2.異世界へようこそ
瑞希が目を覚ますと、そこは樹木が覆い茂った薄暗い森の中だった。
朝の空気が、ランニングウェア越しの肌に刺さるように寒々しく感じた。
(なんで朝?! さっきまでお昼だったじゃない!)
そんなに長く寝ていた実感はない。
瑞希の体感では、わずかな時間しか意識を失っていないように思えた。
だが地面から冷たく冷え込んだ空気は、毎朝ランニングで吸い込んでいる空気と同じ、朝特有のものだ。
立ち上がり、辺りを見回すが、道らしい道も見当たらなかった。
ふと、手に石板を握りしてめているのに気が付いた。
祖父の家で手を置いていた、手を触れていれば神と会話が出来るという、あの石板だ。
(ちょっと! 霧の神! これはどういうこと!)
『どうもこうも、説明したじゃない。
あなたには、その世界を救ってもらいたいの』
(嫌だよ! 早く家に帰してよ!)
『残念だけど、あなたを家に帰す方法は私も知らないわ。
これから調べてみるけど、期待しないでおいて』
突然連れ去られた先で、さらに知らない世界に送り込まれ、帰る方法もわからないと告げられた。
ついに瑞希は我慢が出来ず、泣き出してしまった。
「もーやだー! お父さん助けてよー! お母さーん!」
「誰かいるのか?!」
男性の声が聞こえて、思わず瑞希が身を縮めた。
しばらく様子を伺っていると、誰かが近づいてくる気配がして、一人の青年が姿を現した。
金髪碧眼、彫りが深い外国人の容貌だ。
日本語しか話せない瑞希はパニックになり、どうしたらいいのか分からなくなっていた。
「えーと、あの、その……なんて言えばいいの?! あーもう! なんなの、これ!」
青年は眉をひそめ、訝しむ目付きで瑞希の様子を伺っていた。
「子供……? 親はどうした。
こんな所に、なぜ子供が居るんだ」
「――子供じゃないよ! これでも十五歳! 立派な中学生だよ!」
小柄な瑞希は、よく小学生に間違われる女子だった。
思わず癖で反論していた。
「よくわからないが、十五歳なら確かに成人だ。
だが、なんだその服は。
どこの国の人間だ?」
はたと瑞希は気が付いた。
これは漫画やアニメでよくある展開だ。
異世界に飛ばされた先で、異世界人に出会う。
だとしたら『日本人だよ!』と答えても、意味は通じないだろう。
「あーっと……言って通じるかわからないけど、私は異世界の人間だよ。
霧の神に無理やり連れてこられて、途方に暮れてたところだよ」
青年がさらに怪訝な顔になり、慎重に瑞希の姿を確認しだした。
「……霧の神と言ったな。
他に霧の神がお前に告げたことはないか?」
むすっと不機嫌な顔になった瑞希が正直に応える。
「この世界を救えって言われたよ。
『私の不手際で世界が滅びかけているから』って。
でも私には、特別な力なんてないんだけど」
青年が固唾を飲み込み、喉を鳴らした。
「『霧の神にこの世界を救えと言われた』、で合っているな?
お前が霧の神が告げた救世主ということか」
「言われた事は事実だけど、私には何もできないよ?!
私はどこにでもいる普通の――」
ふと脳裏に、祖父との会話が思い出された。
霧上家本家は魔術の家系。
神の血を引き、魔術を使う力を持つ。
「――人間じゃない、かもしれないけど。
魔術なんて私は覚えてないよ?!」
青年の肩から力が抜け、優しく微笑んで頷いた。
「それも、霧の神から伺っている。
魔導の腕は未熟だが、魔力の強い人間だと。
私たちは、君に力を貸すよう告げられた、霧の神の信徒だ。
君が私を信頼してくれるなら、街まで案内しよう」
「……信頼できなかったら、私はどうすればいいのかな」
青年は苦笑を浮かべた。
「それは、私が信頼できない人間に見えたという事だから、仕方がないだろう。
君はこの場で、他の信頼できる人間が現れるのを待つか、自分の足で街まで辿り着く必要がある。
だが、この森の近くにある街は離れた場所に一つだけだ。
やみくもに歩き回って辿り着ける場所ではないだろう」
瑞希はどうしたらいいのか悩んだ。
そろそろお腹が空いてきたし、街に辿り着けなければ餓死してしまう気がした。
「うーん、仕方ないか。
今は相手を選んでいられる状況じゃないみたいだし、付いて行くよ。
でもあなたが悪い人だったら、末代まで祟ってやる!」
「言ってる意味は分からないが、安心してくれ。
――さぁ、こっちだ」
****
静かな森の中を青年と並んで歩きながら、瑞希が尋ねる。
「なんで私たちは、お互いの言葉を理解出来るのかな。不思議だね」
瑞希の耳では、お互いが別々の言語を口にしているように聞こえる。
だが、その言葉の意味を、お互いが受け取れているようだった。
「詳しいことは私もわからん。
君が魔導を使っているのだけは確かだ。
魔導には、そういった術式や魔法があると聞いた事がある」
『あなたが石板を握っているからよ』
突如、霧の神の声が頭に響き渡った。
(ちょっと! 突然話しかけてこないでよ! びっくりするでしょう?!)
『ごめんなさいね。
説明しようとしたら、あなたが取り乱してしまったから。
――その石板は、あなたを導いてくれる導なのよ。
それを身に付けていれば≪意思疎通≫の魔法が自動的にかかるし、いつでも私と会話する事もできる。
その世界で唯一、あなたの身を守ってくれるものよ。
それを失くさないようにして頂戴』
(失くしたらどうなるの?)
『とっても困ったことになるわね。
自力で≪意思疎通≫の魔法を使わないといけないし、自力で私と会話する方法を身に着けなければいけないわ。
――それは魔導に不慣れなあなたを助けてくれる、初心者用のお助けアイテムよ。
魔導に慣れれば、石板がなくても同じことが出来るようになるわ』
(ゲームか何かかな……じゃあ裏技でさっさとクリアとかする方法はないの?)
『残念だけど、それはデスゲームの類ね。
死んだら終わりだから、死なないように気を付けなさい』
(洒落になってないよ! 嫌だよそんなゲーム!)
『私はその世界に直接干渉することが許されていない。
ここからは、自力で頑張ってもらうしかないの』
後は自力でやれと言われ、ついに瑞希の反抗心が折れた。
『もうなるようになれ!』という、破れかぶれの心境だ。
(……隣の人間は信用できる人間なの?)
『彼なら信用できるから大丈夫よ。
誠実で敬虔な私の信徒。
なんと王子様よ?』
「王子?!」
思わず叫んだ瑞希の言葉に、隣の青年が反応した。
「ん? なんだ?」
「あ、いえ、そうじゃなくて……あなた、王子様なの?」
「ああ――自己紹介がまだだったな。
私はアルベルト・マティアス・ドライセン。
ドライセン王国の第二王子だ」
瑞希は王子の実物など初めて見た。
まじまじと顔を眺めてしまっていた。
整った精悍な顔つきは、力強さと共に柔らかい優しさを兼ね備えていた。
年齢はおそらく、瑞希と同い年か少し上くらいだろう。
青い瞳が澄んでいて、邪念の類は感じられない。
誠実な人間と言うのは、確かそうだった。
青年が苦笑を浮かべた。
「すまんが、お前の名前を聞いてもいいか」
他人に名乗らせて、自分が名乗らないのは失礼だろう。
「――あっ、ごめんごめん! 私は霧上瑞希だよ」
「キリガミ・ミズキ? 珍しい名前だな」
「えーっと、ファーストネームが瑞希で、ファミリーネームが霧上だよ」
「なるほど、ミズキだな。
異世界ではファミリーネームが最初に来るものなのか?」
「うーんと、私の国ではそうだったけど、違う国もあったよ。
この世界では、ファミリーネームが最初に来る国はないの?」
「私が知る限り、ないな。
大陸の外は知らないが、大陸内にそういう国家はなかったはずだ」
この場所は島国育ちの瑞希が、初めて訪れる大陸、ということになる。
喜んでいいのか分からない、複雑な心境だ。
「……ここはどういう国?」
「ドライセン王国は各種産業が盛んな大きな国だ。
人口は二十万人を数える。
精強な騎士団や魔導士団を揃え、周辺国でも際立った武力を持つ強国だ。
以前は平和な国だった」
この世界での基準がわからない瑞希には、それがどのくらいの水準なのか判断が付かなかった。
瑞希の住んでいた都市が二十万人規模だったはずなので、同じくらいの人口を持つ国だ、としかわからない。
だが最後の一言が気になった。
「『以前は』って、今は平和な国じゃないってこと?」
青年――アルベルトの表情が陰った。
「隣国が突然、宣戦布告をして攻め込んできた。
国境付近は戦場となり、今も防戦に追われている」
戦場――瑞希には縁遠い単語だ。
急に心細くなり、辺りを見回し始めた。
そんな瑞希を見て、アルベルトが優しく微笑んだ。
「大丈夫、この辺りは戦場から遠い。
ここは宣戦布告してきたシュトルム王国とは反対側の国境付近。
こちら側はまだ平和だ。
とはいえ、これ以上のんびりしていると日が暮れる。
日が暮れれば、さすがに野盗や魔獣と出くわしかねない。
その前に合流する――少し急ぐぞ」
瑞希は頷き、黙ってアルベルトの背を追いかけるように、森の中をつき進んでいった。
****
森を出ると、そこには数台の馬車が止まっていた。
こちらを心配そうに見守る騎士や兵士が何人も佇んでいる。
「殿下! ご無事でしたか!」
慌てて駆け寄ろうとする騎士たちを、アルベルトが片手で制した。
「客人が居る。
怖がらせる事のないようにしてくれ。
――さぁミズキ、馬車に乗ってくれ」
瑞希は恐々と頷いた。
大柄で厳つい騎士や兵士たちは、小柄な瑞希から見ると、下手に近づいて欲しい相手ではなかった。
その怯える様子にいち早く気が付いたアルベルトが、彼らに近づかないように言い含めてくれていた。
先に馬車に乗り込んだアルベルトから手を差し伸べられ、その手を取って瑞希も馬車に乗りこむ。
その後、外の兵士にいくつか指示を下したアルベルトは、扉を閉めて椅子に腰を下ろした。
間もなく馬車が走り出し、アルベルトが瑞希に語りかけてくる。
「街はここから一日半かかる。
明日の夕方までには辿り着けると思うが、今夜は野宿だ。
ミズキは野宿の経験はあるか?」
瑞希は首を横に振った。
「そんな経験ないよ。
そんなことより、何か食べるものはない?
ご飯を食べ損ねて、お腹が空いてるんだけど」
馬車に乗りこみ、大勢の人と共に行動する事で少し安心した瑞希は、空腹を思い出していた。
アルベルトが困ったように微笑んだ。
「糧食はあるが、ミズキの口に合うかどうか……」
馬車の椅子の下が収納になっているようで、そこからアルベルトが袋を取り出した。
「この中から食べられそうなものを食べてくれ。
包装を解いたら、そのまま食べられるものばかりだ」
瑞希は袋の中を覗き込み、適当に掴み取る。
紙の包装を解いていくと、中から干し肉が出て来た。
「干し肉? なんのお肉?」
「牛肉だ。ミズキの世界の牛と同じかは知らんがな」
(≪意思疎通≫の魔法が牛と通訳してるんだから、似たような動物のはずだよね)
瑞希は干し肉に齧りつきながらアルベルトに尋ねる。
「あなたは何歳なの?」
「私は十五歳になったばかりだ。
ミズキとは同い年ということになるな。
私は童顔だから、あまりそうは見えんだろうが」
「童顔なの?
同い年くらいだとずっと思っていたけど」
アルベルトがおかしそうに笑った。
「他人種の年齢など、簡単にはわからんものだ。
ミズキだって、最初は幼い子供かと思ったくらいだ。
十五歳と聞いて驚いたぞ」
「それもそうだね……
あなたはなぜ、私のいる場所まで来ていたの?
心配するような人たちを待機させて、一人で森に入ってきていたんでしょ?」
「心配するような? ああ、護衛のことか。
霧の神の神託があってな。
私が一人であそこに行けと言われた。
『身体の大きな男が大勢付いてくると、その子が怖がるから』とな」
瑞希がきょとんとした顔で尋ねる。
「あなたたちも、霧の神と会話できるということ?」
「極稀に、神託を受けられる人間が生まれる。
そんな神官の一人が、先日そういう言葉を霧の神から授かったんだ。
その報告を受けて、私があの場所までミズキを迎えに行った」
しばらく黙々と干し肉を食べ進めながら、瑞希は石板を握りしめた。
(ねぇ霧の神、私はこれからどうなるの? なにをすればいいの?)
『まずは魔導を身に付けなさい。
何をすればいいのかは、そのうちわかるわ』
(無責任すぎない?!
『そのうちわかる』ってどういうこと?!)
『今は未来が大きく揺蕩っている。
滅びが確定した世界に、無理を通して『あなた』という因子を投げ込んだせいね。
どうすれば世界の滅びを回避できるのか、今はまだはっきりと見えてこないの。
これからのあなたの行動次第で、未来は次第に収束していく。
あなたは出来る限り、より良い結果を手繰り寄せられるように努力を続けて頂戴』
(……その未来、収束したら教えてくれるんだろうね?)
『できれば教えるわ。
できなかったら諦めて。
――それとこれは忠告だけど、その石板は使うほど力を失っていく。
あまり頻繁に使っていると、あなたが自力で魔導を使えるようになる前に無力な石になってしまうわ。
特に私との会話は、大きく力を消耗する。
話しかけてくるのは、困った時だけにしておきなさい』
これしか頼れる物がないというのに、頼り過ぎるなと忠告された。
ならば、力を失う前に≪意思疎通≫の魔法と、神と会話する方法を身に着けなければならない。
(ねぇ、魔法なんて本当に私に使えるの?)
『使えるわよ?
私と直接会ったことで、私の気配を覚えられたはず。
その世界は、どこに居ても私の気配を探し出せる世界。
気配を手繰り寄せて願えば、それが魔法となるわ。
同じように気配を手繰り寄せて話しかければ、私と会話する事もできる』
(なんだ、思ったより簡単な話じゃない。
あとは霧の神の気配さえ探し出せば、この石板はいらないんだね?)
『今のあなたは、それをすぐにできるようにはならないわ。
まずは魔力の扱い方を覚えて。
そうすれば神の気配の探し方もわかるようになるわ』
どうやら、簡単なようで面倒な話らしい。
霧上家の本家で魔術を習っていれば、おそらく簡単にできたことなのだろう。
瑞希は少しだけ、祖父から魔術を習っておかなかったことを後悔した。