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百年誄歌  作者: 待雪天音
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拾:白妙




 ぼんやりとした淡い光が瞼を撫でる。


 目覚めたとき、最初に視覚が認識したのは、頭の脇にどっしりと構える茶卓の脚だった。よく見慣れた、祖父から譲り受けた家の居間の、年季の入った榛摺(はりずり)色の食卓。


 そのすぐ隣に無造作に敷かれた布団の上で、文夜は転がっていた。何故、自分の部屋ではなく居間で寝ているのか。疑問に思いながら起き上がろうとしたところで、身体が動かないことに気付く。


 全身が脱力したように、起き上がる体力と気力が萎えていた。


「目覚めたね、主人」


 ふと、声のした枕元に目をやる。一華が卓に頬杖をついて、文夜を見ていた。


「僕は……そうだ、確か山の上の廃寺で……」


 鈍く痛む頭を揺り動かしながら、文夜は牡丹灯籠の麗卿に会い、自分の家系と一華についての話を聞いたことを思い出した。


 その対価として、自らの精気を麗卿へ分け与え、話の直後に意識を失くしたところまでの全てを。


「まだお眠り。幾日分の精気を一瞬で奪われたのであろ。たかが二晩休んだところで、すぐに動けようはずもないさね」


「二晩? 僕はそんなに眠っていたのか」


「もうすぐ三晩になるよ」


 一華の示した日数に、文夜は動けないままため息をついた。もしも身体が自由になっていたなら、自分の失態に顔を両手で覆っていたところだろう。


 薄暗がりのなか、壁の柱に掛かった時計を見る。時間はもうすぐ六時半を指すところだった。時期と室内の暗さを見るに、夜になる頃合いだ。


「お前がそばに居て、僕がここでこうして布団に転がっているということは、迎えに来てくれたんだな」


「ひとりでお行きと言うたに、ほんに手のかかる主人よな」


 クツクツと喉の奥で笑う遠回しな肯定に、文夜は目を閉じて「ありがとう」と言った。


 礼の前に妙な間があったので、煩悶していたことは相手にも知れただろう。仮にも主人という立場上、彼にも思うところはあった。


 家と彼女の因縁を聞き齧ってしまえば尚更だ。


 このままもう一度寝入ってしまおうかと思ったが、長く眠っていた身体は一度目覚めてしまうと再び意識を沈みこませることが難しかった。身体の怠さも相まって、気分が悪く、目だけは冴える。


 ゆっくり目を開くと、傍らで文夜を見下ろす黒い双眸と行き合った。


 宵闇を煮詰めたような、不安になるほど大きな虹彩が、今はそれそのものこそが、不安に揺れているようだった。


「……どこまで聞いたね、主人」


 文夜が再び眠ることを諦めたと察したのか、一華が尋ねた。この状況下で何を指しているかなど、考えるに易い。


「以前はこの山の近くに村があったことと、僕の家系がこの土地の不浄を祓い、守りを担っていたこと。それと……お前がヒトから、山姫になったことを」


「牡丹のは、私がこの家に来た経緯は話さなんだかね」


曾祖父(ひいじい)さんと契約をしたとだけ。詳しいことは麗卿も聞いていないと言っていた」


「嗚呼……」


 そうだったかねぇ。……そうだったやもしれないね。そんな独り言が聞こえた気がした。目も耳も、身体のどこをとっても不自由なので、文夜の気のせいかもしれなかったが。


 転瞬の間、遠くを見つめるように目を細めた一華は、やがて彼を見下ろすと、ことりと首を傾けた。艶やかな散らし髪が肩を滑り落ちる。


「であれば、主人。他に聞きたいこともあろう」


「聞いて、答えてくれるのか」


「今なら、あるいは。良い暇潰しになるからね」


 厄介な(あやかし)の気配もなく、主人の傍らで手持ち無沙汰に鎮座ましましている今ならば。


 そのようなからかいが透けて見えたが、文夜はそれを良しとした。このようなときでもなければ、この人を食ったような妖は本心を語ろうとしないだろう。


「話すつもりがあるのなら、最初から教えてくれれば良いものを」


「主人のぱそこんのように、何でも容易く欲しい情報が手に入ると思ったら大間違いさね。それでは、私の割に合わない」


 なるほど、他人(ひと)の過去を掘り起こすならば、それなりの覚悟を持てということだ。


 理解はできるが、それにしても今現在の五体不自由な状況を思うと文夜も素直に頷けない。この分だと、あと一日、二日はろくに動けないだろう。


「……そうか。それじゃ、今度こそ遠慮なく聞かせてもらおう」


 しばらく目を閉じて葛藤した後、彼は一華の答えを呑み込んで黙殺する。それから、気の凪いだ彼女に何から尋ねようか迷って、文夜は順当に問いを口にした。


「昔は山の近くに村があったと言うが、その村はどうしてなくなった?」


 まずはひとつ。尋ねると、一華はどのように答えようか幾分迷った様子で首を傾けてから、慎重に口を開いた。


「――大きな、天災があった。善一郎がほんの、まだ小さな頃だったね。最初に地震が起こり、田畑が割れ、追い討ちを掛けるようにこの山が(なだ)れた。土砂と、川の水が溢れ、埋没し、浸水し、ヒトが住めなくなった」


「この家は無事だったのに、村は潰れたのか?」


「元々この家も、これほど山に近いわけではなかったよ。家の足元まで地崩れしたが、幸か不幸か、この地に縛り付けられたこの家系自体が結界になった。それで被害は免れたが、結界は村のあった向こう側にまで及ばなかった」


「その為の墓守なのに?」


 文夜が問うと、一華は首を振った。


「勘違いをしているね、主人。墓守は有事の際の防波堤ではないよ。邪気を遮る――即ち鬼門を封じるための家だった」


 鬼門、と一華の言葉を反芻すれば、彼女はいつになく神妙な顔で頷く。


 鬼門とは、風水や陰陽道などにおける、悪い気が入ってくるとされる北東の方角だ。


 そこから入った邪気は真っ直ぐ進み、やがて南西の裏鬼門を通って出て行くのだが、あまりよろしくないことに、村の裏鬼門に当たる地は、山から流れた川の支流が池を作る場所であった。


 裏鬼門に水が留まれば、不浄は通れずそこに溜まる。ならば留まる邪気が入って来ないようにすればいい。それが墓守――(みささぎ)家の興りだ。


「そも、この家は嘗ての村から北東の位置にあるが、山は村から見て北方(きたがた)にある。山の南が土砂崩れを起こせば、この家を挟まず村へ直に傾れることもあろうよ」


 後は、多少の運と業だ。失われた村は、あまりに業を抱えすぎたのだろう。それは山の上に打ち捨てられた古寺や、いつか文夜の垣間見た川姫の記憶を思い返せば容易く想像がついた。


「村が潰れた……だから陵家も役目を失い、僕は両親から何も聞かされず遠い町で暮らしていたわけだ」


「さてもさても。それ以上に、主人の父親――善一郎の息子――は、このひなびた土地と古い因習を疎んでいたからね。不要な話と切り捨てたのであろうよ」


「父さんも知ってたのか」


「善一郎はこの地を厭うてはおらなんだ。善一郎に子が生まれ、主人の父親もしばらくはここで暮らしていたよ」


 嘗ての村人たちは、家を失い、他の村や町へと流れて行った。最後に残ったのは陵のこの家ひとつだったが、この地を厭うた息子は家を出る。彼は遠いところで所帯を持ち、残った善一郎も老いさらばえた。


 そして、遂には誰も居なくなった。


 そこにやってきたのが、祖父である善一郎からこの家を託された文夜だったという訳だ。


 血筋の因果か、はたまた運命というものか。そういったものはついぞ最近まで信じてもいなかったというのに。


 そう考えて、ふと、文夜は己の身に触れた違和感に眉宇を寄せた。


「なんぞ不可解なことでもあったかね」


 一華がそう尋ねるので、文夜は躊躇いなく自らの中に生まれた疑問を口にした。


「僕の家系は、その、神力だか霊力だかが高かったのだと聞いたが、僕がお前たちのような存在を視えるようになったのはここに来てからだ。普通、そういう妙な力を持つものは、生まれながらに視える(・・・)ものなんじゃないか?」


 日が傾き、月が昇る。満ちるにはまだ少し遠い十日夜(とおかんや)の月が、一華の横顔を青白く照らしていた。


 彼女は、なんだそんなことか、と言わんばかりの眼差しで文夜を見下ろした。


「主人も、生まれながらに視えておったのだろうよ。化生(けしょう)そう(・・)と認識しておらなんだけで」


「そんなことがあるのか? ヒトではないものは一目見ればわかりそうなものだが」


「視えるヒトには、二種類()るのよ。視えていることを認識している者と、視えていながらそれと認識していない者が」


「視えていながら……。あんな、悪夢にでも出てきそうな顔かたちを認識せずにいられるもんかね」


 文夜はこれまで目にしてきた幾らかの妖の姿を思い返して、動かない身体を震わせた。ヒトのように綺麗に化けているものも居たが、一皮剥けばみな異形だ。


 ぎょろりと見開かれた奇妙なバランスの血走った目に、口から突き出た大きな牙。小さな背丈で下腹の異様に膨れた小鬼も居れば、ヒトの身の丈の何倍か大きな動物の頭を持つものも居た。


 ヒトの形をしていないものも、それどころか、形すらない残滓のようなものも。


 とてもではないが、一目見た今では忘れられようはずもない。


 それをそのまま伝えると、一華は「それよ」とまた笑う。


「認識している者の目には化け物のように見えようが、それと認識せぬ者には、町中ですれ違う大勢のヒトと何ら変わらんものだよ。主人はいちいち、すれ違うだけのヒトの顔を覚えているものかね?」


「それは……わざわざ覚えていないな」


 疑問に問いで返されて、文夜はそこで漸く納得した。


 どんなに奇抜な格好をしていても、どんなに鮮やかな色の頭でも、目にしたその瞬間を過ぎればほんの他人事だ。そのようにして、彼はヒトではないものを無意識の内に視界の外に追いやって生きてきたのだろう。


 それもまた、化生をやりすごす有効な手段のひとつだと知らぬままに。それが、一華と出会うことで、彼は見過ごすことができなくなった。


 目を逸らして見なかったふりをするには、彼女はあまりにも美しすぎたのだ。


 生きながら死に、死にながら尚も生き続ける山姫は、死の匂いに取り憑かれているからこそ艶かしくも無垢だった。


 じっと彼女の(おとがい)からふっくらとした唇を見上げ、鼻梁をなぞり、夜色の瞳を見つめる。長い睫毛と紅に縁取られた一華の双眸は、出会った頃と違わず、何を考えているかわからない。


 もう一年近くにもなると言うのに、山を登って得られた彼女についての情報はごく僅かだった。それも、今宵ようやく暴かれる。


 文夜は、深く息を吸ってからその秘密の入り口に手を掛けた。


「一華――いや、本当の名は白妙、というのか」


「今は一華だよ。どうしたね、主人」


「お前と橘さん……曾祖父さんとの間に、一体何があった? どうしてお前は、お前を人柱(ひとばしら)にした村の墓守である曾祖父さんと、守護の契約なんてものを交わしたんだ?」


 橘、と彼がその名を口に乗せたとき、白妙の眼差しが矢庭に変わった。


 それは古いアルバムを捲るように、むかし大好きだった人形を抱き上げるように、幼い頃に毎日食べた菓子を口に含むように、懐かしさと愛おしさと、ほんの少しの寂寥を伴った眼差しだった。


 そこには確かに、ヒトであった一華が居た。ヒトであり、ヒトでなくなり、妖になりきれなかった一華の、一番柔いところがあった。


「何も」


 長い沈黙を噛み締めるようにして、やがて、一華はぽつぽつと言葉を紡ぎ出した。


「何もなかったよ。ただ、あれの語った夢だけが、とても甘美であっただけのこと」


 意味がわからないままに、文夜は一華の言葉の意味を拾い上げようとじっと黙した。彼女は瞬き、霞んだ記憶を浚うように目を閉じる。


「あれは、桜の綻び始めた頃のことだったかね。山姫として目覚めてから、百年(ももとせ)か、それ以上経った頃、私の身体が獣の血を受け付けなくなり始めた」


「血を受け付けなく……? だが、お前は今も定期的に僕の血を摂取しているじゃないか」


「ヒトの血は、ね。元よりヒトの血により飢えを満たすこの身体よ。それまで細々と山の獣を狩り生き長らえておったが、それでは足りなくなりつつあってね」


 それでも、山を離れて人里に降り、ヒトを食らおうとはしなかった。己を人身御供に村の安寧を願った村人は憎かったが、報復と混同すれば、己がヒト以下のものに成り下がる気がしたのだ。


 年若く生きながら人柱として埋められ、生き汚くも生に縋り、食らいついた。半分死にながら、一度は牛頭馬頭の守る(ひとや)をくぐりかけて、死の匂いに染まったことでヒトではないものの生を得た。


 ヒトの身から解き放たれて尚、ヒトのように苦悩することのなんと滑稽なこと。己を嘲りながらも、このまま飢えて死ぬことは(あやかし)としての(さが)が許さなかった。


 そうして、ただ生きるともなしに生きる内に、妖に変生(へんじょう)してまで生きることに何の意味があろうか、と虚無が身を苛んだ。


 生きたい。消えたい。相反する願いが、ふたつの生の狭間でやわやわと一華の首を絞め上げていた。


 そのような折、橘と出会ったのだと一華は語った。強い力を持ちながらヒトを襲うことはせず、さりとて血に飢えていた山姫に、力を宿した血を持ちながら、巫女性の薄れつつある家系の当主。


 彼は当時、とある懸念を抱いていた。血の守りが薄れたとき、村を、ヒトを、何より我が子と我が妻を守りきれぬのではないかと憂えていたのだ。


 そこで彼は、山姫にひとつの提案を差し出した。代々の当主の血をやる代わりに、子々孫々を守ってはくれないか、と。


 山姫は、差し出された提案を初めは渋ったが、やがてそれを受け取った。


「あれは私にこう言いおったのよ。ヒトの血を啜ることを浅ましいと思うか、と。血腥い世界に飽いたか、と。ヒトの心を忘れたくないのなら、ヒトの側に居ればよい。私の、我が子の、我が妻の元に居れば、ヒトの醜さを、ヒトの美しさを、何時(なんどき)も忘れずに()れようよ、と。

 それに何より、陵の血には神力が宿っておるから、この血を取り込み続ければ、いつか浄化され、神の域にも成れるかもしれぬ……と」


 本来、血とは(けが)れであり、気枯(けが)れだ。血に怨念が籠もりやすいのは、気が枯れて負の力が溜まるせいである。


 けれど、長く結界の役割を担った一族の血は、確かに何らかの力を持っていた。力を持つが故に、ヒトならざるものたちにとっては甘美であり、それは極上の美酒と言わしめるほどには。


 系譜をもっと遡った世代であったなら、一華や、餓鬼や、或いは牛頭鬼すらも近付けない力を持っていただろう。だが、中途半端に力が薄れた陵の血は、一華の手を借りねばならない程度に守りが不安定となっていた。


 つまり彼は、自らの血筋で防げなかった邪気や悪鬼を、一華の、否、白妙のヒトならざる力で屠ろうと考えたのだろう。


 橘は、それを補うために一華の力を求め、代わりに一華の望むものを差し出したのだ。


「詭弁だな。血に力が宿っていようと、それを取り込んだところでそう簡単に妖以上のものになれるものか」


「そう、詭弁だよ。けれど私は、その甘言に夢を見たのさ」


 一華は橘と血の契りを交わした。山姫としてヒトの名を捨てた彼女に、橘はその春はじめて花開いた桜を見て、白妙と名を与えた。


 与えられた名を真名として、一華の血で綴り、橘の血でそれを塗り潰し、(ほう)じた。血で綴られるまじないは、もっとも強く正確な(しゅ)だ。そうして互いを縛りあったことに、後悔はなかった。


「少しの、後ろめたさはあったがね。主人が……あれが、私に白妙などという名を与えたものだから、奥方は強い悋気(りんき)に苛まれたことであろうよ」


「左近の桜、右近の橘……か?」


「かような不安は、無意味であったろうにね。橘は、奥方や子を守るために私を側に置いた。意識の比重など明白だろうに」


「頭ではわかっていても、心は常に自分の信じたいことだけを信じるようにできてるものだ。それがヒトだからな。仕方ない」


 ――私では、貴方の桜になることはできないのですね。


 そのような念を遺した女の言葉を、文夜は思い出した。あれは単純に、他の女(一華)に目を向ける橘に悋気を向けていたのだと思っていた。しかし、一華の話を聞くに、本質はもっと根深いもののようにも思える。


 妻として、だけではなく。ヒトとして、力を内に飼う者として――麗卿の話が確かならば、橘に嫁いできたのは、村で二番目に神力の強い家系の娘だったはずだ。


 幾重にも折り重なった複雑な感情を身に宿して、それでも添い遂げたのだから、曾祖母は強いひとだったのだろう。文夜は聞かされた昔語りを噛みしめるように目を閉じた。


(材料は揃った。僕の家系と彼女の抱えるものに、手が届いた)


 聞かされたそれらすべての事物を己の中で練り合わせ、昇華するように、文夜は横たわったまま、ひとつ深呼吸をする。やがて見開かれた視界には、月が陰ってよく表情の見えない一華の仄白い顔だけが映った。


 はて、さて。


 最後の問答を始めようか。


「一華」


「何だね、主人」


「お前は僕に何を求めている?」


 ひとつ残った問いを、文夜は静かに口にした。言葉を濁しながら遠回りに問い質すことは、ここに来ては無意味だろう。


 沈黙が落ちる。文夜は射抜くように一華を見ていた。


 一華は閉口したまま、膝の上に乗せていた何かを卓の上に持ち上げた。あまり高さのないらしいそれは、横たわっている文夜からは見えず、どさりと重く乾いた音だけを彼の耳に運ぶ。


 女が、その上辺を指先で撫でているのがおぼろげに見えた。


「契りは、橘の血によって結ばれた。ならばそれを解けるのもまた、橘の血のみよ」


「けど、曾祖父さんはもう居ない」


「だが、陵の血はまだ、ここにある。必要なのは符号だよ、主人。橘の血筋と、契約を交わした私が主人と定めた――名を貰った陵の当主」


 ――ああ、予感とは、こんなときばかりよく当たるものだな。


 文夜は強く目を瞑った。眉間に皺が寄る。彼女の口から改めてその言葉を聞くと思うと、特に感慨もなかったはずの一華という存在が遠ざかることに、ほんの少し、空虚なものを感じた。


「修羅の世から、この役目から、私を解放してくりゃれ」


 それが私の願いだよ、と、山姫は薄く笑った。




 ◇ ◆ ◇




 血と血で結ばれた契りは、今や一華の手の中にあった。彼女が卓に置いたのは、文夜が古書店で見つけたあの本だった。


 彼が固執した、ぴったりと貼り合わされた最後の頁の遊び紙。それが真名を封じた契りの媒体だと、一華は教えた。


 彼女が言うことには、その頁を今一度、契約した者の血で染め上げて、封を開かねばならなかった。契りの媒体は契約したヒトならざる者の依代(よりしろ)であったので、無理に燃したり水に晒しては、一華の身体ごと消滅してしまうと云う。


 ただ消えたいと願うならばそれも良かったろうが、この契りは“呪”であり、呪の要は「当主の血と引き換えに子々孫々を守ること」であった。これが契りを解かずに破られるならば、契りを封じた血の主――ひいては後の子孫までをも巻き込んで障りが起こるだろう。


 それで、橘の亡くなった後もそのままにしていたのだと語った。


“消滅”という言葉に、文夜の背筋をひやりとしたものが走った。彼女がいつか言っていた「真名を掌握することの意味」を、そのときようやっと理解した。


 ところが、橘が亡くなって遺品を整理するに当たり、この書物は戸袋の奥深くに仕舞われてしまった。更にそれから暫くの後、文夜の父が引っ越し、祖母や曾祖母が他界していったことで、家財道具や日用品の大部分が処分されてしまったのだ。


 その過程で、媒体の書物は一番近い町の古書店に流れてしまったのだろう。一華はそう告げた。


 陵の当主の血と、媒体の書物。ふたつの条件が分かたれ、再びこうして手元に揃ったことは奇跡にも等しかった。


「役目は煩わしくはなかったが、子、孫と三代仕える内に、またあの虚無が私の胸に巣食いだした」


 滔々(とうとう)と契約についてを説く合間に、彼女は昔話のような、そう遠くない記憶をぽつぽつと語って聞かせた。


「切っ掛けは、橘が儚くなってしまったことだね」


「曾祖父さんの死が?」


「そう。ヒトを見送り、されど五十年(いそとせ)百年(ももとせ)と変わらないこの姿。そのとき気付かされたのよ。私は決して、見送られる側にはなれないと云うことを」


 けれど気付いたときには、もう後の祭りだった、と一華は語った。誰も彼もがこの家を離れ、善一郎でさえも、寄る年波には勝てず、利便性を求め、町に近い場所へと移った後だった。


「今や生き血しか受け付けぬ悍ましいこの身体。ヒトならざる者と成り、尚もヒトを助くる私は何者か? かような私に存在意義などあるのだろうか? と、散々自問を繰り返した。答えは勿論、出なかったよ。それで私は、とうとう全てを手放そうと思って、町で暮らす善一郎に報せを寄越した。山の烏に文を持たせてね。それが、ほんの二昔(ふたむかし)ほど前のことだよ」


 二昔。文夜がまだ、物心の付く前だ。


「善一郎は文を手に、この家へ戻ってきた。そして私にこう言った」


 ――儂はもう、とうに血の力が薄れてしもうた。この家系を引き継げるものは、今や息子と末の孫だけだ。それにな、お前の真名をしたためたあの書物は、遠い昔にどこかへいってしまったんだよ。これでは、お前を真に解放してやることなどできんじゃろうて。


 ――だがね、善一郎。主の息子は因習を嫌い、村も消え失せたこの地から、縁を断つように遠い町へと行ってしまった。よもや二度とここには戻るまいよ。


 ――なに、もう暫く、辛抱強く待ってみぃ。いずれあれの倅がここに来よう。確か今年でみっつかよっつになる頃じゃったかな。(すえ)がお前を受け入れたなら、それが当代の陵の当主じゃ。そして、それが天命であったなら、この手を離れたあの書物も、いずれ相応しいときに戻ってくるじゃろ。


 それまでは、老いさらばえた身の血で食い繋いでくれ、と、善一郎はこの家で余生を過ごすことにした。一華も、それを承知した。


「そして、主人。(ぬし)がその末裔(すえ)だ」


 そう断じた一華は、確かな希望に目を細めて微笑んだ。


 人を食ったような笑みなら、これまで散々見てきた。底意地の悪い笑みも、煙に巻くようなものも。けれどこれほどに安堵を滲ませた一華の笑みを、文夜は今になって初めて目にした。


 別れの算段をするこのときに、そのような人間じみた顔を知ることになろうとは、なんとも皮肉な話だ。


 彼はどのような顔をすればいいのかわからずに、唇を引き結んだ。


 どれほどの時間が流れたのか、それからふたりは、互いに沈黙を突き通した。やがて根負けしたように口を開いたのは、文夜の方だった。


「仮に……仮にだ。僕が契約を解いたら、お前はどうなる」


 すっかり闇に溶けた一華の顔は、もう文夜の方からはよく見えなかった。彼女の話を聞き始めて、何時間経ったかは定かではない。ただ、カチコチと時を刻む時計の秒針の音ばかりが嫌に耳についた。


「私は、長くこの血に縛られ続けた。縛られるを良しとした」


 乾いた一華の声が、秒針の音に重なる。身体だけではなく、頭の中まで重くなっていく感覚。


「そうして取り込み続けた陵の血は、なるほど、橘の言ったように私を浄化しているらしい。あながち出鱈目というわけでもなかったようだね」


「え……?」


「だが、当然、神になどなれようはずもない。零落したものが、零落したまま浄化されたなら……どうなるのか想像もできないほど、主人はうつけではなかろう?」


 文夜は、乾いて筋肉の固まった喉をごくりと鳴らした。引き攣れたような痛みが咽喉を走るが、そのようなことに構ってはいられなかった。


 追い討ちをかけるように、一華は続ける。


「今は、契りが私の身をここに留めている。されど、穿たれた楔を抜けば」


「それが、お前の願いなのか。雪割一華」


 彼女の口から決定的な一言が告げられることを拒むように、彼は続きを遮った。雪割一華。自分で名付けたくせに、いったい何度その名を口にしたことだろう。


 気軽に真名を呼ぶなと彼女が言ったから、彼はその名を口にしなくなった。これも恐らく、片手で数えられる回数の内の一度だ。


 今、真名を呼んだ意味を、一華は確かに汲み取ったようだった。


「嗚呼、そうだよ。主人。それが、私のたったひとつの願いだ」


 文夜は、しっかりと目を閉じて、長く息を吐いた。呼気を出し切った肺が痛み始める頃、眉根を寄せた青年はぽつりと答えを口にする。


「わかった」


「主人」


「一週間後、体力が充分に回復してから、お前の願いを叶えよう」


 結局のところ、口でも力でも、文夜が一華に勝てた試しはないのだ。


 まして心底からの彼女の願いを、真名を呼ばれてまで怖気付かなかった彼女の求めを退けることなど、文夜にできよう筈もなかった。




 ◇ ◆ ◇




 因縁の古書を片手に、文夜は縁側から庭に出る。庭、と言っても、垣根や柵で区切られているわけではない。彼が勝手に庭と呼んでいる、家の裏手の雑草を刈り取った一角だ。


 軒先から続く広縁の向こうでは、小さな電球色の明かりが居間を満たしていたが、ランプシェードで拡散された橙色は月の明かりよりも弱々しく見える。


 空を見上げると、立待月(たちまちづき)が青白い光で夜を包んでいた。まだかまだかと立って待つ月というが、この瞬間を首を長くして待っていたのは他ならぬ目の前の女だろう。


 空いたもう片方の手を広縁に立つ一華へ差し伸べると、彼女は紅を刷いた唇で弧を描いた。


「よい月夜だね、主人」


「満月も過ぎたのにか?」


「微かに欠けているからこそだよ。満ち満ちた月は、私らのようなものには少し眩しい」


 よく言う、と文夜は口元を笑いで歪めた。朝な夕な時間に関係なく家を外を歩き回る彼女が口にするには、その言葉は少々白々しい。


 だが、あまりに明るすぎても、今日のような日には不似合いだった。


「一華、頼む」


 家の外まで彼女を導くと、文夜は解いた片手を手のひらを上にする形で再び一華に差し出した。


「あいわかった」


 一華はそれに得心がいった様子で、自らの手を掲げる。木々の葉擦れがさんざめいた刹那、女の五指の爪が鋭く尖り、手のひらの長さと同じだけ伸びた。


 針よりも太く、まるで磨き抜かれたナイフのような鋭い爪は、文夜の天を仰ぐ手のひらにひたりと当てられる。それを彼は軽く握り込んだ。


 一華が、薙ぐように手を振り切る。文夜の手の中から、鋭い爪が引き抜かれる。生白く、薄く、それでいて節張った男の手に、痺れるような痛みが走った。


 手を開くと、一閃、指と手のひらに二本の赤い傷口が走っていた。


「始めるぞ」


「よしなに頼むよ、主人」


 文夜は古書を持った片手で最後の遊び紙の頁を開くと、その上で傷ついた手のひらを握り込む。小指の付け根から掌外沿(しょうがいえん)を伝って浮き上がり、絞り出された鉄臭い血の雫が、ぴたん、ぴたん、と黄ばんだ頁に落とされた。


 流れる文夜の血は少しずつ紙の上に赤い染みを広げ、色褪せた白を埋め尽くしていく。


 始めは鈍かった手のひらの痛みが、時を経るにつれ、次第に増していった。まるで心臓が手元で脈打っているように、握りしめた拳が疼く。


 彼は痛みを紛らわすために、一華へ呼びかけた。


「なぁ、一華。ひとつだけ聞いてもいいか?」


「なんぞ気になることでもあったね、主人」


「橘さん……曾祖父さんと僕は、似ていたか?」


 自分でも、何故そのようなことを尋ねたかはわからなかった。ただ、彼女の中で、曾祖父と自分が同じような存在として扱われることを、文夜は良しとできなかった。


 彼女の言葉を借りるならば、己という存在を、“符号”として軽んじられることが耐え難かったのかもしれない。


 古書から視線を上げて、一華は笑った。おかしなことを言うこどもを、微笑ましく見るように。


「いいや。全く似ておらなんだったよ」


 彼女から向けられた答えに、こっそりと安堵の息を漏らす。音もしない程にゆるゆると吐いたけれど、女には気付かれたことだろう。


「……そうか」


「主はどちらかと言うと、善一郎に似ているね」


「祖父さんには、結構懐いていたからな」


 もっとも、彼の記憶の中の善一郎は文夜ほど無愛想ではなかったし、どちらかと言うと当たりの柔らかな老爺だった。年の功で丸くなったのか、それとも、一華の前では文夜のように言葉少なに付かず離れず過ごしていたのだろうか。


 空白の頁が赤に染む。


 月光を含んだ瞼の裏には、この家に引っ越してきてからの、長いようで短いあれやこれやが巡り巡っては夜気に溶けた。


 改めて思い返してみても、文夜と一華はなんとも形容し難い関係だったように思う。


 同居人と言うには互いを縛り合っていた。


 主従と言うには互いの力関係が転じていた。


 家族と言うにはあまりにも互いに不干渉だった。


 そのくせ、気づけばいつも視界の端に居た。


 愛着などと、呼べるものがあったようには思えない。だというのに、いま文夜の感情を揺さぶっているのは、確かに彼女が居なくなることへの寂寞としたやるせなさだ。


「あ……」


 手元の頁がついぞ赤く染め上げられた。それに気づいた文夜が声を漏らす。


 途端に、血と同じ色をした靄のような光が古書を取り巻いていく。一頁、また一頁と頁が辺りに飛び散り、それらが風もないのに勢い舞った。


 文夜と一華の周りを囲うように回り続ける頁は、やがてぴたりと閉じられた最後のニ頁だけになる。どんなに引っ掻いても、爪を立てても、重なり合って剥がれなかった遊び紙が、ぴんと立ち上がった角からゆっくりと分かたれていった。


 白、と左の頁に。陵、とまた右の頁に。封じられていた契りと云う名の呪いが、じわりじわり、ほどかれていく。


「ここから、どうすればいい」


 ただ、血で頁を染め上げるとだけ聞かされていた文夜は、眼前でまんじりともせず頁の剥がれる瞬間を見つめていた一華に問い掛けた。


「祈ってくりゃれ。特別な祝詞(のりと)は要らないよ。私たちを縛るものが消えるように、契りが解かれるように。ただ、祈ってくりゃれ」


 一言一句を噛み締めるように答えた一華へ、文夜は頷いた。ひたと彼女を見据えた瞳が、一心に彼女と己の自由を願う。


 絡み付いた呪を手繰ってこんがらがった無数の糸を解くように、すっかり開ききった最後の頁を一撫でする。白妙、と綴られた頁の向かいには、陵橘の名があった。


 祈りを強く意識に刻み付けると、血で綴られたそれらの文字が僅かずつ薄れていく。感覚を掴んだ。みるみる文字の消える速度が早くなる。それと同時に、古書を取り巻いていた赤い光が白んで強くなっていった。


 朱から、薄紅。そして純白へ。光の変遷を経て淡く発光する書物は、次第に周囲を――否、一華を焼き尽くすように目映さを増した。


「一華!」


 白い光に連れ去られそうで、文夜は咄嗟に彼女を呼んだ。真名を呼ばなかったのは、せめてもの自制心だ。解放を願う彼女を、これ以上、どうして縛り付けられようか。


「主人にそう呼ばれる日々は、存外、悪くなかったよ」


 文夜を見上げる女の顔が、控えめに綻ぶ。すぐに眉尻を下げながら困ったように唇を持ち上げる一華は、文夜の前髪をくしゃりと掻き上げ、額を撫でた。


 春先の夜より低い温度の一華の手のひらが、なけなしの彼の熱を奪った。


「困った主人だね。かように不安におなりでないよ」


「実感がなかったんだ。……急に訪れた」


 別れの現実感は、いつだってそうだ。その瞬間を迎える間際まで、地に足の付かない妙な浮遊感だけが心を包んでいる。薄い膜が、急に取り払われたように、今の文夜は突如投げ出された焦燥に苛まれていた。


 大人らしく、大人しく、それを抑え込んで静かに返事をするだけで精一杯だ。


「縛るものが消えたとて、私たちの結んだ(えにし)は、今更そう易々とは消えないよ」


「わかってるさ」


「目に見えずとも、主人はきっとそれを感じられる」


「わかってる」


 血の滴る手を、文夜は額を撫でる一華の手に重ねた。したたかに、穏やかに、微笑む女の顔が薄れる。文夜の視界がぶれたのかと思ったが、違った。


 光に巻かれた一華の姿が、煙のように揺らぎ、薄れ始めていた。


 百年の昔に交わされた契りが、解かれようとしているのだ。


「主人が、本を焼かず、こうして封を解いてくりゃれたからね。魂は地に還り、いつかまた風となり、雨となり、花となり、或いは他の生命に転じて巡ることもあろ」


「僕はそういう、輪廻転生だとか、生まれ変わりだとか、信じちゃいないんだ」


「さよけ」


「だが」


 薄れる女の一回りも二回りも小さな手を、文夜は握りしめる。もう、伝わる温度も感触までも薄れていた。


「もし。もしもまた、お前の厭うた人間に生まれ変わったら、お前が人間を厭うたら、いつでもここに帰ってくればいい」


 これだけは伝えなければと、文夜は告げる。一華が珍しく目を瞠った。いつもそのような顔をするのは文夜の方だったというのに。


「ここなら、お前を厭うヒトも、害するヒトも居ない。山には相変わらず、妙に絡んでくるヒトではないものが居るだろうが」


「ふ、考えておくよ。けれど、主人。厭うても、窮屈な世に疲れても、帰っては来ないやも知れないよ」


 女が目を細めて、お得意の捉えどころのない笑みを浮かべた。彼女がこれまでによく見せた、文夜を煙に巻くあの笑みだ。


 一華のこの表情を惜しむ日が来るとは、考えたこともなかった。


「帰ってくるよ。お前は、きっと」


「それは新たな契りかえ」


「いいや。ただの勘だ」


「主人は鈍いおヒトだからね。さても、その勘も当たるやら」


 そう口では言いながらも、喜色を滲ませた彼女の目元が、溢れる光によって薄れた。度々文夜の胸を騒がせた漆黒の瞳が、今はもう見えない。


 これが本当に別れの時間なのだと、否応なく知らしめられた。


「それじゃあ、行ってくるよ。文夜。――私の、最後の御主人」


「……ああ。行ってこい」


 待っている、とは言えなかった。果たして、彼女が死後の苦界を巡り終えるまでに、どれほどの年月が掛かるのかもわからなかったので。


 けれど文夜は今在る生が果てるまで、この古びた家で暮らすのだろうなと漠然と考えた。


 とうとう、鼻先から口元、細く折れそうな首までも白に塗り潰されていった。闇に溶けるほど黒々とした長髪が、尾を引く着物の袂が、やがて輪郭を崩してさらさらと風化していく。


 そうして、長いようで短い間、場を満たしていた目映い光は徐々に色を失った。辺りを漂っていた頁が、古びた茶色い背表紙に自ずから戻ってくる。


 最後に残ったのは、足元に落ちた灰と、その傍らで咲き染める白い雪割一華の花だけだ。


 細やかと言うには未練がましい心の隙間が、胸に居座って去らなかった。


 彼女と共にこの隙間風も去ってしまえばいいものを。




 ◇ ◆ ◇




 その日は春半ばであるにも関わらず、しっとりと汗ばむような気候だった。年々、日本の季節感が偏ってきているなと、男はひとり渋い顔をする。


 どう足掻いても分別盛りの頃合いとなった身には、急激な気候変動が堪える。これで夜になれば、まだ春先の肌寒さが忍び込むのだからやっていられないというものだ。


 男は起き抜けの浴衣のまま、土間の水場へ向かった。百何十年も昔に作られた家屋は時代を感じさせる造りをしているが、幸いにも、給湯周りや排水関係に関しては祖父が晩年に整えておいてくれたお陰で不便はない。


 自分の歳で細々としたところに生活の面倒さを感じるのだ。老年でこの家に戻ってきたという祖父ならば尚更だったろう。


 調理器具の棚に無造作に引っ掛けていたプラスチックの如雨露を取ると、ぬるい水を八分目まで溜める。それを片手に取って返すと、居間の縁側から庭に出た。


 縁框(えんがまち)からそこそこ離れたところには、男の身の丈をとうに越えた桜の木が一本佇んでいる。この家にひとりとなった春に、苗木を買ってきて植えたものだ。


 白い八重咲きの花は春の初めにとうに落ち、今は新緑の葉が生い茂っている。その木の根本に、防虫のための薬を溶かした水を撒いた。


 ここまで大きくなったなら、もはや水の手入れは雨が降るにまかせておけば良いだろうが、木勢の遅くなった木には虫が付きやすいと聞く。長く花を咲かせてもらうには、多少の手入れも怠れない。


 文筆業をこなす傍らで桜の世話をすることは、彼の日課のひとつとなっていた。


 薬を撒くさなか、ふと、男は木の足元に白い花が咲いていることに気付いた。珍しいかな、桜と同じ時期に咲くその花が、咲き遅れたように一輪だけゆらゆらと風に揺れている。


 目を細めて、それと同じ名前の女の面影を思い出そうとしたときだった。


「おや、花を育てるような繊細な趣味をお持ちだったかね」


 あるはずのない女の声が、木々のざわめきの間を縫って男の耳に届いた。遂に幻聴でも聞こえ始めたかと顔を上げると、桜の向こうに白いワンピースの裾が見えた。


 まさかと目を見開き、枝を掻き分け、桜木の向こう側に目を凝らす。


 花と一緒に、華奢な人影の黒髪が靡いた。


「人間、長く生きていれば趣味のひとつやふたつ増えるさ」


 呆然と立ち尽くしながらもなんとか答えると、彼女は「さよか」と短く相づちを打つ。


「よく、この場所を覚えていたな」


「私のね、物心つく前から、しきりに夢に見る光景が騒ぐのでね」


 女は、紅いルージュを引いた唇でそっと微笑んだ。あなたとも、初めて会った気がしないんだよ、と。蠱惑的な笑みだった。


 男も、彼女につられるように笑った。


「ほうら、帰って来た」


 いつか聞いた耳に残る言葉を、今度は彼が口にする。


 差し伸べた男の手を、嬉しそうに女が取った。




 -  拾:白妙 / 了  -






百年誄歌 終幕



ここまで読了ありがとうございました。

最初は文章サンプルとして一話だけ執筆したものを連載し始めたものですが、長い間完結させられないまま寝かせてしまい心残りになっておりました。


「恋文」の回を書いた頃に結末に迷って一度筆を置いたこともあり、この結末に心を決めるまで随分と掛かってしまいましたが、ひとまずエンドマークを付けられてほっとしています。


今よりもっと未熟な頃に書き始めた作品で、話の筋という筋も始めは無いままに書き出したものだったので、後半に文字数と情報量を詰め込みすぎている感は否めませんが、約十週(一週飛んでしまった為、正確には十一週)お付き合いありがとうございました。


次は『ヒラエスの森の魔女』(仮)の続編を書きつつ、誄歌と同じ頃に書いていたやはり未完のシリーズ連載小説をちまちま改稿して公開していこうかなと思います。

そちらは「特殊な能力や魔術が常識として存在するヴィクトリア朝末期」を舞台にしたなんちゃってミステリーファンタジーです。

全体的にとてもコ○ルト文庫なので、誄歌とはまた違った雰囲気になるかと思いますが、気が向かれましたらいずれそちらにもお目通し頂けますと幸いです。

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