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「かなしみの子」  作者: 新開水留
36/55

[36]英雄たち



「新開!どけ!」

 坂東さんの一声で、僕はしがみついていためいちゃんから両腕を離して芝の上に落下した。なんとか両足から着地したものの、バランスを崩して倒れ込んだ僕の背後で、ジュバババ! 坂東さんが撃った幽眼の熱線が芝を焼いた。

 空気を切り裂く音と地面を穿つ音が断続して起り、土と、焼き切られた芝が激しく舞い上がる。

 だが闇雲に攻撃する坂東さんをあざ笑うように、小柄で悪魔顔の老人は、振り返った僕の目の前でドプリと地面に潜り込んで消えた。

「くそが!どこ行った!」

 叫ぶ坂東さん足元には、仰向けの秋月さんとその傍らに辺見先輩がいて、僕の背後には三神さんと柊木さんが横たわり、そして文乃さんと、空中に浮かんだままのめいちゃんがいる。

「文乃さん、大丈夫ですか!?」

 そう声をかけた僕の声に文乃さんは我に返り、今だとばかりに霊力を操り、めいちゃんの身体をゆっくりと降ろしていく。そしてなんとか地面に着地させためいちゃんを抱きしめながら、文乃さんはその場で泣き崩れた。

 しかしドメニコは逃げたわけでも立ち去ったわけでもない、坂東さんの熱線をかいくぐっただけである。今にもどこからか飛び掛かってきそうで、僕は視点をひとつ処に置いておくことが出来ずに何度も体ごと回転させて周囲を見た。

「ば…」

 坂東さんの姿が目に入った。

 彼は、この期に及んで誰かと電話で話をしていた。

「坂東さんッ!こんな時くらい!」

 訴える僕を、坂東さんは見開いた目で見つめ返して来た。



 理由は後述するが、僕は後になって、この時の坂東さんの電話の内容を知る事が出来た。

 以下が、僕なりに再現した会話の全容である。



「壱岐だ」

「無事だったんすね!」

「ああ」

「なにやってんすか課長。こっち大変なんすよ」

「ドメニコか」

「そうすよ。こっちはもう、二神の家で天正堂と西荻派が入り乱れての大乱闘っす。うち(チョウジ)は俺だけなんで分が悪いっすよ。そっちで何があったか知りませんが、早く課長も応援に来てください」

「坂東」

「はい」

「俺達は、大きな間違いを犯していたんだよ」

「はい?」

「たった今、俺の目の前で、大貫深香が死んだ」

「…は、い?」

「あの晩、病院跡地で確保し、俺達がドメニコだと思い込み、薬漬けにして力づくで抑え込んで来たのは始めからずっと、大貫深香だったんだ。たった今息を引き取った。その瞬間になってようやく術が解け、変わり果てた少女の姿を発見した。俺が殺したんだ」

「は、じゅ…?」

「坂東。俺は自分の過ちを許すことが出来ない」

「あ、は、そりゃ、…どういう」

「先に向こうで待ってる。お前は、やるべきことをやってから来い」

「え、何言ってんすか、待って下さい!奥さんどうするんですか、息子さんだってまだ」

「お前に任せる。俺はたとえ家に帰っても、あいつらの顔をまともに見る事が出来ないだろう」

「課長ォッ」

「そこに、ドメニコはいるか?」

「…はい」

「気を付けろ。おそらくそいつも、ドメニコじゃないぞ」

「は?」

「世話をかけたな坂東。幸運を祈る」

「か」

 ガアアン、重く乾いた銃声が響き、悪夢が現実へと変わった。


 

「新開くん!」

 辺見先輩に呼ばれて我に返る。

 二神邸の玄関前にいる彼女らと、少し離れた場所に横たわる柊木さんの側にいる僕たちの、丁度中間地点だ。池の水面から目鼻を覗かせるカエルのように、芝の原っぱにドメニコの顔が嗤っていた。

 血流だろうか。頭の中に警報器でも埋まっているのかと錯覚するほど、命の危険を知らせるサイレンが爆音を響かせている。触れられてもいないのに内臓を引き摺り出されそうになった、あの激痛と恐怖が甦った。

 静かにドメニコの身体は浮上し、やがて地面に両足をついた。そして先程と同じく、最後に、地面の中から杖を引きぬ…

「かわせッ!」

 坂東さんの怒号が飛び、僕は慌てて、三神さんや柊木さんの眠っている右側へ飛んだ。

 坂東さんにしてみれば、まごついている暇などないという言い分があったのだろう。彼はチョウジの職員だ。悪意ある超常現象を確認すれば、排除、沈静化を実行するのが役目の仕事人である。B級ホラー映画よろしく、相手の出方を待つなんて悠長な真似はしない。

 だが、それが裏目に出た。

 ドーンと音がするほどの勢いで放たれた幽眼の熱線は、坂東さんから見てドメニコの右脇腹を貫通してそのまま地面を焼いた。そして僕はそれとは別に、巻き込まれぬよう飛んで伏した地面の先で、ぞっとするような光景を見たのだ。

 そこには、柊木青葉さんがいた。

 僕の目の前に横たわっているのは、柊木青葉さん、だけだった…。


「お、ああ…」


 坂東さんは我が目を疑い、呻くような声を漏らした。

 坂東さんの放った熱線が刺し貫いたのは、ドメニコではなく、三神さんにがっしりと抱き留められた彼の愛娘、三神幻子に他ならなかった。そして、むろん、彼女を抱き留める三神さんの腹部もまた、熱線によって焼かれていた。

 あまりの出来事に、誰も事態を把握出来なかった。

 僕たちは全員同じものを見ていたはずだし、坂東さんは間違いなくドメニコに向かって攻撃した。だが攻撃を受けたのはドメニコではなく、この屋敷へ来てから初めてその姿を現した、幻子だったのである。

 僕の歪んだ視界の隅で、辺見先輩が叫んだ。

「もういやだ。六花さん、六花さん」

 秋月さんの名を呼び、混乱した様子で彼女の身体を揺さぶっている。

 僕は坂東さんを見つめ、坂東さんは僕を見つめた。

『何が起きた』

『何が起こったんだ』

 坂東さんの手から、携帯電話が、ポトリと落ちた…。



「先生…?」

 と、幻子が目の前にいる三神さんを不思議そうな顔で見つめた。「私が、分かりますか?」

「分からいでかぁ」

 と三神さんは答えた。「一体このワシを誰だと思うね。相手が何者であろうと、このワシに幻術など効くもんか。お前さんを見失うことなど、絶対にないよ」

 いつもの三神さんの声だった。朗々と強く芯がありながら、聞く者に安心感を与える優しい声だった。

 幻子の目に、涙が浮かぶ。

「私、もっとちゃんと修業しとけば良かったですね。…誰一人、犠牲者を出したくなかったのですが」

「なんの。お前さんはようやっとるよ。孤独な戦いを強いたなぁ、すまんかった」

「先生、治療を」

「いい。やるなら自分を治せ。ワシはいい」

「そんなわけにいきますか」

 言った幻子の口から、大量の血が噴き出した。

 坂東さんの放った熱線は、幻子と三神さんの身体をまとめて貫いたのだ。内臓の損傷というよりもそれは、欠損なのである。

 両腕を開いて、三神さんが更に強く幻子を抱いた。

 見えるぞぉ…。

 三神さんは言う。

「我らが娘よ…、悲しみの子よぉ…」


 いいぞぉ、その調子だ、どんどん漕げ、どんどん漕げぇ。お前は、どこへだって行けるんだよ。どこへでも行っていいんだ。そうだ、漕いでいけ…。漕いでいけ…。そして疲れたら、ブレーキを握って振り返れ。そこに、…ワシは立っていよう。


「お父さん…」

 


 幻術、と三神さんは口にした。

 あの男には誰も勝てないと言った幻子の言葉の秘密は、どうやらそこに隠されているらしかった。

 それまでは正直、心のどこかで、三神幻子が僕たちの味方でいる限り、どんな霊体、どんな霊障、あるいはどんな霊能力者がかかって来ようとも、なんとかなると思っていた。

 この屋敷に来て以来ずっと、最後には彼女が颯爽と現れて僕たちを救ってくれる。

 そう、考えていた。


 今、僕の目の前で、お互いの身体を支え合うように抱き合っていた親子が崩れ落ちた。


 訪れた現実を目の当たりにした時、絶望と同じ意味を持つ英雄の帰還と旅立ちに、僕は、大声で泣き叫ぶことすら出来なかったのだ。



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