[27]男同士の会話
どのくらいの時間が経過したか、定かではない。
僕は事故現場に駆け付けて下さった坂東さんと、スーツを着た彼の部下らしき二人の男性によって、横転した車内から助け出された。三神さんも同様に、運転席側の割れた窓から引きずり出された。そしてそのまま遅れて到着した救急隊とともに、病院へ緊急搬送された。この時、三神さんの意識はなかった。
「辺見から聞いた。テンケンへ向かっ…」
坂東さんが言い終わらぬうちに、僕は衝動的に彼の胸倉を掴んでいた。坂東さんの部下が色めき立って僕の腕を掴んだ。しかし当の坂東さんが彼らを制止し、「なんだよ」と静かに聞いた。
「Dが現れました」
坂東さんがクッと眉根を寄せ、部下である他の二人も顔を見合わせた。おそらくは彼らもチョウジ職員であり、事態を把握しているのだろう。
「…こんな場所にか?」
「壱岐課長さんは何をしてるんですか。抑え込んでくれてるはずですよね」
「そうだ」
「ならどうしてッ!」
坂東さんは自ら僕の手を掴んで引き離し、上着の懐から携帯電話を取り出した。壱岐さんに掛けるつもりなのだろう。僕に背を向けて、不安げな表情を浮かべる部下たちの顔を見ながら携帯を耳に当てた。しばらくすると彼は電話を耳から遠ざけ、「おい、お前もかけてみろ」と部下の一人に指示を出した。
嫌な予感がした。
首を捻りながらも言われた通り電話をかけた一人が、やがて怪訝な顔で隣に立っている同僚を見やった。察した同僚が携帯を取り出して、壱岐さんに電話をかける。
「どうだ」
坂東さんの問い掛けに、部下は二人揃って頭を振った。坂東さんは振り返り、僕に向かってこう言った。
「砂嵐だ」
二神邸へ向かう車の中で、ハンドルを握る坂東さんが何度も僕を気に掛けてくれた。
病院へ行かなくて良かったのかと、元来た道を慌てて引き返して行った部下たちの車に同乗すればよかったと示唆しながら、坂東さんは聞いた。だが正直、いちいち答えるのも面倒なほど僕の身体は悲鳴を上げていたし、心はずっと叫び声をあげていた。どこが痛いというよりも、全身が熱をもっているようだ。
「坂東さんこそ、壱岐さんの事が心配じゃないんですか?」
僕の捻くれた返事に坂東さんは黙り、
「…仕事をまっとうしなきゃあよ、顔見た瞬間、ぶん殴られるわ」
と言った。言葉の内容は粋だったが、その口調にはユーモラスさが欠けていた。
砂嵐に似た電話のノイズを聞いた後、内藤さんご夫婦がどのように亡くなったのか、彼も知っているのだ。胸中穏やかでいられるはずもなかった。
「どういう意味だったんですか?」
少しでも気を紛らわそうと、話を続けた。
「何?」
「深香ちゃんは、生きてるんですか?」
「…ああ」
その、ああ、がイエスではない事は、坂東さんの顔を見ればすぐに分かった。
僕と三神さんの乗った車が事故を起こす直前、僕は坂東さんと電話で話をしていた。その内容というのが、旧結核病院で発見された大貫深香ちゃんの遺体が、DNA検査の結果別人であると断定された、というものだった。遺体は腐敗が進み、外見的な情報だけでは精確な年恰好が分からなかったとはいえ、おそらく女性であることは間違えないと思う。大貫深香ちゃんでないならば、いまだ発見されてない彼女は一体どこにいるというのか。
「検査の結果が間違いでなければ、少なくとも大貫深香じゃない。生きてるのかと言われれば、行方が分からない以上なんとも言えない」
「生きてる可能性はあるわけですね?」
「死んでなけりゃな?」
嫌味な返答に僕は坂東さんから顔を背け、腕を抑えて大袈裟に「いたたた」と呻いた。実際、痛いこと違いはない。
「だけど、黒井ってどういう意味ですか」
事故を起こすまさに直前、坂東さんが口にした言葉は衝撃的だった。
大貫深香ちゃんだと思われた遺体の検査結果によると、捜査線上に浮上してきた名前はなんと『黒井七永』であるというのだ。調査の為にしもつげむらを訪れた僕たちの前に姿を現して以来、依然として行方の知れなかった、文乃さんの妹である。
「もともとうち(広域超事象諜報課)のストックには、色んな人間の遺伝子情報が保管されている。それと一致したってだけで、どこまで信じていいかは正直俺も迷ってる。起こりえないことを平気で起こす連中だからな、お前も含めて。あ、うちはお前の情報も持ってるぞ」
「ということは、以前から黒井七永をマークしてた、ということですね」
「西荻の妹だからな。今もってあいつが何かの犯罪に関わっていたという証拠はない。ただ、色んな現場で目撃情報があるのは確かだ。ここだけの話、うちは表立った組織じゃないんだよ。だからいわゆる海外支局はないんだが、特派員ならいるんだ。でもって、色んな国に潜伏して情報を集めてる」
「大きな組織なんですね」
「裏方とはいえ、まあな。そこから上がって来る話を聞けば、黒井七永が目撃されてるのは日本だけじゃないことが分かる。日本でだってお前、リベラメンテの最上階に七永が部屋を借りてたことを聞いてるんだろ?」
「はい」
「住んではいなかったそうだけどな」
「何者なんでしょうか、黒井七永というのは」
「西荻から、妹についての話はされてないのか」
「三神さんと話しているのを聞いたことはあります。だけど僕からは、何も」
「どうして」
「…どうしてって」
「お前、自分が巻きこまれた事件のバックにいたかもしれない人間の事、気になんないのか」
「なりますよ。なりますけど」
「…遠慮してんのか」
「まあ」
「どこまでもあいつに弱いんだな」
「以前」
「…え?何?」
「以前、僕は何も考えずに文乃さんの亡くなられた恋人のことを彼女に聞いてしまって。とても後悔したんです」
「…そうか」
「自然と向こうからやって来る情報以外に耳をそばだてても、ろくなことにはならないんじゃないか。そうやって考えるようにしています」
「一丁前な言葉吐く割には消極的なガキだな」
「そうですね」
「教えてやろうか」
「何をです?」
「なんでも聞けよ。大体のことは知ってるぞ」
僕は坂東さんではなくフロントガラス越しの夜を見据えながら、口を噤んだ。
これ以上何かを知れば、また僕は自分に芽生える下卑た好奇心を抑えらえなくなる気がした。
坂東さんはわざとらしく溜息をつき、やがてこう言った。
「俺自身は、黒井七永が死んだとは思わない」
「遺体が出たのに? DNA検査が間違ってると?」
「そもそもが100%のシロモノじゃない。だけどそれ以前に、あいつの死を信じられない。なにかカラクリがあるはずだ。それに、ドリスの件も気にかかる」
「まだ捕まっていないんですね?」
「ああ。こんなことは初めてだ。何度も言うが、もともとあいつが入国した段階でマークを付けてあったんだ。だが日本に入って来てから出ていくまでずっと貼り付けておくはずだったマークが、綺麗に引っぺがされた」
「消えたってことですか?」
「そうだ。前にも言ったが、ドリスはただの運び屋じゃない。薬の密売といっても個人でさばける量には限界がある。こづかい稼ぎ程度の悪事なら泳がせておいても、公安としては問題ないと思ってる。いわゆる薬の密売は、奴にとっての隠れ蓑だからだ。だが、あいつが世界中へ運んでる人間ってのは麻薬なんかよりも数段厄介な連中なんだ。他の国とも連携をとって監視を続けてきたんだが、今回あいつが連れて来たのが『D』だということまでは分からなかった。あの晩、あの現場に踏み込んだのが間違いだったのかもしれない」
「Dだけじゃなく、ドリス自身も何かの技術を身に着けているんですか? たとえば、特殊工作員のような」
「それはあると思う。そもそも拠点は向こう(海外)だからな、どこまで最新の情報がこっちに回って来てるかも怪しいもんだが、お前らがあの病院に現れた夜の段階までは奴の動向を把握できてたんだ。それは間違いない。相当高い技術を持っているか、あるいは…」
「あるいは?」
「奴が霊能者のような異能を持っているかといやあ、そういう証拠は出ていない」
僕は頷き、溜息をついて、そして坂東さんの横顔を見つめた。
「それで、僕はこの話を誰に伝えればいいんです?」
「ああ?」
旧結核病院でも、僕は坂東さんから本来一般人が知るべきではないような機密情報を聞いた。だがそれは、僕の口から文乃さんに耳に入れるという坂東さんなりの目的があったのだ。今もまた、いち大学生の手に余る公安の内部情報を教えられた。
僕がわざと目を丸くして見せると、坂東さんは遅れて気が付き、頭を振って笑った。
「俺はな、新開」
「はい」
「お前は色んなことをきちんと知るべきだ、その権利があると思ってるんだ。周りの奴らはお前のことを考えて話さないのかもしれないが、俺はそれを優しさだとは思わない。後で知って後悔するよりは、今知ってこれから先を考える方が、時間の無駄遣いになんなくていいって、そう思わないか?」
僕は一瞬頭の中が混乱し、車の外と坂東さんの横顔の間で視線を何往復もさせた。
「何の話を、されてます?」
「お前、自分が西荻や三神のおっさんたちと出会ったことを、偶然だと思ってるか?」
坂東さんの言葉に僕の全身から血の気が失せ、交通事故の痛みすら忘れた。
「…偶然というか、幻子が僕と辺見先輩を遠視で見たから、…まあ、偶然と言えば偶然でしょうか」
虚ろな返事を返す僕を見ず、前を向いたまま坂東さんはこう言った。
「もし色んなことに疑問を感じて、それらをきちんと知りたいと思う日が来たら、いつでも俺を訪ねて来い」
「え、なんですか? やめましょうよ、そんな話」
「見えたぞ。到着だ」
「え、え。ちょっと」
だがしかし、僕が坂東さんの口から自分にまつわる秘密や隠された真実とやらを知らされる機会は、訪れなかった。




