1.成人の儀
まだ街が目覚める前の時間、朝の冷え切った空気の中、一人の少女がランニングをしていた。
肩までの黒髪を揺らしながら、静かにいつもの道を走り込んでいく。
おおよそ二キロの道のりを十五分弱で走りこむのが彼女の日課だった。
スポーツマンという訳ではなかったが、その細い体型を維持するための、彼女なりの健康法だ。
その少女が公園に差し掛かると、一人の老人が彼女の前に立ち塞がるように出て来た。
少女が思わず足を止め、距離を取る――早朝の不審者など、珍しい話でもない。
少女は息を整えながら老人の様子を探る。
老人は上等な黒いスーツを着込んだ、身なりの良い老爺――おそらく、年齢は六十歳前後。
髪の毛はすっかり白髪で染まり、しわが刻まれた顔には人の良い笑顔が張り付いている。
そして日本人にしては彫りが深い顔立ちをしていた。
少女は声をかけるか悩んだ。
不審者という割に、不審な挙動を見せるわけでもない。
ただ静かに微笑みながら少女を見つめるだけの老人だ。
老人の朝の散歩も、この辺りでは珍しいものではない。
もしかしたら、何か困った事があって少女に近づいたのかもしれない。
この時代、怪しい人間は避けて逃げてしまうのが最善だという認識ぐらいはある。
だが『帰り道がわからなくなった』と言われれば、交番に届けるくらいはしてあげたい――そう思うような少女だった。
逡巡している少女に、老人が告げる。
「霧上瑞希さん、であってるかな?」
流暢な日本語だった。
低く穏やかなその言葉は、不思議と少女――瑞希を安心させる声色だった。
「そうだけど……お爺さんは誰?」
老人は優しく微笑んだ。
「私は霧上狼也、霧上家本家の人間だ。
――もっと簡単に言ってしまうと、君の祖父だよ」
祖父だ、と言われて瑞希は混乱した。
彼女の祖父母は、物心つく前に死んだと聞かされている。
認知に問題を抱える老人なのかと最初は疑ったが、彼は瑞希の名前を知っていた。
その言動は確かなもので、認知症を患った老人とは思えなかった。
「祖父って……それはどういう意味?」
「言葉の通りさ。
君は私の孫だと、そう言ったんだ。
瑞希、君にはこれから本家に来てもらいたい。
信一郎には話を通してある。
疑問に思うなら、電話して聞いてみればいい」
信一郎――父親の名前だ。
だが電話をしたくても、今日は持ってきていなかった。
「学校があるし、一度家に帰ってもいいかな?
あなたが本当に私の祖父で、用事があるなら学校から帰ってから話を聞くよ」
老人は首を横に振った。
「それでは間に合わないんだ。
午前中に済ませなければならない用事がある。
信一郎の奴がどうしても譲らなかったから、今朝まで待ってやった。
これ以上は待つことが出来ないんだ」
「……お爺さんが私の祖父だと言う証拠を今、見せられる?」
老人が静かに懐から一枚の写真を取り出した。
彼が胸の前で見せるそれは、瑞希が生まれた時に両親が『家族の写真』として初めて撮影したものだ。
同じ写真が、家のアルバムに収まっている。
「今はこれぐらいしかないし、あとはせいぜい名刺を見せることぐらいしかできないが、名刺では信用することはできないだろう?
それとも、この場で信一郎に電話をかけて見せれば信用するかい?」
「……それができるなら、電話をして。
父が言う言葉なら信用するよ」
「――だそうだ、信一郎。聞いていたな?
お前からも、私が祖父だと伝えてやれ」
『……瑞希、その人が私の父なのは確かだ。
それだけは信じていい』
突然、姿勢を変えずに老人が喋り出し、それに応えるように父親の声が聞こえた。
(ハンズフリーフォン?)
「お父さん?! この人が私のお爺ちゃんだとして、この人に付いて行っていいの?」
『……それが約束だから、付いて行ってやってくれ。
だがくれぐれも注――』
父親の言葉が、途中で途切れた。
どうやら老人が通話を途中で切ってしまったようだ。
人の良い微笑みを浮かべながら、老人が再び口を開く。
「聞いた通りだ。
これで信じてはもらえたかな?
――では付いてきてくれ。車で移動しよう」
****
瑞希は車に乗せられ、老人と共に移動していた。
よく見る一般的な乗用車ではなく、生まれて初めて高級乗用車に乗せられていた。
しかも客席が部屋のようになっている、富裕層が使う大型の車だ。
日本では珍しい車だろう。
(リムジン、とか言ったっけ。シートの座り心地も全然違うんだな)
今、テーブルをはさんで、瑞希は祖父を名乗る老人と向かい合っている。
危害を加える気はなさそうだが、父親の言葉が気になっていた。
(あれは、『くれぐれも注意しろ』と言いたかったのかな)
どうしても警戒してしまい、飲み物を出されても口にする気にはなれなかった。
老人は困ったように笑い、静かに飲み物を口にしていた。
「私が飲んで見せても、警戒して口にしないのかい?
本家までは三時間ほどかかる。
そんなに緊張していては、本番前に疲れてしまうよ?」
「……本番って、どういう意味なの」
「用事がある、と言っただろう?
君には儀式に参加してもらう事になる。
本家の子供は十五歳を迎えた時、その儀式に参加する義務があるんだ」
「うちは普通の家庭だよ。
本家とか、関係ないと思うんだけど」
「信一郎は私の長男、その長女である君は本家の血筋。
つまり、本家の子供だ。
だから、儀式に参加する義務があるんだ」
「霧上の本家ってことだよね?
お父さんは普通の家の人間だったはずだよ。
こんな車に乗るお金持ちとは、関係ないはずだけど」
老人が苦笑を浮かべた。
「信一郎は駆け落ちをして、本家から逃げたからね。
だがたとえ逃げようと、本家の義務を免除してもらえる訳じゃない。
必死に身元を隠そうとしたようだが、その程度で本家から逃げることはできやしないさ」
確かに、父親は転職や引っ越しが多い人間だった。
同じ場所に一年以上住み続けたことがない。
瑞希も転校ばかりで、友人らしい友人を作ってこれなかった。
そうまでして本家から逃げていた、ということになる。
「……その儀式って、怖いものじゃないの?
痛い思いとかしない?」
老人は穏やかに笑った。
「ははは、そんな心配は要らないさ。
私や信一郎だって、その儀式は経験してきている。
痛くも痒くもないよ」
その言葉に嘘は感じられなかった。
本人たちが経験し、今も元気に生きているのだから、危害を加えられる類の儀式ではないのだろう。
だとしても、瑞希は納得できないものがあった。
「お父さんはどうして本家から逃げたの?
こんなお金持ちの家から家出するなんて、何があったの?」
老人は少し考えこむように黙り込んだ後、口を開いた。
「君――瑞希、と呼んでも構わないかい?」
「……うん、あなたが私のお爺ちゃんなら、構わないけど」
老人が優しく微笑んだ。
「ありがとう。
瑞希は、魔術というものを知っているかい?」
「黒魔術とか、白魔術とか、そういう奴?」
「それは西洋魔術と一般に言われるものだね。
東洋でも、道術や陰陽術などが有名だ。
――我々霧上家は、魔術の家なんだ。
魔術を扱える家系なんだよ」
「そんな胡散臭い家だったの?」
老人が楽しそうに笑った。
「ははは、胡散臭いか。
確かに、瑞希は一般市民として今まで生きてきた。
だからすぐに信じることはできないと思うが、我々霧上家が魔術を扱えるのは事実だ。
魔術を扱う為の力を、持って生まれてくる家系だ。
その力で、様々な事で国に力を貸してきた――歴史の裏でね。
その見返りとして、地位と富を手に入れてきた家なんだ。
だが同時に、魔術で国家に貢献する義務も負う家でもある。
信一郎は、それが嫌で本家から駆け落ちして逃げたんだよ」
「お父さんが嫌がるような義務なの?」
「跡取りともなれば、危険を伴うね。
我々の使う魔術は、とても強い力だ。
相応に、我が家に来る依頼は物騒なものが多い。
命の危険があるくらいにはね」
そんなものは、瑞希も嫌だった。
「私だって死にたくはないし、本家に興味もないよ。
お父さんが言うから、あなたがお爺ちゃんだというのは認める。
でも、儀式が魔術に関係する事なら、参加したくない」
「瑞希の意志は関係がない。
これは義務だと伝えただろう?
本家の人間は、儀式を通過しなければならないんだよ。
それが神との約束なんだ」
「神様? 神道か何かなの?」
「神道ではないよ。
我が家に伝わる魔術は、異世界の神の力を借りる魔術だ。
霧上家は本来、『霧神』と書く。
神の血を引く人間の家なんだよ」
瑞希には、俄かには信じられない話だった。
「異世界の神とか、怪しい宗教も嫌なんだけど」
「宗教と言えば宗教だね。
だが実在する神であり、神の力だ。
実際に目の前で魔術を使って見せてあげただろう?」
「……? それはどういう意味?」
「さっき信一郎としたのは、≪念話≫の魔術だ。
あれは電話ではないんだよ」
瑞希が顔をしかめ、怪訝な表情で老人を見た。
老人は楽しそうな笑顔で指を一本立てた。
「別の魔術も見せてあげよう」
老人の立てた指先に突然、火が灯った。
その火が形を変えて行き、四角い画面のように広がっていった。
その画面に、ランニングする瑞希の姿が映し出された。
「――これ、私?!」
映像の中でランニングする瑞希が、突然足を止めた。
その正面に、老人が姿を見せて立ち塞がっている。
戸惑うように会話をする二人の姿は間違いなく、さきほど瑞希が経験した光景だ。
「なんで……いつのまに撮影されてたの?!」
老人が楽しそうに笑う。
「ははは、これは≪過去視≫の魔術さ。
一時間以内の光景なら、簡単に見ることもできる。
もっと遡ろうとすると、大掛かりな儀式が必要になるけどね」
老人の指先に広がっていた火の画面が、掻き消えるように消失した。
「――ふぅ。この年齢になると、魔術を使うのは疲れるね。
もっと見せてあげたいが、儀式が終わる前に疲れ切ってしまうといけない。
今はこれぐらいで我慢してくれないかな」
瑞希には、今のがトリックなのか、本当に魔術なのか区別がつかなかった。
目の前に居る、人の良い老人も、優しいが信用してよいか判断が付かない。
祖父であることは、父親の言葉で確かだと思えた。
だが、あの通話自体がトリックだったら、信用するのはまずいと思えた。
「……私をどうするつもりなの」
「そう警戒しなくてもいいよ。
義務として儀式に参加してもらうだけだ。
おそらく、それで終わる。
儀式が無事に終われば、瑞希はすぐに家に帰ることが出来る」
「……無事に終わらなければどうなるの?
おそらくって、どういう意味?」
「その儀式はね、霧上家の跡取りを選定する儀式なんだ。
同時に、魔術を使う力を目覚めさせるものでもある。
十五歳を迎えた子供が、霧上の祖先である神に挨拶をする儀式だ。
だがおそらく、瑞希が跡取りとして選ばれることはないと思っている。
本家直系の血筋だが、瑞希は女の子だからね。
魔術を使う力を覚醒させて、それで終わるだろう」
「魔術を使う力を覚醒させるだけで、家に帰してもらえるの?
魔術を修得しろとは言われないんだね?」
「もちろん、それは言わないよ。
信一郎とそう約束を交わしてある。
瑞希を儀式には参加させるが、魔術は習得させない――それが信一郎の出した条件だからね。
だが、瑞希が魔術を修得したいと言うなら、教えてあげても構わないよ」
瑞希は黙って首を横に振った。
老人は楽しそうに笑いを返す。
「ははは、すっかり怯えさせてしまったね。
――あと三時間弱、我慢して乗っていておくれ」
老人はそのまま、背もたれに寄り掛かり、静かに目を閉じた。
どうやら魔術で疲れたというのは本当らしい。
瑞希も、ただ黙って窓の外の景色に目を向けていた。
****
車が目的地に到着し、案内されるままに瑞希も車を降りた。
大きな日本家屋の中を、老人に付いて歩いていく。
奥まった部屋の、さらに奥――そこは、電灯のない真っ暗な部屋で蝋燭を灯しているような、怪しい雰囲気の部屋だった。
何十人も入れるような大座敷の周囲には蝋燭が等間隔で置かれ、中央には木製の台座の上に、手のひら大の白い石板が置いてあった。
老人が静かに語る。
「目をつぶって、その石板に触れるのが、我々霧上家の『成人の儀』だ。
それに触れると神の声が聞こえ、瑞希がするべきことを教えてくれる。
跡取りなら『跡取りになれ』と告げられるんだ。
同時に、神と会話をする事で魔術を使う力が覚醒するんだ。
この儀式を経験すれば、瑞希も立派な成人だ」
「普通、成人は二十歳じゃないの?」
「それは国家の法律、これは神から言い渡された、神との約束だ。
国家としては未成年でも、霧上家の中では成人として扱われる――そういう意味だよ。
魔術を使う力に目覚めた後は、霧上家が請け負う依頼をこなすことが許されるようになる、その程度の意味だね」
老人に促されるように、瑞希は石板の前に立った。
「さぁ、目をつぶって石板に触れてみなさい。
しばらく触って居れば、神の声が聞こえてくる。
あとは神の声に従うといい」
瑞希が言われるまま、おそるおそる手を伸ばしていく。
そっと指先で触れた石板は、冷たい感触がした。
だが危険はないようだったので、今度はしっかりと手のひらで触れて目をつぶった。
(……これでいいのかな)
『そう、それでいいのよ』
弾けるように瑞希が石板から手を離し、辺りを見回した。
周囲に女性の姿はない。
老人と瑞希だけが居る部屋だ。
老人が微笑みながら告げる。
「神の声に驚いたかね?
彼女は優しい神だ。
大丈夫、安心して話を聞きなさい」
瑞希は再び、恐る恐る石板に手のひらを乗せ、目をつぶった。
『そんなに怖がらないで欲しいわね』
再び女性の声が頭の中に響き渡った。
(あなたが、神様?)
『そうよ。私は”霧の神”。
あなたたちが霧神家を名乗る由来よ』
(それで、もうこれで終わりで良い?
早く家に帰りたいんだけど)
『それはちょっと待って。
あなたには悪いんだけど、とっても大事なことをお願いしたいの』
(悪いんだけどって……なにかとんでもないことを頼むんじゃないよね?)
『残念だけど、その通りなのよ』
(跡取りとか、嫌だよ!)
『あはは! そっちじゃないわ!
――でも、もっと大変なことをお願いすることになる。
あなたには、こちらに来てもらうわ』
(こちら? こちらって?)
突如、激しい眩暈が瑞希を襲った。
世界が歪み、自分が振り回されるような感覚を覚え、瑞希は倒れ込んだ。
「いったぁ……って、土?!」
手に触れるのは、むき出しの土の感触――倒れ込んだ先は、土の地面だった。
慌てて辺りを見回す――周囲に明かりらしい明かりはない。
真っ暗な空間で、土の上に放り出されていた。
祖父の姿もない。
先程まで居た、日本家屋の影も形もない。
とても広い空間に放り出された事だけが、空気でわかった。
時折、ちゃぷちゃぷと、水音が聞こえてくる。
「どこなの……ここ」
呟いた瑞希の言葉に、女性の声が返ってきた。
「ここは泉の畔よ」
慌てて瑞希が声に振り向く。
この声は先程、瑞希の頭に響いていた声だ。
暗闇の中で、銀髪の女性が佇んでいた。
絹の布地を肩で止めた簡素な服装をした、外国人風の女性だ。
女性――霧の神が、優しい微笑みで告げる。
「この場所を分かりやすく説明すると、私たち神の世界ね。
あなたたちが異世界と呼ぶ世界の一つよ」
「異世界? 神の世界?
どういうこと?」
「あなたにはこれから、こちらの人間界を救ってもらいたいの。
こちらの人間が滅んでしまう運命を自力で打破できなさそうだから、異世界からあなたを呼んだのよ」
「漫画やアニメじゃあるまいし、なにそれ。
私には関係ないじゃない!」
霧の神が困ったように苦笑を浮かべた。
「それがねぇ……関係はあるのよ。
あなたは私の血を受け継ぐ巫女。
とても強い力を秘めてる子なの。
今回は私の不手際で世界が滅びかけてしまっているし、私の血族が解決する義務を負うのよ」
「あなたの不手際なら、あなたが解決するのが筋でしょう?!
なんで私がその義務を背負わされるの?!
納得がいかないよ!」
「それも仕方ないわ。
神のルールで、神自身が直接干渉することを禁じられた世界なんですもの。
だから代理の人間に解決してもらうしかないの」
瑞希は、霧の神を厳しく睨み付けていた。
突然祖父を名乗る男に連れ去られたと思ったら、今度は祖先と言い張る神に連れ去られた。
なんて酷い一日だと憤慨していた。
「あなたの事情は可哀想だと思うんだけど、他に適任者がいないの。
じゃあ、頑張ってね」
霧の神の軽い言葉と共に、瑞希の視界が揺れた。
再び烈しい眩暈を覚え、瑞希の世界は暗転し、意識が闇に沈んでいった。




