6-① 仙女と蛇
お妃様方とのお茶会、というよりも、単なる顔合わせにすぎなかったあの一件から、また数日が経過した。
あれから何か現状に変化が起こったか、と問われると、これがまま困ったことに何一つ変わりなし、と答えるより他がないのが正直なところである。
「どうすればいいのかしら……って、ああ、ごめんなさい、こっちの藤色よりも、こっちの葡萄色の方がお好みなのね?」
今日も今日とて私は、後宮の一角の作業場に閉じこもって、陛下が使い潰した神牌の修繕と、新たな神牌の制作に精を出している。手元にある神牌に描かれているのは紫色の羽衣をまとったたおやかな仙女だ。その両腕が掲げるのは大きなひょうたん。その中にはなみなみと、市場の甘露とうたわれる酒が満たされているのだという。
陛下曰く「酒の席にちょうどいい神牌なんだけれど、まあお察しの通り、ね?」と微笑まれた。神牌に宮女の真似事をさせた挙句、ここまで使い潰すなんて、つくづくあの人は最低だと思う。
それでもなお、他の神牌達と同じく陛下のことを慕っている酒精の仙女は、私がその羽衣にお望み通りの葡萄色の顔料で筆を入れると、神牌越しに喜びの感情を伝えてきた。健気すぎて涙が出てきそうだ。
それでも陛下が……というよりも、神牌に宿る精霊自身が自ら望むのであれば、私にはその神牌を修繕する以外の選択肢がない。むしろ望んで、今日もまた数多の神牌を相手取っている、というわけである。
とは、いうものの。
「お妃様方を後宮から追い出せって言われても、だからどうすればいいのって話なのよ」
うん、と自分に言い聞かせて一つ頷く。そうなのだ。お茶会未満の顔合わせで対面したお妃様方とは、あれから一度も、誰一人として接触がない。当たり前だ。何せあれ以来、結局私は貸し与えられた後宮の一角から出ることが依然として許されないままで、お妃様方からの接触があるわけもなく、私と彼女達の関係性は平行線を辿っている。
追い出せ、と言われても、きっかけがない。まさかそれぞれがお住まいになっている宮に乗り込むわけにもいかないし、乗り込んだとしても不審者扱いされてそのままさっくりよくて牢屋入り、悪くて流れるように無礼討ちだろう。
この現状を打破してくれそうな陛下はというと、毎日のように私の元に顔を出しては、上機嫌で私が修繕したり制作したりした神牌を回収して、「じゃあ次はこっちも頼むよ」と新たなずたぼろの神牌を残していくばかりである。
陛下は、他のお妃様方の宮にお渡りになることはほぼないのだと聞いている。昼間、陛下曰くの『ご機嫌取り』のために彼女達のもとに訪れることはあっても、夜、本来の意味での妃の役目を求めて彼女達の元へお渡りになることは皆無なのだとか。それこそが、当初聞かされていた通りの、彼が次代に血を残すつもりがないということの表れなのだろうけれど……。
「それにしてももう少しやりようがあってもいいんじゃないかしら。お妃様方があまりにお気の毒だわ」
「そうは言われても、下手に期待を持たせるほうがよっぽど残酷だと僕は思うよ」
「…………陛下」
「ん?」
「だから、いきなり気配なく背後にお立ちになるのをやめてください!」
私が悲鳴のように怒鳴りながら背後を振り返ると、きらびやかな美貌が穏やかに微笑んで「ごめんごめん」とひらひらと手を振った。全然反省していないし、そもそも自分が悪いだなんてこれっぽっちも思っていらっしゃらない態度である。
いや、確かにこの後宮のすべては陛下のためのものであって、ならば彼がどこにいようがどう現れようが、誰にも文句は言えないのだ、ということは解っている。そう、解ってはいる、理解はしているのだけれども、納得できるかどうかはこれまたまったく別の話だ。
ああ、絵筆を置いているときでよかった。これでうっかり筆を滑らせて描き損じたあげくに神牌を無駄にしてしまったら、陛下はともかく、その神牌に宿る精霊に申し訳なさすぎる。
突然の背後からの声かけに未だにせわしなく跳ねている鼓動を感じながら、いつものように陛下に向かって跪いて一礼する。陛下もまた、いつものように「楽になさい」と鷹揚に笑みを深めてくださったので、遠慮なく姿勢を崩して、陛下を見上げた。
「本日も陛下がご依頼なさった神牌の準備はできております。修繕が必要な神牌につきましても、こちら、この通りにございます。ご確認くださいませ」
「うん、ご苦労様。それじゃあ、来来」
私が刺し出した神牌の束を、ぱらぱらとさしたる興味もなさそうに見比べた陛下は、とりあえず、とばかりに、私が今回最も力を入れて修繕した神牌である、水の氣に属する双頭の蛇を宿したそれをぽいっと宙へと投げた。
そして続けざまに唱えられた召喚の呼び声に応えて、期待通りの姿の精霊がこの場に顕現する。双頭の蛇はそのまま宙を滑り、甘えるように陛下の腕に絡み付いた。その頭をそれぞれ撫でた陛下が「謝謝」と唱えると、名残惜しそうに双頭の蛇は再び神牌へと封じられる。
「よろしい、今日も上出来だ。僕の龍氣にも十分耐えられるようになっているけれど……宝珠、君は何をした?」
「と、言われましても……特に何も、市井で暮らしていたときと特に変わらずなのですが……」
「ええ? それだけじゃないでしょ」
隠し事はよくないよ、と、陛下がツンと私の唇を指先でつついた。ここできゅんとときめくことができたならば、この後宮暮らしももっと楽しく愉快なものになっていたに違いない。だが現実とはそう簡単にはいかないもので、目の前の青年がどういうお方がいい加減理解してきている私は、「まあおたわむれを……」なんて口ではそれなりにしおらしいことを言いつつ、思い切り目を逸らすしかない。
しかし陛下はそれで私を逃がしてくれる気はないらしく、穏やかな、それでいて確実に逆らい難い圧力を感じさせるなんとも器用な笑顔で、「それで?」と重ねて問いかけてくる。だからそうは訊かれましても、特に意識していることなんて本当にほとんどないというのに。
「……恐れながら、あえて申し上げるのであれば、陛下がご用意くださる顔料のおかげかと。より多種多様な、それこそ高価なものから安価なものまで、幅広く陛下がご用意くださるおかげで、精霊の皆様のご希望の絵姿がより描きやすくなったこと、でしょうか。顔料の選択肢が増えれば、それだけ正確に神牌に絵姿に写すことができますから」
「ふぅん? そこは自分の腕が宮仕えの創牌師達よりも優れているから、って嘘で言っておくところじゃない?」
「私の創牌師としての腕は平均ですよ」
「……まあ本人がそう思っているならそれでいいけれど……。宝珠、君、出世できない気質だね」
巨大なお世話である。取り繕いきれずにひきつった笑顔になる私を、陛下は「まあそれはきみの美点だよ」といかにも適当に励ましてくださった。彼的には褒めているつもりなのかもしれないが、何故だろう、まったく嬉しくない。
このお方、本人は「自らの発言は基本的に本気」であるといつだったかおっしゃっていたけれど、本気だからと言ってそれが相手を喜ばせるかどうかはまったく違う問題なのだなあという学びを得てしまった。これが今後の人生で活かされてくれることを願おう。そもそもその『今後の人生』は、陛下との『賭け』の勝敗の行方によって、大きく左右どころか四方八方に飛び散るわけだけれども。
「……あの、陛下。僭越ながら申し上げます」
「ん、いいよ、許そう。なんだい?」
「陛下は、お妃様方には神牌の修繕や制作をご依頼なさらないのですか? 陛下がお妃様方と距離を置かれたいお気持ちはごもっともなものでございますが、神牌の質だけを考えれば、私などよりもお妃様方に、それぞれの属性で割り振ってお願いなさるほうが得策なのではないかと思うのですが」
そう、お妃様方、すなわち、青妃、朱妃、白妃、黒妃の皆様は、この五星国の中でも指折りの創牌師である。それはお茶会の前に陛下が見せてくださった彼女達が作ったであろう神牌からも察せられるし、その実力こそが、彼女達が『皇帝の妃』であるという理由だからだ。
そもそもの大前提として、創牌師は誰もが就ける職ではない。ただ単に絵心と顔料さえあればなんとかなるものではないのだ。
その多くは、生まれの血筋が大きくものを言い、だからこそ四大貴族と呼ばれる高位貴族が存在する。
春家は『木』、夏家は『火』、秋家は『金』、冬家は『水』。それぞれの家の血筋に連なる者は、生来その属性の龍氣を多くその身に宿し、同時にその属性の精霊との対話を得手する。
創牌師として欠かせない能力とは、画力、そして、精霊との交渉術。前者は研鑽を積めば世に認められるだけの腕になることも可能だろうが、精霊との交渉術ばかりはそうはいかない。はっきりいって、これは生まれ持った才能である。
生来おのおのの属性の精霊との対話を得手とする四大貴族の血に連なる者が、創牌師として大成することが多いのはそういうわけだ。事実、宮仕えの創牌師も、市井の創牌師も、多かれ少なかれ、四大貴族のいずれかの血がその身に流れていることが非常に多い。
そしてその四大貴族の中でさらに選び抜かれた、最上級の創牌師こそが、陛下のお妃様方である。
ここで突っ込まれるのは、私のような、お貴族様とは縁もゆかりもない創牌師も存在するではないか、ということだけれど、それはなんというか……もうたまたま私の運がよかっただけだとしか言いようがない。箸にも棒にもひっかからない平民の私が、十年前の内乱で両親を失って途方に暮れていたところを拾ってくれたのが、はぐれ創牌師だった養父だった。そのおかげであり、それがすべてだ。
と、まあ、話は脱線したが、とにもかくにも、陛下のお側には、少なくとも四人の特級創牌師がいらっしゃるのである。彼女達に、それぞれがお得意な属性に合わせて、最高の修繕と制作をしてもらったほうが、私があれこれ手を加えるよりもよっぽど陛下ご自身……というよりは、神牌とそこに宿る精霊の皆様にとっていいことだと思う。
私がやれることは、まあそれはもちろんそれが『賭け』の内容に含まれている件も踏まえて、全力を尽くす所存ではあるけれど、でも、今のところは大丈夫でも、いずれ私の手に負えない神牌が現れたら。そのとき陛下は、どうなさるのだろう。
私のこの疑問は、間違っているのだろうか。優雅で鷹揚な笑みをたたえてこちらを見つめ返してくる陛下の真意は解らない。私も無言になるしかなく、そのまま見つめ返すと、ふ、と。吐息をこぼすように、陛下は笑い声をもらした。
「皇帝に、妃達を差し置いて、神牌の修繕と制作を自分一人にすべて任されている。そんな自分は、皇帝専属の創牌師であり寵姫である」
「え?」
いきなり何を言い出したのか。ぱちくりと瞳を瞬かせると、陛下はくつくつと喉を鳴らして、長身の身をわざわざ屈め、私の瞳を間近で覗き込んでくる。まぶしいくらいにきらつく彼の金色の瞳に、戸惑うばかりの私の表情が写り込んでいる。え、ええと、と口ごもる私の視線を捉えたまま、彼はつづけた。
「そう勘違いしないの?」
ことり、と首を傾げるその仕草すら、ぞっとするほどに蠱惑的だった。神牌に封じるには少々てこずる魔性のたぐいだって、ここまで見目麗しくはないのではなかろうか。
勘違い。私が、陛下の寵姫だと? 思ってもみなかった想定外の発言に、今度は私が首を傾げる番だった。
「え、だって、陛下は寵姫は不要でいらっしゃるのでしょう? 神牌について私ばかりが携わるのは、陛下にとっても今のところ問題がないのでしたら文句などございませんが、今後を考えますと……」
「あ、あーあーあー、はいはいはい、いいよ、解った解った。そこまででいいよ。解ったから」
なぜか話を打ち切られてしまった。気分を害されたのだろうか。いやでも私、間違ったことは言っていない、と思っていいはずでは? なんなら当たり前の大正解なのでは?
それなのに陛下は、微笑んでいると言うのになぜか不満そうな、拗ねたような感情をその笑みににじませて、ツン、と淡く色づく唇を尖らせた。
「本当に宝珠は……いや、まあいいや。それよりも、なんだっけ。僕が妃達を差し置いて、君に神牌を任せきりにしている理由が聞きたいのだと受け取ればいいかな」
「さようにございます」
こっくりと頷きを返すと、陛下は「簡単なことだよ。解らない?」と肩を竦めた。いや、解らないから聞いているんですが、という気持ちを込めてさらに見つめ返せば、彼は物わかりの悪い子供を前にした時のように、いかにも仕方なさそうに、呆れをにじませた。




