[40]悪魔の見る夢
正直なところを言えば、二十歳にもなって人見知りが抜けない僕にとって、目的地である東北地方に引っ越したという文乃さんの知人がどういった人達であるかなど、あまり興味はなかった。
相変わらず社会経験の乏しい僕の頭の中にあるのは、思いを寄せた女性と二人っきりで夜を越えようと車を走らせ続ける、お花畑のような幸福感のみだった。
楽しいことも、少し込み入った難しいことも、たくさん話が出来たように思う。
だけど、僕は本当に幸せ過ぎて、心が馬鹿になっていた。自分のことばかり考えすぎて、相手を思いやるという基本的な優しさが欠落していたんじゃないだろうか。そういった怖さも、小心者の僕の頭の隅っこには確かに存在していた…。
「西荻派なんて、…言われて」
そう言った文乃さんの口調はどこかやさぐれて、怒ってはいないが、声のトーンに少しばかりの『勘弁してくれよ』が混じって聞こえた。僕は肩を揺らして笑い、三神さんが言い出しっぺですけどね、と答える。
「…チョウジ。うん、なんか、出来るエリート集団的な感じが。ね。うん。…天正堂。拝み屋衆。歴史と風格を感じさせる仕事人集団、みたいなね? うん。………ニシオギハー」
言い方っ! 僕は思わず吹き出して笑い、文乃さんは苦笑を眉毛に浮かべて首を横に振った。
「新開派でいいですよ、私。なんとなく、それがいいような気がします。…なんか、何々派っていう時点で学芸的な、芸術的な、そういうアレな感じしません? ねえ? なんか…。それかあれはどうですか、英語にしてみるとか、思い切って。…新開派だったら何がいいかなー」
そもそも、しもつげむらにて三神さんが僕と辺見先輩の立場を『西荻派』と称したのは、団体名でも組織名のつもりでもなんでもない。坂東さんが僕らを天正堂の見習いのように勘違いしたことから、敢えて言うなれば文乃さんと親しい存在である、という説明をしたまでだ。だが文乃さんがそれを、チーム名のように勘違いして、一人で困り果てている。実に、可愛い人である。
「ニューオープンストップザウォーター?」
一瞬彼女の言った意味が分からなかった。が、ニューオープンですぐに僕だとピンと来た。しかし漢字の意味あい的に「ストップ」ではなく、どちらかといえば「キープ」である事を説明すると、文乃さんは本当に照れた様子で、
「キープザ、ウォーター」
と言い直した。
ガタン、っと車が不意にノッキングした。急ブレーキを踏んだ時のように、僕と文乃さんの身体が前後に揺さぶられた。ほんの一瞬の事であり、赤信号に対して余裕を持ってブレーキを踏んだために、再度アクセルに足を乗せただけだと分かった。
「私、新開さんに、謝らなければならないって、申し上げたと思うんですよ」
そうだったっけ?
僕は首を捻り、窓の外を見た。
いつだろう。
…だが確かに、聞いた気もするのだ。
窓の外は相変わらず暗く、夜明けはまだ少し先に感じられた。
文乃さんは言う。
「私は普段、人を悪く言ったり、憎んだりすることを極力避けるようにしています。それは私が人間的に優れているとかではなくて、単純に負の感情を昂らせることに疲れを感じてしまうからなんです。内心では一杯怒ってます。一杯一杯怒ってます。ただ、表に出したりしないだけです。その表っていうのは、誰かの目に触れる場所や誰かの耳に届く言葉ではなくて、自分の心の表面にも出さないって、そういう意味です」
それはつまり、怒っていない。ということになりはしないだろうか。悪口を言わないだけでなく、自分の感情をもコントロールしているということだ。誰にでも出来る事ではない。
「だけど、本気で、ああ、これは本気で怒らなくちゃいけない。…ううん、怒るとかじゃないのかな。本気で対抗しなくちゃいけない相手だ。本気で戦わねば、大切な人をまた失ってしまう。そういう思いに、心を支配されてしまった。…言い訳なのですが」
僕は文乃さんの横顔を見つめ、彼女の言葉の続きを待った。今の所、ここまでの部分で何かを判断する事は出来ない。文乃さんの話す内容が、全く理解できないからである。
しかし文乃さんが僕を見て、こう言った。
「新開さん。大変な事件に巻き込んでしまって、本当に申し訳ありませんでした。あの時、私の目には怨敵とも言うべき強大な呪式が立ちはだかっていまたのです」
文乃さんの目から大粒の涙が零れた。
怨敵?
呪式?
一体文乃さんは、何の話をしているんだ?
「内藤さんご夫婦だけじゃない。私の背後には新開さん、あなたがいた。また、私は、大切な人を守れないのか。また失ってしまうのか。また私は奪われるの? この先の将来を共に誓った人も、左目の光も奪われ、今また、長年お世話になった内藤さんご夫婦ばかりか、せっかく仲良くなれた新開さんをも失うことになるの? そう考えたらもう、必死で…」
内藤さん…ご夫婦? 誰のことを言ってるんだ?
左目の光、将来を共にって、それは亡くなった恋人の話をしているのか?
今? 何故今、そんな話を?
「人であれ、霊体であれなんであれ、私はその存在を消し去ってしまいたいと思ったのはあの時が初めです。信じてください、新開さん。私は、誰かを殺そうなんて思ったことは一度だってない…」
文乃さんは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も僕に詫びた。
ハンドルを握る手が震え、彼女はその手に幾度となく自分の額を打ち付けた。
「信じてください! 信じてください!」
激しさを増す文乃さんの懇願に、僕の頭の中に散らばっていたパズルのピースが、不気味な程ゆっくりと寄り集めっていくのが分かった。しかしそのパズルには、本来描かれているはずの絵がない。真っ黒なパズルだった。
「新開さんを助けたかった!失いたくなかった!だけど!」
文乃さんは見開いた目で己の両手を見つめた。
「私の手は真っ赤に染まってしまった…。ああ、私が、殺した。私が、内藤さんご夫婦をこの手で殺したんだッ!」
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
え?
今、なんと仰いましたか?
殺したって?
誰が、誰を?
じゃあ、あの時、あなたは…。
いや、違う。
おかしい。
じゃあ、めいちゃんが空中に浮かび上がった時、悲痛な叫び声をあげた理由というのは…。
いやいや、おかしい。
ちょっと待ってくれ。
窓の外を見る。
墨汁をぶちまけたような漆黒だ。
外の世界には、何が見えていたんだっけ?
街灯?
夜の街並み?
何故今は、何も見えないんだ?
違う、そうじゃない。
僕たちは、今まさに東北に向かっている最中のはずだ。
その街にいるのが「内藤さん」と仰るご夫婦であることは、到着してから聞いたはずだ。
そもそも僕は走る車の中で、文乃さんとこんな話をした覚えは一切ない…。
…ああ。
なんだ、これ、夢か?
…夢、か?
ガクン、と車がノッキングする。
文乃さんはハンドルの上に両手を置いたまま、キラキラ光る笑顔で僕を見ていた。
「許してくれますか?」
ガクン。
「許してくれますよね?」
ガクン。
「許してくれますか?」
ガクン。
「許してくれますよね?」
ガクン。
「許してくれますか?」
ガクン。
「内藤さんたち潰しちゃったの私ですけど許してくれますよね?」
断末魔のような長い長い僕の絶叫を止めてくれたのは、やはり彼女だった。
背後から追いついて来た文乃さんは、僕の上半身をすっぽりと覆う黒いモヤを目撃した。右手に溜めた気を僕の首の後ろに当て、「新開さんを返せ」、そう叫んだという。
だが、僕の両目が現実を写し出した時、直感したのだ。
あれは、確かに夢だった。
悪魔に見せられた、恐ろしい幻覚だった。
しかし、全ては悲しい真実なのだろう。
僕がゆっくりと振り返った時、文乃さんは険しい表情の中にも少しだけほっとしたような安堵を浮かべていた。やはり、ちょっと痩せたように思う。
文乃さんは、丸顔で、笑顔がなんとも可愛らしい、ぬくもりを感じさせる素敵な人柄の女性である。そんな彼女は不思議な力を持っていて、大気を操る超能力のオプションとして、他人の体内に気を流し込んだり、あるいは内に巣食う悪いものを弾き飛ばしたりする際、対象人物の思考を読み取ってしまうことがあるのだ。
今もまた、文乃さんは僕の身体から悪夢を取り除いてくれた。
そして振り返った僕の泣き顔を見たと同時に、察したはずだ。
僕が、彼女の背負う重すぎる十字架の存在に気付いてしまったのだということを。
文乃さん。
あなたは一体どれほどの苦しみを、たった一人で背負っていたのですか。
「なんてことを。…この世には悪魔しかいないのかッ!」
思わず口をついて出た僕の言葉に、文乃さんはゆっくりと膝から崩れ落ちた。




