文姫
今度こそ最終話。
矢倉文は矢倉氏から、十歳年上の萩野氏の嫡男雅昭に嫁いだ姫君である。正室だ。六歳で彼に嫁ぎ、すでに十年が経とうとしている。幼い子供だった彼女も、思春期真っ盛りの年ごろの姫となった。
雅昭には側室がいた。この時代、大名の嫡男ともなれば側室の一人や二人、それこそ十人いるなんて珍しくない。ちなみに、雅昭の側室は一人だ。名を志摩波瑠という。文より十六歳年上の、大人の女性だ。
波瑠は聡明で美しい女性だ。すでに齢三十を越えているが、肌艶が良く、実年齢よりも若く見えた。実のところ、文が覚えている限り、波瑠の容姿は出会ったころとあまり変わっていない。
波瑠が雅昭の側室となってから八年。波瑠には六歳の娘と、二歳の息子、そして、今、おなかの中にもう一人子がいた。当たり前だが、父親はすべて雅昭である。
文は雅昭のことも波瑠のことも好きだ。幼い文は、波瑠に良く面倒を見てもらった。幼くして母と引き離された文は、おそらく、波瑠を母親のように慕っていたのだと思う。そして、それは今も変わらない。
だが、今となっては多少複雑な思いが混じる。文も雅昭の妻だ。むしろ正室だ。何故波瑠ばかり……と、思うのである。
「どうしました、文姫様」
優しい声音で問われ、文ははっとした。波瑠の前だった。彼女は、文姫にずっと雅楽を教えてくれている。最初に教わったのは琴。次に琵琶。今は胡弓だった。文姫はどれもなかなかな腕前だったが、どうしても、波瑠には及ばない。
胡弓の弦を置きながら、文はじっと波瑠を見た。見つめられた波瑠は少し首をかしげる。
波瑠は美人だ。小さな顔に少し切れ長気味の目。すっと通った鼻梁。長く美しい黒髪。すらりとしてて立ち姿もきれいだ。小柄な文とは違う。文も決して不美人ではないのだが、隣に波瑠がいるとため息がつきたくなる。
「私も波瑠様くらい美人だったらよかったのに」
「文姫様はお可愛らしいではないですか。わたくしの方がうらやましいくらいです」
何を言われても嫌味に聞こえてしまう。文から見て、波瑠は完璧な女性だ。しっかり者で、面倒見が良くて、優しい。雅昭が波瑠を好きになるのもわかる。とてもよくわかる。
むっとして文は波瑠を見た。年が離れすぎているから、喧嘩にもならない。波瑠は穏やかな表情で文を見つめるだけだ。
「……波瑠様なんて嫌いです」
「そうですか? そんな事を言われると、さすがに動揺しますね」
「……そんなに冷静な顔で言われても」
「わたくしは文姫様のことが好きですよ」
「……」
無心に彼女を慕っていたころのことが懐かしい。ずっとあの頃のままだったらよかったのに。
「……嘘です。大好きです。波瑠様のことも、雅昭様のことも……」
しゅんとした文を見て、波瑠は抱きしめてくれた。優しく背中をさすられて、文は波瑠にしがみついた。
「大好き、大好きなんです、波瑠様も雅昭様も」
思春期特有の悩み事だ。波瑠のことも好きだが、雅昭を愛する気持ちもある。
「……波瑠様も雅昭様より年上ですよね。子供だなとか、思わなかったんですか」
「文姫様、結構直球で聞いてきますね」
それでも、波瑠は怒らなかった。彼女を年増だと言ったも同然なのだが、混乱していて文も気づいていなかった。
「そうですね。わたくしと雅昭様も、文姫様と雅昭様も、政略結婚ではよくある年の差です。ですからそう言うことですと言ってしまえばそこまでなのですが……」
波瑠はよしよしと文の頭を撫でる。
「わたくしは、そうですね。初めは弟のようだなと思っていたのですよ」
「あ、波瑠様、弟がいますものね」
文は気の良い青年、孝景を思い出しながらうなずいた。どことなく波瑠と似た面差しの彼は、その陽気さとは裏腹に結構気が利く。
「でもやはり、雅昭様は弟とは違うなと思ったのですよ」
なんだか間がはしょられたが、心境の変化はあったらしい。文は少し体をずらして波瑠の膝に頭を乗せた。まだ小さいころ、こうしてよく波瑠に甘えた。少し懐かしくなったのだ。あの頃と同じように波瑠が頭を撫でてくれる。
「……ずっと、あの頃のままだったらよかったのに」
「そうですか?」
波瑠は否定も肯定もしない。ただ、文の言葉を聞いてくれるだけ。自分で考えさせられる。最近、これが波瑠の教育方針なのだと気付いた。彼女が子供たちに接する様子を見たからだ。
子供が欲しいわけではない。ただ、愛されているとわかる波瑠がうらやましかった。
思えば、文は愛情を知らなかったのだ。六歳で親元を離れて雅昭の元に嫁いできた文は、当時矢倉の当主だった男の側室の子だ。雅昭とは違い、何十人もの側室がいた父にとって、文は数多い娘の一人にすぎなかった。ただ、その中で雅昭との政略結婚の相手として、文が選ばれただけだ。
文は母と引き離されて育った。母の愛を知らないまま嫁いできた文は、優しく構ってくれる波瑠に母を見出した。
年齢の半分を、波瑠と共に過ごした。今更、嫌えるわけがない。大好きだ。でも、うらやましくなることはある。波瑠は母ではなくて、本当は、同じ立場の人だったのだと。
そっと目を開く。いつの間にか眠っていたようだ。相変わらず波瑠の膝枕だが、室内に雅昭の姿が増えていた。文は驚いて身を起こす。
「寝ていてもいいぞ」
出会ったころと比べて、雅昭もだいぶ大人びたと思う。なんと言うか、雰囲気が。だが彼も、波瑠の影響を多大に受けているのだろうなと思った。それだけ、影響力の大きな人だ。
「も、申し訳ありません。お見苦しいところをお見せいたしました……」
恥ずかしくて頬が赤くなる。思わず波瑠の背に隠れるように座ると、雅昭は苦笑を浮かべた。
「本当に文姫は波瑠が好きだな……お前、絶対私よりも波瑠の方が好きだろう」
「え」
文は目を丸くして自分がしがみついている波瑠を見上げた。彼女は文を見てニコリと微笑み返したかと思うと、立ち上がった。
「さて、わたくしは子供たちの様子を見てきます」
「一人で大丈夫か?」
「心配し過ぎです」
身重の波瑠を案じたのだろうに、ばさっと切り捨てられた雅昭である。少ししゅんとして見えた。もう十分おとななのに、波瑠にかかると雅昭もまだ子供のようだ。
「では、失礼いたします」
出て行く間際に波瑠と目があった。にこりと微笑まれたので、話をしろということだろう。文は意を決して尋ねた。
「雅昭様」
「なんだ?」
雅昭が文の方を見て、彼女が真剣な目をしているのにちょっと慄いた。
「ど、どうした」
「……雅昭様は、私のこと、どう思っておられるのですか」
「どう、とは?」
雅昭に尋ね返され、文は勢いのまま返した。
「私は! 雅昭様のことが好きなのです!」
「……」
「もちろん、波瑠様のことも大好きです。千世姫たちも可愛いです。でも、そう言うのとは違って」
必死に訴える文に、雅昭はあろうことか笑い出した。文はかっと頬を赤くする。
「何故笑うのですか!」
「いや、昔の自分を見ているようで」
そう言いながら笑う雅昭も、かつて、文と同じように波瑠を口説いたのだろうか。
「雅昭様には、私は子供なのかもしれませんけど」
ぷいっと顔をそむける。頭を撫でられた。波瑠の優しい手とは違い、少し強引だ。力が強い。
「たぶん、私はお前が思っているほど、お前を子供だとは思っていないな」
続いて抱きしめられるが、これも波瑠の抱擁とは違った。体を固定される感じ。男の人の力。身動きが取れない。
文は全身の血が一気に沸騰したかと思った。意識せず雅昭を突き飛ばした。そして立ち上がる。
「波瑠様! 私も行きます!」
恥ずかしくなった文は、波瑠を追って行った。追いついた時、千世姫たちと遊んでいた波瑠にちょっと呆れられたが、文はこれでも頑張ったのだ。
そして、置いてけぼりにされた雅昭は、夕餉の前に波瑠に回収されていったという。
やはり、この玉江の萩野家は波瑠を中心に回っているらしい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
これにて本当に最終話!
雅昭は子供を落ち着かせるくらいの感覚だったのに突き飛ばされて理不尽、と思ってる。そして、波瑠に呆れられる。
文姫はプチ反抗期中です。
下らない話に付き合ってくださった皆様、ありがとうございました!




