4 プレゼント(2)
次の日、7時5分前に憂鬱な気分で目を醒ます。頭の中は佳純の事しか無い。とても会社に行く気分になれない。ムサシ達には今日は会えないと連絡を入れて、四角い窓の形に差し込む朝日の中で、ぼんやりと椅子に座る。部屋の中の何かを見ているが、実際には何も見ていない。
あの時、佳純はこんな事言って笑ったっけ。あの時、ああ言えば良かった、何故こう言わなかったんだろうと思い返す事ばかりだ。あの時もそうだ…
「くそ!」
研究所のエレベーターの中、佳純と2人で5階から乗り込み、地下1階へと降りる途中で、隼人は呟く様に吐き捨てる。
それは、佳純と隼人の共同研究を更に進めたいと、所長達に予算確保のお願いをしに行った帰り道だ。隼人の必死の説得にも関わらず、予算申請も、研究を次の段階に進める事も、却下されていた。
「『人体実験は禁忌だ』って言われちゃったじゃない。あれ言われちゃったら、もう降参するしかない。」
隼人と並んで立つ佳純は、エレベーターの階表示を見上げながら苦笑いを浮かべる。
「人間で実験するなんて、一言も言っていないじゃないか。ラットや猿の実験が先だ。」
「でも、いずれは人間で実証したいと思ってる。」
脇から佳純が突っ込む。
「いや…、それは、そうだけど…、そう思っていたって、実際にやるとは限らない。」
「そうね。」
佳純は冷静に頷く。何故か少し嬉しそうだ。
「俺だって、人体実験ができないのは分かっているさ。だけど、まず、ラットや猿だ。それなら問題ないだろ。」
佳純は小首を傾げる。
「問題ないって言い切るのはちょっと無理かな。動物虐待だって、自然保護団体が嗅ぎ付けたら騒ぐでしょ。」
「でも、可能だ。」
「でも、本当に同じ性格、知識、思考パターンになったかの判断は、動物では難しい。何しろ、言葉が|
喋れないから。」
「動物でも、行動や嗜好の傾向で見分けがつくだろ。」
「経験や行動パターンの移植は示唆できても、性格が同じかは分からない。動物じゃ限界があるわ。」
隼人は不満そうな顔で鼻から勢いよく息を吐く。
地下1階到着を知らせるベルの音と共に、エレベーターのドアが開く。隼人は大股でエレベーターを降り、122号室に向かう。佳純は早足になりながら、それに負けじと付いて来る。
「大体、その前にニューロンとシナプスを自由に操作できる技術確立が必要だ。今回はそのための予算だって説明したのに、何で人体実験を理由に拒否されるんだ!」
通路の両側に並ぶ部屋に丸聞こえなのも気にせずに、隼人は大声になる。
「それは、そう…。」
佳純も不満気に口をへの字に結ぶ。
「脳内の必要な場所に必要なだけのニューロンを追加するのに、箱崎が研究している未分化幹細胞の技術が応用できるじゃないか!」
「さっき、所長の前でもそう説明してたわよね。それ、本当にできるの?」
「脳細胞も上皮細胞から分化したものだ。」隼人の声のトーンが弱くなる。「可能性はあるさ。」
「成る程。」佳純は揶揄う様な笑顔になる。「急にあんな事言い出すから、びっくりしちゃった。」
「すまん、先に言っておくべきだったな。」
2人は、そのまま隼人の執務室である122号室に入り込み、左側に置かれた応接セットに身を投げ出す。
「良いけど。何であんな事言い出したの。」
「そりゃ…、研究所内で行なわれている他の研究が使えるとなれば、承認され易いだろ?」
佳純はクスクス笑う。
「ほんとそれだけ?この間、箱崎君から、なかなか良い成果が出なくて、予算を絞られそうだぁって泣き言聞かされてたじゃない。」
「佳純、聞いてたのか…。」
隼人は少しバツが悪そうだ。
「でも、残念。隼人の思惑通りには進まなかった。」
面白がっている様な表情の佳純が、隼人には何だか気に入らない。
「なんだよ、俺の空回りっぷりが楽しいか?」
「ううん。」佳純は首を横に振る。「でも、確証もなしにやって、上手くいかなかったらどうするつもりだったの?箱崎君は自分の研究の可能性が広がって、最初は嬉しがるかも知れないけど、上手くいかなかった時の責任は、隼人が背負う事になるのよ。」
「分かった、分かった。軽率だったよ。」
つい投げ遣りな返事になる。
「それで、どうする?この研究、凍結する?」
「馬鹿言うな。こんな所で諦められるか。」
佳純が満面の笑みを零す。
「そうだよね。」
「絶対、どんな格好でも良いから、日の目を見る研究にするぞ。」
「野付崎博士、付いて行きます。」
「馬鹿、付いて来るんじゃなくて、佳純が先頭に立つんだよ。」
隼人は怖い顔をして見せた。
あの時、佳純と研究を続けたい気持ちもあったが、それだけじゃない。折角、あそこまでやった研究だ。佳純の名前を世の中に知らしめたかったからだ。結局、その事は佳純に伝え損ねたままだ。
思い出は甘く切なく、頭の中を巡る。いくらでも記憶の海の中に浸っていられそうだ。
佳純との時間を取り戻すためにも、このままじゃいけないと無理矢理自分の気持ちを立て直せたのは、午後になってからだった。
佳純が実在した。ならば、佳純への俺の気持ちも真実だ。はっきり言って、あの動画が佳純から俺に宛ててのメッセージだったとしても、言いたい事がまるで分らない。分からない事だらけだけれど、そんな事は直接佳純に会って理由を訊けば解決できる。だから今やる事は、どうやったら佳純に会えるかを探る事だ。第一、佳純に会いたくて、会いたくて、気が狂いそうだ。
何か手掛かりが少しでもないかと、もう1度佳純の動画を再生する。新しい気付きはない。メモリカードの中身は、何度チェックしてもこの動画だけだ。メモリカードが入っていた封筒の中も、底まで覗いてみたが、埃すら無い。また動画を再生してみる。理解できるものは無い。唯一、伝わってくるのは、佳純が望んでこの場所に隼人を残したと言う事。それは、偶然や何か他からの圧力ではなく、彼女の愛の証だと言う。
あの研究所の廃墟に俺がいつか行き着き、昔の記憶を取り戻すだろうと佳純は予想していたのか?佳純の使っていた執務室だけは入れる様に鍵が開いていて、他の部屋の鍵はみんな閉まっていると言うのは、確実に俺が佳純の執務室に入り、このメッセージに行き着く様に仕向けるための仕掛けだろう。理由は分からない。わざわざ、俺の記憶を消し、1人にしておきながら、記憶を取り戻したら、メッセージを見付けられる様にする理由なんか分からないけど、この仕掛けもきっと佳純の仕業だ。それなら、あの研究所は、俺を導くために本物に似せて作った偽物なんじゃないか?もしそうなら、これ以上探しても無駄だ。
『この世界はあなたのために用意されたもの』、佳純は動画の中でそう言った。『この世界』ってどこを指すんだ?この街か?それとも、俺は現実世界からワープとかして、異世界に飛ばされたと言うのか?いやいや、想像が飛躍し過ぎだ。異世界ものの読み過ぎだ。たとえ、本当に異世界が存在したとしても、俺を異世界に飛ばすなんて、色んな意味で佳純にそんなパワーがあるとは思えない。画面の向こうの彼女は、年老いていた様だけど、その詮索は後回しだ。大体、考えた所で碌な考えが浮かばない。兎に角、行動を起こすぞ。きっとどこかに、現実世界に、佳純の元に戻るヒントがある。そう、きっと見付けられる。
何回目かの動画再生を終えて、隼人は窓際に立つ。すっかり夜になっている。いつもなら、食事仲間との夕食を終えて、帰宅して来る頃だ。こうやって思い返してみれば、自分が毎日やっていたのは、朝起きて会社に行き、昼食を食事仲間と摂って、帰って来たら、フィットネスクラブで汗を流して、夕食を食べて自宅に戻るだけ。このマンションの近所がどうなっているのかすら知らない。
まず、知る事だ。俺は、もっと知らなければいけない。
あたふたと鏡の前に行き、身だしなみを確認する。適当で良い。どうせ暗いし、誰にも出会わないに決まっている。いつもの癖でテーブルの上の携帯情報端末を拾い上げる。携帯端末は信用できない。これを持っていると、自分の行動を逐一誰かに監視されている様な気がする。電源を切っていたとしても、何だか安心しきれない。携帯端末をテーブルの上にぞんざいに投げ出して、勢いよく鼻から息を吐き出すと、隼人は夜の街に飛び出した。
佳純の居る元の場所に戻るためのヒントを探すと言っても、一体どこを探して良いのか、家を飛び出したは良いが見当もつかない。毎日同じ道を通って、深く考えもせずに会社のオフィスと自宅を往復していただけの隼人には、心当たりは何も無い。気持ちばかり逸って飛び出して来たが、あても無く街灯が灯る夜の街中を歩き回るばかりだ。
静かだ。聞こえるのは、自分の足音だけ。車が通る訳でなく、喚声を上げる酔っ払いも居ないし、生活感のある明かりが灯る家も無い。街路を適当に歩き回っている内に、地下鉄駅の入り口にぶち当たる。
「案外、このまま地下鉄に乗って行ったら、普通の街があるのかもな。」
地下鉄と書かれた表示板を見上げる隼人の口から思わず独り言が漏れる。
大体地下鉄だって、知っているのは、通勤で往復するこの駅と2駅先のオフィス近くの駅の間だけだ。それ以外の場所に行った事が無い。隼人は地下へと階段を降り、駅の改札を目指す。
地下鉄の改札口の横、大きな掲示板に路線図が表示されている。Uの字が横になった様な線に丸が幾つも串刺しにされた図柄。その丸が駅を表すのは隼人でも理解できる。駅は全部合わせても10個程度しか無い。それ以外の路線は無く、どこの鉄道とも連絡していない単独の地下鉄線の様だ。
「これだけか…」
こんな事まで、今初めて知る。一体俺は今まで何をしていたのだろう。
東京の複雑な地下鉄路線図と比べようも無い。これでは、地下鉄の線路の先が普通の街に繋がっていると言う淡い期待は望み薄になったが、それでも、この線路の向こうに新しい発見があると信じたい。
表示板の丸い駅の表示に赤く塗り潰された箇所が1つ。隼人が今いる駅を示しているのだろう。いつも通勤に使っている方角と逆に3駅も行けば終点だ。まずはそこまで行ってみると決める。ホームに降りて、時刻表を探したが見当たらない。時刻表を探してホームをうろうろしている内に、会社方面に向かう電車が入って来る。いつもの通り、誰も乗っていない。運転手も車掌も居ない無人運転だ。一体いつまで待てば、反対方向の電車が来るのか人に尋ねたくても、人の姿もない。まさかこんな早い時間に終電が出た後と言う事は無いと思うが、何十分も待たされるのでは堪らない。会社方面への電車が行ってしまった後も、時刻表が無いか探している内に、行きたい方向の電車がやって来る。まあ良いかと、時刻表を探すのを諦めて電車に乗り込む。やっぱり、この電車の中にも人の気配は無い。以前の隼人なら気にしなかっただろう。だが、今の隼人にはそれが異様に思える。『この世界は、あなたのために用意されたもの。』佳純の言葉が頭を掠める。
10分くらいで、もう終点だ。自動ドアが全開になったまま、電車の動きが止まる。車内アナウンスは無い。隼人は周囲を見回しながら、ホームに降り立つ。乗降客は当然と言うか、予想通りと言うか、自分しかいない。出口の表示に向かって歩き、地上への階段に行き当たる。階段を上り切って、地上に出た隼人の目の前には、自分の住んでいる街とさして変わらない風景が広がる。整備された車道と歩道。だけど車も人も通らない。等間隔に並んだ街灯が、虚しく何もない路面を照らしている。道路の左右に立ち並ぶマンションと思しき建物に生気が感じられないのも、見慣れた景色だ。各階の通路の照明と非常口表示の緑色だけが光っている。どこの部屋にも明かり1つ点いていない。
隼人は背後に圧迫感を感じて振り返る。そこには真っ黒い闇が立ちはだかっている。
何だ?これは…。
見上げる程の高さまで一面真っ黒だ。周囲のマンションよりも高くそびえている。とは言え、高層ビルよりは低い。20階建てのビルくらいの高さだろうか、それより上には、星空が輝いている。真っ黒な『面』は左右にどこまでも続いている。それが万里の長城の様な長く連なる壁だと理解するまで、暫く時間が必要だった。それが壁だと分かっても、見る者を圧倒する巨大さと異様さに、足がすくむ程の恐怖を感じる。よく見れば、壁の上端から上には、透明なシールドが天に向かって続いている様だ。
もしかして、この壁の向こうに、俺の知っている元の世界があるんじゃないか?
この壁の目的は、どう考えたって、壁の向こう側とこっち側を仕切るために設けられている。呼び覚まされた記憶に残る、雑多で喧騒に満ちた世界から、今の俺は隔絶されている。そして、佳純は動画の中で、ここは俺のために用意したと言った。だとしたら、意識が無い俺を、壁で囲まれた世界に閉じ込めたと考えれば辻褄は合う。
隼人は考えている内に、壁の向こうを無性に覗いてみたくなる。壁は巨大で真っ黒な闇だ。不気味でとても近付く気になれない。そんな事をするよりも、あの壁の高さよりも高い建物に上れば、向こう側が覗けそうだ。
壁に背を向けて、高い場所を探す。離れているが、高層ビルの頭が1つ、マンション群の向こう、夜空を背景に突き出ている。あの最上階に上れば、壁の向こう側が見えるに違いない。隼人は迷わず高層ビルに向かって歩き出す。
どうせ誰もいない。夜じゃ、清掃ロボットにも出会わない。きっとここは、あの壁によって囲まれた閉じた世界に違いない。焦ってもしょうがない。直ぐに何か解決できる訳じゃない。
そう自分に言い聞かせながら歩くが、知らず知らずの内に足が速くなる。
目当ての高層ビルの下に辿り着いたのは20分後だった。幸いセキュリティ設備は無く、すんなりとビルの中に入り込める。エントランスは、人気がないのに照明が点いていて隅々まで明るい。フロアに埃1つ無い。きっと、清掃ロボットが定期的に巡回しているのだろう。広いエントランスの正面に数台のエレベーターが並んでいる。上向き矢印のボタンを押せば、エレベーターのドアが開く。エレベーターが稼働していて良かった。階段で最上階まで上がるとなったら、諦めていたところだ。それにしても、誰かこのエレベーターを使った人が居るのだろうか。きっとろくに使う人も居ないエレベーターだ、ちゃんとメンテナンスされているか怪しいものだ。不安を感じながら慎重に乗り込む。少しでも変な音がしたら、飛び降りるつもりで最後までドアは閉めずにおく。一番大きな数字のボタンを押す。エレベーターは、機械音を響かせてスムーズに動き出す。途中で止まってしまわないか、内心ひやひやしながら、増えていく到着階の表示を見上げる。最上階の数字が表示され、緩やかに減速し始める。最後だけガクンと大きな振動と共に止まる。心臓が飛び出してしまいそうなくらい驚く。こんな所で閉じ込められたら、助け出してくれる可能性なんか無いに等しい。一瞬後、滑る様に扉が開き、目の前に壁の無い最上階の光景が広がる。柱だけで仕切りの無い広々としたワンフロアだ。暖色光のLED灯が強過ぎない程度にフロア全体を照らしている。それでも、周囲4面に設けられた大きな窓には、室内が鏡の様に映って、外の様子は見えない。
隼人は、さっきの巨大な壁があったと思われる方角の窓に歩み寄り、両手をゴーグルの様にして目の周りを囲み、室内の明かりを遮って外の様子を窺う。
真っ暗だ。
高層ビルの足元に広がる街並みには、道の両側に街灯が並んでいる。けれど壁も、その向こうの景色も漆黒の中に沈んで、隼人の目には何も見付けられない。
溜息をついて、ガラス窓から離れる。
何か知らない新しい発見が、今、目の前にある。薄気味悪い、胸騒ぎをかき立てられる何かだ。だが昼間に来ないと駄目だ。こう真っ暗じゃ、どうなっているのかさっぱり分からない。今日は一旦引き上げて、明日、もう1度この場所に来てみよう。
エレベーターで地上階に降り、地下鉄の駅まで戻ろうとしたが、行きは高層ビルの位置ばかり気にして歩いたから、どこをどう歩いて来たのか周囲の景色すら覚えていない。その上、携帯情報端末は家に置いて来てしまった。結局、駅に辿り着くまで4度も道を間違えた。




