7-⑤ 清流
――あの時の牌狩りの男……!
そう、私が後宮に放り込まれる原因の一端となった、私を狙った牌狩りの一味の一人だ。しかもよりにもよって、神牌の扱いに長けた、くだんのひょろりとした長身の男である。これはもしかしてもしかしなくてもものすごくまずいのでは、と思う間もなく、男が肩を怒らせ、周囲の人々を押しのけながらこちらへと駆け寄ってくる。あ、やっぱりものすごくまずい状況ですね承知いたしました。
――夜昊様、これは致し方ないとお思いください!
待っていて、と言い残していった彼には申し訳ないが、ここで大人しく“待って”いたら、私ばかりか何の関係もない周囲の人々にも危害が及ぶであろうことは目に見えていた。となれば、私にできることはただ一つ。三十六計逃げるに如かず。長椅子から飛び降りるように離れると、そのまま私は人混みの中に飛び込んだ。
「このっ! 待て!!」
乱暴に人々を押しのけて私を追いかけてくる男のせいで、あちこちから悲鳴が上がるが、申し訳ないことに構っていられない。とにかく逃げるのが先決だ。牌狩りであるあの男に捕まるわけにはいかないし、そうでなくても個人的に恨みを買っていそうだし。
そして走って、走って、走り続けて。無意識に走りやすさを求めて人のいない方向へと向かってしまった私は、ひとけのない裏道の袋小路へと追い詰められてしまった。
「随分とてこずらせてくれましたね」
袋小路の壁を背に、ぜえはあと息を切らせている私から少し離れた場所で、同じく息を切らせつつも、勝利を確信したいやらしい笑みを浮かべている男。間違いなくやはり、あのときの牌狩りの男だ。
夜昊様によって完膚なきまでに叩きのめされたはずのこの男が、どうして街中を堂々と歩いていられたのか。そんな私の疑問は、男が続けた台詞によってすぐに氷解することとなる。
「あの金髪の男と取引をしましてね。私が所属する牌狩り一派の情報を流せば、私のことだけは見逃してくれると。ええ、もちろんその取引には乗りましたよ。私とて命は惜しいですから」
けれど、と、続ける男の目が、ぎらりと憎悪に燃え滾る。反射的に身構える私をぎらぎらとした憎しみを宿した瞳でにらみ据え、男はさらに続けた。
「一派の情報を流し、私は自由の身になりました。ええ、おかげさまでね。だが!」
それまでの薄皮を撫でるような声音から一転して、男は怒鳴る。
「私の龍氣すべてを封じられるとまでは聞いていない! 私が何をした!? 牌狩りが重罪であるとはいえ、なぜ私だけが、こんな大罪人のような罰を受けねばならないのだ!!」
「……っ!」
叩きつけられた怒声に身を竦ませつつ、「そんなことになっていたのか」とやけに冷静に納得する自分がいた。この五星国において生活するうえで欠かせないのが神牌であり、それを扱うためには身の内に流れる龍氣が必須である。その龍氣を封印されるのは、男の言う通り、よっぽどの重罪を犯した大罪人だけだ。たとえ牢から解放されたとしても、龍氣を封印された状態では、この五星国ではまともに生きていくことは叶わないだろう。
――流石、覇王サマ、ということかしら。
ある意味では極刑よりも重く辛い罰を、彼は目の前の男に与えたということだ。流石に気の毒に思えてきたけれど、そんな私のわずかな同情を敏くくみ取ったらしい男は、ギンッとますますそのまなざしを鋭くする。
「すべてお前の、お前のせいだ……! お前さえ大人しく我らの手に落ちていれば、私は、私は~~~~っ!」
それ以上は言葉にならないようだった。そのままの勢いで男は、唸るような奇声を上げながら、懐から取り出した小刀を振りかぶってこちらへと駆け寄ってくる。
神牌の使えない男の、なりふり構わないがむしゃらな攻撃なんて、懐に忍ばせている神牌を使えば、たやすく撃退できるはずだった。けれど、動けない。もう後も先も何もかもを諦めた男の、圧倒的な悪意、敵意、害意の奔流を前にして、恐怖で身体が竦んだ。
立ち竦むばかりの私に、男の刃が、悪意が迫り、そして。
「……だから、待っていて、って言ったのだけどな」
来来、と、短く続けられた、その、声。
何度聞いても新鮮に耳に心地よい声とともに、一陣の鋭い風が吹き、男の手から小刀が宙へと巻き上げられる。驚愕に目を見開いて男は背後を振り返り、私もまたその視線の先を追いかける。
そして、予想通りの姿がそこにあったことに、どうしてだか、私はどうしようもなく、安堵してしまったのだ。
「夜昊、様」
「うん、宝珠。危ないところだったね」
にこり、と笑みを深めた夜昊様は、そのままゆったりとした足取りで、こちらへと近付いてくる。ヒッと息を呑んだ男が、じり、とわずかに後ずさったかと思うと、バッとこちらを向いた。
「おい、醜女め! 少しは役に立ってもらうぞ!」
「っ!!」
追い詰められた鼠のごとく素早い動きで私の元まで駆け寄ってきた男は、私の首を片腕で抱え込み、悪辣な笑みを夜昊様へと向けた。
「この女を無事に解放してほしくば、そうだな、そこの小刀で、自らの龍穴でも貫いてもらいましょうか! 二度と神牌を扱えぬようにな! お前にも私と同じ苦しみを味わわせてやりましょう!」
「なっ!?」
なんてことを言い出しやがるのかこの男。龍穴。それは人間の中に流れる龍氣の、起点となる場所だ。人によって場所は異なるけれど、見る者が見ればそれがどこにあるか見分けるのはそう難しいことではない。夜昊様のように強すぎる龍氣の持ち主であればなおさらだ。その夜昊様の龍穴の場所は……!
「駄目です、夜昊様! 私のことなど捨て置いて……っ!?」
「黙れ、醜女め! お前もすぐ同じ目に遭わせてやりましょう、はは、創牌師としてどころか、五星国の民としても失格になってしまうがいい!」
私が叫ぼうとした台詞にかぶさって、ぐっと首をさらに締め上げられ、勝利を確信した男が酒に酔ったかのように騒ぎ立てる。けれど駄目だ、従う訳にはいかない。だって、だって、夜昊様の龍穴は、その左胸に。ちょうど心臓が位置するその場所に、存在するのだから!
それなのに、それなのに夜昊様は、穏やかな笑みを崩さないまま、ためらうことなくつい先ほど宙に頬り投げられ、今は地面に転がるばかりだった小刀を持ち上げる。そして。
「宝珠」
彼は、私の名前を呼んで。それから、これ以上なく穏やかに、場違いなまでに安堵を誘う、あまりにも美しい笑顔を、その花のようなかんばせに浮かべた。
「気にしないでね」
夜昊様の手の小刀の切っ先が、その左胸へと向けられる。はははは、と、狂ったように男が笑う。私は全身を震わせて。
そうして、それから、それから――――――――――はい、ブチ切れることにしました!!
「っの、頭を冷やしてください、この暴君! 来来!!!!」
がぶりと男の腕に噛みついてその腕から逃れ、懐から神牌を取り出し、宙へと高く放り投げる。私の言葉に従って神牌からほとばしるのは、膨大な量の水だ。しかもただの水ではない。あらゆる穢れ、あらゆる悪意を清め洗い流す、精白にして純潔たる、慈雨となるべき聖なる水だ。それが、文字通りすさまじい勢いの土砂降りになって、この袋小路に降り注ぐ。私も、男も、夜昊様も、誰も彼も全員が、清らかな水に飲み込まれる。
呼吸すらままならなくなるほどの土砂降りは止まない。私もそろそろ限界だったので、いつも通りに「謝謝!」と叫ぶと、清流はそれまでの勢いが嘘のように消え去り、残されたのは倒れ伏す男と、すっかり濡れ鼠になってしまった私と夜昊様である。
地面に倒れ伏した男は白目を剥いており、当分目を覚ますことはないだろう。何せ聖なる慈雨をあれだけ浴びたのだ。穢れが凝ったような根性の男には、さぞかし刺激的だったに違いない。それよりも、そう、こんな男よりも、私が気にかかってならないのは。
「夜昊様! お怪我はございませんか!?」
そう、我らが覇王サマである。すっかり水もしたたたるとびきりイイ男になっていらっしゃる彼の色香はすさまじいものがあるが、その色香に惑わされていられる余裕はない。
「申し訳ございません、私の、私のせいで取り返しのつかないことになるところでございました……! どうして、どうして私などのためにっ!」
私のことなんて捨て置いてくださればよかったのに、目の前の彼は、自らの龍穴よりも、自らの命よりも、私の無事を優先してくださった。それで私がどう思うかなんて考えもしなかったに違いない。それくらいにあっさりとした即決だった。
本当に何を考えているのかこのお方は。御身は御身だけのものではないことくらい、いくらなんでもご理解なさっていらっしゃるだろうに、それなのに!
ほとんど涙目になってあちこちぺたぺたと無遠慮に夜昊様の身体を触って確かめていると、ふは、と、いかにも耐えきれなくなったと言わんばかりの笑い声が聞こえてきた。え、と思う間もなく、その声は腹の底から響き渡る爆笑へと変わる。
「はは、は、はははははははははははっ! いやはや、すごい、宝珠なら自分ででもなんとかできるだろうとは思ったけれど、まさかこんな神牌を使ってくるとはね。浄化の清流なんて希少な神牌、僕だってなかなか手に入らないのに。それを普通に持ち歩いていたとか、規格外にもほどがあるでしょう。ははは、は、ははっ、だめだ、おもしろい」
「っ笑い事ではございません! 夜昊様はご自分の行動をもっと省みるべきです!」
「ええ、嫌だよ」
「夜昊様!」
「だって、僕が死ぬよりも、宝珠が死ぬ方が嫌だったんだもの。だったら僕にできることは、さっきの通りのことしかなかったと言えるでしょう?」
「っそんな、そんな台詞で、ごまかされませんからね……!」
「うん、別に信じてくれなくてもいいよ。僕が自分で、僕自身が本気だったと解っているから、それでいいんだ。それよりも、宝珠」
「……なんでしょうか?」
こちらがこんなにも必死になっていると言うのに、ちっともそんな気持ちなんて慮りもしないで楽しげにしていらっしゃる覇王サマは、不意に手を伸ばして、私のあごにその手を寄せ、くいっと持ち上げてきた。不意打ちすぎて抗うこともできずに、ばっちりと彼と目を合わせる形になって固まる私に、夜昊様は唇に描いた弧をさらにつりあげる。
「もう化粧はいいの?」
「……え?」
「傷痕。すっかり綺麗になっちゃってるよ?」
「…………………………あっ!?」
夜昊様の言葉を理解した途端、私は一気に彼から距離を取り、地面にできた水たまりを覗き込む。そこに映り込むのは、当たり前だけれどもちろん私の顔。そう、“なんの傷痕もない、まっさらな、化粧がすべて落ちてしまった”顔である。
今の私の顔に傷痕は存在しない。取り立てて目立つ特徴はなくなり、思わず両手で顔を隠す。しかし、もう何もかもが遅すぎる。
「あ、や、あの、こ、ここここれはそのあの……!」
「ああ、別に、君の顔の傷痕が化粧で描かれたものだってことは最初から解っていたから、今更言い訳とかはいらないよ。これでも色々傷痕を見てきたからね。君が化粧で描いた傷痕は、確かにそれは見事なものだったけれど、ごまかされてあげられなくてごめんね?」
「…………謝っていただくようなことではございません」
「うん、まあそれはそうか」
にこにこと笑う陛下の前で、顔を覆ったままこうべを垂れる。化粧をしていない顔……そう、陛下の言う通り、化粧で傷痕を描いていない顔を、誰かに見られるのなんて、いったい何年ぶりだろう。
そもそものきっかけは養父だった。十年前、彼に拾われたばかりのころ、神牌制作の手ほどきを受けるついでに、彼は私に化粧の仕方についても指南してくれた。その際に、養父は言ったのだ。「顔に傷を描け」と。
もしも養父に何かあったとき、今度こそ私は一人になってしまう。そのときに人買いや人さらいといった賊を遠ざけ、そして周囲からの同情を集めて女一人でも生きていきやすいようにと、養父は私に、顔に傷を描くことをすすめてくれたのだ。
その提案は功を奏し、おかげさまで『キズモノ』と侮られることはあれど、女子供を狙う賊からは見事見逃され続けてきた。
改めまして、養父様、宝珠に名案を授けてくださり本当にありがとうございました……というのはさておいて。
じっとこちらを見下ろしてくる夜昊様の視線が痛い。このまま俯き続けるわけにもいかず、そろそろと顔を持ち上げて、改めて深く一礼した。
「そのようなつもりはございませんでしたが、結果として陛下をだますことになってしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます」
「だから別に最初から僕はだまされていなかったってば。君のその顔じゃ、あれくらいの傷痕がなかったら今日まで無事にすまなかっただろうしね。うん、本当に、妃達と比べても負けず劣らず……いやもしかしたら妃達よりも…………」
ぼそぼそぼそ、と続ける夜昊様のその台詞の後半は、ほとんど聞き取れなったけれど、どうやらお咎めはなし、ということらしい。ほっと胸を撫でおろしていると、夜昊様は「ああそうだ」とぽんっと手を打ち鳴らした。
「忘れるところだった。はい、これ」
懐から取り出された、一目で一級品と解るつややかな絹の布に包まれた、長ぼそい何か。え、と瞳を瞬かせる私の手に、夜昊様はぎゅっとそれを握らせてくる。
「あげる」
「え、ですが」
「いいから」
開けてみろ、と、暗に促され、首を傾げながらもその包みを開く。先ほどの土砂降りで、絹の布も濡れていたけれど、中身は無事なようだ。いきなりなんだと言うのだろう、と思いつつ、丁寧に布を開いて、そうして私は息を呑んだ。
「蝋梅の、かんざし?」
「そう。さっきの店じゃあんまりだったからね。もっと格上の店で調達してきた。宝珠に似合うと思って」
なぜかいつもよりも早口でそう告げる夜昊様の声を聞きつつ、しげしげと布に包まれていたそれ――黄色い蝋梅が咲き誇るかんざしを見つめる。見事な作りのそれは、派手ではないのに華やかで、上品なきらめきをまとっている。
「う、受け取れません、こんな高価なもの……」
「僕をここまでびしょぬれにしておいてよくそんな台詞が言えるね」
「うっ」
それを言われると胸が痛む。とはいえ受け取る理由がどこにもないのに、「わあいありがとうございますぅ」なんて受け取れるほどお気楽にはなれない。タダより高いものはないということを、私はこの十八年という人生の中でわりと思い知らされているほうなので。
確かに、本当に、とても素敵なかんざしだけれど、でも……という私のためらいをくみ取ったのか。夜昊様は、「だったら」と口火を切った。
「これからも僕のことを夜昊と呼んで。陛下、ではなくて、ちゃんと、名前の、『夜昊』と。これで交換条件になるでしょう?」
「いえ、まったくなってないと思いますが」
「じゃあ命令。そのかんざしを受け取って、今後も僕を夜昊と呼んで。異論は認めない」
にっこり、とまた駄目押しされた。あ、これ、本当に聞く耳をもっていらっしゃらないなこのお方。
ツッコミどころが多すぎてもうしっちゃかめっちゃかなのだけれど、でも、どうしてだろう。ああ、困ったな。悪いなんてちっともしなくて、むしろ心のどこかで喜んでしまっている自分がいる。
改めて手の中のかんざしを見下ろした。黄色い貴石を切り出して作られた蝋梅の花。花の少ない凍える時期に数少なく花開く奥ゆかしさから、その花言葉は『慈愛』であると言われている。そんなご大層なものを持ち合わせているつもりはないけれど、でも、少しくらいは、このかんざしにふさわしい女性を、目指すことくらいは許してもらえるだろうか。
かんざしを持ち上げて、そっと自らの胡桃色の髪に挿す。どうにもこうにも照れくさいけれど、それでもなんとか笑ってみせた。
「似合いますか?」
「……僕が宝珠のために選んだのだもの。似合うに決まっているでしょう」
「ふふ、はい。ありがとうございます。さようでございますね、夜昊様」
ふいっと顔を背けられてしまったけれど、それでも彼の声は存外に柔らかかったから、その言葉を素直に信じることにした。そして懐から新たな神牌を取り出し、「来来」と呟く。ほんの一瞬、火傷しない程度の熱風が私と夜昊様を包み込み、その風が消え去る頃には、すっかり私達の身体は乾いていた。
「助けてくださり、ありがとうございました」
「…………うん。それじゃあ、逢引の続きとしようか。そこの男を、警吏に引き渡してからになるけどね」
そこまで続けてから、夜昊様は、その手を私へと差し出した。ん? と固まる私を、じれったそうに金色の瞳が見つめてくる。
「手」
「え」
「だから、手。繋ごうって言っているんだよ。今度はもうはぐれないようにね」
「……それ、私が逃げないようにってことですよね」
「…………本当に君って、情緒も風情もないよね。ふふ、うん、いいよ、そういうところがいい」
くつくつと笑う夜昊様は、そのまま私の手を取った。あれ? と思う間もなく、当たり前のように指を絡ませられ、完成したのはいわゆる恋人つなぎというあれである。
「や、夜昊様?」
「何?」
「……なんでもございません」
そして私達は、その後ほとんどろくに会話を交わさないまま、けれどそれでもなお手だけは繋いだままで、夜昊様曰くの“逢引”を満喫し、後宮へと帰還したのだった。




