54 ロッカという娘
重たい瞼を開けた彼女の視界に飛び込んで来たのは、赤色の豪奢な天蓋。
ゆっくりと身を起こすと頭がズキリと鈍く痛んだので、左のこめかみに手を当てる。自分の手はいつも通り冷え切っているけれど、今はそれが丁度いい。最近、目が覚めると頭が痛いことが多い。寝すぎなのかもしれない。
ぼんやりとしたまま周りを見回すと、自室よりも高価そうな調度品に首を傾げ……思い出して頷いた。
「ああ、魔王城だったわ」
はめ殺しの窓の外には庭園が見えるが、空は紫色のようなどんよりと濁った色だ。ここに攫われてきてからすっかり見慣れたこの空は、これが現実なのだという何よりの証に思える。
白く細い足をベッドから床に足を下ろす。毛足の長いふかふかの敷物が敷き詰められていて気持ちいい。そういえば、いつも敷いてあるこれは何の毛皮だろうと首を捻り……とりあえず扉の方へと歩みを進める。
--コンコン
向かう先のドアを叩く音に、娘は敷物の上に足を止める。
冬だというのに、石畳の冷たさは全く伝わってこないことから、この敷物の上質さが分かる。
この部屋を出ようと試みると、いつも叩かれるドア。
誰がノックをしているかなど問う必要もないだろう。魔王亡き今、この城に居るのは彼女を攫った張本人である魔族でしか有り得ない。
「チェチーリア卿の娘よ、起きているか?」
ドアの外から聞こえた低い声に、ロッカ・チェチーリアの母に生き写しと評判のアメジスト色の大きな瞳が潤み、動悸が早くなる。両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
(あーん、やっぱりすっごくいい声!)
そして、興奮で赤らんだ頬を冷えた両手でパチンと押し挟む。
いやいやいや。どんなにいい声だって、どんなにいい男だって相手は魔族。しかも、人間の村を侵略して次々に落として行った凶悪な魔王の腹心であり参謀だ。
魔王復活の為と、交換条件に婚約間近な辺境伯の娘を攫ったとんでもない大悪人。
そしてとても困ったことに……ロッカ・チェチーリアの好みドストライクだった。
両頬をぎゅうううっと押さえ、ぶつぶつと呟いてなんとか平常心を取り戻したロッカ。すっと背筋を伸ばした。
うまいこと感情を隠したその表情は人形のように整っており、恐ろしい程だ。辺境伯の娘という立場柄、表情を作るのはロッカの得意とするところだ。
さすがに、『好きです! ここに永住したいです!』と言わないくらいの分別はわきまえている。
ロッカは、東国出身だった母譲りの美しく伸びた黒い髪を掻き上げ、わざと高飛車に答える。
「ええ、起きているわ。分かっているのでしょうに、いちいち聞かないでくださる?」
「それは失礼」
ガチャリ、とドアが開く音がして男が現れる。
部屋に滑り込むように入ってきた男は優雅な動きでドアを閉める。黒い長髪は上質な紅色のシルクリボンで後ろに結われているが、初めて会った時とは違って外套は脱いでいる。ラフな白いシャツにアスコットタイだけだ。見た目だけならば完全に普通の人間である。双眸が燃えるような赤色だと気付かなければ魔族だとは夢にも思うまい。
(きゃー! 薄着になると逞しいのが分かって……素敵!)
無表情の仮面は外れなかったが……ゴクリ、と唾を飲んだ音は意外と響いた。誤魔化そうとプイと顔を背けたロッカに、柘榴という名の魔族は首を傾げた。
「ああ、のどが渇いたか? 水差しならば、そこに」
思い至った様子で、サイドテーブルの水差しを指さす。その様子すらも優美だ。
(くぅ! 本当に素敵! あのクソおやじなんかと比べ物にならないわ!)
ロッカの言う所の“クソおやじ”とは、父である辺境伯が探してきた嫁ぎ先候補である。
今年17歳になるロッカの20歳年上で、ちょっと頭部が寂しいけれど……懐は温かい隣国の貴族だ。少し……いや、かなりの女好きな上に下卑た笑いを浮かべるところがどうにも嫌だった。
政治的な思惑もあり、縁談はまとまりかけていた。ロッカは何も言えなかったが……正直な所、出家を考える位には嫌だったのだ。
そんな折にこの誘拐事件。
しかも、攫ってくれた魔族は見た目がものすごーく好みだった上に、自分を真綿で包むように大切に扱い、物腰も柔らかい。この部屋に軟禁状態の彼女が会うのは柘榴だけだ。これで好きになるなと言われるほうが無理だろう。
しかし、ロッカにだって分別はある。父の元に戻り、辺境伯の一人娘としての役目を果たさねばならない。だから、付け慣れた“伯爵令嬢”の仮面を外すわけにはいかないのだ。
「飲むといい。お前が体を壊すと困る」
「……いただくわ」
なかなか水差しに手を伸ばさないロッカに焦れたのだろう。柘榴はグラスに水を注いで差し出してきた。
ロッカはおとなしく受け取り、口を付ける。いつもと同じで、ほんのりとローズの香りが鼻孔をくすぐる。
「……その薔薇水が気に入ったのだろう?」
(はい! とっても大好きです! すごく素敵です!)
そんな内心などおくびにも出さず、ロッカは目を伏せた。
「……魔族にしては、いい趣味してるわ」
そんな彼女に柘榴は、ふと頬を緩めた。
「魔王様も、そんなことを仰っていた」
遠い日を思い出しているのだろう。彼の視線は窓から見える庭園へと向いている。
彼との付き合いは浅いし短い。
けれど、彼を大好きになってしまったロッカにはもう分かってしまっていた。
(柘榴さま、世界とかどうでもいいのね。魔王に帰ってきてほしいだけ)
ロッカはじいっと柘榴の横顔を見つめる。物思いに耽る柘榴はその熱っぽい視線には気付かない。
(ここまで忠誠を誓う魔王とは、どのような殿方なのかしら)
もちろん、恐ろしい魔族が山ほどいることはロッカだって知っているけれど。凶暴で恐ろしいと言われていた柘榴は、実際にはこんなに素敵で紳士的で……人間より人間くさい。そんな彼が慕ってやまない魔王というものに、ロッカは興味を引かれた。
「ねえ、柘榴さま」
「なんだ」
名を呼ばれ、驚いた様子で振り返る柘榴にロッカは少しだけ……伯爵令嬢の娘の仮面を外した。
「魔王のこと、何かお話してくださらない?」
◇◇◇
「お母さん。ぬいぐるみはどうなの?」
日曜日の夜。一人暮らしのアパートへと帰る準備をしながらの夏帆の言葉に、母は満面の笑みを浮かべて親指をぐっと立てた。
「……ばっちりよ!」
「……本当に?」
「任せて! お母さん、張り切ってお花の刺繍も付けちゃった」
「……」
得意げな母の様子に、なんだか不安しか感じられなくて夏帆はそっと目を逸らした。
(これは、いいか悪いか判断しづらいなあ)
一度見せてと言っても「出来上がってからのお楽しみ」との一点張りで見せてくれないのだから仕方ない。
「ええと、じゃあ帰るね」
「気を付けてね。あ、夏帆。年末はいつからお休みなの?」
「28日の午前で仕事納めだから、午後から帰ってくるね」
「ふうん。いつもなら翌日に帰ってくるくせに……テオくん効果かしら」
「ん? なあに?」
最後の母の呟きは、玄関を開けた夏帆にはよく聞こえなかった。
ロッカは魔王が男だと思っております。
あけましておめでとうございます!
まだ、もう少し続きます。最後までお付き合い頂けましたら幸いです。
次話より年末となります。