13-① 青妃戦(前)
意識を失った黒妃様と氷雅様が、兵士と女官達の手によって丁重に運び出されていく。けれど、貴人たる二人へ向けられる憂慮の視線はほんのわずかなものだ。周囲のざわめきは留まるところを知らずに大きくなるばかりで、その視線の多くは……いいや、ほとんど、と称しても過言ではない数の視線は、鍛錬場に一人たたずむ私へと向けられている。
その視線に宿る感情の内訳としては、驚愕と困惑、それからまさかの畏怖といったところか。
――別に取って食ったりなんてしませんけど。
それなのに、私が視線をゆっくりと周囲へと巡らせると、誰も彼もがぱっと顔を赤くして硬直するのだ。確かに私ごときが三人ものお妃様から勝利をもぎとったことが許しがたいことだろうけれど、ここまで明らかに怒りをあらわにしなくてもよかろうに。
顔を赤らめてこちらをじっとにらんでくる周囲に、いくら私でも少しばかり傷付いてしまう。こちとら敗北とはつまり死亡と等しかったのだから、何が何でも勝たなくてはならなかったんですよ~~だなんて言っても、おそらくは聞いてもらえないに違いない。「身の程知らずめ!」と吐き捨てられるのがオチだろう。現実とはかくも世知辛くできている。
でも、そんな厳しく険しい視線の中で、たった一つ。たった一つだけ、確かに私の身を案じてくれている視線もまた、存在する。
――なんて顔をなさっているのかしら。
そちらを見上げた私は、思わず噴き出しそうになってしまった。どれだけ距離があったとしても、今、確実に目が合ったと、視線が絡まり合ったと、そう断じれる、金色の瞳。この場における玉座に座り、じっとこちらを見つめていらっしゃる夜昊様は、はたから見ればいつも通りの、余裕たっぷり、貫禄たっぷりの、それはそれは優美な微笑みをその唇に浮かべているだけだ。
けれど、ああもう、どうしてなのだろう。
私の目には、今、彼が、今にも泣き出しそうな顔をしているように見えてしまったのだ。
――そんな顔をなさらなくたって、大丈夫ですよ。
――私、勝ちますから。
――申し上げたでしょう、誓ったでしょう、四つの勝利をあなたに捧げると。
だから心配なんて無用なのだと、強気に心から笑い返してみせる。虚を突かれたようにわずかに金色の瞳が見張られて、そうして彼の優美な笑みに、ほんの少し苦笑が混じった。その淡く色づく唇が、音を発さないまま動く。
――じゃじゃ馬め。
そう確かにうそぶいた唇に、今度こそ大きく笑い出してしまいそうになった。はいはいさようでございますとも、私はきっと、あなたが思っていらしたよりももっとずっと乗りこなすのが難しいお転婆なんです。
私が笑みを浮かべて夜昊様を見つめていることに、そろそろ周囲は気付いたらしい。こそこそと「なんと不躾な」「いくら勝利を収めたとて、本来陛下に拝謁することなど許されぬ平民のくせに」「いくら美しく着飾ったとしても、見てみろ、あの見苦しいさまを」「もうぼろぼろではないか」「次こそあの娘の終わりだ」とささやき合う声のなんて多いことか。
聞えよがしに口さがなく陰口を叩いてくれるわりに、私が夜昊様から視線を外してぐるりとそれらの声の出どころを見回すと、さっと誰もが目を逸らす。ご自分の発言には責任を持っていただきたいなぁ、というのは私のわがままだろうか。
とはいえ、私が夜昊様を『不躾に』見上げ続けていたことは事実である。だからこそ彼に深々と改めて一礼を捧げる。さあ、次だ。次で、すべてが決まる。
覚悟を決めて審判である将軍へと視線を向けると、彼はうむ、と頷いて、そのまなざしを、青の天幕へと向けた。
「第四戦。青妃、春淑蕾様」
その声に応えて青の天幕からしずしずと現れたるは、もちろん青妃様である。たおやかで楚々とした風情の彼女は穏やかな笑みを浮かべており、彼女がこれから香煙牌という戦いに臨むという事実は、にわかには信じがたい。
彼女を守るように、その白魚のような手を取って歩む彼女の護牌官たる女性が、ぴりぴりとした緊張感を身にまとっているからこそ、余計に青妃様の、この場における不似合いさが際立っていた。
思わずその姿に見入っていると、じゃあん、と銅鑼の音が響き渡る。いけない、開始の合図だ。ぼさっとしている余裕なんて許されず、早速新たな神牌を描き始める。青妃様もまた同様に……って、うそ。私が驚きのあまりに絵筆を動かす手を止めてしまっても、気にした様子もなく、青妃様はおっとりと、早くも……本当に、速すぎる速度で描き上げてしまった神牌を、すっと護牌官に差し出した。
「宵華」
「は、淑蕾様」
なるほど、あの護牌官様は『宵華』様とおっしゃるんですね、ようやくそのお名前が解りました、とかなんとか考えている場合ではない。まずい、こちらはまだ何も用意できていない。それなのに、護牌官様、もとい宵華様は、容赦なくさっそく神牌を掲げ、「来来」と唱えた。
――何が来るの!?
とにかくここはどんな手を使ってでも持ちこたえるしかない。絵筆をさらに滑らせる手が震える。解っている、もうこの手が、自分の龍氣が、限界であることくらい。それでも、諦めてはいけない、絶対に諦められない理由が、この胸にある。
ええいここはまずお手並み拝見、さすがにこの短時間で描き上げた神牌であれば、そうそう大それた精霊は召喚されないだろう。そう、私にとって都合がいいだけの、まったくもって身勝手な検討をつけて身構える。
私が目を見開いたのは、次の瞬間だった。
「……え?」
目の前に顕現したるは、牡鹿を従えたご老人。豊かなひげをたくわえ、その手には桃を持ち、腰には大きなひょうたんをさげている。
そのお姿を、私は知っている。このお方は、治癒術を司る最高峰の精霊……いいや、神仙と呼ばれる存在。その名を知らぬ者は特に創牌師においてはモグリとされる、尊きお方。
「寿老人、様」
私の呆然としたつぶやきに対し、ご老人、もとい寿老人様は、したり顔で頷き、腰にさげていた大きなひょうたんを手に取り、そのままその中身を、思い切り、それはもう問答無用で、私の頭からぶちまけてくださった。
「きゃあ!?」
冷たくはない。むしろちょうどいい、心地よい温度の、熟れた桃の甘い匂いが香り立つ酒が、そのまま私の全身を包み込む。えっ、これ、いきなり私、攻撃された……? いやでも寿老人様は攻撃用の神牌に宿るお方ではなく、むしろ、と、そこまで思ったところで、異変は訪れた。
あ、と思わず声を漏らす私の身体に、桃の果汁のような酒が染み入っていく。それは酔いをもたらすものではないとすぐに解った。最高の治癒を司るのが寿老人様、その特性の通りに、朱妃様との戦いで負った火傷、白妃様との戦いで負った身体の節々の痛み、黒妃様との戦いで負った全身にあちこち走る裂傷――――それらがすべて、綺麗さっぱり癒えてしまい、消えてなくなった。そして何より、すっからかんになりかけていた龍氣が、この身に満ち満ちている。
「謝謝」
昇華様が一言告げると同時に、寿老人様の姿がこの場から掻き消える。それを呆然と見送って、どうして、と声なく私は唇をわななかせた。
私が向ける驚愕と困惑が入り混じるまなざしの先にいるのは、もちろん宵華様、そしてその背後に守られている青妃様だ。青妃様は、私とばちりと目が合ったと思ったら、おっとりと、それはそれは穏やかに笑みを深めた。
「既に三戦を乗り越え、龍氣を使い果たそうとしているあなたと、まだ何も成していない私が香煙牌に臨むのは、あまりにも不公平でしょう? だからこそ、せめて私ができる限りの治癒をさせていただこうと思いましたの。あなたほどの創牌師と、一戦を交える機会などそうはございませんもの。私も一人の創牌師として、互いに万全な状態で向かい合いたいと思っただけのこと」
ごくごく当たり前をしただけ、言っているだけだと言わんばかりのその泰然とした様子に、周囲が、おお、と息を呑み、気圧されたように黙り込む。私もまた、彼女のその在り様に吞まれそうになる。
なんて凛々しいご気性か。彼女はただ守られるだけの花ではなくて、自らを手折らんとする不埒者に慈悲と断罪を同時にくだすことができる、戦でこそなお美しく咲き誇る花なのだ。
「……感謝いたします、青妃様」
そのたおやかな御容姿に惑わされ、彼女を侮っていた自分が恥ずかしい。感謝と謝罪を込めて深々と一礼を捧げると、青妃様はころころと錫を転がすように笑った。
「礼には及びませんわ。どちらにしろ、あなたの寿命はそうは変わりませんもの」
寿老人様には申し訳ないことですけれど、と、やはり穏やかに続ける青妃様は、そうして再び神牌に絵筆を走らせ始める。一瞬遅れて、私もまた同様に絵筆を滑らせる。
おそらく、ではなく確実に、青妃様の創牌師としての腕は、四人のお妃様方の中でも随一だ。あんな短時間で寿老人様を呼べるほどの高位神牌を描き上げるその手腕、それこそこんな場合でもなかったら立ち上がって万雷の拍手を送っていたに違いない。そして、そんな高位神牌を軽々と扱ってみせた宵華様の、護牌官としての実力もまた、かなりのものであると言えるだろう。
――最後の最後で、とんだ隠し玉がお出ましになられたわね。
とはいえ、負けるつもりはない。
青妃様のおかげで龍氣がこの身に満ち、あちこちの痛みもすっかりなくなったおかげで、絵筆が乗りに乗っている。いっそ楽しくなってきてしまっているのだから、もしかしたら私は戦闘狂の気があるのかもしれない。白妃様ほどでは、ない、とは、思うのだけれど、若干自信がなくなってきた。
「芥宝珠さん」
「はい」
「創牌師として、最初から互いに全力でまいりましょう。もうあなたも私も、相手の実力は解っているでしょう?」
「はい。無論、そのつもりにございます」
「それは重畳」
ふふふ、とまなじりを柔らかく細めた青妃様は、なおも絵筆を動かしている。彼女がこれだけ時間をかける神牌がなんたるか、なんて、考えるまでもない。となると、これは当初の予定通りにはいかなさそうだ。
けれどだからと言って、その『予定』を覆すつもりがない私は、本当に諦めが悪いのだろうし、意地汚いとすら罵られるのだろう。でも、それでも。
――夜昊様。
じっと私を、私だけを見つめてくれている彼に、声をかけることは叶わない。そちらへと視線を向ける余裕なんてありはしない。
でも、それでも気付いていたし解っていた。彼はずっと、ずぅっと、誰よりも何よりも、私の勝利を望んでくれていると。私の無事を、祈り、願い、だからこそ私のことを、まばたきすら忘れて見つめ続けてくださっているのだということを。
――夜昊様。
その名前を内心でもう一度繰り返す。
私は、あなたに見せたい光景がある。あなたに見せたい光景を、この絵筆で描いてみせる。だから私は、もう何一つ譲れない。
絵筆をぐっと握り直して一心不乱に神牌を描き続ける私に対し、やはりというか案の定というか、青妃様は先に神牌を完成させた。ちらりと見えただけでも解る、そのたおやかながらも力強い筆のその神牌。そこに描かれている存在に、やはり、と思う間もなく、青妃様の手から、その神牌が宵華様の手へと渡る。
「さて、それでは私から。宵華。全力を尽くしなさい」
「ご随意に。この宵華、必ずや我が主に、勝鬨を捧げてみせましょうぞ」
来来、と。静かに、それでいて確固たる戦意を込めた召喚の声に応えたるは、青のきらめきだ。
青のうろこが、きらきらと陽の光を反射してきらめく。木漏れ日のように遊ぶその光は、樹木が伸びあがるように、巨大な龍の形を形作っていく。圧倒的な存在感をまとうその姿。春の嵐のような荒々しさと、春の日差しのような穏やかさを併せ持つ、この上なく美しい透明な青。春家が象徴、四神が一柱たる、木を司る最高位の神獣――――その名は、青龍。
ロォウ、と一声鳴いて、その長い身をくねらせて、青龍は神牌の使い手である宵華様ではなく、描き手である青妃様を守るようにその身の内に囲い込んだ。
そんな青龍の身体をさもいとおしげに撫でて、青妃様は絵筆の動きを止めた私へと視線を向ける。ころころとまた彼女は、戦場にはてんで似つかわしからざる穏やかな笑い声を上げた。
「やはり驚かないのね。ふふ、燦麗様達も四神を呼び出されたのだもの、当然かしら。でも、私の最高傑作は、やはりこのお方なの。このお方以外にはありえない。このお方こそ、今の私のすべて」
歌うように語る青妃様に対し、当然だとばかりにまた青龍が鳴いた。その吐息はそのまま、春の日差しに艶めく緑葉の群れとなって私を襲う。襲う、と言っても、そこには悪意も害意もない。ただ優しくその春の嵐は、私の全身を撫でていくだけだった。
髪も衣装ももうぐちゃぐちゃに乱されてしまって、それでも絵筆と神牌は手放さない私に、青妃様はにこりと笑みを深める。そのまなざしをちらりと宵華様へと向けて、心得たように頷く彼女に満足げに頷きを返し、彼女は両腕を広げてみせた。
「さあ宝珠さん、見せてちょうだい。あなたの全力を。そうね、五行のことわりに倣うならば、あなたは金の氣の神牌を描かれるのかしら?」
どこかからかうような言いぶりは、彼女の自信のあらわれだ。嫌味でもなんでもなく、純然たる事実として、彼女は自身の勝利を確信している。
なるほどごもっともだ。それだけの実力が彼女にはあり、だからこその至高の存在の一角たる青龍の顕現である。反射的にごくりと息を呑む私に、あらあら、と柳眉を下げた青妃様は、「宵華」と短く自身の護牌官の名前を呼んだ。
「私が許します。遠慮は無用、存分に我が最高傑作の力を見せ付けてさしあげなさい」
一転して冷たくなった声音が紡いだその言葉に、宵華様は頷いた。そしてその片手を、私へと向ける。それが言葉なき号令となり、青龍が動いた。長く大きな身がくねり、そのこうべが私のもとへと迫る。大きな口から今にもほとばしらんとしているのは、先ほどのそれとは比べ物にならないようなすさまじい春の嵐。
これは詰んだかも、と一瞬思った。全身から冷や汗が噴き出して手が滑りそうになる。けれど、それでもなお、絵筆を動かして、そして最後の一筆にすべてを込めて、それから。




