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百年誄歌  作者: 待雪天音
9/10

玖:牡丹




「やっぱり、剥がれないな……」


 少し前に手にした、日本のあらゆる伝承の記された古びた書物。その最後の(ページ)をカリカリと引っ掻きながら、文夜はため息をついた。


 馴染みの古書店で手に入れたそれを、最初に読み終えたのは手に入れた三日後のことだ。そのとき初めて気付いたのだが、どうやら最後の遊び紙と、その前の頁が糊か何かでくっついているらしい。


 幸い、本文には関係のない頁のようだったが、文夜という人間は、書物にらくがきやいたずらが為されることを良しとしない男だった。


 もぞもぞする心地の悪さを解消するために、何週間も前からこうして最後の二頁と地味な戦いを繰り広げていたのだが、結果はどこまで行っても平行線だ。なかなか剥がれない白紙の頁にしびれを切らした文夜は、一時休戦を決め込んですっかりぬるくなった湯飲みへ手を伸ばした。


 時節はまだ、肌寒さを感じる春先。芽を出した桜が、じきに膨らみ始める頃。窓の外で鳴く鳥たちの声が、風情豊かに春を告げる声を聞きながら、パラパラと書物を捲った。


 その中には、古今東西あらゆる化け物――(あやかし)と呼ばれるものたち――の性質や古い村々の因習と伝承が収められている。


 多くはおどろおどろしく血塗られた歴史を垣間見せるものだったが、中には妖から身を守るすべが記されている頁もちらほら窺えた。これをもっと早くに手に入れていれば、身を守ることに一華の手を借りる必要もなかっただろうにと思わずにいられない。


 文夜は黄ばんだ頁の海から、山姫の頁を探り当てた。対面に載せられている墨絵は、頬はやつれ、髪はもつれて振り乱された、恐ろしい形相の女を描いたものだ。


 これが山姫だと言うのだから、伝承とは案外あてにならないものかもしれない、とも思う。


「そう言えば――」


「どうしたね、主人」


 ふいに脳裏を駆け巡った疑問に、独り言をこぼしかけたときだ。半分開けたままにしていた襖戸の向こうから、白い着物の女が現れた。顔は死人のように白いが、頬には妙齢の女特有のまろみを帯び、漆黒の髪は油をつけたかのようにさらりと艶めいている。


 書物の墨絵とは似ても似つかない山姫が、薄い笑みを浮かべて文夜の背後に立った。


 気配を殺した突然の登場にも初めこそ驚いていたが、今やすっかり慣れたものだ。文夜は口にしかけた疑問の続きを、逡巡の後に声にした。


「いや、この本を読んでいたら、お前が前に言っていたことを思い出しただけだ」


「私が言っておったこと、とな」


「前に、人から化生に成ったものは他の命を食らわなければ生きられないと。人の世から離れたくて化け物の世界に踏み込んだ、とも」


「嗚呼……」


 焦点が自分の話へ移ったと見るや、一華は気のない返事をひとつ寄越して口を閉ざした。自分から聞いてきたくせに、一瞬で興を削がれたようだ。


「お前は何故、山姫に成ったのだろうかな……と、思って」


「主人は、つまらぬことを考える」


 遠慮がちに問うた言葉は、呆気ない一言で切り捨てられた。にべもなく振り払われるだろうと思っていた文夜は、予想通りの反応に本を閉じる。


 それで終いだと思っていた会話は、けれど、ちらりと一華が本を一瞥したかと思うと小さなため息とともに続けられた。


「然程に私のことが気になるものかね」


「それはそうだろう。もう幾月ともに過ごしているというのに、お前は自分のことを話さないし、僕はお前のことをほとんど知らない。いや、全然知らない、と言って間違いないだろう」


「ヒトは名以外を知らぬままに婚姻を結ぶことも珍しくなかろうに」


「そのような時代は半世紀以上も前に終わったよ」


 いつものらりくらりとかわされる話題に、文夜は今日こそ食らい付いた。もとは彼女から始まった話である。この機に掘り起こさねば、いつ聞けようか。


 一華も同じことを考えたようで、珍しく誤魔化されない文夜の応対に何かしら思うところがあったのだろう。


 聞き分けのないこどもを見る目で文夜を見つめてから、やがてその双眸を眇めて口を開いた。


「時がきた……と、いうことか」


 ぽつりとこぼされた言葉は、虫の声も密やかな静けさのせいで文夜の耳にもしっかりと届いた。


 彼は、何も返さなかった。文夜が一華の知らぬことをあれこれ考えているように、彼女もまた、文夜の与り知らぬところで様々なことを考えていたのだろう。


「知りたいのなら、主人の思う儘にすれば良い。ただし、私は此度ばかりは一切助けないよ」


 憮然と唇を引き結んだ女は、表情を失くすとより怪異じみて見えた。


「勝手にと言ったって……」


 手がかりもないのでは彼女の何を知ることができよう。続けようとした言葉を、文夜は思い留まって呑み込んだ。


 ひとつだけ、手がかりになるかもしれないものに思い当たったのだ。


 先日、彼が登ろうとして蹉跌(さてつ)した山の頂。そこに文夜が向かうことを、一華はやたら渋っていた。ならばそこに、彼女にとっての心乱すものがあると考えるのは割に筋が通っているだろう。


 しかしてそこに一体、何があると言うのだろうか。


(まぁ、いいか。行ってみればわかるだろう)


 生まれた疑問にはすぐにそう結論付けて、彼は「わかった」と短く返しながら先日の登山道具の準備を始めた。




 ◇ ◆ ◇




 準備が終わる頃には、一華の姿はどこにも見当たらなくなっていた。宣言どおり、ついてくる気はないらしい。


 文夜は登山用のバックパックを背負うと、日も高くなってから家を出た。


 それほど大きくはない山だが、登るならばもっと早くに家を出るべきだったなと考える。


 果たして、日が落ちるまでに帰って来られるだろうか。下手をすれば山頂の廃寺で夜を明かすことになるのではないか。次々に懸念が頭の隅で生まれては消えた。目の前に示された好奇心への鍵という誘惑には抗えなかった。


 道中で人ならざるものに化かされた先日のことがあったので、充分に備えを用意しておいたが、果たして、今回は狐にも狸にも、もちろんそれ以外の何者にも化かされることなく順調に山道を進むことができた。


 日の入りも少しずつ遅くなってきたものの、太陽は刻一刻と傾いていく。黙々と動かす足は、進むにつれ険しくなっていく足場に何度か躓きかけた。


 いつもならば、人間離れした力でひょいと後ろから引っ張ってくれる手も、今はない。


 それでも彼女のことを知る道を選んだのだから、文夜はなんとしても自力で登りきらなければならなかった。


(僕はどうして、自分のことでもないことにこんなに必死になっているんだ)


 疲れに魔が差して、心の内でため息をつく。悲しいかな、何故と考えれば“それが物書きというものの(さが)だ”という答えしか出てこない。興味を惹き付けられた目の前の未知に、手を出さないではいられない生き物なのだ。


 そうして何度目かの己への疑念を覚え始めた頃、日の落ちかけた薄暗い視界がパッと開けた。斜面に生い茂っていた木々が薄らぎ、その間の平坦な場所に突然の人工物が現れる。


 所々が欠けた瓦屋根の、薄汚れ、朽ち果てた純和風の門構えがそこに在った。


「これが噂の……」


 幽霊廃寺。続く言葉は、声にすればよろしくないことが起こりそうで心の内に留める。


 いくらか早くなった心音を唾を飲んで押さえ付けながら、文夜は門扉を開いた。


 塀の中は、飛び石の置かれた小さな前庭だった。長いこと人の手の入っていない庭は荒れ放題で、名前もわからないような雑草が足の踏み場もなく跳ね回っている。


 その少し先に、平屋作りの母屋と小さなお堂が佇んでいた。門と同様に、屋根が欠け、薄汚れた壁がひび割れ、その隙間から植物の蔦や根が侵食している。いくらか迷って、文夜は母屋の方に足を向けた。


「お邪魔します」


 万が一に“何か”が居ては礼を欠くわけにはいかない。


 軒先まで来て扉へ呼び掛けると、果たして、ぞっとするほどに細い声が聞こえた。


「はァい」


 カラカラカラ、と、もどかしいまでにゆっくり引き戸が開かれる。その隙間から鬼が出るか蛇が出るかと戦々恐々の心持ちで、文夜は待った。


 このような場所に、生身の人間が住んでいるはずはない。となれば、害のあるものかないものかは置いておいても、この声の主もまた、一華と同質のものなのだろう。


 どくん、どくん、と喉元まで迫り上がって来る恐れを噛み殺して、文夜は開かれた扉の向こうを見た。


 戸を引いて、そこに佇んでいたのは、一華とはまた違う美しさを持つ女だった。一華の美しさを「この世の者ではないような」と形容するならば、目の前の女のそれは、「この世で一番美しいと讃えられるべき」美しさだ。


 淡い桃色に金糸の縫い取りが施された着物を着て、手には無地白色の紙灯籠を提げている。小さな火の揺らめく灯籠の上部には、同じ色の牡丹の花飾りがあしらわれていた。


 文夜はそれを、何かの画集だかで見た覚えがある。あれはそうだ、浮世絵師の月岡芳年(つきおかよしとし)大蘇芳年(たいそよしとし)の雅号で描いた妖怪画の連作。新形三十六怪撰しんけいさんじゅうろっかいせんに見る――。


「牡丹、灯籠……?」


「まァ。まァまァまァ。そのような知識のあるお客人は久しぶり。みィんな驚いてすぐに出ていくんですもの。あなたはコチラ(・・・)の方かしら」


 狐のようににんまりと目を細めて笑う顔さえ、どこか愛嬌のあるその女だが、文夜は腑に落ちない顔で一歩、後ずさった。


「牡丹灯籠は、だって、創作怪談だったはずだ。まさか本物が居るわけがない」


 世に名高い四谷怪談や、番町皿屋敷に並ぶ、日本三大怪談と呼ばれるそれに、モデルがないわけではないが、現場はいずれもこの地域ではない場所だ。


 驚きを極力顔に出さないように唇を引き結んだ文夜だったが、彼女はくつりと笑いを漏らすと、口許を袂で隠してころころと笑った。


「おかしなことなど、何もありはしませんわ。世にはお岩さんの呪いだって、お菊殿の呪いだって溢れてございましょ」


「あれは、その……そう、語り継がれた物語が怨念にでもなったのだろう。人の恐れの念とは、時として独り歩きするものだ」


「わたくしもそのようなものにございますれば」


 ころころ、くつり。ころり。


 鈴の音のような声でおかしそうに笑う女は、半歩身を引いて戸口の中へ促した。


「語り継がれた怪談話が、様々な人々の恐れの念が、力を持ち、意思を持ち、わたくしという存在を造り上げた。ですからわたくしの名も、あなたさまにはわかりましょう」


「お露……さん、と?」


「あるいは、麗卿(れいけい)、と。(いみな)もお知りでございましょうが、口にすることは勘弁くださいましね。

 さ、このようなところで立ち話も難でしょう。打ち捨てられた廃寺ではございますが、中へお上がりくださいな」


 文夜はいくらか迷った後、麗卿――彼女が自ら名乗ったので、こちらの名で呼ぶことにする――に招かれるまま、おっかなびっくり屋敷へ足を踏み入れた。


 ギィギィと軋む床は、うっかり足音を立てると踏み抜いてしまいそうなほどに傷んでいた。夕闇の覆い被さる室内は、所々に牡丹灯籠が提げられており、漆喰の日焼けまでもを浮き彫りにする。


 彼女は文夜を茶の間と思しき部屋へ通すと、傷だらけの卓の前にほつれた座布団を敷いた。所詮はあばら屋だ。ファンタジー小説のように怪奇補正で部屋が整えられていたり、卓の上の砂埃が綺麗に取り除かれているなどということはなかった。


「お茶の一杯も出せませんで、ごめんなさいましね」


「いえ、お構いなく。――ところで、念のために聞いておきたいんだが……僕はあなたに取り憑かれたりするのだろうか」


 牡丹灯籠と言えば、お露、あるいは麗卿という女の霊に惚れ込んだ男が彼女に取り憑かれ、夜な夜な逢瀬を重ねるという怪談だ。


 結末はその類型によって微妙に違うが、いずれの話も取り憑かれた男は日に日に生気を奪われ、やつれていってしまう。自分もそのようになるのではぞっとしない。


 バックパックを脇に下ろしながらそんなことを考えていた彼に、麗卿はまた鈴を転がすような声で笑った。


「安心なさってくださいな。わたくし、細っこい腕より、刀を振るえる逞しい殿方の方が好みですの」


「それは安心すればいいのか項垂れればいいのか……微妙なところだな」


「冗談はさておき、山姫の君に守られる血の方に取り憑くなどと無謀なことはいたしませんわ」


 瑞々しい唇の紡いだ名前に、文夜はしかつめらしい顔をした。山姫と言えば、思い出されるのはひとりきりだ。まさか同じ山に、二人も三人も山姫と呼ばれるものが居るとは思えない。


 しかし、彼にはもうひとつ気になる言葉があったように思えた。


「山姫に守られる、血?」


「あら、まァ。もしやあなた、山姫の君の交わした契約を存じ上げないままここにいらっしゃったの? わたくし、そのご本を持っていらっしゃるのなら、てっきり知っているものかしらと」


 文夜が怪訝な顔で聞き返すと、麗卿はうっかりといった調子で口許を手で隠す。今さら隠したところで、一度出てしまった言葉は消せようはずもない。


 彼はリュックの中から、妖の資料本を引っ張り出した。一見、なんの変哲もない古書は、その一番後ろの頁だけがいまだにくっついて開かない。


 古本と、最後の頁と、一華の過去。どうやらそれらは密接に関わり合っているようだ。


「知らないから、ここに来た。その山姫が言ったんだ。彼女の過去を知りたいのなら、勝手に調べろと。彼女は僕がこの廃寺に来ようとすることを渋っていたから、ここなら何か見つかるんじゃないかと思ったんだ」


 ここに一華にまつわるなんらかの品があるのかとも思っていたが、そうではないのだということに文夜は気づいた。


 彼女の過去を、あるいはその一部を、恐らくこの麗卿は知っている。


 予想の通りか否かはさておき、麗卿は驚いた様子もなくまたころころと笑った。


「ええ、ええ。山姫の君が秘密をつまびらかにすることを許されたのでしたら、わたくし、秘することは何もございませんことよ。この山は彼女の領分。彼女と、その主殿の望むように致しましょう」


「それじゃあ……」


「それで」


 こと、と灯籠を傍らに置いた女は、その答えに一瞬、表情を緩めた文夜へ小首を傾げる。


 被せられる声に、彼の言葉は押し止められた。その勢いのまま、彼女は紅を引いた唇をにんまりと吊り上げる。きゅっと上向く口角にさえ、計算し尽くされたような美しさがあった。


「秘密の対価に、あなたは何を差し出されますの?」


 ああ、忘れていた、と、文夜は小さく息を飲んだ。ヒトと同じような姿形と害意のなさそうな語り口に誤魔化されて油断していたが、彼女もまた自分とは違う、山姫たちと同じ存在だということをすっかり失念していたようだ。


 願いの代わりに対価を求める。あるいは何かを願わずとも、人の命を軽々と毟り取ってしまえる妖者(あやかしもの)


 仕方ない。そのような存在を頼ってしまったのは自分自身だ。そう腹を括って、文夜は口を開いた。


 願わくは、人にとっての良識的な対価で望むものを引き換えてくれますよう、と祈りながら。


「逆に聞くが、秘密の対価は如何ほどか?」


「ほ、ほ、見かけの儚さによらず、豪胆なお人ですこと」


「それほど細くも病的でもないと……自分では、思うんだけどな」


「ヒトでないものにとって、おおよそのヒトなどみな儚いものですよ。ですがお気をつけになって。そのように聞き返すのは、わたくし相手でなければとても危険なことですからね」


 ずい、と麗卿が、拳ひとつぶん身を乗り出した。大きくも小さくもない古びた卓が、彼女の腕に押さえられ、まるで人の肉の重さを不満がるようにギィギィと音を立てる。


「問いに答えないと、腹を立てて逆上するか?」


「いいえ」


 乗り出された分だけ身を引くのは、これまで味わってきた多分に危険な存在たちを思い返しての条件反射だ。面と向かっている相手に失礼とは思いながらも、許してくれ、と心の内で謝った。


 麗卿の瞳が細められる。灯籠の灯りが揺らめいて、絶妙な翳りを作り出す。彼女の瞳に化け物じみたうすら寒さを見出した。


「何を要求されるか、わかったもんじゃございませんから、ね。折角秘密を知れたとて、命を落としちゃ元も子もございませんでしょ」


「そうやって忠告をしてくれるのだから、理不尽な要求はしないのだろう?」


「ウフフ、聡いお方」


 先程までの目付きは文夜をおどかそうとしていただけであったのか。冷や汗をこめかみに隠しながら答えた男に、女は次の瞬間にはパッと人好きのする笑みを浮かべて口許に手を当てた。


 それから考えるそぶりを見せると、ややあってひとつ頷く。


「そうですわね。それでは、七日七夜分の精気を少々」


「……さすがに、見た目は人でも骸と交わるのは勘弁願いたいんだが」


「あら、いやですわ。何も精気を得るのに交わる必要はございませんのよ」


 それが一番手っ取り早くはあるけれど、と後付けして、麗卿は白魚のような生白い手を文夜へ延ばした。一度肩が震えたが、彼は今度こそ後退らずに彼女の手を受け入れた。


「今、魂消(たまげ)ましたでしょう? では、消えたヒトの魂はどこから出てくると思います?」


 くつくつと、滑稽な劇を観るように女が笑う。文夜には、一華と似た笑い方を意図的に模しているように見えた。


「頭、とか?」


 いいえ、と麗卿は反駁してから、延ばした指を文夜の唇へと滑らせた。なんとも艶かしい光景だ、と傍観者のように考える。


 彼女の親指が、少しだけ開いた文夜の唇をゆっくりとなぞって、そのまま自分の唇へ押し当てた。ちろりと覗いた舌が下唇ごと親指を舐め取って、何かを味わうように咀嚼する。


 それからふぅ、と息をつくと、「御馳走様でした」と麗卿はか細く、しかし満足げに告げた。


 なるほど、魂というものは口からこぼれるらしい。理解した途端に、全身が怠くなってくる。


 ひだる神にとり殺されかけたときのように、足が、手が、頭が石になって地に伏していくようだ。あのときのような飢餓感がないのが、せめてもの救いだった。


 このような体調で、果たして山を降りられるのかと、疲労の濃くなった頭で考える。いざとなったら、少しここで休んでいこう。どうやら麗卿は文夜に害を加えるつもりはないようなので、一夜の宿くらいは貸してくれるだろう。


「それで、山姫の君について、でしたわね」


「ああ。僕は彼女について、何も知らないんだ。だから、貴女の知っていることを、できるだけ最初から……わかりやすく、頼む」


 疲れから細切れに説明を要求すると、女は、背筋を正してこくりと顎を引いた。


「そうですわね。それでは、山姫の君のお話の前に、あなたの曾御祖父様(ひいおじいさま)の血にまつわるお話から致しましょうか」


「曾祖父さん……」


 文夜が疑問を挟む余地もなく、麗卿は昔々、とよくある語り出しで話を始めた。




 ◇ ◆ ◇




 昔々、百年ほども昔。この山の麓には集落がございました。


 小さな村ゆえに厳格であり、規則も因習も根深く残った集落でございました。


 日照りが起きれば雨乞いに川の水神様へ嫁を遣り、山が枯れれば頂の山神様へ嫁を遣り、掟を破れば天地の神からの神罰と称して四肢を裂くような血腥い土地でしたから、不浄を請け負い、清める為の墓守がございました。


 墓守は遡ること江戸の世より、村長(むらおさ)から陵と名を与えられ、川にも山にも近しい場所に家を与えられました。


 墓守とは言いますが、これは所謂邪を祓うための巫覡(ふげき)の家系でございます。この辺りでもっとも強い神通力を持つ家系を据え置き、結界の役割としたのですわね。まるで(さえ)の神のよう。


 ――あなたも、ご自分の姓が滅多に聞かないものだと思われたことがあるのじゃございません?


 そう、その家系の発端が、あなたの御先祖様に当たりましてね。


 巫覡や巫女性というものは、古来より女人に多く宿るもの。ところがいつの頃からか力は衰え、本来、陵の娘御に婿入りする仕来りだったものが、男一人しか生まれぬ世代が続きまして。“巫覡”と言います通り、男性に無いということではございませんけれど、とかく古いヒトはそういった験担ぎを好まれるものでして。


 ええ、ええ。お察しの通り。それがあなたの曾御祖父様――(たちばな)様の代でございました。


 仕方なし、村から二番目に神通力の強いと言われる家系から、奥方が嫁入りされましたの。ところがこの方がなかなか御子のできない体質でございましてね。あるいは巫女性が薄れることを恐れて子を儲けないようにしたのかはわたくしには定かではございませんけれど。


 とかく、御子はなかなか生まれず、また、生まれたとして息子であったなら、これからの墓守としての力やお務めはどうなってしまうのか。橘様は大変お気に病まれていらっしゃいました。


 墓守はそこに在ることで結界の役割を果たすものですから、家から遠く離れることも、みだりに村へ降りることも許されませんもの。代わりの誰かを連れてくることも、代わりの(すべ)を探ることもできませんからね。


 ……さて、ところでお話は少し変わりまして、これより更に百年ほども昔、この辺りでひどく地震が活発になっておりました。


 時世はまだ、公方様の治める閉鎖的な時代でございます。山も多く、あちらこちらで崩落や滑落事故が起こったこの地では、村人の不安が頂点に達してしまいました。


 村の誰かが、山の神の怒りだ、と申しました。


 またある者は、人柱を立てよう、と申しました。


 麓の村の長は村人の不安を宥めるため、余所の村から流れ来た娘を人柱として山の頂きに埋めまして。今でさえ、田舎の村というものは外界からの流浪者に厳しいところが少なくありません。今より二百年近くも前なら尚のこと。村八分ではなく人々の安寧のための人柱ですから、体面上はいくらか栄誉なことでしょうけれど、実状はさして変わりませんわ。


 ええ、はい。そのような(・・・・・)書物をお持ちのあなたならおわかりですわね。供犠(くぎ)ではなく、御柱として立てられた者は、ひと思いに殺されることも叶いません。


 娘は大きな桶に入れられて、水も食物も口にすることが許されぬまま、五感を閉ざされ緩やかな衰弱を待ちながら生き埋めにされました。


 彼女は一体、幾夜に渡って呪詛を吐き続けたのでしょうね。――ヒトではないものに変容してしまうまで。


 飢えてお腹を抱えることも、渇いた喉を掻き毟ることも叶わずに、糞尿を垂れ流し、異臭の中で意識が薄れていくおぞましさを、考えたことがおありでしょうか?


 一呼吸ごとに刺激臭が鼻をつき、吐くものもなくそれでもわずかな胃液を吐き、喉の乾きを癒そうとそれをも舐めるしかない無情を。


 わたくしは考えましたわ。考えることしかできませんでした。


 ですから、人の世のことに手を出すことは常々躊躇ってきたのですけど、せめて拘束を解き、菩提を弔って差し上げようと、後に埋められた場所を掘り起こしましたの。


 そうしましたら、目を塞がれ、轡を噛まされ、手足を縛られた娘の遺体が身じろぎました。まだ生きているのかしらと不思議に思いながら拘束を解きましたら、彼女、喉が渇いた、腹が減ったと息も絶え絶えに仰いましてね。


 慌てて、山中の木の実や果実を集め、川の水を汲んで彼女に与えたのですけれど、(かつ)えながらすべてをお腹に収めた彼女、なんて言ったと思います?


 くちくならない、と泣いたのですよ。両腕いっぱいの籠に集めてきた食物をぺろりと平らげて尚。


 餓鬼とも違うようでしたし、はて彼女は一体何に身を落したのやらと思いましたら、娘さん、徐に木のうろに隠れていたウサギを引きずり出すと、生きたままのウサギに歯を立てました。


 生き血を啜り、肉を食らったところで、ようやく彼女のお腹は満たされたのですよ。




 ◇ ◆ ◇




「それが……」


「ええ。あなたもよくご存知の、山姫の君の誕生です」


 心臓が、身体の中心で怒り狂うように脈打っていた。人間は時に、何かを守るという大義名分のためならば、魑魅魍魎よりも恐ろしく残酷になれる。知識としては理解していたそれが、一華という身近な存在を通してまざまざと実感させられた。


 今でこそ化け物じみた表情や仕草が染み付いている一華だが、そんな彼女にも時折、ふとヒトのような感傷を垣間見ることがある。


 あのとき彼女は、その頃の、嘗て自分がヒトであったときのことを思い出していたのだろうか。そう思うと、文夜はやるせない気持ちになった。


「それで……僕の曾祖父さんと、彼女の間に、何があった?」


 勇み足とはわかっているものの、手を延ばせばすぐにでも掴めそうな真実を急かさずには居られない。


 文夜の逸る気持ちを汲み取ったように、麗卿は続けた。


「ふたりが出会ったのは、山の桜が美しい季節だった、とだけ聞きましたわ。不作の年の山は食物になりそうな動物も少なく、山姫の君は血を求めて、橘様のご自宅の近くまで降りてしまっていたそうで」


「そこで、ふたりが出会った」


「はい」


 麗卿が、文夜の憶測を肯定する。けれど、彼女の話はそこで止まった。


「……それで?」


「山姫の君が橘様と契約を交わし、彼の血族の血を糧とする代わりに、その血族を契約の消えるその時まで守り続けることとなりました」


 それでお終いです、とばかりに、麗卿は再び口を閉ざす。茶も茶請けも無い卓の上では、ただひたすら、互いに向き合って見つめ合うだけの無為な時間がしばらく続いた。


 女の澄みすぎた瞳を直視しながら、彼は頭の中で情報を整理する。


 一華はどうして山姫になったのか、最初に聞きたかった大まかな情報は確かに手に入った。だが、謎の局所は依然として虫食いのままだ。


 寧ろ一華の過去を知ったことで、謎は余計に広がってしまったようにも思う。


 彼女は何故、橘とそのような契りを交わしたのか。また彼も、不浄を清める者である筈なのに、何故、不浄の一端とも言える一華との契りを結んだのか。陵は代々、村の結界の役割を持つ家系だったと語るに、家の近辺に村のひとつも無いことも気になった。


 大方は、食事にありつきたい一華と家系の弱体化を危惧した橘の利害関係の一致とも考えられたが、それで納得するには以前に垣間見た一瞬の景色が違和感をもたらした。


 文夜は揺れる灯明を眼裏(まなうら)に焼き付けて目を瞑る。思い出すのは、いつか恋文の夢に飲まれて重ね見た、橘と呼ばれた男の胸のうち。


 奥方を慈しみながら、白妙、と名を口にした瞬間の、あの、信頼とも、情愛とも、安寧ともつかない春めいた心。それを思えばこそ、利害関係という味気も素っ気も愛想もない形容がひどく浮いているように思えたのだ。


 あれは、文車妖妃の主観で形作られた夢と言うには、泣きたくなるほど穏やかな光景だった。


「これより詳しいことは、わたくしにもわかりかねますのよ。彼女を助けた後のことは、すべて彼女づてに聞き齧ったことですから」


 文夜が何も言わず、また去ろうともしないことを見てとると、麗卿はややあってそう答えた。


 己の考えに耽っていた文夜は、そこでやっと気づいたように礼をしようと口を開く。しかし、女は彼の言葉を遮るように傍らの牡丹灯籠へ視線を流した。


「それに、たとえ知っていたところで、これ以上は山姫の君よりじかに語られるべきことでしょうし。……ただ」


「ただ?」


「……いつでしたかしら。彼女は、わたくしに言いましたの。もうすぐ帰ってくるさね、と」


“帰ってくる”――それは、いつかどこかで聞いた言葉だった。


『ほぅら、帰ってきた』


 涼やかに、笑みを含んだ声が、男の脳裏にこだました。


「それは……僕のこと、なのか?」


「さて、さて。わたくしには山姫の君のお考えなど見通せようもございません。ですが、どなたが帰っていらっしゃるのとお訊ねしましたら、彼女、こう仰いましたのよ。『私を解放せしめる者だよ』と」


「解、放? それは……、それはつまり」


 一華は陵家との契りからの、解放を望んでいるということだろうか。


 驚きのままに口をついて出ようとした疑問を、文夜はすんでのところで飲み込む。彼女に問うても、それは意味を為さない言葉だ。


 戻らなければ、と思った。あの家へ。一華が待っているであろう、父の、祖父の、曾祖父の生家へ。


「話を、ありがとうございました。そろそろおいとまします」


「まァ、まァ。そうお急ぎにならずとも。もう日も落ちましたわ。夜の山道は危険ですもの、朝までこちらで眠っていらして」


「ありがたい申し出だが、僕は早く帰らなければ……一華にも、聞かなければならないことがあるんだ」


 彼女は何故、文夜へ名を求めたのだろうか。もともとあった契約ならば、改めて文夜と契りを結ぶ意味とは何なのか。


 帰ってきた、と呟いたその意味は。解放とはどういうことなのかを。


 何より、あの何をも気にかけぬという顔の裏で、彼女が何を求めているのかを。


 一刻も早く聞かなければ、と文夜は急いて立ち上がった。


 けれど悲しいかな、急いては事を仕損じるものでもある。


「……っ」


 男の不明瞭な視界が、ぐらりと傾いだ。吐き気が胃の腑から沸き上がって、目の前の卓が歪む。やがて卓が回り、文夜の足は萎えたように力を失った。


「ですから、お急ぎにならずとも、と申しましたのに」


 なよやかな麗卿の声が、おかしそうに文夜の頭上へ降った。彼はと言えば、何が起きたか理解できていない様子で呼気も荒く畳に倒れ伏している。


「今のあなたは、七晩徹夜したも同然の状態ですの。七日分の精気を一度に頂いたわけですから、普通は七日、立つこともできませんのよ」


 クス、クス。女のか細い笑い声がする。あぁ、これは誰だったか。とうとう、頭もよく回らなくなってきた。


(彼女は……そうだ、牡丹灯籠……お露は……いや、麗卿は、男の精気を食い、取り殺す……殺す? 僕は、殺されるのか? いや、)


 せめて眠らないように必死に頭を動かすが、考えれば考えるほど、麗卿が保証したはずの命を刈り取られるのではないかという恐れが膨れ上がる。


(嫌だ、僕は……一華…に……)


 会いに行かねば、と考える暇も与えられずに、文夜は眠るように意識を失った。




 ◇ ◆ ◇




 薄闇の中で微笑む麗卿が、牡丹灯籠を取り立ち上がる。卓を回り、伏せる文夜の頭へ手を伸ばした。


 と、その手は別の白い手に絡め取られ、男に触れることを阻まれる。


 見上げると、憮然とした顔の女が傍らに立っていた。ぬばたまの髪と瞳を、真白の肌と着物で包んだ、紅い唇の女。文夜が、会わなければと急いたその女性(ひと)だ。


「アラ、気がつきませんで。いらっしゃいまし、山姫の君」


「それを害することを、私は禁じなんだったかな。牡丹の」


 彼女の声は、静かながら硬質だった。いつものらりくらりと煙に巻く、しなやかな女の響きはない。


「ええ、ええ。ですから害してはおりませんわ。これは正当な対価ですのよ。わたくしの知りうるあなたの過去を語る代わりに、ほんの数日分の精気を頂いただけでございます」


 すぐに手を引いて一笑した麗卿の声や仕草に、嘘や誤魔化しのような機微はなかった。


 だからと言って、それが文夜への害に繋がらないとは限らない。妖者は笑顔でヒトを(くび)り殺すことに、何の罪悪感も持たないことが多いのだから。


 妖にとって、殺すことは生きることだ。喰らい、己の糧として、命をまた一日伸ばすためのなんでもない行為だ。同じ形をしたものを私意で殺すことに罪の意識を覚えるのは、この世でもあの世でもヒトくらいのものだろう。一華はそれを危惧しているようだった。


「だが、今、(ぬし)は主人に手を伸ばしたね? 一体、何をしようとしたのだかな」


「それは穿ちすぎというものですわ。わたくしはただ、うつ伏せでは眠りづらいでしょうから、仰向けにしてさしあげようと思いましたのに」


 でも、それももう不要の気遣いですわね。麗卿は一歩身を引いて、静かに目元を綻ばせた。


 主人をひとりで野放しにしたのだから、一華はここには来ないだろうと思っていた。しかし、それは麗卿の思い違いだったらしい。


 彼女が思っていたよりも、一華は今の主人をだいじにしているようだった。あるいは、彼がここに着くまでの道中も、人知れず守っていたのではなかろうか。


 どうせ聞いてもこの山姫のこと、本心など話してはくれないのだろうから、すべては麗卿の想像にすぎないのだが。


「少し、まろくなりましたわね」


「なんぞ言ったかえ」


「いいえ、なァにも。さ、どうぞ陵様をお連れになって。あなたでしたら四半刻とかかりませんでしょ?」


「言われずとも」


 畳に転がった文夜を、一華が無造作に拾い上げる。肩に俵担ぎにされた彼の腕が、ぷらぷらと一華の帯の上で揺れた。


「またいつか、遊びにいらしてくださいましね。ここは何もなく、誰もおらず、つまらない場所でございますから」


「そのつまらぬ場所に好き好んで引き籠もっておるのは主であろうにな」


 ――また遊びにいらして。


 嘘をつかない彼女の、その言葉だけが、ふたりの耳に白々しく聞こえた。




-  玖:牡丹 / 了  -



牡丹灯籠…明治時代の落語家三遊亭圓朝の怪談噺『怪談牡丹灯籠』の登場人物、お露を指す。

着想を得た怪奇物語集『御伽婢子』(江戸時代末期の作品)は中国・明代の説話集に収録された『牡丹燈記』を翻案したもの。

その内容は、若い女の霊・麗卿が夜ごと男と逢瀬を交わすが、女が幽霊であることを知った男によって霊封じをされる。麗卿はその男を恨んで殺すといった筋書きとなっている。

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