第3話 AIが選ばなかった恋
月曜の朝。
美月は直哉からのメッセージに既読をつけたまま、しばらく画面を見つめていた。
> 『今週末、どうする?』
どうする、と聞かれても。
美月はスマホを伏せ、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
火曜も、水曜も、同じだった。
メッセージは読む。
返信はできない。
木曜の夜、直哉から電話が来た。
三回のコールを数えてから、美月は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「生きてる?」
「生きてる」
「よかった。じゃあ、なんで返信ないの」
「忙しかった」
短い沈黙。
「そっか」
直哉は、それ以上追及してこなかった。
そのことが、かえって美月の胸を重くした。
「……会って話せる?」
美月が言う。
窓の外では、風が街路樹の葉を揺らしていた。
「うん」
◇
日曜の午後。
待ち合わせたのは、以前二人で歩いたことのある公園だった。
美月が先にベンチへ座っていると、直哉がコンビニのコーヒーを二本持って現れた。
何も言わず、その一本を差し出す。
「ありがとう」
受け取った缶が、少し冷たい。
近くでは、小さな子どもが自転車の練習をしていた。
「そのまま! 止まらないで!」
父親らしき声が飛ぶ。
美月は缶を両手で包んだ。
「PAIRのこと、調べた」
「俺も調べた」
「じゃあ、知ってるね。99.9%の意味」
「ああ」
直哉は静かに頷いた。
美月は息を吸った。
「最初に99.9%って言われてなかったら、私たち、会ってない」
「それはそうだな」
「だったら」
美月は言葉に詰まった。
「この気持ちだって、AIに作られたようなものでしょ」
直哉の表情から、すっと軽さが消えた。
いつもどこか飄々としていた彼が、初めてはっきりとした怒りを見せた。
「俺が好きになったのは、AIじゃない」
低く、静かな声だった。
「でも……」
「美月」
名前を呼ばれた。
高校時代から、ずっと「相沢」か「お前」だった。
だから一瞬、自分のことではないような気がした。
直哉はまっすぐ美月を見る。
「AIが俺たちを会わせた。そこまでは認める」
美月は黙っている。
「でも、そのあと何回も会いに行ったのは俺だ」
遠くで歓声が上がった。
自転車に乗れたらしい。
「お前が来てくれたのも、お前だろ」
美月は何も言えなかった。
「……怖いの」
やっと出てきた言葉は、声にするとひどく小さかった。
「何が?」
「幸せになれるかどうか、誰にも分からないってこと」
言ってから、自分でも妙だと思った。
そんなことは、AIがなくても同じなのに。
「好きになって、それで駄目だったらって考えたら……怖い」
直哉はしばらく黙っていた。
やがて言う。
「俺も怖いよ」
「じゃあ――」
「だからって」
直哉が顔を上げる。
「今まで楽しかったことまで、全部嘘になるのか?」
美月は答えられなかった。
「……変われなかったの、私」
ようやく絞り出した。
十一年前と同じだ。
傷つくのが怖い。
だから、始める前に逃げようとしている。
だが直哉は、静かに首を振った。
「違うだろ」
「え?」
「変わろうとしてるから、怖いんだよ」
その言葉は、思ったより深く刺さった。
だからこそ、美月は反射的に視線を逸らした。
「……ごめん。今日は帰る」
ベンチから立ち上がる。
直哉は追いかけなかった。
「分かった」
それだけだった。
歩き出してから、美月は一度だけ振り返った。
直哉はまだ、ベンチに座っていた。
自転車の練習をしていた親子の姿は、もうどこにもなかった。
◇
それから三週間。
美月は直哉に連絡しなかった。
直哉からも来なかった。
その代わり、美月は毎晩パソコンに向かった。
最初は、ただ指を動かしているだけだった。
十年分の錆が、文章のあちこちにこびりついているような気がした。
書いては消す。
また書く。
気に入らなくて、全部消す。
それでも、パソコンを閉じることだけはしなかった。
一週間で、ずっと書けなかった場面が埋まった。
二週間で、決められなかった結末が見えた。
そして三週間目。
最後の一文を書いた。
美月はしばらく画面を見つめた。
終わった。
新人賞の締め切りまで、あと四日。
何年も、開いては閉じてきた応募フォームを開く。
原稿ファイルを選ぶ。
あとは送信ボタンを押すだけだった。
指が止まる。
その瞬間。
十一年前の声が、頭の中に蘇った。
――傷つくのが怖いだけじゃん。
「うるさい」
美月は小さく笑った。
クリックした。
《応募が完了しました》
文字が表示される。
何も起こらない。
ファンファーレもない。
未来が変わった音もしない。
ただ、小さな送信完了画面があるだけだった。
それなのに、美月はしばらく動けなかった。
そして、気づいた。
直哉に会わなければ、
自分はあのパソコンを開かなかった。
昔の小説を読み返さなかった。
新しい一行を書かなかった。
ましてや、応募ボタンを押すことなどなかった。
AIの予測は、正しかった。
直哉は間違いなく、
美月の人生を変えた人だった。
99.9%。
その数字は、たぶん間違っていなかった。
でも。
美月は椅子にもたれた。
直哉が人生を変えた人だから、一緒にいるのではない。
99.9%だから、好きなのでもない。
それなら。
私は、どうしたい?
答えは、驚くほど単純だった。
会いたい。
美月はそこで初めて笑った。
「……それだけでいいじゃん」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
◇
美月はPAIRを開いた。
榊直哉 相性:99.9%
ずっと変わらない数字。
以前は腹が立った。
その次は、嬉しかった。
そして真実を知ってからは、怖かった。
今はもう、ただの数字に見えた。
美月はしばらく画面を眺めた。
「ありがとう」
PAIRがなければ、直哉とは再会しなかった。
そこだけは事実だ。
けれど。
ここから先まで決めてもらう必要はない。
設定画面を開く。
《アカウントを削除》
タップ。
《本当によろしいですか?》
「よろしい」
決定。
《PAIRをご利用いただき、ありがとうございました》
ログアウト画面に切り替わった。
美月はコートを手に取った。
玄関でスニーカーの紐を結ぶ。
そして無意識にスマホへ手を伸ばし、PAIRを開こうとして、
「あ」
もうないことを思い出した。
美月は小さく笑った。
「そういえば、もう聞けないんだった」
何を言えば正解なのか。
今日会うべきなのか。
そもそも、会いに行っていいのか。
誰も教えてくれない。
マンションを出る。
夜風が頬に当たった。
それでも美月は、
自分の足で駅へ向かった。
◇
以前、直哉から住所を教えてもらったことがあった。
「何かあったとき用」と言われ、PAIRに登録された住所を共有されただけだった。
まさか、本当に訪ねることになるとは思っていなかった。
駅を降りる。
PAIRはない。
以前なら、
《ここを右折してください》
《最適ルートです》
と教えてくれただろう。
今日は地図アプリを見ながら、それでも一本道を間違えた。
「……こっちじゃないじゃん」
小さく悪態をついて引き返す。
十分ほど余計に歩いて、
ようやく直哉のマンションへ辿り着いた。
部屋番号を確認する。
インターホンを押した。
「……はい」
「私」
数秒。
「……美月?」
鍵が開く音がした。
ドアが開く。
直哉は部屋着姿だった。
しばらく美月を見てから言う。
「PAIRから『サプライズ訪問を推奨します』とか来てた?」
美月は吹き出した。
「来てない」
「そっちは?」
「消した」
「え?」
「PAIR。消した」
直哉の眉が上がった。
「じゃあ、俺たちの相性は?」
「知らない」
「幸せになれる確率は?」
「それも知らない」
「結婚する確率は?」
「知らないって」
「何も分かんないじゃん」
美月は笑った。
「うん」
直哉も少し笑う。
そして、真面目な顔になった。
「それでも来たの?」
美月は直哉を見る。
「99.9%だからじゃない」
一度、息を吸う。
「私が、あなたを選びたいから」
直哉は何も言わなかった。
部屋の奥から、冷蔵庫のモーター音だけが聞こえてくる。
数秒後。
「……それ、何%?」
美月は思わず笑った。
「知らないってば」
「そこ、一番大事じゃない?」
「じゃあPAIRに聞けば?」
「あ、消したんだっけ」
「そう」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
直哉が少しだけ手を伸ばす。
美月はその手を取った。
今度は、
《手をつなぐことを推奨します》
という通知は来なかった。
それでよかった。
◇
運命の人が、本当にいるのかは、
今でもよく分からない。
誰かが、
「この人です」
と教えてくれれば、
きっと楽なんだと思う。
傷つかない相手。
失敗しない選択。
幸せになれる未来。
そんなものが最初から分かっていたら、
怖がる必要なんてない。
でも。
たぶん私が欲しかったのは、
正しい答えじゃなかった。
傷つくかもしれない。
間違えるかもしれない。
それでも、
この人と一緒にいたいと思った。
もし運命というものが、
誰かに選んでもらうものではないのなら。
私は今日、
初めて自分で、
運命を選んだ。




