Ⅰ-Ⅹ 四人-①
タルクィニウスは、エスィルトはもちろん、トニトリウスよりも手がかかる人物だった。身支度の奴隷がどうだの供回りの奴隷がどうだのと、何体もゾロゾロと連れて行こうとしていたのである。ダキアに用事があるのはタルクィニウスだけであるのにも関わらずである。
俺一人が彼を背負っていく方がよほど早く、安全だ。言っても聞かなかったので、彼の奴隷ピックアップ作業を力尽くで終わらせた。奴隷選びを「準備だ」と言って憚らないタルクィニウスを小脇に抱え、最低限の食料を確保し、『巨大樹の森』までの地図を確認して、日も昇らない内から彼を背負って駆けだしたのである。
トニトリウスの指示からして、タルクィニウスは軍属であり、鍛錬を積んだ男である。妊娠中のエスィルトと違って、特に気を使う必要がない。俺の体力が続く限り――つまりダキア周辺に辿り着くまで、夜を徹して昼を通して走り続けて、1日と少し。
海の上を走って街道を走り続けて、それだけあれば第1イタリカ軍団の北門まで辿り着くには十分であった。
「もう二度とお前の背は借りない」
丸1日背負われたからだろう。相当に憔悴した様子のタルクィニウスが、そう吐き捨てて豪奢な建物へと歩いていく。悪い事をしたと少しだけ思うものの、それより気になるのが、軍団に似合わぬ豪奢な建物の正体である。
思い切りその場でジャンプしてみた。上空から陣営の形を観察するためだ。
眩しい朝焼けが異世界を照らしている。
空から見てみたところ、第1イタリカ軍団の陣営はエボラクムのそれとは大分違っていた。方形の構造そのものはエボラクムとは同じだが、まず、エボラクムと違って門も壁も兵舎も木造だったのである。加えて、陣営の中央にあるのは宮殿ではなく祭壇であった。
トニトリウスによると、軍団長は地位に相応しい建物に住むのが通例なのだとか。トニトリウスが陣営の中央に宮殿を構えていたのも、その通例に則ってのことである。それが陣営の中には無いのだ。
類推するに、陣営外の豪奢な建物が軍団長の別荘なのだろう。考えてみるまでもなく当たり前だ、タルクィニウスの任務である軍団編成のためには軍団長への接触が不可欠である。彼はまず任務を全うするつもりなのだと推測できた。
となれば、俺もまたトニトリウスの子分として、任務への忠実さを見せなければなるまい。着地し、ブリタンニアへの帰路を辿ろうとする。陣営に背を向けて走り出そうとした所で、衛兵が来て誰何の声を投げて来た
「何者じゃ、一体どこから来た!」
おや、と思う。聞き覚えのある声だったからだ。
俺に差し向けられた槍の穂先をまず見て、握る手、板金鎧を着込んだ胴体、そして顔へと視線を動かす。
そこにあったのは見覚えのある髭面。毛だらけの顔が、俺より頭2つ低いところから俺を睨んでいた。
「ケントゥマルス! お久しぶりです。私です。アキラですよ」
「アキラ……ああ、アキラか! もう解放されたのだな? 軍団兵に加わりに来たのか?」
破願して槍を収めるケントゥマルス。俺を奴隷市場へと運んだ4人の補助兵、その1人である。懐かしさが胸を満たす。ハイモス山に挑む前の、猪肉を囲んだ宴席が脳裏に浮かび、俺も思わず笑みを作ってしまった。
ケントゥマルスの視線が俺を矯めつ眇めつする。彼の視線が止まったのが、右手にぶら下がったままの神鉄の手錠である。そう、右手を引き千切る機会は結局訪れず、右手には手錠が付きっぱなしだったのである。
どう言い訳したものかと思い、正直に白状することにした。彼ら補助兵4人に対しては、嘘を吐くのが嫌だったからだ。
「事情を説明しますよ。ええと――」
トニトリウスは6日で事務作業を片付けると言った。丸1日走り通せばブリタンニアまで帰れる。トニトリウスは3日目の事務作業に入ったところだろう。となれば、1日くらいは浪費しても構わないだろうか。
――言い訳だ。浪費していいはずがない。ブリタンニアに帰って、長城作りの一助になるべきだ。頭の中の冷静な部分がそう語りかけてくるが、あの4人とまた会話したいという衝動には、どうにも抗いようがなかった。
「1日くらいは余裕がありますから」
「そうかそうか。他の3体は食料調達のために狩りに出ておる。彼らが帰ってくるまで話を聞かせてくれ」
「そうなのですか。ではむしろ、私の話はセクストゥスとピソとアメテュストゥスが帰って来てからにしましょう」
「ああ、たしかにの。そうした方が手間も無い。気が急いておったわ」
などと談笑しながら北門に戻り、ケントゥマルスと一緒に立つゴブリンの衛兵に軽く挨拶と自己紹介をする。俺が神鉄の檻に囚われていた"エルフ"である事には気付いていないようだった。俺を囲んでいた兵士たちの中に居なかったのか、夜中だったから気付かなかったのかは分からない。
気になったのは、彼が俺を見て神妙な態度を取っていることである。
初めて会ったときのセクストゥスが、口調を変えただけで態度を急変させたのと似ていると思った。衛兵のゴブリンは態度を急変させたという訳ではないが、俺に対して恐縮したような態度を取っているのは事実である。セクストゥスがそうした理由については、ブリタンニアからここまでの道中で概ね考察済みだった。
結論から言えば、彼は俺の身分が元老院階級のそれだと誤解しているのだ。
元老院階級はエルフの形質を獲得しようとしている。その目的は神威の獲得だが、副産物として、元老院階級、すなわち貴族の中の貴族の血統が、エルフの特徴を持った特有の外見を得るわけだ。そして、俺は彼らに近い特徴を持っている。
髪があり、鼻が小さく、馬の下半身ではなく、目が2つあり、巨大ではない。俺の特徴を列挙してみれば、エルフに似ていない事もないだろう。それが、発音が正しく訛りもない貴族風の喋り方をしている。となれば、俺を見て、喋った者は誤解をしてしまうだろう。アキラは元老院階級であると。
全くの誤解だ。だが、説明して解くのには非常な手間がかかる誤解である。わざわざ誤解を解く必要が無い相手である事もあいまって、俺は雑に対応することにした。恐縮する衛兵に銀貨を渡す。
トニトリウスから食料調達の予算として貰ったものだ。トニトリウスの想定より旅程が縮まったので、余りが出たのだ。
「私はケントゥマルスと秘密の話をしたい。少し外して貰えませんか」
平静な声と表情でそう告げると、彼はびしりと右手を斜め上に突き出す敬礼をして――俺は眉を顰めないように意識させられ――、壁沿いに立ち去っていく。
その様子を見ていたケントゥマルスは、髭を扱きながら、ふさふさの眉の下で目を丸くしていた。
「こりゃまた、随分と出世したようじゃのう、アキラ」
どういう経緯でどういう立場になったのか、興味津々という様子のケントゥマルスが問いかけてくる。
「まあ、私の話は後で。今は、あなた達が港湾都市アトナテスから帰った時の話を聞きたいです」
「わしらの話か? 大したことではないぞ。行きと同じく山脈を越えて帰って来ただけよ。この辺りは治安が良くない、賊を討伐したくらいじゃ」
本当に行きと同じだったんだな、と安心すると同時に、どこかもやりとした感情が渦を巻く。
「セクストゥスの様子はどうでしたか?」
言って気付いた。俺は、未だにセクストゥスとの別れを引きずっているのだ。
はて、と呟いたケントゥマルスは、顎髭をしごきながら、セクストゥス、セクストゥスなァともごもごしている。
セクストゥスがどうだったら嬉しいのか、それさえ判然としないままに、焦れる気持ちを隠してケントゥマルスの返答を待つこと数分。
「普段と変わりはなかったように思うぞ」
俺は、どうやらその返答が気に入らなかったらしい。悶々とした気持ちが腹の底で渦を巻くのが分かった。
――達者で暮らせ、アキラ。
腹の中では全くそう思っていなそうな、絞り出すようなセクストゥスの言葉が、胸に刺さったまま抜けないでいる。
「わしらは、マーレ市における奴隷の仕組みに詳しくなくての。セクストゥスが奴隷上がりらしいから、あやつの言う通りにしたのよ。目論見が適って早めに年季が明けたというところかの? ……ああ、分かっとる分かっとる、3体が来るまで答えは待つわい」
まあ、いいか。わだかまった感情に無理矢理蓋をして、セクストゥスと雑談することにした。
話題はとりとめもなく変化していく。彼はすっかり同胞の全滅から立ち直ったようで、本来の性格と思しき明るさと愛嬌を取り戻していた。
「ふむ、後でお前の出自の話を聞けるというなら、今はわしの話をするか。わしはもう少し西のパンノニア属州生まれでの」
「ああ、アメテュストゥスが言っていましたね。どのような土地なのですか?」
「広大な森と沼地の土地じゃの。ここと変わらん程度に寒いから小麦は実らん、ライ麦や大麦ばかり食っておったわ」
舌を出し、顔をしかめながらそんな事を言うものだから、俺は思わず微笑んでしまった。最初は敵性生物と一括りにした彼らにも食の好みはあるのだ。それを思えば思うほど、彼らのことが人としか思えなくなってくる。
別に、モンスターとの交流を禁じるルールもない。だが、思えば随分とモンスターの国に馴染んだものだと、我ながら驚きを感じる。
「大麦はお嫌いですか?」
「小麦に比べると、流石に劣るの。特にパンにすると大麦は酷くてなあ、硬いしひび割れるしで保存性も悪い。美味い食い方となると、ビールの原料に使うのが精々じゃの」
先生たちに教わった知識が語りかけてくる。小麦に含まれるタンパク質であるグルテンには粘り気があってパンをふわりと膨らませる。一方、大麦のタンパク質であるホルデインには粘り気が無い。だから大麦はパンに不適なのだ。
一方、大麦は小麦に比べて吸水性が高い。より多くの水を含むため、炊いて食うなら大麦の方が美味いのである。粥にするなら消化吸収においても大麦の方が遥かに優れる。彼らはそのことを知らないのだろう。
「粥で食べるなら大麦の方が美味しいですよ。よく水を吸うので消化吸収にも良いのです」
というと、ケントゥマルスが目を細めた。
「ほお、大麦粥か。……食いたくないのう、そんなもの」
眉の奥の瞳が苦しみを表明するように濁る。まずい事を言ったらしい。
「大麦はいけないのですか?」
「食事抜きの罰を食らうとな、小麦粥が大麦粥に変えられたり肉を没収されたりするんじゃ。軍団では大麦は家畜の餌よ。それを食うのは、兵士となった今では屈辱じゃよ」
分かるような、分からないような。奴隷身分になると決まった時、食わせてもらえるなら何でもいいかと思っていた俺とはかなり違う。文化の違いだ。
港湾都市アトナテスまでの旅路で食べたライ麦は大麦よりも遥かに劣る味わいだったが、あれを支給されたのも食事抜きの罰によるものだったのだろうか?
「行きの食事はライ麦でしたよね。あれも、その食事抜きの罰だったのですか?」
「そうじゃ。相手がエルフとはいえ、奴隷狩り程度の任務で補助兵の1部隊が全滅したんだから、そりゃ罰も食らうというものよ。訓練が不真面目だったせいだ、とか言われたもんじゃわい」
あっけらかんと言うケントゥマルスに対して、俺の脳裏を苛立ちが走る。
マーレを壊滅まで追い込みかけたエルフの本拠地に、百体程度で捕獲しに行けと命じた暴挙がまずおかしいのだ。しかも、仮に成功したとしても問題がある。トニトリウスがあそこまで気を遣っている『巨大樹の森』に対する宣戦布告になりかねない軽挙だからだ。
恐らく元老院からの命令があったのだろうが、第1に従うべき最高司令官の意向を理解できていない。
第1イタリカ軍団の軍団長は現実が見えていないタイプだと感じた。ケントゥマルス達に罰を加えたのも、元老院からの指示をこなせなかった憂さ晴らしに近いものなのだろう。
筋が通っていない。
だが、俺が怒るのも筋違いだ。
体にみなぎった怒気を、ゆっくりと腹に沈めていく。トニトリウスの子分とはいえ、俺はただの輸送係だ。何を意見する権利もない。怒っていても俺の気分が悪いだけだ。
「アキラ、どうして貴様が怒るのだ。わしらは兵士じゃ。出世したお前から見れば大した事でもないじゃろうが。いや、アキラ様とお呼びするべきでしたかな?」
一方の眉を上げて、冗談めかしたようにケントゥマルスが言った。
だが、今更になって他人行儀にされても困る。俺は顔をしかめてしまった。
「やめてください。冗談でも。私たちは友人でしょう」
突き放された気がしてそう言い募ると、ケントゥマルスは真面目な調子で返してきた。
「そうじゃの。わしらは友人じゃ。だが、立場が変わったならば、それなりの言葉使いが必要なのは世の理じゃろうよ」
わしらは、たかが補助兵、属州民の立場じゃからして。そのように言うケントゥマルスに、俺は二の句が継げなくなってしまう。
トニトリウスの子分という立場は、恐らく彼らの恐縮を受けるに十分な立場だろう。エスィルトを助けるために必要だったとはいえ、俺と4人の補助兵との間には、大きな身分差が生じてしまった。
俺とエスィルトは奴隷身分から解放された。それはつまり、市民権を得たという事だ。トニトリウスから小遣いも貰えるし、それが無くても小麦の支給が受けられる。ここマーレが基底現実の古代ローマとほぼ変わらない以上、属州民であるケントゥマルスたちより、明確に一つ上の身分になったと考えていいのだろう。
だからこそ、俺なりに努力はしたとはいえ、ズルをしてそうなった事実が俺の胸を引っ掻いている。
何も言えなくなってしまった俺と、何を言うでもなくなったケントゥマルス。俺たち2人は、門の前で呆けたように立ち尽くす事になった。
寒い冬の朝の渇いた空気が俺たちを包み、太陽が中天に上るまで、俺たちは無言を貫いた。
4時間も沈黙が続くと、いい加減に辛くなってきた。俺はあまり黙り続けるのが得意ではないのだ。話題は何かないだろうか。しかし、この4時間ほどで生じた音は、時折ケントゥマルスが革袋から水を飲む音と、陣営内での調練の音が聞こえるくらいだった。
ピンとくる。調練か。
そういえば、俺は補助兵になれと命じられているのだし、受けることになるのだろうか。
「そういえば、私も補助兵になれと言われているんですよ。どういう訓練を受けるのですか?」
片眉を上げたケントゥマルスが、もの言いたげにしながら答える。
「槍。ひたすら槍の訓練じゃ。あとは装備を纏って歩いたり走ったり隊列を組んだり、そういった調練ばかりじゃったよ。そもそもわしらの部族は槍使いばかりじゃった。訓練そのものが不要じゃ、と最初は思っておったがの。とんでもなく過酷な内容じゃから、随分と鍛えられたわい」
まあ、その部族もわしを残して皆死んだが。などと告げられては、何も言えない。
槍か。いや、ケントゥマルスは槍だった、という事なのだろう。
「私は何をさせられると思いますか?」
「分からんのう、たったの2か月で年季が明けたくらいじゃ、お前なら何でもできるじゃろ。軍団兵に組み込んでしまっては勿体ない故に補助兵になれと命じた、くらいに捉えておいた方が良いと思うぞ」
言われてみれば、トニトリウスも概ねそういった事を言っていたような気がする。
納得した俺は、今後するべき事をピックアップし、ルールに照らして可能かどうかの判断をする作業に入ってみる。
ケントゥマルスは、そんな俺の様子を面白そうに眺めた。
「ふん、命じられたという事は誰ぞの子分になったか。軍団の事が分かり、お主の能力を認め、使い方を見出せる……まあ、軍人じゃろ? わしに心当たりがあるのは、トゥルス将軍くらいじゃのう」
トニトリウスの不興を買いかけた原因だから、しばらくは聞きたくなかった名前だ。げんなりした。
ペニシリンは作っていいだろうか、などといった算段が頭の中から消し飛んだ。
どうしてトゥルスと知り合いなんだ?
「ほ、当たりか。元老院議員の子分とは、随分と出世したものよ。上手くやったのう。……元気にしていらっしゃるか? ダキア戦争では巧みな指揮と勇猛な戦いぶりを見せてくださったものよ。怪我などされていないか?」
口ぶりからすると、第1イタリカ軍団を指揮してダキア戦争を戦ったのがトゥルス、という事になるのか。変な所で因縁が絡まっている。
明確に敵対関係、しかも俺が半殺しにした仲だと教えるのもなんだと思ったが、これから身の上話をするというのに誤魔化して何の意味があるのか。
「大怪我をしています。私がさせました」
ケントゥマルスが不安そうな手つきで髭をしごいた。
「前の軍団長がトゥルス様でのう、彼は補助兵だからと言って粗末に扱うような事はせなんだ。そういう方の下だったからこそ、わしらも満足に戦えたというものよ。で、そんな方を怪我させたと? それで出世に成功しているという事は――ああ! トニトリウス帝の子分になったのか?」
俺に対する不満や怒りは確かにあるだろうに、彼はそんな様子を見せずに話を続けてくれた。ホッと胸を撫でおろす。
「まあ、女々しい戦知らずの子分でないなら構わんとも。わしはトニトリウス様にも不満はないぞ。彼ほど勇猛な将軍をわしは知らぬ。……神威を持っておるとはいえ、彼ほどの戦果を挙げた将軍はおらなんだよ」
平和主義のトニトリウスにも戦争に耽溺した時期があったのか――と驚く気持ちが芽生え、即座に否定する。彼の理想を思えば、出世のために必要だったから殺したというだけな気がする。
出世のため。必要だから。理想とする国家の形があるから。そういう言い訳さえあれば、嫌いな戦争でも張り切るというわけだ。その有り方は、俺が思うトニトリウス像からさほど外したものではない。
身振り手振りを交えて会話する俺とケントゥマルスの姿が、門前にあった。
良い調子だ。このまま3人が帰ってくるまで会話を続けたい。そう思っていると、遠くからシューという特徴的な吐息の音が聞こえた。
「アキラではないか」
ピソの声がしたので、そちらを振り向く。丘の上の方から、3人が進んでくるのが見えた。
ピソは相変わらず台車を引いていた。猪や鹿が、俺を運んだ懐かしい台車一杯に積まれている。
アメテュストゥスは、確かに俺だと認めると、大きく手を振ってきた。
既に懐かしい日々を思って、俺も手を振り返す。
セクストゥスは、振り返してこなかった。
書いてて辛いパートに入ったので、次回投稿までしばらく時間をいただきます。2週間以内には書き上げます。