[39]あの日へ
「辺見さんッ!」
文乃さんの声にようやく、僕は自分の目で見たものが現実だと理解した。
目を離したわけでも、油断したわけでもない。
一瞬だったのだ。手を差し伸べた僕の目の前で、辺見先輩の身体が地中へと消えた。彼女の座っていた場所にトンネルが掘られていたわけでもなく、消えたとしか表現できなかった。
二神さんが忌々しそうに唸り声を上げ、ギロリと自身の屋敷を振り返った。
茫然と地面を見つめる僕に、
「そんなところにはおらぬ。中へ飛ばされたのだ」
と言った。
中? あの一瞬で?
「見ろ」
と尚も二神さん言う。「外道自身は屋敷の中へ入ること叶わん。ほれ、右棟の屋根に黒いモヤが蠢ているだろう。あれがそうだ。飛ばされた娘はあやつの下におる。屋敷の中だ」
しかし二神さんの視線は玄関前に立つ僕たちから見れば、左側の建物へと向いている。おそらく彼は、常日頃を過ごす奥屋敷から見た位置関係で『右』と呼んでいるに違いない。
「何故、アレは中へ入れないのですか?」
文乃さんの問いに、二神さんは間を置いて、
「…結界だ」
と、僕の方を見て答えた。「ワシが中におる間は侵入者があっても直接ワシが弾き飛ばす。そしてワシがおらん間には、家人の許しなしに入ることは絶対に叶わん結界を張る。相手が例え何者であってもだ」
「僕は!…入れますか?」
二神さんの言葉尻を引っ手繰るように尋ねた僕に、
「よかろう。許可しよう」
と彼は答えた。
「この人もお願いします」
僕は文乃さんの腕に手を添え、強く懇願した。しかし、
「ならん」
即答が返ってきた。
「いい加減にしてください!」反射的に、僕は叫んだ。「あなた方に何があったのかを詮索するつもりはありません。だけど今は一人でも多くの手助けが欲しいんです! もう、一人の犠牲者だってだすわけにはいかない! そんな時に子供みたいな態度をとるのはいい加減やめてくれ!それでもあなたは、三神さんのお師匠さんなんですか!」
二神さんは僕をじっと見据えた。ハチマキに並んだ四つの目が、本心を推し量るような冷静な眼差しで僕の内側を見ていた。すると二神さんはハチマキの下側に左手の親指を差し入れ、くいっと上に持ち上げて見せた。ハチマキは額に巻かれ、その下から二神さん自身のギラリと光る両目が現れた。横にならんだ四つの目と、その下に二神さん本来の鋭い二つの目。凄まじいその光景に、僕の内臓はぶるぶると震えた。
「六連目、という…。ワシのこの六つの目にごまかしはきかんぞ、坊主」
「な、あ、…ごまかしとは、なんですか」
それだけ言うのがやっとだった。二神さんは鼻を鳴らし、
「お前、この女に惚れとるじゃないか」
と言った。
文乃さんは顔を伏せ、僕はカッとなって食って掛かった。
「だからどうしたというんです!そのことと今あなたのお屋敷に入るための許可には、なんの因果関係もないはずだ!」
「因果関係…な」
二神さんは独り言のようにそう呟き、再び額の目がぐるぐると回転し始めた。それが僕には、戸惑いや困惑の類に見えた。そして、二神さんは言ったのだ。
…後悔するなよ。
深い傷を負った三神さんや幻子、そして秋月さんとめいちゃんを二神さん託し、僕と文乃さんは辺見先輩奪還の為に屋敷へと足を踏み入れた。正面玄関のある建物から向かって左側の建物に、彼女はいるはずである。しかしその棟の屋根には、ドメニコが手ぐすね引いて僕たちを待ち構えている。建物内に侵入する事は出来なくとも、妖しげな術を用いて攻撃を仕掛けて来るに違いないのだ。辺見先輩が目と鼻の先にいると分かっていても、相手がどんな手を使ってくるか分からない以上、慎重な行動を余儀なくされた。
「何か見えますか」
と文乃さんが聞いた。
玄関に立って廊下の奥を睨んてみても、僕の目には幽体の類は映らなかった。
「何も。この世ならざる者は、いません」
先程坂東さんと訪れた時と同じである。この屋敷において、僕の霊感は全く役に立たない。僕と並んで立つ文乃さんは頷き、下駄箱に置かれた照明が照らす玄関以外、暗闇に呑まれた廊下の奥へと目を凝らした。
「なんとなく気持ちの悪い空気は、左の建物から感じます。辺見さんがいるのは間違いないと思いますが、他にもなにか…」
「ドメニコ、ですか?」
「いえ、その者は確かに、屋根の上にいるようです。それがドメニコであれば、ですが」
「幻術…」
「…はい」
三神さんが幻子に放った一言は、とても重要なキーワードだった。彼がどの程度事の真相を見極めて口にしたのかは分からない。『まぼろし』という名を持つ娘に対し、たとえ彼女がどんな姿形であろうと見間違えたりしないという、親の愛情による比喩だったのかもしれない。
しかし僕は、その言葉を聞いた瞬間多くの謎に対する解答を得た気がしたのだ。大貫深香ちゃんの行方。若い女性と老婆という、認識する側によってシルエットを変えるドリスの存在。そして、居合わせた全員がドメニコだと信じて疑わなかった老人が、一瞬にして幻子へと変貌したカラクリ…。
それが三神さんの言う通り術なのか霊能力なのか、はたまた悪魔が使役する超自然的な力なのか、いずれにしても見る者の正しい認識を遮るものであることは間違いないと思われた。
となれば、二神さんが視たという左側の建物にいる辺見先輩も、僕たちが己が目で見た時、はたしてそれが本人であるかどうかは分からない、ということだ。
「急ぎましょう」
と文乃さんは言い、
「はい」
僕たちは靴を脱いで玄関の上り框に足を掛けた。
「懐中電灯が必要ですね」
と僕が言うと、
「何故こんなに暗いんだろう」
独り言のように、文乃さんがそう呟いた。その瞬間、真っ暗だった廊下や他の部屋に一斉に明かりがともった。電気が消えたのではなく、ついたのだ。それでも僕は恐怖のあまり、反射的に廊下の壁を背にするほど驚いてしまった。
「他にも誰か、いるんでしょうか」
僕を見ず、探るような素振りで文乃さんは廊下を見渡した。
廊下の右側、僕が思わず背を預けた壁の先は、障子で閉ざされた和室のようである。室内にも明かりがついているが、中に人の気配はない。その反対側、廊下の左側はガラス戸で仕切られた部屋だ。雰囲気から察するに、炊事場であろう。そちらも明かりがついているが、やはり誰かがいそうな気配はない。
廊下の奥は突き当りで、そこからまた廊下が左右に伸びでいる。坂東さんの言った通り、丁字路である。
「…文乃さんは、ドメニコを知っていますか?」
文乃さんは瞳を僕に向けると、考え込むようにやや下を向いた。
「存在は知っています。名前も聞いたことがあります。ですが、会ったことはありません」
「そうですか」
「どうしてです?」
「三神さんたちから聞いていらっしゃいませんか。なぜ、ドメニコが日本へやって来たのか」
僕は壁から離れ、再び文乃さんの隣に立った。しかし文乃さんが僕を見上げた為、結果的に僕たちは見つめ合う格好になった。
「何も、聞かされてはいません」
僕は生唾を呑み込み、好きですと告白する事と同じくらいの緊張に眩暈を感じながら、彼女に打ち明けた。
「ネロ・ファミーリアに会いに来た、と言ったそうです。チョウジの壱岐さんいわく、黒井家に会いに来たのではないか、と」
文乃さんの瞳に、動揺が走る。
「黒井に?」
「ドメニコはイタリア教会で正式に『悪魔憑き』と認められている男だそうです。麻薬の密売人であるドリスの手引きによって密入国を果たしたドメニコが、黒井家に接触したがる理由は二つ、考えられます」
「なんでしょう…?」
「ドメニコ自身が悪魔祓いを希望しているか、あるいは、悪魔祓いの出来る黒井家を滅ぼしに来たか。理由は分かりませんが、チョウジや三神さんは、そう考えていたようです」
「悪魔祓い…」
「ですが、奴のこれまでの犯行を見れば、おそらく後者に近い事を目的としているのではないかと、僕も、そのように思います」
「悪魔祓いというものが、実際何を意味するのかは分かりません。ですが、あの男の持つ非情な残虐性には敵意しか感じられません。例えどのような理由があるにしろ、私には…」
言いながら、文乃は頬に伝った涙を指先で拭った。
「文乃さん」
「はい」
「驚かれるかもしれません。確実にそうだと決まったことではないかもしれない。だけど、坂東さんは捜査線上で一つの答えに辿り着いてました。ドメニコを日本に連れて来た麻薬の密売人、ドリス。そのドリスこそが、黒井七永ではないかと言われています。つまり、文乃さん、あなたの妹です」
僕の言葉に文乃さんは答えず、意味を理解するまでに四度、瞬きをした。
「妹さんは、どういう人物なのですか?」
そう尋ねた僕の言葉を引き金に、文乃さんの頬を再び涙が伝った。
…………ァァァァァ………ァァ……
僕と文乃さんの間には既に緊張の糸が張りつめていた。
だからかもしれない。
一瞬、何が起こったのか全く理解出来なかった。
何かが聞こえた、という認識すらなかった。だが無意識に僕たちは口を噤み、耳を澄ました。
すると文乃さんが、ゆっくりと振り返って天井を見上げた。
その視線の先は、辺見先輩がいるとされる左側の建物の、上。
まさに、ドメニコが蹲っていると言われた辺りだった。
僕は咄嗟に走り出していた。
頭では、文乃さんと別々になるような行動をとるべきではないと分かっていた。
廊下の突き当りに右手をついて角を曲がり、短い廊下を飛ぶように駆け抜け、渡り廊下を突っ切って左側の建物へと続く戸を横に滑らせるまで、しかし僕は一瞬たりとも立ち止まらずに来た。
「辺見先輩ッ!」
…え、新開さん、聞いてます?
呼ばれて僕は、我に返った。
「あ、ええ、聞いてますよ、ちゃんと」
僕の答えに納得できぬ様子で、文乃さんはハンドルを握ったまま、「んんー? 私、ウソは見破るって言いませんでしたかぁ?」と、既に笑いを含んだ声音でそう言った。
東北地方へと向かう真夜中の一般道を、文乃さんと僕を乗せた車がひた走る。外はまだ、真っ暗闇に包まれていた…。




