、胡桃色の髪はぐちゃぐちゃに乱れ、身にまとう黄の衣装はあちこちが引き裂かれてもとの優美な姿など見る影もない。
それでもなお、その琥珀の瞳をきらきらと輝かせて駆け寄ってくる、誰よりも何よりも美しい、いとしい、女は。
――ねえ、宝珠、どうしてだろう?
どうして彼女は、その名の通りに、こんなにもまばゆく暗闇の世界を照らしてくれるのか、不思議で仕方なくて、いっそ無性に悔しいとすら思えてしまって、けれどそれ以上にどうしようもなく嬉しくて仕方ない。
そうしてこんなときになって、ようやく理解する。いつか“夜昊”という“暗闇の世界”に、光が差すことを、望んでくれていた人達がいたのだということを。夜昊のすべては、今この瞬間のために。芥宝珠という光のために、存在していたのだ!
――宝珠、この世界で、君以上に美しく輝く存在を、僕は知らない。
なぜかにじむ視界の中でもなお輝かしい、初めて恋に落ちた女が、夜昊の胸に飛び込んでくる。
その細く柔く華奢な身体は力をこめたら砕けてしまいそうで、けれど我慢などもうできなくて、夜昊は全力で彼女の身体を両腕でかき抱いた。




