[32]破壊
人目をはばかることなく吠える三神さんの姿を、僕は初めて見た気がした。
だが、決してただ闇雲に叫んで終わる人ではない。三神さんの指示が飛ぶ。
「ワシは二神七権と幻子を探す。バンビ、お前さんはなんとしてでも秋月六花を探し出してここへ連れてくるんだ。やれるな!?」
三神さんがそう言い終わる前に、坂東さんは屋敷の中へ駆け込んでいった。
「ワシも行く」
意を決した三神さんに、
「め、めいちゃんは、柊木さんは!?」
と僕は慌てふためいた。
「お前さんはここに残れ」
「そんな!」
「恐らく外は安全だろう。気持ちはわかるが、めいが巻き込まれてしまった以上一人にしはしておけん。いたし方あるまい」
ドオン、と音が響いて、右側の建物から坂東さんの放った熱線が飛び出して来た。芝の原っぱを焼き払うようにズイーと撫でて、消える。あまりにも突然の出来事に、僕は呆気に取られたまま動けなかった。
「…ワシは左回りで向かう」
建物を振返りながら、三神さんが言う。
「ま、待って下さいッ」
僕は急いで携帯電話を取り出し、辺見先輩を呼び出した。彼女の携帯とはすぐにつながったものの、
『新開くん!?』
「先輩ッ、めいちゃ」
何かを話す前にそこで電話は切れ、そして電源自体が落ちた。
本当に一瞬だった。
果たして今の声色や口調で、この場の緊迫した状況が少しでも伝わっただろうか…?
巻き込んですまない、と三神さんは言った。簡素な言葉ではあったが、それは柊木さんには伝えられず、おそらくめいちゃんの耳にも届かない言葉である。僕は重たい響きに頷き返し、
「何かあれば、すぐに追いかけます」
と答えた。
玄関に向かって歩き出しながら、こちらに背を向けたまま三神さんは言った。
「ワシら以外の何者かがこの建物から出て来た場合は決して戦おうなどどするな! ワシらを置いてでも逃げろ! 六花嬢と幻子を見つけ次第一旦ワシらも引く! 三十分経っても戻らぬ場合はふもとの村へ戻れ! よいな!」
僕は両膝をついてめいちゃんを抱き抱えた。
ガチガチに硬直しためいちゃんの身体は、噓みたいに腕と足が捩れたままビクともしない。弱々しく浅い呼吸を繰り返す彼女に意識があるのなら、どれほどの苦痛と恐怖を感じている事だろう。
体温だけでも伝わればいい。僕はここにいる、それさえ伝わればいい。
叫び出したい衝動を奥歯で噛み潰しながら、僕は巨大生物のようにも見える二神邸を睨み上げた。
僕が聞いた断片的な話を繋ぎ合わせると、以下の通りになる。
ついさっきまで自分の背中にしがみ付いていためいちゃんが消えた後、秋月さんは半狂乱になって建物内を走り回ったそうだ。守るベき者を失ったせいか、タガが外れたようになってしまった。
仮にこの建物を敵陣だと見なした場合、闇雲に駆けずり回る行為は危険極まりない。だが例えどこに何が潜んでいようと関係ない。めいちゃんがいないのなら、自分の身を守る事にも意味はない。
秋月さんはめいちゃんの名を呼びながら、建物内を行きつ戻りつ何度も探して回った。巨木を取り囲む屋敷の全体像を思えば広大な印象を受けるものの、正面玄関のある建物と、その右側の建物だけに限って言えば、平均的な平屋一戸建てとそう変わる広さではない。一瞬の隙を突かれて連れ去られたにしても、隠れる場所などたがが知れている筈だった。
なのに、どこにもめいちゃんの姿はなかった。それどころか、ここへ来るまでにめいちゃんがその耳で聞いたという何者かの存在すら、秋月さんには感じられなかった。姿形を目の端に捉えることも出来ない。手掛かりは、何もなかった。
だがそれは、めいちゃんが人間の手で連れ去られた場合に限っての話である。高校一年生とは言えば、体つきは大人とそこまで違わない。人間一人を連れ去るのに全くの無音ということは考え難く、おそらく神隠しのような現象に見舞われたのではないか、と推測できる。
となれば、捜索範囲は二つの建物だけではない。二神邸全体が怪しいと考えるべきなのだ。
「めいッ!聞こえるか!めい!何か合図を送ってくれ!」
秋月さんにはめいちゃんの居場所が分からなくとも、きっとめいちゃんには秋月さんの居場所が『聞こえている』。そう確信した上での呼びかけだった。
そこは、右側建物にある殺風景な和室だった。
秋月さんは部屋の真ん中に立って、何度もめいちゃんに呼びかけた。彼女ならきっと、何かしらの合図を送ってくれる。そう信じて、泣き叫ぶように名を呼んだ。
その時だった。
…お姉ちゃん…。
確かにそう聞こえた。
「めいッ!聞こえたよ!めいッ!どこだ!どこにいるの!この建物か!奥か!どこだ!」
…お姉ちゃん…。
秋月さんの全身を、鳥肌が駆けた。
声は、彼女のすぐ近くから聞こえた気がした。
「…めい?」
…おね、お、お姉ちゃん…おね。
急にめいちゃんの声に苦しみが滲み、秋月さんは足元から這い上がる震えに発狂しかけた。
「めいッ!!」
こ…。ここ。…ここ。…お姉ちゃん…。
秋月さんはゆっくりと振り返った。
彼女の目に映るのは、押し入れである。
めいちゃんの声は、その押し入れの中から聞こえてくるのだ。
「噓だろ…」
押し入れはかつて秋月さんと出会う前、めいちゃんが両親から虐待を受け、手足を縛られて放り込まれていた場所だ。
お姉ちゃん…。こっこっ…、こ、ここ、こっこ…お姉ちゃん…。
震える手を伸ばし、秋月さんはゆっくりと押し入れの襖を滑らせた。
そこいたのは、ガリガリに痩せ細った、七歳のめいちゃんだった。
秋月さんは目を見開き、喉を詰まらせた。
ウソだ、こんなはずはない…。
…こんなのは現実じゃない。
めいちゃんは両手首を体の後ろで縛られ、両足に関しては太腿と足首の二ヶ所をきつくロープで縛りあげられていた。そして彼女の右耳には赤鉛筆、左耳には煙草の吸殻がねじ込まれていた。
「…だ、…だれ」
七歳のめいちゃんは掠れた声を上げ、目の前にいる秋月さんの方へ顔を向けた。しかしめいちゃんの両目が秋月さんの姿を映すことはなかった。七歳のめいちゃんの両瞼は、ホチキスの芯で閉じられていたからだ。
その瞬間、僕と坂東さんを前にして、柊木さんは手を叩いて笑い始めた。
本当に楽しそうに、嬉しそうに、べちゃべちゃと唇に纏わりついた血を手の甲で拭いながら、顔をのけぞらせ、すくめた両肩を揺らしながら、
「あははははっ」
高らかにそう、笑ったのだ。
ああ…。
なんだ、噓だったんじゃないか。
僕たちを驚かそうとして、こんな手の込んだ真似を?
秋月さんの両目から涙が溢れた。
嗚咽を堪え、口を塞いだ両手の隙間をその涙が伝う。
七歳のめいちゃんは、見えないなりに目鼻を動かし、秋月さんの方へ体を摺り寄せた。
めいちゃんは、こう言ったという。
「私、どこにもいかないよ。大人しくずっと待ってるから。だからお父さん、お母さん。…早く帰って来て」
秋月さんは絶叫した。
愛する、めい。
私の、めい。
救ってやれなくてごめん。
守ってやれなくてごめん。
大切な人を奪ってごめん。
ごめん。
めい、ごめんね。
「めぇぇぇぇぇぇぇぇぇい!」
柊木さんが死んだ。
そう直感したのは、彼女が突然口を縦に裂きながら大声で叫び始めた時だった。
ヴェ、だか、メ、だかの音を発音しながら、地震が起きたのかと錯覚する程の音量で彼女は絶叫した。口角が見る間に裂けて血を流し、そのまま上顎が捲れ上がって彼女の喉が露出した。それでもまだ、柊木さんは叫び続けていた。
そして、秋月さんの心は壊れてしまったのだ。




