Ⅰ-Ⅸ 子分-②
「こんな大きな獣を一撃とは。凄まじいな」
殺害した猪は、その場でトニトリウスに斬首して貰って血抜きをした。心臓の鼓動が止まって血流が止まったあたりで、猪を抱えて野営地に戻る。若干弱くなった焚火の炎が俺たちを出迎えた。
トニトリウスにはウサギの肉を食べさせ――塩気がないと文句を言われた――俺は猪の処理に向かう。
河まで猪を持っていき、まずは皮と肉を丁寧に分けていく。エスィルトの作業を見て気付いたのだが、獣の皮は非常に頑丈で良く伸びる。だから、後門辺りで皮の裂け目を作ってやれば、簡単に皮と肉を分離できる。皮目に沿って指を差し込み、肉と皮を分離していくのだ。
肉だけになった猪の腹を引き裂いて内臓を取り出す。草食動物なので本当は内臓も美味いのだろうが、鍋が無くては灰汁抜きができない。灰汁抜きをしていない内臓は非常に臭みが強く、この夜営地では美味しく食べることができないだろう。
腸管や心臓、肝臓などは、よく洗ってよく煮れば美味しく食べられるはずだ。熊でも美味かったのだから、猪ならばなおさらだろう。しかし、腸を破れば糞が、膀胱が破れれば尿で肉が汚れる。仕方なく、本当に仕方なく内臓を河に流すことにした。
肉だけになった猪を河の水に晒して腹腔内の汚れ落としをする。河に入り、流れの中で血を洗い落とす作戦だ。寒さに耐えて猪肉を洗っていると、ウサギを食べ終わったらしいトニトリウスが、手持ち無沙汰の様子で河辺に歩み寄って来た。
「上手いものだな」
既に日が暮れて暗くなっているのに、距離もあるのに、俺の手元が見えるものらしい。やはり彼の視覚も俺と同様に拡張されている。あるいはエルフの血によるものなのかもしれない。マニュアルにはエルフの視覚は非常に優れていると書かれていた。
いつかの思考が蘇る。彼の中に流れるエルフの血は、どこから来たものなのだろう?
「本当は食べられる内臓も捨ててしまいました。エスィルトならこうはしませんでしたよ」
「彼女は狩猟に長けたイケニ族の者だ。比べても仕方あるまいよ」
エスィルトの出身を知っているのは薄々感づいていたが、ここまではっきりと匂わせてきたという事は、把握しろという指示なのだろうか。
気になっていたのも事実であるし、作業中の労作歌としてトニトリウスに問いかけることにした。距離があるので、大声で。
「エスィルトの出自について、どこまでご存知なのですか?」
「全て知っているとも。伝えておこう。彼女はネリウス帝の前の時代にブリタンニアの南部で、蛮族の王女として生まれたのさ。部族の名はイケニ、父の名は、お前も知っての通りプラスタグスという」
「彼女の話からすると、母が二脚狼氏族でしたか。ならば、エスィルトの父がエルフなのですか?」
「その通り。プラスタグスは『巨大樹の森』から流れて来たエルフだと聞いている。
とはいえ、マーレはイケニ族を貪りすぎた。エスィルトを助けることで反省を示せればと思ってな」
どういうことだ?
エスィルトを助ける理由を教えてきたのは分かる。だが、前提となる文脈が分からず、上手く飲み込めない。
一人で考えていても仕方あるまい。話を先に進めよう。
「では、トニトリウス様に流れるエルフの血も、プラスタグスのように、マーレへと流れて来たエルフのものなのですね」
血抜きは大方終わった。後は切り分けて熟成させなければ滲出してこないだろう。
猪肉を抱えて河を上がると、トニトリウスは返事をするでもなく、立ったまま渋い顔をしている。
水から上がってすれ違ったとき、トニトリウスが、水面を見つめながらぼそりと呟いた。
「エルフはいつでもマーレを狙っている。彼らの姫君の血が、我々に流れているが故に」
軽口のつもりで叩いた言葉が、トニトリウスの身の上話に繋がった。これは聞いてもいい話なのかと気にはなったが、彼が話しているのだから、むしろ聞くべきなのだろう。
だが、河は夜の暗闇が映り込んで吸い込まれそうで嫌だ。
俺がトニトリウスを置いて火へと歩き出すと、彼も付いてきた。
「マーレの成り立ちから話をするべきか。どうせお前は知らんだろう」
焚火に辿り着き、猪肉を指で解していく。
俺は話を聞きながら作業を進める態勢に入っていた。
掌サイズに千切った肉を木の枝で作った串に刺し、火にかけて焙る。血の匂いがわずかに香る。血抜きが足りなかっただろうか。肉から滴り落ちた肉汁が焚火に落ち、パチパチと弾ける音がする。
トニトリウスは話に集中していない俺に対してちらりと目をやって、小さくため息を吐いた。
「どうせならば児戯としよう。
建国時のマーレは男がほとんどを占めており、女は極一部だった。次世代を生み育てるのは無理な状況だったのさ」
だったらなんで帝国と言えるほどに広がったんだよ。
心の中で突っ込みを入れ、手元からトニトリウスへと視線を移す。
彼はにやりと笑っており、重く涼やかな声のまま問いかけて来た。
「では、当時のマーレはどのように次世代を授かったのだと思うね?」
なるほど、これは設問だったらしい。
基底現実なら答えは単純だ。幹細胞から卵子を作れるのだから、生殖に性別は関係ない。しかし、性交による人口生産を行っている、この原始的な時代において、その答えは的外れだろう。
考え方を変えてみよう。
居ないのなら、連れてくる?
「周辺の国家に、子宮が健全な女を渡すように要求した……でしょうか」
「妙な表現を使うな。だが正しい。周辺の諸都市に結婚式を持ちかけたそうだ。だが、それは断られたと聞く」
「何故ですか?」
トニトリウスの設問へと意識が集中していくのを自覚しながら問いを返す。
「当時、マーレは国民を増やす必要があった。門を叩く者なら誰でも受け入れていたらしい。例えば、周辺の諸都市で犯罪者として追われてきた者とか」
なるほど。そんなことをしていれば、周辺都市から見たマーレは犯罪者の巣窟となるだろう。
そんな所に人口生産に必要な女を送り出すのは嫌だろう。
いや、よほど女が余っている訳でないならば、どんな所にでも送りたくはあるまい。女がいなければ人口が増えず、必然的に働き手も戦士も増えないのだから。
となると、なおさらマーレに女たちを渡すのは嫌か。
犯罪者が増え、軍を組織し、故郷へ復讐しに帰ってくるかもしれない。
考え方を変えよう。
どうにかして女を手に入れる必要がある。合法的な手段は断られた。ならば、次に来るのは非合法的な手段となるはずだ。
エスィルトの顔が脳裏に浮かぶ。嫌な想像を振り払って次の回答を提出した。
「女を求めて、周辺諸都市に戦争を仕掛けた」
「違うな。最初期のマーレは弱い国だった。戦争を仕掛ける地力は無かったはずだ」
合法的にも非合法的にも女が手に入らず、しかし男ばかりの国家が帝国まで成長した?
どういう事だ。現実と理屈に辻褄があっていない。
「分かりません。それではマーレが成長することはできないはずです」
「ふむ? 思っていたより想像力が弱いか。まあ考えてみろ。戦争を仕掛けるというのは悪くない回答だった。女を手に入れるにあたって、信義に背く手段を使ったと考えてみろ」
信義に背く手段、と言われても。
何でもしていいなら、もう少し考えようはある。コンセプトの入れ替え。態度の急変。
――羊の皮を被った狼だ。
例えば、平和的に女たちを招く。食事会とか、大規模な劇の開催とか。女に限らず、家族ごと招けば警戒心を殺げるだろう。
その最中に女たちを強奪するのだ。これならばどうだろう。
戦争で奪うわけではなく、いざ戦争になったなら女たちを盾にそれを回避できる。
「平和的に女たちを招き、強奪した……などはどうでしょう」
トニトリウスは、片目を閉じて、もう片方の目で俺を見つめた。
しばらく付き合って気付いた、彼のサイン。これは、正解を目の当たりにして評価を改めた時のそれであり。
俺の推測が合っている事を意味する。
「概ね正解だよ、アキラ。当時のマーレは、海神に捧げる大祭を開き、近隣諸都市のオークの家族たちを招いたのだ。神に捧げる祭りに暴力は似合わぬ。だが、マーレ市民は合図とともに娘たちを略奪した」
悪い想像が当たってしまった。串を握る手に力が入り、へし折れて肉が火へと落ちてしまう。
炭まみれになった猪肉の表面を払い、再び串に突き刺して火にかける。
脂が滴って火勢が強まる。俺の腹の中で煮えたぎる怒りに似ている。
ルール違反。俺を怒りに駆り立てるその理由はそれだった。
あるべきルール、社会と社会の間にあるべき不文律を粉砕したというその成り立ちは、マーレに対する嫌悪感を抱かせるのに十分であった。
加えて、尊厳を蹂躙された娘たちにエスィルトの姿が重なる。奥歯が砕けそうなほど、嚙み合わせに力が入った。
トニトリウスは、俺のそんな様子を眺め、胸に手を当てて話を続ける。
「我々にエルフの血が流れているのは、その娘たちの中に、『巨大樹の森』から来たエルフの姫が混ざっていたからだよ」
トニトリウスの容姿の理由は分かった。分からない方が良かったかもしれないほどに悍ましい理由だったが。
エルフの姫が通った経路を想像してみる。
『巨大樹の森』からマーレ市までは1か月と半月ほどの距離がある。俺はマーレ市から北上する街道を進んだが、山に入らずに海沿いに進めば『巨大樹の森』の方面に辿り着けることは想像に難くない。
当時はマーレが街道を作っていなかったであろう事と、俺が海路を使った事を考えると、1ヵ月半よりも時間がかかったかもしれない。
何のためにそんな長旅をしたのかは分からない。だが、それだけの道のりを旅した先で祭りをしていれば、立ち寄ることもあるだろう。
それが最悪の結果を齎してしまうとも知らずに。
肉の焼き加減が丁度良くなってきたので、火から下ろす。綺麗な方をトニトリウスに渡し、「野趣ある食事だ、悪くない」との言葉を賜った。
火に落としてしまった方を齧ってみる。
糞の味がした。気分が悪いからだ。
「恥ずべき歴史だ。我々が今ここに居るために必要な事であったとは言っても」
トニトリウスもまた、苦々しげに口の端を歪める。
このまま食事をしていても仕方がない。俺は砂を噛むような気持ちで肉を食い切り、彼に続きを促すことにした。
「エルフがマーレ帝国を狙っているのは、土地が欲しいのではなく――復讐のためなのですね」
エルフ達の中で姫というのがどういう立ち位置なのは分からないが、姫というからには忠誠を捧げられる立場であるのだろう。それが凌辱され続けて来たとあれば怒りを買って当然である。
「その通り。エルフとの闘争には妥協点が無いのだ。だから、可能な限り彼らを刺激したくないのさ」
この壕もそのためのものだ、と締め、もしゃりと肉を嚙み千切るトニトリウス。
エルフが『巨大樹の森』から出てくるらしいのは、エスィルトの父の事からも分かる。マーレに敵意を抱くエルフが帝国辺境にやって来てすることと言えば、襲撃の扇動になるだろう。
そうなったとしても、大規模な壁と壕で戦意を挫ける。だから、トニトリウスの戦略におかしく所はない。
違和感があるのは一つだけだ。
「エルフに怯えすぎではありませんか?」
「怯えもするさ」
食事に集中していたトニトリウスが、唇の脂を拭って独白を始めた。
「マーレ建国初期、略奪された娘たちを盾にして周辺諸都市を併呑したマーレは、やがてイタリカ半島全域を本土とする巨大な連合体となった。その連合体が危機に陥ったことがある」
鼻の頭を手の甲で擦り、苦々しげに続ける。
「ハンニバル、といっても知らんか。350年ほど前の事だ、矮人たちがマーレを滅ぼすために、北の山脈を越えて来たのだ。それにエルフ達が随行してきたのだよ」
ハンニバルは知っている。基底現実にも存在した人物である。帝国として成長する前の共和政ローマを襲撃した、海運国家カルタゴの軍略家だ。彼は軍を率いて陸路でアルプス山脈を越え、共和制ローマを北方から襲撃してのけた。地中海世界で2番目に優れた戦術家と教わった。
俺が脳内で基底現実の知識を呼び出していると、焚火が作るトニトリウスの影が震える。火の揺らめきではない。彼の肩が震えているのだ。
彼は腰巻から鞘を引き抜いた。何をするのかと思えば、それを抱きしめるように抱える。武器を手にしたことが安心感を与えたのか、彼の肩の震えは少しだけ収まったようだった。
「ハンニバルとエルフ達の手で、マーレは滅んでもおかしくない所まで追い詰められた。特にエルフが獰猛でな。我々より遥かに長く生きる彼らは、姫を攫われてよりずっと牙を研ぎ続けて来た。それが剥かれたゆえ、マーレは苦境に陥ったのさ」
歯の根が合わない。言葉の節々が震えている。
どんなに恐ろしい事だったかは、基底現実でのハンニバルの大暴れと合わせて想像は付く。それに加えてエルフが戦力として加わったならば、マーレは本当に壊滅の一歩手前まで追いつめられたのだろう。
とはいえ、350年も前の事ならば、彼自身が経験したことでは無いはず。それなのに、皇帝たる者が怯えている。
マーレ帝国がどれだけエルフを恐れているのか、彼の態度からはっきりと伝わって来た。
「我々が生き延びて今あるのは、当時の将たちが懸命に努力したからに他ならない。だが、それを成せたのもまた、将たちがエルフの血を継いでいたからに他ならぬ」
トニトリウスは抱えていた鞘を膝に置き、両手を広げる。
その手の間に、電光が走った。電撃の神威である。
「エルフの血が混じったマーレの民には、稀にこのような神威に目覚める者がいる。私のような雷撃使いや、義父のような物質創造。珍しい所では海を操る者もいた」
義父――アウェンティネンシスのことか? まさか、アウェンティネンシス帝もこの異世界に生まれ育った人物なのか?
疑念が浮かび、頭を振って打ち消す。そんなことは今となってはどうでもいい事だ。
トニトリウスが現地生まれなのだ、アウェンティネンシスがそうだったという事もあるだろう。だから、考えるべきはそれではない。
――エルフの血がゴブリンやオークに混じるとチートが発現する?
そんなことがあるのか? 理屈が分からない。トニトリウスが語る通りの理由であるとは到底思えない。もっと何か、根本原因があるはずなのだ。
なにせ、魂に貯蔵されたエネルギーがチートの根源だという仮定と、エルフとの混血の、2つの要素には全く関係が見いだせない。
関係が分からないから違うと言い切るのは筋が通らないが、説明になっていない説明で納得など出来ようはずもない。
ちらりとトニトリウスを見やる。彼の顔は電光を受けて白く輝いていた。
確かに、彼は神威と呼ばれる異能を発現してのけている。
現実は現実だ。理屈は分からなくとも、今ここにチートが発現していることは受け入れなければならない。
トニトリウスは雷を止め、剣を仕舞ってから独白を続ける。
「エルフ達を撃退できたのは、確かに戦略と兵力の差だ。しかし、長寿ゆえに長年の訓練を積んできたエルフ達の武勇はそれだけで何とかなるものではない。
神威を持つ将がいたからこそ成った、奇跡のような出来事だったのさ」
頭の中で断片が繋がり出す。
エルフの血統を欲しがる貴族。インブリード。エルフへの怯え。
――今のマーレには、チートを持つ者が少ないのだ。
下手をすると、トニトリウスしかいないという事すらあり得るのではないだろうか?
そんな状態でエルフを刺激したら不味いだろう。
「では、アウェンティネンシス帝によるダキア併合は相当な失策だったのではありませんか?」
「失策どころの騒ぎではない。いつ何がエルフを刺激するか分からん故に、事は簡単に国家の存亡に繋がりうる。私も、帝位についてすぐにダキアを放棄しようとしたとも。だが、元老院の者たちはエルフの血に飢えている。多くの戦争を経験して強くなったマーレならば、エルフを蹂躙できると思っているのさ。つまりな、『巨大樹の森』の近くに基地を構えるという事の意味が、私と彼らで違うのだよ」
トニトリウスはエルフへの刺激を避けるためにダキアからの撤退を求め、元老院はエルフの捕獲を求めてダキアの放棄に反対する。
たしかにこれは対立だ。全てを詳らかにしてみれば、理があるのはトニトリウスであるように思える。
だが元老院からすれば、トニトリウスがエルフの血統を独占するためにダキアから撤退しようとしているようにも見えるだろう。
と、ここまで考えて気付く。
最初に出会った4人の補助兵は、エルフ捕獲の命令を元老院から受けた軍団長に命じられた、という経緯で『巨大樹の森』に入ったという事になるのだろう。
神鉄の檻と手錠足錠を持っていたのはそれ故だったのだ。エルフを捕らえるためだったとすれば、あれだけの重装備で行動していた事に違和感は無い。
思わず苦笑する。それで捕まえたのが、エルフでも何でもない基底現実人の俺か。
今となっては懐かしい。
基底現実から降着して、既に2か月が経った。サルベージまでの時間としては平均といったところ。最長で2年も異世界に転移していた事例はあるが、そこまで長くならなければありがたい。
なんと言っても、俺はトラブルを起こしがちだ。トニトリウスへの攻撃も、エスィルトを攫って来たのも、最初にエルフに挨拶して攻撃されたのも――待て。
――木を大切にしろって何回も言われたもんさね
イタリカ半島、山越え前夜の野営でエスィルトに言われた言葉が不意に蘇って心臓が跳ねる。
「アキラ、どうした」
よほど顔色が悪くなったのだろう、トニトリウスが話しかけて来た。
俺は頭を回していた。
最初、俺は『巨大樹の森』に降着した。その後に何をした?
力試しに石を投げ、樹を倒した。方角を知るために年輪を見るべく、樹を手刀で切り倒した。『木を大切にしろって何回も言われたもんさね』。エルフは木を大切にする。破壊した大樹を見て怒りを顕わにしたエルフに対して、俺はラテン語で話しかけた。
ラテン語で。
マーレ帝国の公用語たるラテン語で、エルフに話しかけたのだ。
エルフ達はそれをどう受け取る?
決まっている。マーレ帝国の者が、エルフを捕らえるために樹を倒しておびき出した。そう捉えるに決まっている。
その後逃げ出したのは? 腕を折ったエルフを放置して逃げたのはどう評価される? 好意的に評価されはしないか?
いや――駄目だ。増援が来たから捕獲を諦めたと捉えられるだろう。
クソ、失敗した。何を考えても今更だが、あの場で殺しておくんだったと後悔が募る。どうして殺さなかった? いや、それはいい。あの場で人として正しい態度は殺さない事だった。
まずい、このままでは俺が切っ掛けでマーレとエルフの間に戦争が起こる。
この大失点を白状すると子分の立場を失いかねないが、報告せずに防衛線が崩壊してからでは更に立場が悪くなる。
口がカラカラに渇くのを感じる。緊張で唾液の分泌が減っているのだ。
今、この場で白状するしかない。
「トニトリウス様。私は最初、『巨大樹の森』に降着しました。そこから出発するにあたって、かの地の大樹を2本、折ってきたのです」
早口でまくし立てると、トニトリウスの表情が険しくなった。
「加えて、その様子を検分に来たエルフに対して、私はマーレ語で謝罪をしました」
焚火の照り返しでも分かるほどに顔を紅潮させたトニトリウスが、俺に掌を向けた。激昂させた。当たり前のことだ。
彼が纏う静電気が激しくなったのが分かる。懲罰として、俺に雷を落とそうというのだろう。仕方あるまい。甘んじて受け入れるべく、歯を食いしばって目を閉じる。
だが、いつまでも雷が落ちてこない。
目を開けてトニトリウスを見やると、彼は渋い顔をして俺を睨んでいた。俺に向けた掌は、ぐっと握られ、硬く瞼を閉じた彼の前でふるふると震えていた。
「戦争が起こる。この地の事情を知らなかったお前に責任を問うのは筋違いだ。だが、お前がいなければ事態は収まらん」
許されたのではない。これから事態を収めてのけろと命令されたのだ。
事態は急を要する。トニトリウスの指揮が必要だ。
こんな所で野営をしている場合ではなくなった。一刻も早く元首顧問会との会議をするためにエボラクムに戻す必要があるだろう。
「トニトリウス様、私がエボラクムまでお運びします。背負わせて頂きます」
彼の許可を得る前に、トニトリウスの小柄な体を背負い、野営の跡もそのままに立ち上がる
「う、む。急げよアキラ。――こうなるとは想像もしていなかった。お前の土地に伝わる星の伝説を聞きたかっただけなのだが」
ぶつくさと呟くトニトリウスに、揺れるから喋らないようにと声を掛ける。強く抱き着くのを渋るので、そうするようにとも。
首に回された手と、胴を挟む足に力が入る。トニトリウスの胸板が背に当たる。想像していたよりも柔らかな――エスィルトのそれに似た感触が来て、違和感を覚える。
だが、そんな事は今この状況では些末事だ。俺は夜のブリタンニアを、風より早く南下したのであった。




