ep72.沈みゆく心
ただの鼻血。
そう思いたいボクの気持ちとは裏腹に、鼻からの出血はなかなか治まろうとはしなかった。
ボクはホールの壁際に沿って設置されてる細いテーブル席に向かい、軽く前かがみになるような感じでイスに座らされてる。 そうすることで鼻からノドに血が流れ込まないようにするらしい。
テーブル上には騒ぎを聞きつけたオーナーの奥さん、静流さんが持ってきてくれた洗面器。 その中はもう、流れ出た鼻血で大変なことになっちゃってる。 血に弱い人が見たら卒倒ものに違いない……。
洗面器脇には血で汚れちゃうし、鼻を押さえるのに邪魔になるからって外させれた眼鏡。ちょっとまぶしいけど仕方ない……。
今は小鼻をつまんだ状態で血が止まるのをひたすら待ってる。
そして、最初は派手な出血で驚いてたみんなも、熊先生の言葉で練習を再開してる。 ピアノも熊先生が弾いてて、ボクには向井先生が付いててくれてる。
でもみんなボクの鼻血さわぎで動揺しちゃったのか、いまいち練習に身が入らないみたい。
ボクは小鼻を押さえながらも、申し訳ない気持ちと自分に対する情けなさで今にも泣き出しそうになってしまう。
――泣いちゃだめ。
ただでさえ迷惑かけちゃったのに……これ以上心配かけらんない。
ボクが心の中で葛藤してる間も、向井先生は血で汚れたボクの顔……鼻の周りを、丁寧に何度も何度もタオルで拭ってくれている。
「どう、柚月さん? そろそろ治まってきたかな」
ずっと小鼻を押さえてるボクに向井先生が聞いてくる。
その言葉にボクは、押さえている手を放して先生の方を見る。 とたん感じる、血がジワリと流れ出てくる感触。 そして再びツーっと流れ出てくる血。
「うーん、まだダメみたいねぇ……。 ゴメン、もうちょっと押さえてて?」
再度、タオルで鼻の周りを拭ってくれながら、やれやれといった感じでそう言う先生。
ボクはもう、ただ言うことを聞いて押さえるだけで、ぼーっと放心状態に近くなってる。
何でボク、こんなことになってるんだろ?
ついさっきまでみんなと一緒にケーキ食べたり、課題曲のパー錬してたはずなのに……。 どうなっちゃってるの? ボクの体。
怖いよ……。
「ずっと声を出して練習してたから、のぼせちゃったのかな?」
そんなボクの不安な気持ちを察してくれたのか、向井先生がそう言いながらアタマを撫でてくれる。 気持ちいいんだけど、でも、不安な気持ちは解消しきれない……。
そうこうしてたら、今度は静流さんが砕いた氷をビニール袋に入れて持って来てくれて、それで鼻周りを冷やすように言われる。
氷袋をお鼻に当てると、ちょっとずくずくして熱っぽい感じが治まってとっても気持ちいい。 思わず目を閉じて気分に浸る。
「あ、ありがとう……ございます。 冷たくって気持ちいい……です」
ボクは氷袋を用意してくれた静流さんを見つめお礼をいう。 静流さんはそんなボクの目を見てちょっと驚いてたけど……、でも「どういたしまして」って笑顔で答えながらやさしく撫でてくれた。
うーん、やっぱ子供扱い。
でも今はそんな扱いが逆に安心できて、拗ねる気持ちも毛頭起きず、ようやくちょっと気持ちが落ち着いてくる。 それに出血はまだ止まらないけど、だいぶ減ってきたみたいでノドにまで届くことは無くなってきてた。
「蒼空ちゃん……だったかしら、急に鼻血いっぱい出ちゃってビックリしちゃったでしょう。 大丈夫? 少しは落ち着いた?」
しばらくして、ボクの様子を見て大丈夫そうと思ったのか、静流さんが問いかけてきた。
今は向井先生と交代で静流さんがボクに付いてくれている。
出血してすぐの頃は、ボク呆然としてしかも青い顔で、とてもこんな感じに話しかけられなかったみたい……。
「はい……。 そ、その、面倒かけてしまって……ごめんなさい。 それに、床……汚しちゃって」
キレイな板張りの床にボクの血がいっぱい付いちゃった……から。
ボクの言葉に、静流さんはふたたびその手をボクのアタマにやり、撫でながら言ってくれる。
「まぁ、そんなこと気にしなくていいのっ。 何しろここの床は、私がいつもピッカピカになるまで、さんざんワックスがけしてるんだから。 ちょっとやそっとじゃ、染み一つつけられないと思うわ」
そう言って、いたずらっぽい顔をボクに見せ、安心させるように更にアタマを撫でてくれる。 ボクはそんな静流さんのやさしさにとうとう涙をこらえることが出来なくなり、泣き出してしまった。
ああ……ボクのバカ。
ほんとに、なんでこんなに泣き虫になっちゃったの……。
静流さんは目じりの涙を拭ってくれながら、今度は背中をさすってくれる。 やっぱ、大人の女の人の与えてくれる安心感はハンパない……。 体の緊張が徐々にとれていく感じがする。
それにしてもボク、鼻や口からは血、目じりからは涙と、時々拭きとってもらってるとはいえ、見た目……なんだか相当ひどいことになってそうだ。
ぐすっ、やるせない……。
# # #
あれから2時間と少しほど経ち、ようやく出血も止まったところで、ボクは居場所を向井先生のお部屋へと移し、そこで安静にして様子をみることとなった。 自分の居た部屋だとエリちゃんや川上さんに気を使わせてしまうって配慮からそうなった。 もし、また鼻血出したりして2人を不安にさせるのもいやだったし、ボクも素直に従った。
それと念のため今もまだ鼻の周りを冷やしてる。 さすがに氷袋じゃなく、冷やしたタオルを当ててるだけだけど。
みんなの練習は休憩をはさみ、まだ続いてる。 休憩中、ボクはずっと出血が治まってなかったからお話しすることも出来ず、みんなに心配かけるだけ。
ほんと悲しかった……。
ボク、やっぱり来ちゃいけなかったの?
お母さんにワガママ言って、検査入院の日をずらしてもらってまでして合宿にきて、結局このありさま……。
普通の女の子が、普通にやってることすら……ボクはしちゃいけないの?
望んじゃダメなの?
それに鼻血……なんであんなになかなか止まらないの? こうなって考えてみれば、他にも思い当たること出てくる……。
どうしてボクのカラダ、こうも次々悪いとこ出てくるの?
なんでボクばっか……。
ボクはどんどん悪い考えの連鎖に陥ってしまう。
そして長い間の緊張と疲れからか、強い眠気に襲われ、ついには深い眠りに落ちてしまったのだった。
蒼空が手に持っていたタオルが足元にパサリと落ちる。
そのタオルに血はすでに付いていなかった。
* * * * * *
「山中先生、柚月さんの具合どんな感じなんですか?」
合宿2日目の練習がようやく終わり、最後に行なうミーティングに入るなり、部長の藤村は、いつの間にか姿が見えなくなっていた蒼空を心配して問いかけた。 シホちゃんも、たまにこちらへ様子を見に来ていたものの、ほとんどホールに居ない状態だったから余計心配になっていたのだった。
他のメンバーも思いは同じだったようで、部長が問いかけると一斉に山中の方に視線が集まった。
「うん、心配はもっともだな。 柚月くんだが、とりあえず向井先生の部屋で安静にしてもらってる。 先生の話だと鼻血のほうはすでに止まったようなんだが、相当疲れたんだろう。 今は眠っているそうだ」
山中のその言葉に藤村らは、一様にホッとした表情を浮かべる。
何しろあの鼻血の出方はちょっと異様だった。 見ているこっちまで貧血になりそうな感じで出血していた。 それになかなか止まらないようで、練習中も気になってちらちら見ていたけど、少なくとも30分以上たった時点でも止まってる雰囲気じゃなかった。
「それで柚月さん、この後の練習、参加出来そうですか?」
藤村がそう言ってさらに質問をする。
「うーん、それなんだが……。 まぁ無理だろう。 というかなぁ、いちおう教師としてはこれ以上続けさせるわけにもいかないんだよ」
山中は表情をくもらせ、藤村、そして部員らに語りかける。
「それに……」 山中はもう少し続けて話そうとしたが、途中で思いなおして言わずに済ます。
藤村らは、その前の山中の言葉に気をとられ、その様子には気付かなかった。
それより藤村はすごく残念な気持ちで一杯だった。 彼女の体調がこのままずっと思わしくないまま、なんてことになれば(そんなことあって欲しくはないが)彼女のよく通る、キレイなソプラノが抜けてしまうかもしれない。 そうなれば……ほんとに残念でならない。
藤村がそんな思いを抱いている時、他にもう1人、ひときわ心配そうな表情を見せているのは渡里さん。 彼女のそんな気持ちが通じたのか、ミーティングは早々に切り上げられ、夜と明日の予定が告げられると解散となった。
そして向井先生の部屋へ一目散に向う渡里さんともう1人、ルームメイトの川上の姿があるのだった。
――ほんとなら今からまた楽しいお風呂、その後には懇親会も控えてたのに……。
でも蒼空ちゃんの……あのかわいらしい顔が、血で染まって……真っ青になってしまったあの顔を思い返すと、今夜はとてもそれどこじゃ、そんな気分じゃない。
私はそう思いつつ、とりあえず蒼空ちゃんのいる向井先生の部屋に急ごうと、足を速める。 同室の川上さんも一緒に行くって言ってくれたし、1人で先生のところに行くのは正直心細かったから助かった。
「きっとそんなに心配することないよ? ほら、派手だったけど結局、ただの鼻血なんだし。 そりゃ、あの柚月さんだから私らなんかが鼻血だすのと違って、ちょっとビックリしちゃったけど」
先生の部屋へ向う途中、川上さんがそう言って、ずっと心配そうな顔をしてる私の気持をやわらげようとしてくれる。
「そ、そうだね。 ただの鼻血だもんね……」
それでも……私の心から不安が拭われるまでには至らなかった――。
* * * * * *
『コンコン』
ノックの音に、ドアへと向う向井先生の姿。
「はい、どなたかしら?」
そう言いながらドアを開ける。
そこには多少おずおずとして立つ渡里と川上、2人の生徒たち。
「あら2人とも、柚月さんのお見舞い? 彼女ならまだ寝てるけど……まぁ、とりあえず入りなさいな」
自分より背の高い2人の生徒を見上げつつ、部屋の中に招き入れる。
部屋は2人部屋のようで、2つ並んでいるベッドのうち、手前のベッドに蒼空は寝かされていた。
2人はそんな蒼空の様子を見てようやく、少しは安心する。
今はよく眠っているようだ。 出血ももう完全に止まったのか、鼻の上を冷やしていたタオルもすでに取り去られている。
「先生、蒼空ちゃんの具合、どうなんですか?」
ずっと聞きたかったことを、やっと口にする渡里さん。
「うーん、どうって言っても……これといって言うこともないのねぇ」
多少困った顔をして話す向井先生。
「言ってみれば鼻血が出ただけなわけだし。 ただ彼女の場合、その出血がなかなか治まらなかったからちょっと派手になっちゃったのよ」
くだけた物言いで2人に説明する向井先生。
顧問の向井は28才と、まだ20代で踏みとどまっていることもあり、生徒たちともなかなかフレンドリーな関係を築いていて、5、6年生はシホちゃんと愛称で呼ぶことも多い。 とびきり美人というわけではないが、やさしげな顔立ちと相まって親しみやすい、いい先生のようだ。
「今はようやく横になれて、やっと落ち着いて眠れるようになったって感じかな。 ほら、鼻から血がノドに入っちゃうから横になれなくて、ずっとうつむき加減でいたでしょ? 氷袋とかも使ってたし、だから相当疲れたまっちゃってたみたいで……。 緊張もしてただろうから、今はほんとグッスリね」
そう言いながら、ベッドで気持ちよさげな寝息を立てて眠る蒼空を見る。 つられて2人も蒼空をふたたび見つめる。
昼間の様子がウソのように落ち着いた寝顔を見せている蒼空。 でもその顔色は朱が感じられず、ただでさえ白いその肌は、病的なほどに青白く、出血の影響をまざまざと見せつけている。
痛々しいその姿に3人は表情を曇らせる。
時間は18時をとうにまわっていて、昨日なら楽しくお風呂に入っていた時間だ。
「心配なのはわかるけどあなたたちも練習終わって疲れてるでしょ? 彼女のことは私が見てるから大丈夫。 早くお風呂に入ってサッパリしてきなさい」
向井先生のその言葉に2人はしぶしぶ従い、蒼空の顔を名残惜しげに見つつも部屋から出て行くのであった。
2人を見送った向井は1人ごちる。
「ふぅ……疲れたぁ。 今日はほんと散々な日だったわ。 それにしても柚月さん、2人にはああ言ったけど……これ絶対ただの鼻血じゃない気がする。 大事なければいいんだけど……」
そう言いながら今日一日、幾度となくタオルで拭った蒼空の顔、乱れてしまった真っ白い髪を優しく整えてあげる向井。 綺麗な長い髪は、ポニーテールをほどいて頭の上から枕沿いに横にゆるく流すようにして痛めないよう気をつけてあげている。
こんな、見た目1年生って言っても充分通用するかわいらしい子、普段の行動でも子供っぽい幼さの残る柚月さんだけど、上から聞かされた話だと色々苦労してるってことだ。
その見た目からして病気から来ているものらしいし、生徒たちが彼女をチヤホヤすることも本来ならやめさせるべきなのかもしれない。 とは言ってもそんなコト強制できるはずもないし、その気持ちも良くわかる。(自分自身、彼女のかわいらしさには母性本能を刺激されて余りあるし……)
そんなことを考えながら携帯でなにげに時間を確認する。
19時か……。 あと1時間もすれば到着されるかな? それまでに準備しとかないと。
向井はちょっと蒼空のことを気にしつつも、部屋からそっと出て行くのであった。
* * * * * *
ほのかにただよってくる甘い匂いに、ふわふわした意識の中、ボクは自然と鼻をひくつかせようとし……そこに異様な違和感を感じ、唐突に目が覚めた。
違和感の正体は鼻の中で固まってる血のようだった。 ボクは思わず鼻に手を伸ばそうとしたところで、
「だめよ柚月さん。 お鼻の中、気になるでしょうけど今はまだそのままにしておいて? さわったり、鼻をかんだりしてしまうとせっかく止まった血がまた出ちゃうといけないでしょ?」
ボクに注意してくれたのは向井先生。
「あ、はい。 気をつけます……」
ボクはいつもの寝起きの悪さは"なり"を潜め、今の状況の確認をするためあたりを見回し、そして自分の状態のことも思い出す。 とたん気分は重く沈んだものになっていく。
イスに座ってたはずだけど、いつの間にかベッドに寝かされてて、髪もほどいてキレイに横に流してくれてて乱れの心配、全然なかった。 これも向井先生がしてくれたんだよね……。
はぁ、今日のボク、いったいどれだけの人に迷惑かけちゃったんだろ?
「柚月さん、そんな寂しそうな顔しないで。 ほらこれ見て? おいしそうよ。 ベッドから出て食べなさいな」
先生の指し示す先にはワゴンがあって、その上には深めのお皿に入ったスープ? それに果物と飲み物が用意されてた。
ワゴンの脇には静流さんが立ってて、運んできた食事をテーブルに移すと、「お大事にね」とやさしく声をかけてくれつつも、部屋から出ていった。
ただよってくる甘い匂いは、このスープから……確かにお腹……すいてる、な。
でも……。 食事までわざわざ別に準備させてしまった……。
ボクはベッドから起き上がり、先生に言われるがまま、壁際の2人がけのテーブルに座る。 ふと、血だらけだったTシャツ、それにブラもキレイなものに変わってることに気づいた。
「あら、気が付いた? ゴメンなさいね。 悪いとは思ったんだけど、あのままでいるわけにもいかないし……柚月さんの荷物から勝手に出して、着替えさせてもらっちゃった」
先生はそう言ってボクに説明しながら、手を顔の前で合わせつつ謝ってくれる。
「いえ……。 そんな、ボクのほうこそごめんなさい……。 なんか、いっぱい……迷惑かけちゃって。 ……ごめんなさい」
ボクは沈んだ声でそう答える。
今までのボクだったら、そんなことされてたら恥ずかしがって一言二言なんか言ってたかも知んない……。
だけど今は。
今は自分のふがいなさ、何をしても迷惑かけてしまう情けなさに何も言うことも出来ない……。
先生はそんなボクの異変に気づいたのか、ボクの背中に手を添えながら、
「ほら、早く食べちゃいなさい? せっかくの温かいスープ冷めちゃうよ」
そう言って早々に話しを変えて、もう一度食事を勧めてくれた。
ボクはうなずいて……スープを飲む。
パンプキンスープだった。 温かい、そして甘く濃厚な味のそれは、冷たい、疲れたカラダにほんと染みわたった。 また涙が出そうになってくる。
だめだ。 今日のボク、もう気持ちが折れてて、何に対抗する気力も全然なくなっちゃってる。
もうボロボロ……。
それでもボクはなんとかスープを飲みほし、出されてた果物(桃を切り揃えて出してくれてた)も食べた。 桃の甘さが、なぜだか余計に涙を誘ってくる。
ボクはもうこぼれる涙を抑えることが出来ないでいた。
そんな時。
『コンコン』
扉をノックする音。
それに対応しにドアへと向う先生。
ドアが開き、そこから聞こえてくる会話の声。
聞き覚えのあるその声。
たった1日とちょっと聞いてないだけの、いつも聞きなれた……
大好きな声。
そして入ってきた人影はボクの前に立つ。
そこにいたのはまぎれもない……
ボクの大好きな。
そして今は……、合わす顔なんて全然ない……お母さんの姿だった。
亀展開ですみません……。