事件5 おままごと(ファミリー・ゲーム)③
両手を腰に当て、威圧するように黒尽くめの男達を嘲笑する幼女。その背後に、それは姿を現した。
一言で言えば、それは怪物であった。
10メートルはあろうかと言う体高は屋根よりも高く。
身体を覆う毛皮は夜よりも闇色で。
捻じ曲がった二本の角はどんな槍にもまして鋭く。
地面を支える四肢は巨木の様に太く。
そして凶悪な牙が並ぶ巨大な口はどんな迷宮よりも致死的だ。
黒色精霊種
「も、闇の一族……」
男の一人が思わずそう呟いた。
怪物は、まるで金属を煮溶かしたような真っ赤な二つの目でその男を睨みつけ、そして獣の鼻を鳴らして吼えた。
『るおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおんッ!』
まるで嵐が来たかのごとく。
家々がびりびりと震えて軋む。
男達はその場に凍りついたように動きを止め、あるいはがたがたと震える。
「腹が減ったろう、ベヘメト」
たった一人、幼女だけは巨獣の毛皮をその小さな手で撫でてやりながら、容易く話し掛ける。
「喰っていい。ただし、残すなよ」
それを合図に殺戮が始まった。
「うわぁぁぁぁあぁぁッ!」
暗殺者達は恐慌に陥った。
場数を踏んでいるのであろうプロの暗殺者達。
しかしそれはあくまで人間を相手にした業だ。
自分の数十倍もありそうな、怪物を相手にしたことなどあるはずもない。
ある者は抵抗することも出来ずに丸呑みにされ。
ある者は果敢に剣を突き立ててから丸呑みにされ。
ある者は逃げ出そうと走り出した所を丸呑みにされ。
ある者は幼女に跪いて命乞いをしながら丸呑みにされた。
巨大な獣は巨体に似合わず俊敏で、誰も獣から逃げおおせることはなかった。武器はまるでその毛皮に通じなかったし、電撃結界に掛かるほど愚かでもなかった。
男達は喰われることには疑念を持たなかった。
人はあまりにも凶悪な運命を前にした時、己に襲い掛かる不幸には疑問を抱かない。
ただ、不運を呪い泣き叫ぶだけだ。
まるで嵐の様な数分の後、たった一人の黒尽くめを残して誰も姿を消していた。フェリシア、いやシルフェリアという偉大な魔術士は、満足そうに微笑みながら最後の男に向かって歩み寄る。
「伯父上の手のものか?それとも従兄弟どのかな?」
ひぃっと悲鳴を上げながらあとずさる男に向かって幼女は困ったように微笑んだ。
「どちらなのだ?ほら、さっさと言え」
男が震える声で懇願するようにフィゾリン伯爵ですと言った瞬間、男は背後から丸呑みにされていた。
「なんと、爺様がねぇ。まったく、情け容赦のないことだ」
言葉ほどの衝撃を受けた様子もなく、幼女はひょいと肩を竦める。
「どうだった?久しぶりの魂の味は?」
そして、彼女に傅くように頭を伏せる巨獣に向かってそう言って笑う。
巨獣がほんの少しだけ身じろぎすると、その体がぶわっと広がった闇に包まれた。
夜より濃い闇は数瞬ほども立ち込め、やがて風にかき消されるように拡散する。
すると、そこにはもう巨獣はいなかった。
ただ、真っ黒なスーツに身を包んだ、漆黒の髪と眼を持つ美しい青年が立っているだけだった。
「率直に申し上げて」
青年は幼女に優雅な姿勢で礼をしながら言葉を発した。
「糞まずいですね。第一私はそもそも男の魂は好かないのです」
忌々しげに顔を顰める青年を幼女は嘲るように笑う。
「好き嫌いを言うな、ベヘメト。―――久しいな」
巨獣の名で呼ばれた青年はその場に跪くと、幼女が差し出した手の甲にキスをした。
「お久しぶりです、主。しばらく見ぬ間に随分縮まれましたね」
「気にするな。ちょっとしたイメチェンだ」
「イメチェンで済みますか!大体いつ亡くなられたのです?亡くなったなら魂くらい喰わせてくれてもいいじゃないですか」
「身の程を知れ、使い魔の分際で」
「相変わらず、連れないですねぇ。まぁ、そこがいいのですが。あ、心配しないで下さい。私の愛は外見の形に左右されませんので」
「貴様も幼児嗜好者の仲間入りだな」
幼女がうんざりしたように言ったとき、ベヘメトと呼ばれる青年は再び顔を顰めた。
「そう言えば、さっきからあのいけ好かない黒色精霊種の匂いがするのですが?」
「ああ、あそこがあいつの家だからな」
そう言って幼女が探偵社を指差す。
「ちょっと燃やしてもいいですか?」
「やめろ。本人は留守だし、私は今あそこに住んでいるのだ」
「………は?」
「ふふん。なに、長い人生だ。黒色精霊種の娘になってみるのも悪くはないと思ってな」
「……ちょっとあの野郎を殺してきますね。心配なさらないでください。主は私がお風呂も着替えも面倒見て差し上げますから。じゅる」
「涎を拭け。獣」
きらきらと眼を輝かせながら涎を垂らす美青年を嫌そうにねめつける幼女。
「なに、ちょっとしたおままごとだ。その少女のことも気になるしな」
そう言って幼女が地面に突っ伏したままのルカを指差す。ベヘメトは彼女を見て首を傾げた。
「なんでこんなところに【赤】が?」
「【青】はルキフェルのところにいるらしいぞ」
「……意味が分からないのですが」
「だが、意味のあることだ」
そう言って偉大なる魔術士である幼女は酷薄に笑う。
「我々が【神】を殺して200年。社会はその有様を多様に変えた。最早民草は【神】について語ることもなければ、【神】に縋ることもない」
「先ほど、男の一人が私のことを闇の一族と呼びましたね。私が【神】に傅いたことなど一度もないのですが」
「もう、そんな区別すら意味がないのさ。彼らは【神】のいない時代を生きている」
興味があるじゃないか、と幼女は微笑む。
「【神子】達が、果たしてそれでも何かの意味がある存在なのかどうか。もはや今の時代には必要のない存在なのか。二人の黒色精霊種が期せずして同じ行動を取っている。これは偶然だが、偶然だけに必然でもある」
「ルキフェルはともかく、あの男は【神子】には反対したはずでは?」
「思うところがあるのだろうさ」
魔術士はにこりと、まるで無垢な幼女の様に笑った。
「その子を家に運べ。傷を癒して少し記憶を弄る」
「随分ご執心ですね」
「なに、私はいつも愛らしい女性の味方だ」
「相変わらずの変態ぶりですね」
「貴様に言われたくないわ」
老女だろうが幼女だろうが変わらぬ愛を嘯く獣に向かって、魔術士はうんざりしながら言ったのだった。
翌朝。
ルカは寝台で目を覚ました。
どうにも就寝した記憶がないのだが、ちゃんと着替えているし、風呂に入った形跡もある。誰かがルカを裸に剥き風呂に入れたはずもないので、ちゃんと自分でやったのだろうが。
「疲れてるのかな」
取りあえず朝食を作ろうと台所に向かうルカ。
あ、と思いついたように客間の扉をそっと開けると、そこではフェリシアが天使の様な寝顔ですやすやと寝入っていた。
ふふふ、と微笑んでから台所に向かうルカ。幼女が枕に隠れてにやりと笑ったのを彼女は知らない。
アルフリート・ウルグルスが帰宅したのは、二人が朝食を食べ終え、太陽が正午の高さに昇った後だった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「おかえり!パパー」
フェリシアがそう言いながらパタパタとアルフリートに向かって走り、その胸に飛びつく。
「パパー、フェリシアさびしかったー」
「まぁ、フェリシアちゃんは甘えん坊ね」
そう言って嬉しそうに微笑むルカ。
アルフリートは二人を交互に見ながら、うんざりするように嘆息するのだった。
「子供に向かって何て顔してるの?お腹空いてるんでしょ?とりあえずお昼ごはんつくるね。フェリシア、パパをお願いねー」
「はぁい!」
言いながらルカが台所に入っていくや否や、愛らしい幼女であったはずのフェリシアは、魔術士の口調でアルフリートをなじり始めた。
「おい。貴様やる気はあるのか?もっとちゃんと演技しろ。私を見習え私を」
「……お前の本性を知っていて、そんなことできるわけないだろう」
「ふん。根性なしめ。まぁいい。首尾はどうだ?」
はぁ、と溜息をついてからアルフリートは幼女の詰問に答える。
「気持ち悪いほど上手く行ったよ。これで、晴れて私はお前の後見人だ」
「私が根回ししたのだ。当然の結果だな。だが良かった。これで奴らも早々手出しはできまい。昨夜が最後のチャンスだったな」
「何?何かあったのか」
ふふんと鼻で笑いながら、幼女が昨夜の顛末を話す。それを聞いてアルフリートは青褪めた。
「もっと注意力を持たせた方がいい。頑丈とは言っても限度がある」
「……忠告としてありがたく受け取ろう」
そう言って沈痛な面持ちで口を噤んだ黒色精霊種に向かって「そうだ」と幼女がぽんと手を叩く。
「私はこれからしばらくここに住むぞ。よろしく」
「はぁ!?」
「おいおい。後見人になっておきながら、こんなみそらの子供を放り出す気かね?」
「お、お前形式だけだと言っただろうが!」
「気が変わった」
「おい!」
「ちょっと、何子どもに大声出してるの?」
その時、ルカが台所から顔を出す。そこにフェリシアがぱっと飛びついた。
「ママー。これからはずっと一緒に住めるんだってー。パパがフェリシアのこうけんにんになってくれたのー」
「えぇっ!本当なの、アル!この子の後見人になったの?」
「え?あ、まぁ。その、たしかに後見人にはなったが、しかしだな……」
「ありがとう!私、一生懸命育てるからね!」
「え?」
「わぁ、嬉しい!フェリシアちゃん、じゃあお昼食べたらお洋服買いにいこっかー」
「うんッ!」
きゃっきゃっと喜ぶ二人を前に何も言い出せないアルフリート。
その時、こんこんこんと扉を叩く音がする。
「はーい?」
ルカが扉を開くと、警官の制服に身を包んだ抜群のスタイルの女性が部屋に入ってくる。
「なんだ、あんたか」
「なんだとは失礼だな。アルフリート様。ちょっと事件のことでご相談したいことが……」
制服の前のボタンが止まらないほどの大きな胸を揺らしながら、リリーは室内を眺めて、その幼女を見て硬直する。
「あ、あの、アルフリート様。その子どもは…」
「ええっとだね、リリー。話すと長くなるのだが彼女は…」
「パパー!」
「へ?」
図ったようなタイミングで、幼女はアルフリートを指差す。
そして「ママー」と言ってルカを指差した。
「えぇッ!ちょっと、アルフリート様。あ、あなたその小娘とッ……!」
「ち、違う!誤解だ!」
「フェリシアはパパとママの子どもだもんねー」
「ねー」
「ルカ!すすんで誤解を招くな!面白がるな!」
黒色精霊種の絶叫と精霊種の警官の悲鳴が真昼の貧民街に響く。
何はともあれ。
精霊種の幼女フェリシアであり、偉大なる魔術士シルフェリアでもある彼女は、探偵社に住むこととなった。
「計算どおり」
幼女はそう呟いて、天使のような笑顔で微笑んでいた。