[28]ドリス
国道沿いの細い脇道を車で左に入ると、何軒かの家の屋根が見えてくる。
すると突然、集落の入口とも言えるその通り沿いに、ぽつんと一台の白い車が乗り捨てられているのが目に入った。
…まさか。
坂東さんは自分の車を横付けして停車すると、降りるなり白い車のボンネットを手で触って熱を確かめ、僕に頷いて見せた。どうやら、文乃さんたちが乗って来た車で間違いないようだ。
どうしてこんな所に乗り捨てられているんだ? 二神邸までは、まだ大分距離があるというのに…。
不意に坂東さんの携帯電話が鳴った。上着の懐から携帯電話を取り出し、車の中を覗き込みながら耳に当てた。
「坂東」
名を名乗り、相手の話に耳を傾ける。
僕はその間周囲を見回し、何か異変がないか観察した。昨晩訪れた時よりも時間は遅く、眠りに落ちた村の印象になんら変化は見られなかった。街灯が少ないのは、村全体が人目を避けているからだと思えた。天正堂という拝み屋衆の聖地を内包する村であり、村全体で一つの家族のような形態なのだ。となれば、家族の住まう家々をあえて外部にアピールする気にはならないだろう。
当然、村の住人たちは僕らが車で訪れた事に気づいているはずだ。薄気味悪いと言えば語弊がある。しかし、やはり監視されることへの不慣れは僕に強い緊張を強いた。
「ああッ?」
坂東さんが突然語気を荒げた。「どういう意味だよ。…ああ、ああ」
僕の視線に気が付き、坂東さんが片手を上げて『待て』の合図を出す。僕には坂東さんが話をする相手の声は聞こえない。だが次の瞬間坂東さんが口にした言葉が、僕の全身を粟立たせた。
「…若い女?」
何故、その一言が怖かったのか上手く説明は出来ない。だが明らかに坂東さんの予想を超えた会話であったことは間違いなく、それは頼りない僕の足元を揺さぶるには十分すぎた。
「女ってどこ…。な、あ、おい、ちょっと待て」
坂東さんは電話の相手を遮ると、険しい目つきのまま僕を見た。そして、こう言った。
「相手は俺の部下だ。今さっき、イタリアとアメリカに出ていた特派員が本部に戻ってきたそうだ。こっちでドリスの身柄を取り逃がした事で、作戦の練り直しの為に緊急で招集をかけた」
「…はい」
「そいつらが言うにはだ」
電話越しに、相手方の声が漏れ聞こえた。ちょっと待て!と坂東さんはやり返し、改めて僕を見た。
「そいつらは、自分たちが所有する証拠写真を差し出してドリスだと言ってる。そこに映ってるのは、…黒井七永だそうだ」
「…はぁ?」
坂東さんは再び携帯電話を耳にあて、混乱する僕をよそに見えない電話の相手を睨み付けている。
ドリスというのは、確かに英語圏では女性の名前である。そんなことは最初から分かっていた。あるいは勝手な先入観として抱いていた、麻薬の密売人イコール男性だという思い込みが捜査の結果崩れるのは良い。だからと言って、それが黒井七永であるとは一体どういう理屈なんだ? 世界的に有名な麻薬の密売人であり運び屋が、そもそも外国人ですらなかったっていうのか?
「おい、お前じゃ話にならない。壱岐課長に変われ!」
坂東さんがそう叫んだ瞬間、僕たちのいる空間に金属的なノイズが鳴り響いた。
僕と坂東さんは同時に耳を抑え、通話が途切れた事に気づいた坂東さんは慌てて掛け直した。しかし相手はすぐに話し中となり、何度やり直しても結果は同じだった。
「チッ!」
激しく舌打ちし、それでも坂東さんは取り乱すことなく「行くぞ、乗れ」と僕に声をかけて車のドアに手をかけた。
「い、行くって。その前に説明してくださいよ。ドリスって、黒井七永なんですか? 坂東さん、ドリスが女だってこと、初めから分かってたわけじゃないんですか? 日本人なんですか?」
ドン、と坂東さんが車の天井を叩いた。矢継ぎ早に質問を浴びせかける僕に対して怒ったわけでは、どうやらなさそうだった。
「ドリスってのは公安が使ってる通称だ。奴の本当の名前は誰も知らない。D.O.R.I.S.Uは簡単なアナグラムで、その意味は『素通り』。奴にかかれば麻薬も人間も世界中どこへだって素通りってわけだ。言っただろ、お前のツレの大貫ってのが『ドリス』の名前を知ってるだけで本来は疑わしいんだよ」
「そんな」
「もちろん俺たちはドリスが女だって知ってる。だが俺の掴んでる情報じゃあ、ドリスは百歳近い老婆なんだよ」
「ろ、お」
「逃げおおせるわけがないと言った理由が分かるだろ。鮮明とはいえんかもしんが、顔の映ってる写真だってある。だがどうだ、本国やその他の国じゃあドリスは若い女として認知されてたってわけだ」
「どうしてそんなことが?情報の共有は出来てたはずじゃ?」
「そのはずだ。だがこっちが派遣してる捜査員はどうしたって現地の当局職員を頼らざるをえない。意図的な情報操作で捻じ曲げられた嘘を掴まされてるか、あるいはその逆だ。向こうは向こうできっちり情報を掴んでいながら、俺たちだけが目をくらまされていたかだ」
「坂東さんたち、だけが…?」
そう口にした時、言いようのない違和感に僕の鼓動がひとつ大きく跳ねた。
かつて、以前にも感じたことのある気持ちの悪さだった。
何かを見落としている。そこに見えているはずなのに、認識出ていないかのような。
どこだ…? どこで感じた? どこだ…。
「ああっ、クソが!」
そう言って坂東さんは再び車の天井を叩いた。「俺達はドリスに会ってたんだ!俺もお前も、しもつげむらで黒井七永に会ってたのに!」
ニアミス…。だが坂東さんの怒りは、捜査線上のすれ違いだけに向かっているわけではなかった。
チョウジは本来、文乃さんも、その妹である黒井七永もマークしていた。その七永が予てより公安の監視対象であった国際的な犯罪者と同一人物だと把握していれば、色々な場面で特別な対応が可能だったはずなのだ。
遡れば一年以上前から、リベラメンテ事件の背後関係に黒井七永の名前が出ていた。重要参考人としての任意同行ではなく、麻薬密売の容疑者として捜査出来ていれば、しもつげむらでの惨劇は未然に防げたかもしれなかった。実際あの村で、坂東さんは黒井七永によって両目を破壊されている。居合わせた秋月さんの治癒能力によって回復したものの、他の誰よりも彼の怒りは強いはずだった。
「じゃあ、旧結核病院で見つかった遺体から黒井七永のDNAが出たってことは、彼女は死んだと言うことなんですね?」
「あの西荻の妹だ。考えにくいな」
「それは、どういう?」
「お前の母親でも手に負えなかったんだぞ、そんなものっ…」
「やめてくださいよ。…そういう言い方は」
責めるでもなく、ただ気落ちしただけの僕が差し挟んだ言葉に、坂東さんは自分に向かって舌打ちした。
「悪かった」
「いえ。それよりも僕は、今は『上』のことが気になります、急ぎましょう」
「ああ」
僕と坂東さんは同時に車に乗り込んだ。
その姿は一見、第三者の目にかかれば勇ましい行為と捉えられたかもしれない。
だが僕にとってそれは、現実逃避という一面でもあったのだ。
僕は母の話をするのも、されるのも、好きではない。
僕を産んですぐこの世を去った母、よりこ。彼女は僕の身に危険が迫った時、あるいは僕の気持ちが昂った時、自ら霊道を開いて戻って来る。幻子はかつてそれを、子を思う母の奇跡と称したが、本当の理由は誰にも分からない。
件のしもつげむらにおいても母は出現し、渦中の黒井七永と思しき人物をその腕に抱えたまま消えた。その後黒井の姿は目撃されていなかったが、チョウジ海外特派員の言うドリス=黒井七永が事実であるなら、やはり彼女は母の『霊道落とし』をかいくぐり、無事であったという推測が成り立ってしまう。
しかし母は、そもそも僕自身のもつ霊能力でも武器でもない。
この世を去った、ただ一人の母親である。
そして僕はこの頃には、まるで神頼みのように、己の弱さを顧みず母の名を叫ぶ自分自身を疎ましく思うようになっていた。母の愛情を知ったからだろう。縋り付きたい思いに駆られるたびに、同時に己の弱さを突きつけられる気がしてならなかったのだ。




