3 猜疑と混乱(2)
昼食後の別れ際に、3人には今夜も夕食会を欠席する旨を知らせた。こんな気分のまま彼らに会っても良い事は無い。気持ちがささくれるだけだ。あいつ等は、食事の時に顔を合わせるだけで、それ以上私生活には干渉しないじゃないか。今日の話だって、俺を心配して言ってくれているだけだ。きっとそうだ。だけど、今の俺は何でも疑わしく思えてしまう。暫く顔を合わさない方が良い。そのまま放っておいてくれるなら、彼等を疑う気持ちも治まってくるだろう。
それよりも川崎だ。あいつは仕事の間ずっと傍に居る。ムサシ達みたいに話し掛けてくる訳じゃないが、黙っているのが却って不気味だ。あいつが何か隠していないか、はっきりさせたい。
「俺、今日残業するから、先に上がってくれ。」
定時間際になって、隼人は川崎に告げる。
「そうか。何か手伝う必要があるか?」
川崎は冷静に、キーを叩きながら返事をする。
「いや、特にない。大丈夫だ。」
素っ気なく返事をする。
「分かった。」
話はそれで終わる。その後、川崎の様子を気にして盗み見ていたが、いつもの様にモニターに向かって黙々とキーボードを叩き続けている。
「それじゃ、お先に。」
定時を少し過ぎた頃、川崎は足元に置いてある黒いビジネスバックを取り上げて、そのままドアから出て行く。
「ああ、お疲れ様。」
隼人は、川崎の姿を目で追い、ドアから消えても暫く外の物音に聞き耳を立てる。エレベーターのドアが開閉する音が聞こえたら、今度は窓際に行って外を見る。川崎の姿がビルから出て来て、街路を地下鉄駅の方に向かい、見えなくなるまで見送る。彼は1度も振り返らずに消えた。
俺が残業すると告げてから川崎が部屋を出て行くまで、彼の動きに注目していたが何も怪しい動きは無かった。何かを鞄にしまう動きすらせずに、そのまま足元の鞄を持ち上げて出て行った。却って気になる。あいつの鞄の中には一体何が入っているんだ?それは今捜索できないから、彼の机の中を捜査ターゲットにする。
机の抽斗の中におかしな物は無い。と言うよりも、ろくに物が入っていない。
一体、どうやって仕事をしているんだ?
机の周囲を、椅子の裏から机の死角になっている床の上まで、這いつくばって探してみたが埃があるだけだ。こうなれば、徹底的にとばかり、使われていない机や、部屋の隅にある模造の観葉植物の鉢まで確認したが、怪しい物は何1つ出てこない。隼人は、何だか必死なって探している自分が馬鹿らしく思えてきてやめた。
全てを元に戻すと、照明だけ消して鍵を掛けずにオフィスの外に出る。いつもなら、ムサシ達と夕食を囲んでいる時間だ。駅から地下鉄に乗り、家路に就く。
俺は、何か見当違いの方向に動いていたのかも知れない。身近にいる人が怪しい組織の手先なんて、妄想も良いところだ。だが、ただの妄想で片付けられない部分がある。俺は、本当は、あの|枡渕《ますぶち》生体化学総合研究所の神経生理学の研究員だった筈だ。あそこには、いろんな分野の研究員が居た。共同研究者で恋人の小笠原佳純もその1人だ。それが誰も居なくなり、研究所は廃墟になり、そして、俺はまるで違う仕事で日々を送っている。これが意味するのは何だ?俺が拉致されて洗脳されたんじゃない。佳純達、他の研究員が姿を消して、俺だけがここに別人の形で取り残されているんだ。ならば、その原因を探さなければ。
隼人は、三度地下通路のドアの前に立つ。今回は秘密を探るための侵入だ。何故、研究所が隠されていて、かつ、廃墟になっているのか。研究員達はどこに行ったのか。その手掛かりを探るためだ。
最早、侵入で躊躇ったりしない。一旦家に帰り、携帯情報端末は電源を入れたまま、部屋に置いて来た。これで、万一、携帯端末の位置情報が漏れていても、監視しているどこかの怪しい連中は、俺が家でくつろいでいると思ってくれるだろう。
意を決してドアを開け、ズカズカと通路に入り込む。勢い良く研究所のドアも開けて、黴臭い空気を切り裂いて前進する。
この前までは佳純の執務室、118号室にしか行っていない。ここが俺の知っている研究所なら、俺が使っていた執務室だってある筈だ。
118号室の前を通り過ぎ、まだ足跡が付いていない埃の上に足跡を残しながら、通路を奥へ進む。
122号室
ここが俺の使っていた部屋。この中にきっと、自分の過去を証明する物がある。そしてもしかしたら、現在に繋がる手掛かりが眠っているかも知れない。
隼人はドアノブのハンドルに手を掛ける。僅かに動いただけで、ガチャリと金属がぶつかる感触を残して止まる。押しても引いても、びくともしない。
鍵がかかっている。鍵?そんな物、どこにあるんだ?
周囲の通路の上を見回す。埃に埋もれたその下の床面に目を凝らしたところで、そんな所に鍵が落ちている訳も無い。記憶を辿っても、自分が鍵をどこに置いていたか思い出せない。と言うか、そもそも部屋に鍵なんか掛けていなかった筈だ。そんな事考えていてもしょうがない。これは堅牢な造りの錠前だ。多少叩こうが、蹴ろうが壊れてくれない。
試みに、別の執務室のドアを押し引きしてみる。どれも開かない。小笠原佳純の執務室のドアに鍵がかかっていない方がイレギュラーって事だ。
仕方ない、次は実験室だ。
俺の知っている枡渕生体化学総合研究所は、地上5階、地下2階の堂々たる研究所だった。1階は、玄関と受付、外部関係者との打ち合わせに使う会議室やブースがあった。研究者個人持ちの執務室は、1階を挟んで、2階と地下1階にあり、夫々の階の研究員が使う実験室は3階と地下2階に配置されていた。生体化学に関する研究を幅広く扱い、夫々の分野のスペシャリストを集結させているのが、この研究所の売りだった。注目を集める分野ー例えば、再生医療に繋がる未分化幹細胞の研究に携わる研究員は、日の当たる地上階の執務室と実験室が与えられる。一方で、最先端でもモノになるか分からない研究や、世間に知られたくない研究は地下に配されていた。きっと俺の研究は、研究所の所長達には、怪しい研究に見えていたのだろう。最上階の5階は、所長室と大きな食堂が配置されていた。何か手掛かりが残っているとしたら、地下か、地上2、3階の何処かだろう。今日だけじゃ全部探し切れないが、諦めずに何度も探してみる価値はある筈だ。
俺と小笠原が使っていた実験室は1階下、地下2階の203実験室。俺達は、個人の脳内のニューロンとシナプスの配置を全てデータ化する研究を共同で進めていた。実験室へは目を瞑っていても辿り着けるくらい、どう行けば良いかは理解している。
通路を更に奥に進み、階段を駆け下りる。建物のレイアウトは記憶にある通りだ。隼人は苦も無く実験室前に立つ。
203実験室
試しにドアの取っ手を持って動かそうとしてみるがピクリともしない。このドアは電子錠だ。研究員証カードをかざし、暗証番号をキー入力しないと開かない。セキュリティが死んでいるか、異常になっていれば、自動的に解錠されて取っ手を手で動かせば開けられるが、ビクともしないと言う事は、セキュリティが生きていると言う事だ。
そうだ、ここは研究員証が必要だった。
実験室のドアの前まで来て、やっと研究員証が必要だった事を思い出す。自分が持っていた研究員証が今どうなったのか、まるで見当がつかない。
手詰まりだ、しょうがない。自分の元使っていた122号室に研究員証が残っているとしても、どうにもならない。ここもダメ元で周囲に並んでいる実験室のドアが開かないか試してみるが、どれもビクともしない。
研究所の中を捜索すれば、何か手掛かりが掴めるだろうと安易に考えていたが、これじゃ、手も足も出ない。途方に暮れかけた時、頭に考えが浮かぶ。
佳純の研究員証は?
当然、小笠原佳純も研究員証を持っていた。研究所から支給された専用のパスケースに入れて、いつも首から下げていたのを覚えている。幸い、佳純の執務室は鍵がかかっていなかった。もしかすると、佳純の執務室に彼女の研究員証が残っているかも知れない。彼女の研究員証が手に入っても、実験室のドアを開けるには、彼女が設定している暗証番号が必要だ。実験室に入る暗証番号は、夫々の研究員証と紐づいているから、彼女の研究員証を使うなら、彼女の研究員証と対を成す暗証番号を入力しなければ、実験室は開けられない。隼人の知っている研究所は、研究所の建物自体のセキュリティが厳重だった。研究員以外の部外者の侵入がほぼ不可能な研究所内部の実験室への入室セキュリティなど、形だけと捉えていた研究員達は、気楽な気持ちで暗証番号を設定していた。
彼女が設定しそうな暗証番号ならば、予想がつく。
今度は、小笠原佳純の執務室、118号室に取って返す。部屋に入って、埃が積もったデスクの抽斗を片っ端から開けてみる。佳純が居なくなる前に整理したのか、抽斗の中には、殆ど物が残っていない。筆記用具やメモ帳、空のバインダー…。袖机の一番下の抽斗を開けた時、空の抽斗の底に、封筒が1つ置かれているのを見付ける。
『野付崎隼人へ』と表面に書かれてある。手を伸ばし、それを取り上げる。中には何やら長方形の硬い塊が入っているが、封筒の口は丁寧に封印されていて、封筒を破らなければ中身が取り出せない。その封筒の表裏をしげしげと見つめ、手で弄びながら考える。考えたところで何か思いつく筈もない。封筒の中身の詮索は後回しにして、研究員証が残っていないかの捜索を優先すべきだ。やおらズボンのポケットに封筒を捻じ込むと、部屋の一方の隅にあるキャビネットの捜索に取り掛かる。どの抽斗も、カラカラと何の手ごたえもなく開く。全然中身が入っていない。研究員証じゃなくても、何か手掛かりになりそうな物が無いかと、大型モニターの電源を入れてみる。電源を入れてしまってから、元々は何か繋がっていただろう信号ケーブルがどこにも繋がっていないのに気付く。電源が入っても、真っ黒な画面に『NO SIGNAL』の文字が出るだけだ。少しでも見落としてはいけないと机の下、応接セットの下まで覗いてみる。本棚の本を1冊ずつ取り出してみる。
結局、見付けたのは、封筒1つ。だが、それは、この部屋に隼人が来ると予想した、恐らく佳純からのメッセージだ。もうそれ以外に価値のある物は無いと理解すると、隼人は急いで研究所を後にした。




