その1–2
その日、わたしは久しぶりの休みを謳歌しようと、日帰り旅行に出かけていた。
友達と日頃の鬱憤をはらそうと、滅多に食べない蟹を食べに行こう!と電車でいける範囲の港町への旅行を計画していた。けれど、残念なことに友達に用事が入ってしまい、でも蟹を諦めきれないわたしは日帰りで1人で行くことにしたのだ。
港町に着いて、念願の蟹を食べ、友達へのお土産も買って、さてもうそろそろ帰ろうか、と思った時。
「あ、猫」
路地裏に、真っ黒な黒猫がいた。
港町だからか、あちこちに猫がいたが触ろうとすると逃げられてしまったのだ。
「触らしてくれるかな?」
そっと、驚かせないようゆっくり近づくと、その場にしゃがみ込んだ。
「おいでー」
手を顎の下に差し出すと、黒猫はふんふんと手の匂いをかぎ、小さな舌で指先を舐めた。指先に柔らかな感覚と、舐められた!という小さな喜びが走る。
「可愛いっ」
欲の出たわたしは心を弾ませ頭を触ろうと手を移動させた。それがいけなかったのか、黒猫は鋭くその意図を察し、くるりと踵を返して路地へと駆けて行ってしまった。
「あっ…行っちゃった…」
残念、と口の中で小さく呟く。わたしは猫が動物の中で一番好きなのだが、アパートではペット禁止で飼えない。それ以前に、ペットを飼える金銭的時間的余裕もないのだけど…。
後引かれるように、ぼんやりと黒猫の去って行った路地裏を眺め、そろそろいい加減に帰ろう、と思った時だ。
「お嬢さん、こんばんは」
後ろから声をかけられた。振り返ると、白と黒でできた知らない男の人が立っていた。
傍目から見ても、滅多にお目にかかれないような、美人さんと呼ぶに相応しい綺麗な顔立ちの男の人だ。白い肌、切れ長の瞳、瞳を縁取る長い睫毛。背中までかかる長い黒髪は艶やかで、男の人なのにその長い髪が良く似合っていた。
服は黒いスーツで、中のワイシャツは白。付けているネクタイは黒で、まさに白と黒で構成された人だった。
「えっと、こんばんは」
とても綺麗な人だ。
でも、身なりからこの港町の人じゃない気がするし、わたしと同じ観光の人なのだろうか。心の中で小首を傾げて立ち上がる。
「突然ですが、死んでもらっても良いですか?」
「え?」
今日はいい天気ですね、なんて、無害なありふれた事を言ったように、男の人は微笑んでいた。疲れているし、幻聴だったのだろうか、と再び心の中で首を捻っていると、男の人が後ろ手に持っていたものが現れた。
それを見た途端、氷を飲み込んだような冷たい感覚が身体の内側から生まれた。
だって、その手には、見たこともない大きなナイフが握られていたから。
視線を男の人に移すと、変わらず微笑を浮かべていた。その笑みと手に握られている物の乖離に、生まれた冷たい感覚が身体の中心から手先まで伝導していく。
「え…あ、の…」
体の中が空っぽで、その中を内側から叩かれているように心臓の拍動が体を震わし、呼応するように足が震え出す。男の人は何も答えず、変わらず笑みを貼り付けていた。
その男の人の足が動き出したのを合図に、わたしは咄嗟に路地裏へと走り出していた。




