3 猜疑と混乱(1)
7時5分前に起きて、出社の支度をする。いつもの様にパンを齧りながら、頭の中では、考え込んでいる。
俺は今、システムエンジニアをしている。だけど、記憶は自分が神経生理学の研究員だと告げている。このギャップがどうして生じたのか。何故、神経生理学者としての記憶を消してシステムエンジニアに仕立て上げられなければならなかったのか。そこには、目に見えない黒幕が介在しているんじゃないか?と言うのも、記憶が確かなら、俺は画期的な研究をしていたからだ。
人間の脳内の神経細胞であるニューロンがどのように配置されていて、夫々のニューロンの樹状突起がどのようにシナプスで繋がっているかのパターンには、人それぞれの特徴があり、それが人格や記憶、行動パターンまでも決定していると言う仮説に、長い研究の末に辿り着いた。そして、人間の脳内にあるニューロンの配置パターンを読み取って、目に見えるデータにする研究に取り組んでいた。この仮説が正しければ、脳内のニューロンの位置や樹状突起とシナプスによる結びつきを全く同じにできれば、同じ人格、記憶、行動パターンの人間を作り出せる筈だ。残念ながら検証実験は、人体実験になってしまう事が障害となり、その前段階の、ニューロンやシナプスを自由に組み替える方法の研究にすら着手できなかった。
だけどきっと、その情報を知った悪の組織が、俺を拉致して研究を継続させ、完璧な影武者を作るとか、暗殺者を量産するとかしたんじゃないか?そして、目的を達成した後で、邪魔になった俺の記憶を操作して、今の様な生活に押し込めたって事はないだろうか。
牛乳を飲み干して、大きく息を吐く。
それは流石に想像し過ぎ、夢物語か。でも、研究所の廃墟は、あんな隠される様な形で存在していた。って事は、何か理由がある筈だ。何だか目に見えない大きな力が存在しているんじゃないか?確証は無くとも、用心はするべきだ。
隼人は勢いよく立ち上がり、食器を流しで洗う。いつも通り朝のルーチンをこなして家を出る。地下鉄駅までの道で清掃ロボットとすれ違う。隼人は横目でそれとなくロボットを観察する。
こいつ、いつもここで掃除していないか?
急にいつもと行動を変えてみる気持ちになる。途中で露地に入り込み、全く知らない道を適当に歩く。目に付いた交差点を滅茶苦茶に曲がり、自然と早足になる。歩きながら後ろを振り返り、誰かつけて来ていないか確認する。見掛けるのは清掃ロボットばかりだ。
清掃ロボット?何でこんなに清掃ロボットが必要なんだ?どこもそんなに汚れてないじゃないか。
今度は、清掃ロボットを避けて歩く。物陰から道の先を見通して、清掃ロボットの姿があれば別の道に曲がる。そうやって歩いている内に迷子になった。仕方なく、携帯情報端末で地下鉄駅までのルートを探る。
あれ?もしかして、これも怪しいな。携帯端末に位置情報が出るって事は、これをハッキングすれば、俺が今どこに居るのか丸わかりじゃないか。
慌てて電源を切ろうとしていた手を、操作する直前で止める。
いやいや、ちょっと待て。今、位置情報が出なくなれば、相手は別の方法で状況を把握しようとするだろう。今は会社に行くつもりだから、隠す必要も無い。むしろ、このまま相手を安心させておいた方が良くないか?何か密かに動きたくなった時こそ、携帯端末の扱いに注意しよう。
〈今日の昼飯は?〉
携帯端末を取り出したついでにグループチャットを開けば、いつもの様にカズのメッセージで始まっている。
〈和食か、洋食か〉
ノリオの返信は、答えになっていない。反応しただけだ。
〈今日は、僕に決めさせてもらっても良いかな?〉
カズから追っかけでメッセージが入っている。
〈なんだ、珍しいな。〉
ムサシも反応している。
〈たまにはジャンクフードにしようよ〉
〈具体的には?〉
〈ハンバーガーとか〉
〈そんなので腹がいっぱいになるのか?〉
ムサシの体格だと物足りないだろう。
〈沢山食べれば平気でしょ〉
今日のカズに折れる気はないらしい。
〈まあ、ハンバーガーも良いじゃないか〉
隼人がコメントを打つ。
〈ムサシ、今日はカズに合わせろ〉
ノリオにまで言われては、ムサシの味方が居ない。
〈それじゃ、明日は俺が決める〉
〈良いぞ〉
隼人はムサシの気持ちを汲んでやる。
なんだか、こいつ等とチャットしていると、ささくれていた気持ちが癒される。
隼人は、いつもより30分以上遅い地下鉄に乗って、仕事場へ向かった。
川崎はまるで反応しない。隼人がいつもより30分以上遅刻して来たと言うのに、自分の仕事に集中して隼人の姿を見ようともしない。隼人も何も言わず、いつもの様に自分の席に座り、パソコンのスイッチを入れる。
モニター類の隙間から川崎の様子を窺う。人生に何も面白味を感じるものが無い様な顔で、モニター画面を見つめている。画面の光が彼の眼鏡に反射する。まるで川崎の体とは別の生き物の様にキーボード上でのたうつ両手を見れば、左手の薬指に金色の指輪が光っている。妻帯者か。年齢的には不思議じゃないが、川崎という人間を知ってしまっていると不思議だ。
こいつ、いつも先に会社に居て、晩は晩で、俺が帰る前に帰った事が無い。昼休みだって、俺はいつも仲間と食事をしに外に出てしまうから、川崎と2人で何か食べに行った事も無い。昼休みから戻って来てみれば、決まってもう仕事を始めている。昼飯はどうしているんだ?いや、昼飯だけじゃない。こいつが奥さんと一緒にいる姿なんかまるで想像できない。そもそも、こいつは、どんな生活をしているんだ?
疑問に思い始めると周りのもの全てが怪しく思えてくる。
大体この会社、なんで従業員が2人だけなんだ?上司は?社長は?つまりは、この会社自体が虚構なんじゃないか?だとしたら、川崎は、俺を監視するための要員って事にならないか?調べてみるか。どうやるか…。
隼人は、遅れて出社したのに慌てもしないで、自分の仕事には手も付けずに考え続けた。
昼はハンバーガーショップに向かう。C-1地区の模造大理石のビルの角を曲がった向こうにハンバーガーのチェーン店がある。ムサシ達はその店の前の歩道で、隼人が来るのを待っていた。
こいつ等、いつも先に来て待っているが、そんなに暇なのか?たまには用事があって1人くらい遅れたりするもんじゃないのか?俺1人抜けただけで昼食会を開かないし、出席するとなったら、俺が来るのをみんなで待っている。これじゃ、俺のための会みたいじゃないか。
昨日は、チャットに隼人が返信しなくても誰も心配しないとへそを曲げたくせに、すっかりその事は棚に上げている。
「すまない、待たせた。」
隼人の言葉に、3人とも気にしていないという雰囲気を醸し出しながらも、誰も言葉にはしない。黙って店の中に入る。
「何で今日は、昼飯に拘ったんだ?」
並んで店に入りながら、隼人はカズに声を掛ける。今日の彼は、ライトグリーンのパーカーだ。胸にどこかのスポーツチームのロゴが入っている。例え誰かに似合うと言われたとしても、隼人にはとても着る勇気が出ない服だ。
「たまには良いでしょ?」
カズは隼人に笑顔を見せる。
確かに、たまには良いかも知れないが、それでは答えになってない。誤魔化されている様にしか思えない。
「カズが昼飯何にするかで、先に注文を付けるなんて、した事ないじゃないか。」
大した問題じゃない。それは、分かっていても、何だか、はぐらかされたままなのは納得できない。ついつい隼人の語気が強まる。
「え~、そうかなぁ。」隼人の様子に気付いているのか、いないのか、カズは呑気な調子で喋る。「前にもあったんじゃない?時々、何だか無性に食べたくなる時があるんだよ。」
カズと隼人が話に集中して足が止まっている間に、ムサシとノリオは注文カウンター前まで行き、隼人とカズを待っている。
「ムサシ達が待っているよ。…ほら、早く行こ。」
カズは隼人を促して、注文カウンターへと進む。上手い具合に話題をはぐらかされた様に思えて、気持ちがモヤモヤする。
些細な事まで俺には隠しておこうとしているんじゃないか?そんなに俺は面倒な男か?
カウンターで注文しながら、隼人はすっかり不機嫌な顔になる。
注文したハンバーガーセットの載ったトレーを受け取る。見れば、ムサシも同じハンバーガーセットが載ったトレーを持っている。
「ムサシ、それで足りるのか?」
朝のチャットのやりとりじゃ、ハンバーガーなんかじゃ量が足りないと言っていた筈だ。
「ん?まぁ、良いんだ。ハンバーガーをいくつも注文するのも、みっともないだろ。」
ムサシは素っ気なく答えて、テーブルへと向かう。
ムサシが体裁を気にする?自分の食欲より体裁を気にする男だとは思えない。何だかしっくりこない。取り敢えず、当たり障りのない受け答えで誤魔化そうとしているんじゃないのか?
隼人は更にモヤモヤした気持ちになって、テーブル着く。
「昨日の晩はどうしたんだ?」
ハンバーガーを手に取りながら、今度はムサシから隼人に問い掛ける。
何だ、急に。昨日の昼飯の後、夜の夕食会は欠席すると伝えた時には何も訊かなかったくせに、なんで今になって訊いてくるんだ。
「何が知りたい?」
思わず、刺々しい言葉が口をつく。言ってしまってから、言い過ぎた様に思っても、もう遅い。
「いやぁ」ムサシは面食らった顔をする。「夕飯の食事会をやらなかったろ。何か用事があったのかなって、そう思っただけだよ。」
「ムサシ。」隣でカズが含み笑いをしている。「だから昨日も言っただろ。何も考えずに口にすると、相手には迷惑になるんだって。」
何だ、その人を馬鹿にした様なカズの笑い顔は。俺の扱い方を間違えると、そうなるって言いたいのか?
「い、いやぁ。」
ムサシは困った顔で短髪の頭に手をやる。
「どうした?何か気になる事でもあるのか?」
今度はノリオが話し掛けてくる。
「いや、何も無い。」隼人は冷たく言い放つ。「ノリオこそ、何か訊きたい事があるなら、そう言ってくれ。」
「おいおい。」ノリオは上体を仰け反らせる。「そんな喧嘩腰になるなよ、別に話したくないなら何も言わなくて良い。」
話したくない?何か話したくない事を俺が抱えていると思っているのか。
「ほらほら」カズは、相変らずムサシに話し掛ける。「ムサシが変な事言うから、すっかりハヤトが機嫌損ねちゃったじゃないか。」
カズの声は能天気に明るい。それが却って、隼人の気持ちを逆撫でする。
「別に何とも思っていない。この話はやめにしよう。」
隼人は早口でそう言うと、コーヒーを一口飲み込む。4人の会話は途切れた。ムサシ達が互いに目くばせし合っているのを知りながら、隼人はもうそれ以上、何も話す気になれなかった。




