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「かなしみの子」  作者: 新開水留
29/55

[29]疑問符


 車に乗り込み、坂東さんがエンジンをかけようとした瞬間だった。

 一瞬にして場の空気を激変させる戦慄が走るも、咄嗟の事に言葉は出かった。

 僕たちの乗った車のフロントガラス一面に、無数の人の顔が貼りついていたのだ。

 闇夜から突き出た蒼白い顔、顔、顔、顔、顔。

 どこから来た! どこから出た!

 僕は激しい動悸にも身動きが取れず、眼球だけを動かして隣の坂東さんを見た。彼もまた目を見開き声を失っていたが、やはり流石チョウジという所だろう。次の瞬間には激しくクラクションを鳴らして応戦した。

「どけ!」

 坂東さんは声を荒げると、

「秋月先輩たちがこんなとこで車乗り捨てたわけが分かったな」

 と僕に声を掛けて運転席のドアに手をかけた。

「え!降りるんですか!」

「心配すんな、バケモンじゃない」

 坂東さんは僕に目配せするとフロントガラスを見るよう促し、「こいつら全員ここの村人だ」と言った。

 僕たちが車を降りると、坂東さんの言う通り、恐ろしく無表情だが生きている人間であることは分かった。だが顔触れに見る男女入り混じった彼らの年齢層は一様に高く、どうやら興味本位で迷い込んだ車を覗き込んだだけ、というわけではなさそうだった。

 十人はいるだろうか。

 そこへ、「坂東さんかい」と、ひと際年老いた一人の男性が声を掛けたきた。

 灯りと言えば車のヘッドライトのみだ。向こうも、こちらも、視界は極端に悪い。

「なんのつもりだ。危うく心臓麻痺で若いのを一人殺すところだったぞ」

 真剣なのか冗談なのか分からない坂東さんの物言いを、しかし村人たちは完全に無視した。

「…この車に乗って来た女たちはどこへ行ったんだ」

 と更に言う坂東さんの問いには、ヨソモンのくせに偉そうな、と吐き捨てる声が聞こえた。

「ああッ!?」

 坂東さんは気が短い。しかも先程のチョウジ職員との電話が尻切れに終わり、すでに初めから気が立っていたのだ。あまりの剣幕に、村人たちが少しだけ下がった。

 坂東さんに声を掛けてきた高齢の男性だけが退かず、

「ああ、うちにいるよ」

 と答えた。

「あんた確か、浅葱(あさぎ)さんとかいったな。どうしてだ」

 尋ねる坂東さんの声に被せるようにして、

「こちらが聞きたいもんだ。こんな夜中に車に大勢押しかけてきて、なんなんだ。何の用がある」

 浅葱と呼ばれた男性がそう返した。

「決まってんだろ」

 と坂東さんは即答する。

 二神七権に会いに来たのだ。

 正確に言えば、二神邸いにる柊木青葉さんの安否確認と、同じ目的で先に訪れているはずの三神幻子との合流、そのためである。

「何も決まってなどいない。正当な要件を言えないなら帰ってくれ。我々の安寧をこれ以上妨げないでほしい。そこのお若いの、あんたは昨日も来たな。ここは散歩コースじゃないんだぞ」

 浅葱さんの黄色く濁った眼が僕をねめつけた。口調こそ柔らかいものの、彼の目には確かな敵意があった。やはり見られていたか、という怖気をなるべく表に出さないように、僕は頭を下げた。

「申し訳ありません。来るつもりはありませんでした。ですが、どうしてもお会いしたくて」

「誰に」

「二神さんです」

 気安くその名を呼ぶな、と浅葱さんの後方から怒声が上がる。浅葱さんはそちらに片頬を向けながら、

「我々のことをどういう風に聞いておいでか知らないがね、そっとしておいてほしいんだ」と言う。「興味本位で来てほしくないし、御大は我々の家族であり村の代表だ。おいそれと、会いたいなどと簡単に口にしてほしくもないんだ」

「何故です?」

 僕の率直すぎる質問に、浅葱さんの目がすぼまった。しかし僕は負けじと続けた。時間がないのだ。

「もしかしたら僕が、どうしても二神さんの御力を必要とせねばらないほどの災難に見舞われているかもしれないじゃないですか。袂を別ったとは言え、今も同じく看板を背負う三神さんは決して僕を見捨てようとはしなかったし、何度も救ってくださった。その三神さんが師と仰ぐ二神さんが、迷える人間を無下に押し返すような人だとは到底思えない。何故、僕が会ってはいけないんです?」

 言いながら、この場に幻子がいなくて良かった、という思いが脳をかすめた。もしあの子がいたら、

「依頼者からギャラをもらってる営利団体ではなかったですか?」

 とかなんとか、悪気のない嫌味を口にしかねないと思ったのだ。

「筋を通していないからだ」

 と浅葱さんは言う。

「お前さんの言いたいことや気持ちは理解しよう。それならなおさら、我らが団体を通して正式に会える機会を待つが良い。いきなりやって来て組織の代表に顔を見せろとやるのは、どの世界でも上手い方法とは言えないんじゃないか?」

 もっともだと思った。

 本来ならぐうの音もない程の正論だと思う。

 だが何度も言うように、僕たちにはそんな時間はないのだ。

「昨日、柊木さんにお会いしました」

 僕がそう言うと、痺れをきらした村人たちから口々に非難の声があった。

 この場の代表者である浅葱さんが努めて冷静に諭しているのに対し、僕の態度は礼儀を欠いた浅はかな暴走、そのように映ったのだろう。

 浅葱さんの目にも、先ほどよりも強い怒りの感情が浮かんだ。どうやら村人たちにとって、柊木青葉という女性は、二神さんか、あるいはそれ以上に愛された人物なのだろうと思われた。

「彼女に危険が迫っています」

 思い切ってそう言った僕の言葉に、村人たちは水を打ったように静まり返った。だがそれは、単なる驚きではなかった。

 浅葱さんが口を開く。

「先程、三神さんの娘が一人で現れ、私たちの静止も聞かずに『お庭』へ駆けて行った。何か良からぬことが起きたのであろうか恐れていたところへ、次いでこの車に乗った女性が四人で現れた」

 文乃さんたちだ。

「そのうち二人は『お庭』へ上がることを許可した。だがあとの二人には許可を出さなかった。今、私の家にいる。お若いの、お前さんに問う。青葉様に何があったのだ?」

「それを確かめに行くんです。もし僕の嫌な予感が当たっていれば、例え幻子が行ったとしても単独では危ないかもしれない。時間がないんです!」

 そう声を荒げたところで、そうですか、それではどうぞ、とならない事は百も承知だった。だが今は、悠長に策を練っている場合ではなかった。

「ならば、坂東さん。あんただけ許可しよう」

 浅葱さんの目が彼に向いた。

 僕は内心ほっとした。それでもいい。僕などいてもいなくても同じなのだ。三神さんがいない今、坂東さんに頼る他なかった。しかし、

「駄目だ、こいつも連れていく」

 と坂東さんは強気の姿勢を崩さなかった。

 またもや村人たちから非難の声があがる。

「『お庭』へ上がらせたのはあんたの元上司でもある秋月さんと、その妹だけだ。あとの二人、よく分からない大学生風のおなごと西荻の娘には残らせた。あんな者らをテンケンさんへ行かせるわけにはいかない。だから坂東さん。アンタだけだ」

 意外だった。

 てっきり『お庭』と呼ばれる二神邸へと向かったのは、力のある秋月さんと文乃さんだと思っていた。だがどうやら文乃さんとこの村の住人、つまり天正堂側とは折り合いが良くないようだった。おそらく坂東さんは最初からそういう情報を知っていた。知っていながら、それでも彼の答えは変わらなかった。

「何度も言わせるな、こいつも連れていく。邪魔するな」

 そう言うと坂東さんは握った拳で、自らの眉間をトントンと叩いた。

「薙ぎ払ってやろうか」

 村人たちの息を呑む音が聞こえた。

 薙ぎ払う。それは大仰で、表現のピタリと当てはまる場面になどそう出くわすことはないだろう。だが坂東さんは、本当に薙ぎ払うことの出来る人だった。

 『幽眼』と呼ばれる第三の目が、坂東さんの眉間には存在する。彼はその目を開いて、赤く光る熱線を放つことができるのだ。その威力はすさまじく、物理的な作用で言えば、この世に彼の熱線を跳ね返す物質は存在しないそうだ。もちろん長所と短所双方を備え、無敵の能力というわけではない。だが、目の前に立ちはだかる村人十人そこそこを薙ぎ払うだけなら、坂東さんにとっては朝飯前である。

「我々に向かってそれを言うか」

 と浅葱さんは嘆いた。「あんた、自分がなにを言っているか分かってるんだろうな」

「脅しなんか効かないぞ、本気で言ってるんだ。な、通してくれるだろ?」

 坂東さんの冷たい声に、やがて村人たちは黙って道を開けた。

 僕はただただ頭を下げ、すごすごと車へ戻った。

「どうせ俺が行った所で『あの人』は出て来ない。そもそも、用事があるのは俺じゃなくてこいつなんだ。浅葱さんや他の連中の許可なんかいらないし関係ない。なあ新開。お前もそう思うだろ?」

 坂東さんはわざとらしく声を上げ、僕にそう言って聞かせた。僕は顔を伏せたまま何も返事をしなかったが、車に乗り込んでドアを閉める瞬間、誰かが僕の名を呼ぶ声が聞こえた。だがその言葉尻には疑問符がくっついており、僕は思わず顔を上げてその誰かを探した。

 新開…? 新開…?

 村人たちは顔を見合わせ、そしてその目は僕を見つめている気がした。




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