その1–3
それから約1時間、男の人から隠れては見つかり、走って逃げる。その間、不思議なくらいに人影はなくて助けも呼べなかった。それを繰り返し、ふと気づけば港の倉庫裏のほうに逃げ込んでいた。
港にあるコンテナとコンテナと隙間に身を潜め、口元を手で覆って走り続けたせいで乱れた息を隠す。口元に触れた手が氷のように冷たくて、細かく震えていた。
どうしようどうしようどうしよう。
怖い怖い怖い。
何で?あの人、わたしに死んで下さい、って言った。わたし、殺されるの?何でどうして?!
「お嬢さんどこですかー?」
ビクッ、と身体が大袈裟なくらいに跳ねた。
自分の拍動が耳の中で木霊する中、さっきの男の人の声と足音が聞こえてきた。静かな港ではその音が大きく聞こえる。
お願い、こっちに来ないで…!
目を瞑って、心の底から祈る。
男の人の履いている靴がコンクリートの地面を叩く音が響く。その音が、わたしのいる区画の方向に近づいてくる。
「あれ、こっちじゃなかったみたいですね」
わたしとの追いかけっこなんて男の人にはなんて事もないらしい。乱れていない声が寂れた港に響く。
でもわたしはそれどころじゃなかった。
お願い気づかないで…!違う方に行って…!
冷たい手を強く握り合わせてこの場にいない神様、この際仏様でもなんでもいい、不確かな存在へと祈る。
「なーんて、見つけましたよ」
頭上から降ってきた声に顔を上げれば、そこに黒い死神が立っていた。
「ひっ…!」
自然と声が漏れた。港に点々とある街灯の逆光に照らされてる顔は薄暗い。でもすぐそばに立っているせいで、その表情がわたしには見えた。
白い、笑顔を貼り付けた能面。
笑顔なのに笑っていない。ただ口角が上がって、笑った形をしているだけ。
「こんな所に隠れてたんですね。身体が小さいから入れたのかな」
いや、それとも嗤っているのだろうか。獲物を、わたしを、追いかけて、捕らえる遊びを楽しんで。嗤っているのだろうか。
「い、やぁ…!」
怖くて隠れていたコンテナの隙間を奥へと進む。コンテナの端までくると、港の拓けたところへ落ちるように這い出た。
逃げ回っている間に日は落ちていて、辺りは暗く、街灯の明かりと月明かりだけが照らしている。
走って逃げなきゃ…!
頭ではわかっているのに、身体が動かない。蛇に睨まれた蛙って、きっとまさにこの状態をいうんだろう。
「漸く鬼ごっこもおしまいですか?」
まるで重力何て感じないように、ひらりとコンテナを乗り越えて、地面にへたり込むわたしの前へと降り立った。
月明かりを背に受けて、街灯の灯りに照らされて、その男の人は嗤う。
「はっ…はっ…!」
恐怖に呼吸が乱れる。身体が震える。
本当にわたし、殺されるの?死ぬの?
まだやりたい事沢山ある。来週から発売のカフェの新作も飲みたいし、コンビニの新作アイスも食べてない。友達にお土産渡してない。
やだ、死にたくない…!
「や、や…だ…」
みっともないくらい、震えた声が出た。腕が自分のものじゃないみたいに力が入らなくて、男の人から距離を取りたいのに上手く動けない。そのせいで焦りが増して、地面を蹴る足が滑って耳障りの悪い音を立てる。
「刹那、遊んでないで早く殺れ」
暗闇の中から、静かな声が聞こえた。コツコツと靴がコンクリートを叩く音を立てながら、街灯の朧げな光の中に、声の主が現れた。
白黒の男と同じように黒いスーツを着た、青味がかった黒髪の男。切れ長の鋭い瞳、スッと通った鼻筋。白黒の男と同様、滅多にお目にかかれない綺麗な男性だ。
けれど、その時のわたしは他に人が居たことに気づく余裕なんかなかった。だって、目の前にはナイフを持った知らない人が迫ってきてたんだもの!
「ハイハイ、わかってますよ群青」
男の言葉に肩を竦めると、白黒の男の人がその手に持つナイフを構えた。
「大丈夫ですよ。痛いのは一瞬ですから」
そんなの知りたくなんてない!
わたし何で殺されなきゃいけないの?
あぁ、嘘だと言って!
刺されるだろうその瞬間、わたしは目の前の現実から目を背けたくて、目をぎゅっと瞑った。けど、いつまで経っても痛みも何もなくて、恐る恐る目を開く。
そこにはナイフを構えた白黒の男の人が、目を見開いた状態のまま固まっていた。
「……可愛い」
ぽつん、とその場には似つかわしくない言葉が落ちてくる。
「……へ?」
「……は?」
わたしと、別の男の声が重なった。
それから、痛いくらいの沈黙。誰もが微動だにしない。
「おい、刹那?」
ややあって、群青と呼ばれた男が戸惑いながら声をかける。
「群青」
白黒の男の人が、群青を振り返ると、ニッコリと笑って。
「この子、私が貰っても良いですかね?」
なんて爆弾発言を投下した。