いんすますの黄金
我が名はチャイロ。
猫である。
どこで生まれたかは……カイヌシの一人が何度か教えてくれようとしたことがあるけれど、どうにもウニャウニャした話でよくわからなかった。
自分で覚えているのは、細い指に拾い上げられて、柔らかい腕に抱かれて夜の道を運ばれたことがあったようだ、ということぐらい。
モノゴコロというものがついてからというものは、ずっと、この家の二階で暮らしている。
一階はレストランなるものになっていて、ニンゲンがわやわやと出入りする。
そこに猫が混じるのはよくないことらしく、通りがかることもよろしくない、というわけで、ボクは、家猫をやっている。そういうことになる。
ただ、猫は自由な生き物だ。
空に月が浮かんでいて、それを望む窓が開け放たれているようなことがあれば、軽い宙返りひとつで月へ行き、もうひと飛びで帰ってくることができる。
月では猫の義勇軍に名を連ねたりして、いろいろな冒険をしたこともあるけれど、それらを語るのは、また別の日にしよう。
今、さしあたりの問題は、この屋根の上から、どこへ行くべきか、というものだ。
そう、今日、ボクは、自由の身なのだ。
それも、月ではなく、この地上で。
普段は開いたままにされることがない窓が開きっぱなしになっていることに気付いたのは、ほんの十分ほどまえのこと。
無人になった子ども部屋の勉強机に飛び乗ったら、いつもは目の前に立ち塞がる窓ガラスがなかった。
そこから跳躍すれば、窓の下に突き出している庇に飛び乗れる。
それは、頭の中で、さんざん予行演習済みだった。
あとは実行に移すのみ。
かくてボクは、ひとときの自由を手に入れたのだ。
○
そうそう、地上にダッソウするのは、別に、これが初めてのことではない。
一年に一度ぐらいは、どこかしらの窓が開きっぱなしになっていて、そのたびにボクは束の間の自由を楽しんできた。
最初こそ、屋根伝いに立木に飛び乗ったところでどうしたらいいかわからなくなり、情けなくも枝の上で震えているところをお縄頂戴となったりもしたけれど、次のときは、月で先輩方に教わったようにブロック塀の上に飛び降りてみたら、吸い付くように着地することができた。
そのときはそのときで、おやつの匂いに誘われて、すぐに連れ帰られてしまったりもしたのだが……。
そんなのも、もう思い出話。
今では、どんな遠出もお手のものだ。
もちろん、夕ご飯までにはちゃんと帰る。
そうしないと……夕ご飯にありつけないじゃないか。
それはさておき、庇の上から周囲に目を配っていると、真下の塀の上を、見慣れた顔が歩いていくところだった。
ほとんど金色にも見える薄い茶色の長い腹毛を風になびかせた……アレンだ。
彼は、このあたりを通り道にしている外猫で、ときおり、我が家の物干し台にもやってくる。
アレンという気取った名前をどこでつけられたのかはわからないが、れっきとした野良である。
通り過ぎるのを待ったあとでボクがブロック塀の上にひらりと飛び降りると、彼は、足を止めて、顔だけをこちらに向けた。
「よう、クロ」
アレンが言う。
「チャイロだよ」
「そうだっけか」
それだけ答えると、彼は、ついてこい、というように顎をしゃくった。
追いすがり、塀から木の枝に、木の枝から長屋の屋根に、屋根からまたブロック塀に飛び移る彼のあとについて跳躍し、歩く。
高いところに登ると、潮風を感じた。
二階の一間にはなかなか吹き込んでこない、外の匂いのする風だ。
「チャイロってのは、ニンゲンの言葉で『茶色』ってことだろう?」
少し広めの屋根の上で横に並びかけるとアレンは言った。
「なんでお前がチャイロなんだ?」
それについては、ボク自身も長年、疑問に思っている。
まだほんとうにチビだったころはブラウンと呼ばれていた気もするのだが、いつのころからか、チャイロさん、としか呼ばれなくなった。
聞いてみたくはあるけれど、ニンゲンに言葉が通じたためしはない。
いや、通じているのかもしれないけれど、たいてい、お腹が空いたの? などとはぐらかされてしまう。
月ではニンゲンとも話せる。
地上で知り合いのニンゲンと月で会うことができたら、そのときには聞けるのかもしれない。
そのようなことは、これまで一度もなかったが……。
「なんでだろうね」
仔細ははしょって、そうとだけ答えると、アレンは興味を無くしたように前を向き、また別の塀の上に飛び降りた。
○
「さあ、ここだ」
そう言ってアレンが立ち止まったのは、さやさやと葉を鳴らす庭木の影の中だった
広めの道路を背にするように物置小屋が建っていて、ほどよい傾斜の屋根の上に影が落ちている。そんな場所だ。
道路の向こう側には鉄格子の大きな門があって、その先にしばらく建物はない。
目をこらすと、彼方に、片側が垂直に立ち上がり、逆の側だけが斜めになった屋根が連なっているのが見えたが、それだけだ。
さえぎるものが少ないせいか、爽やかな風が吹き抜けていく。
アレンは満足げに風の匂いをかぐと、寝床を整えるときのように物置の屋根を前脚で数回踏み、それから、ごろりと丸くなった。
ボクも、彼に従って横になる。
しばらくは、ニンゲンも車も通らず、葉擦れの音が聞こえるばかりだった。
とろとろと、瞼が落ちてきそうになる。
「あれだ」
そんなとき、ふとアレンが言った。
彼の視線の先を追うと、一台のトラックの後部が目に入る。
道の向こうの鉄門が、がらがらと音をたてて開かれ、トラックは敷地の中に吸い込まれていく。
青い車体の背中に、銀色の箱を載せた車である。
「あれがどうしたの?」
「あの車は、ミナトから来たんだ。今でこそ、後ろがレイゾウコになった車を使っているけど、昔は荷台が剥き出しで、丸見えで魚を運んでいたらしい。追いかけていくと、おこぼれにありつけることもあったそうだよ」
もっとも、オレも年寄りの猫から聞いたってだけで、この目で見たわけじゃないし、その猫も、若いころに別の年寄りから聞いたって言ってたけど。アレンは言う。
「ふうん」
答えて、もう一度、目を向けると、もうトラックの姿はなく、鉄の門が再び鈍い音とともに閉じていくところだった。
ずいぶんと厳重だ。
「それで?」
「うん? まあ、待て。別の車がじきに来る」
アレンは、そうもったいをつけると目を閉じた。
しばらく門の方向を眺めていると、やがて今度は敷地の中のほうから一台のトラックがやってきた。
さきほどの一台よりも大きく、白くのっぺりした顔をしている。
荷台も長くて、そこに、これも白く塗られた箱を載せていた。側面にはニンゲンの文字が書かれている。
門が開くと、トラックは大回りにハンドルを切りながら道路に出てきて、ボクたちから見て左の方に、どろどろと音を立てながら、ゆっくりと走り去っていった。
アレンは、片目を薄く開けて、それを見送る。
「これも年寄り連中から聞いたんだが、今の車は、コガネアゲを積んでいるんだそうだ」
「コガネアゲ?」
「お前も、この町の猫なら見たことがあるんじゃないか。ニンゲンの皿によく乗っているやつだよ。ほら、ちょうど、あいつの手の先ぐらいの大きさと色の……」
そう言ってアレンは、近くの庇の上を通りがかった茶トラ猫を顎で指した。
そのことに気づいたのかどうなのか、茶トラはボクたちのほうを物憂げに一瞥して、去って行く。
「ああ」
ボクは答える。それなら、カイヌシたちが食べているのを見たことがある。よその町の親類にオミヤゲとして買っていく、という話をしているのも聞いたことがある。コガネアゲという名前だったのか。
「ここは、マシュウというニンゲンの会社の工場なんだそうだ。名物コガネアゲは、ここで作られているのさ」
そう言ったあとで、アレンは、ボクに顔を寄せてきた。
声を数段低くして、続ける。
「これは、オレだけが気づいたことなんだけどな……」
「う、うん」
「……コガネアゲの材料は、なんだと思う」
「ええっと、魚?」
「なぜそう思う?」
「最初に入っていったトラックの積荷は、魚だってキミが言った。次に出てきたトラックの中身はコガネアゲ。だから、あそこの中で魚をどうにかして、コガネアゲを作ってるんだろう」
実際、ニンゲンのお皿の上に乗っかったコガネアゲからは、油とか、なんだか甘い匂いに混じって、魚の香りがする……ような気がする。
だが、アレンは、ふふん、と鼻を鳴らして笑った。
「みんな、そう思ってる。ニンゲンの中にも、そう思い込んでいるヤツが多いらしいな」
「違うの?」
「あれを見ろ」
言うとアレンは、右前脚で、トラックが通るときだけ開く鉄の門のかたわらの、ブロック塀を指し示した。
そこには紙が貼ってあり、ニンゲンの文字で何かが書いてある。
「あそこにはね、こう書いてある。『どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません』」
どこかで聞いたことがある。そんな気がしたけれど、それがなんだったのかはすぐには思い出せなかった。
「ときどき、それを見て、ニンゲンが中に入っていく。何か食べさせてくれると思うんだろう。中でコガネアゲを作っているわけだしね。だけど、入っていったニンゲンは、あのノコギリ屋根の建物の中に行くと、まず、上着を脱いで、髪をとかして靴をきれいにするように言われる。それから、眼鏡や財布、金物類を置くように言われるというんだ」
「それは、コガネアゲを作る台所に入るからじゃないかな。食べさせてもらうんじゃなくて、作る人になるために入っていくんだ」
ボクのカイヌシの家の一階のレストランでも、キッチンに入る人は、手を洗ったり、髪を結んだり、白い服を着たりする。
けれどもアレンは、そう言ったボクに冷ややかな目を向けてきた。
「続きがあるんだ。次に、そのニンゲンは、手や顔にクリームを塗るように言われる。その次にはお酢。その次に、塩を体に揉み込む……」
やっぱり、どこかで聞いたことのある話に似ている。そしてそれは、マシュウのコガネアゲ工場についての話じゃなかったはずだ。
「アレンはさ」
ボクは訊いてみた。
「ニンゲンの字が読めるの? あの貼り紙の」
「ん? いや、まあ、読めないけど、スイリしたのさ。」
ある日、とある屋根の上で昼寝からふと目覚めたときに聞いたのだ、とアレンは言った。 その家のニンゲンが、声をひそめて話していたことを。
「どなたもどうかお入りください。」その貼り紙につられて入っていったニンゲンがたどる末路のことを。
マシュウの工場の入口に貼られている紙。それこそが、その貼り紙である。アレンはそう主張した。
簡単なものなら、ボクはニンゲンの字も読める。
月で教わったのだ。
ボクは、目を細めて、道路の反対側の壁に貼り付けられている紙の字を読んでみようとした。
だけど、日向にある白い紙はまぶしく光っていて、そこに書かれていることを読み取ることはできそうにない。
「うーん」
じっと見ていたら目がチカチカしてきたので、ボクは、瞼を閉じて寝転がった。
「じゃあ、オレはそろそろ行くが……」
耳元で、アレンが声を潜めて言った。
「……誰にも言うなよ。こんなことを知ってるってウワサが広まったら、オレたちは、この町に住んでいられなくなるかもしれない」
ボクが、わかったともわからないとも答える前に、ととっ、とっ、と小屋の屋根を蹴るアレンの足音が聞こえ、それからすぐに、静かになった。
そよそよと風が吹き、前の道は、車もニンゲンも通らない。
ときおりやってくる猫たちの足音は、軽やかすぎて気にならない。
今度こそボクは、とろとろと眠りに落ちた。
○
かあーん、こおーん。
どこかからか鐘の音が聞こえた気がして、目を開けると、空はすっかり夕焼け色に染まっている。
きーん、こーん。かーん、こおん。
音は、向かいのマシュウの工場の中で鳴っているようだ。
そして、アレンと見ていたときはトラックが出入りするときのほかは閉まっていた鉄の門が今は完全に開かれていて、中から、次々にニンゲンが出てくるところだった。
歩きだったり、自転車やバイクに乗ったり、車に乗ったりして。
貼り紙を見て中に入っていくニンゲンが何人いるのかわからないけれど、これだけたくさん出てくるんだったら、別に、中でアゲモノにされたりしているわけじゃないんじゃないだろうか。
そもそもアレンは、今、ボクが見ている光景を見たことがあるのかな。
まあ、いいか。
それより、そろそろご飯の時間のようだった。
近くの家からカツオブシの匂いが漂ってくる。
お腹が、ぐうっ、と鳴る。
ボクは、立ち上がって伸びをすると、ブロック塀に飛び移った。
○
「あっ、チャイロさん、帰ってきた!」
カイヌシの家の裏口の前に、たしっ、と着地すると、開いていたドアの中から、大きな声が降ってきた。
「ほら、おいで。ご飯だよ。今日は、かつぶしもかけてあげる」
カイヌシの一人である少女が、ボク用のボウルを片手に持って屈み、もう一方の手で手招きする。
ボクは、彼女の足元に駆け寄った。
もちろん、この時間には帰ってくるつもりだったよ。カツオブシなんかなくてもね。
「はあ、よかったぁ」
裏口の土間でボウルに首を突っ込むボクを見下ろしながら、少女は息を吐く。
「言ったでしょ、ご飯どきになったら帰ってくるって」
その後ろから、背の高いニンゲンが彼女に声をかける。
この人は、カイヌシともカイヌシじゃないとも言い難い、だけど、ほとんど毎日、家と一階のレストランにはいるニンゲンだ。
「飼い主に似るっていうのは本当だね」
「どういう意味」
少女は振り返り、頬を膨らませる。
「あっ、それより、いい匂いがするね。何?」
言われてみればその通りなので、ボクは、一瞬、食事から顔を上げて、鼻をひくつかせた。
キッチンから漂ってくるのは、油と、魚……。
だけど、これはコガネアゲじゃない。魚はタラかな。
「フィッシュ・アンド・チップスを作ってみてるの。メニューに足せないかと思って」
「フィッシュ・アンド……?」
「お魚のフライとフライドポテト」
「おいしそう!」
「……やっぱり、あんた、チャイロさんにそっくりね」
「なんか言った?」
「なんでもない。試食させてあげるから、手、洗ってきなさい」
「はぁい」