53 懐かしい音が聞こえます
長らくお待たせしてすいません。
◇◇◇
朝早くに廊下を歩く音がする。ギシギシと軋む二人分の足音は夏帆の眠る部屋の前を通り過ぎ、玄関で止まる。次いで、ドアを開けるガチャリという音と、そっと閉められてパタンとしか音のしないドア。
(ああ、クロのお散歩かー)
幼い頃から、両親が休みで家に居る日には必ず聞こえる音だ。両親とも休日にも不在が多かったので、夏帆と兄が夕方の散歩は行っていたけれど。
(クロはすぐにパンチするけど、お父さんは大事にしてるよね)
休日の朝の両親の散歩は長い。一時間くらいは帰ってこないのが常だ。
ごろりと寝返りを打って、暖かな布団から腕を出す。
眠っている間に、一段と冷え込んだ室内の温度にブルリと身震いをする。早朝なのでまだ室内は真っ暗だ。枕元を手さぐりし、充電したままのスマホを引き抜く。
(まだ、5時なんだ)
そういえば、冬の朝に散歩すると流れ星がよく見えると言っていた父の顔を思い出す。
少年のようにキラキラと表情が輝いていて、母は優しく笑っていたっけ。
(なんか、目が冴えちゃったな)
布団の中で、足を攣らないように慎重に手足を大きく伸ばして、あくびをひとつ。
(よし、起きよう!)
むくり、と体を起こすとやはり寒い。でももう布団に戻る気はなかった。
モコモコの靴下を履いて、モコモコのパーカーを重ね着してリビングへと向かう。
当然、誰も居ない寒いリビング。カーテンは母が開けて行ったのだろうが、窓の外は真っ暗のままだ。
ストーブに火を付けて、炬燵のスイッチを入れる。テレビのスイッチは付けないけれど、いつものことだ。
テーブルに置かれていた、少し前の新聞をなんとなく読み始め……ふと視線を上げると濡れた洗濯物が山積みにされた洗濯かごが目に入る。
(帰ってから干すつもりだったのかな)
暇つぶしに新聞を読んでいる位だ。洗濯物くらい干しておこうかと炬燵からノロノロと立ち上がった。
(魔物とか、魔王とか言うけど……炬燵こそ魔物だと思うな)
洗濯かごを持ち上げ、大きな窓から縁側へと出る。外はより寒く、吐く息は白い。
先ほどよりも少し辺りは明るくなっていて、空は白んできていて星はもう見えなかったが、真正面の花田家の電気が着いているのが見えて夏帆は目を丸くした。
(おじちゃん、早起きなのは知ってたけど)
休日のこんな時間から起きているのは、てっきり両親くらいなものかと思ってたと。夏帆はくすくすと笑みを零しながら洗濯物を干していく。あまり量は無いのですぐに終わりそうだと思った矢先、何か音が聞こえてきて夏帆は首を傾げた。
「?」
何だろう、何か空気を割くような……ひゅんひゅんという音が聞こえてくる。
(なんだか、すごく懐かしいような、聞いたことのある音なんだけど)
縁側に出してあるスリッパを履いて家の前の道路へと出てみる。
空を見上げると、まだ夜は明けていないけれど空はだいぶ明るい。
山間に立地しているので、霧がだいぶ深くて、夏帆はきょろきょろと目を凝らすと、音を発しながら近づいてくる二つの人影を見つけた。
「??」
夏帆は首を傾げる。父と母かと思ったが、それにしてはこの音は何だろう。そう思った彼女は見知った姿を目にして思わず声を上げた。
「テ、テオさんとリアムさん!?」
「あれ? カホちゃん。おはよう」
「カホ殿、早起きだな」
霧から姿を現したのは、兄の高校ジャージを着たテオ。相変わらず丈が少し足りない。そして、少し後ろを走るリアムは……縄跳びをしながら走っていた。
「おはようございます」
反射的にぺこりと頭を下げる夏帆。その前で、テオは足踏みしながた留まり、その後ろでひゅんひゅんと音を立ててリアムがその場で縄跳びをしている。
(……リアムさん)
夏帆の何か言いたげな様子を見て察したテオは、生暖かい笑みを浮かべている。その瞬間、二人の間には確かに何かが通じていた。
「……お二人とも、朝のランニングですか?」
縄跳びと、リアムの腕の重しについてはスルーした方がいいのだろうなと、聡い彼女は察した。
「そうだよ。あっちに居た頃からの習慣で、朝は一時間くらい走ってるよ」
「一時間も!」
目を丸くする夏帆に、二人はこともなげに頷いた。
日々デスクワークで運動不足の夏帆にとっては恐ろしい距離に感じた。
「山の上まで行って戻ってきたところだ」
「塚の所まで行かれたんですか!」
緩やかな道ではなく、傾斜の急な山道を往復してきたのだという。想像した夏帆がブルリと身震いをしたのを見てテオが慌てる。
「カホちゃん、寒いんじゃない?」
「ああ、早く家に戻った方がいい」
「そうですね。お気をつけていってらっしゃい」
花田家を通り過ぎ、長い長い田圃道へと向かう途中だったのだ。二人はまだまだ走るのだろう。
寒くはあるけれど、それで身震いをしたわけではない。でも、邪魔をするのも申し訳ないと思って夏帆は手を振った。
「ありがと、カホちゃん」
「では、またな」
二人の姿が遠ざかり、霧の中に消えていく……と思ったら、左側の人影が大きくなる。姿を現したのは、汗で貼りついたアッシュグレーの髪を鬱陶しそうに掻き上げながら走るテオだ。
「あれ? どうしたんですかテオさん」
「大事なこと言い忘れてた」
「?」
なんだろうと首を傾げる夏帆。そんな彼女にテオはとろけるような笑みを浮かべた。
「その服、モコモコしていて可愛いね。すごい似合ってる」
「!」
なんだか、顔に熱が集まっていくのを夏帆は感じた。
きっとすごく真っ赤な顔をしているに違いないと思うと、ますます顔に熱が集まる。こんなに寒いのに、顔だけがすごく熱い。
「はは、そんだけ! またあとでね。行ってきます」
「……いってらっしゃい」
テオは照れくさそうに鼻を擦り、手を上げて背を向けた。そして、現れた時よりも心持ち早い速度で霧の中へと消えていった。
後に残された夏帆はうるさい心臓を宥めるように、胸に両手を押し当てた。
「ただの、パジャマなのに」
モコモコの、よく売っている冬用の温かなものだ。色とデザインは可愛らしいけれど、あくまでもパジャマなのだ。
よくよく考えれば、自分がスッピンなのを思い出し、夏帆は慌てて今度こそ踵を返す。
(なんで、今までテオさんと繋がる部屋で暮らせてたんだろう)
スリッパを脱ぎ、リビングへと上がって窓を閉める。部屋はストーブの熱ですっかり温かい。
気持ちを落ち着かせようと、台所へ行ってヤカンに水を張る。
(そういえば、キムチとか一緒に食べてた)
思い出すと頭を抱えたくなる。もっとマシなものがあったのではないだろうか。
水を張ったヤカンをストーブの上に乗せて、手をかざす。冷え切った手がじんわりと温められていくのが心地よい。
(テオさんは帰って……あの部屋に当然戻るんだよ、ね?)
ようやく今更、その考えに至った夏帆は青ざめた。
薄い布一枚でしか隔たっていないのだ。むしろ、なんでこれで大丈夫だったのかと。少し前の自分を問い詰めてやりたいところだ。
「……うう、朝ごはん、つくろ」
夏帆、ようやくその考えに至るの巻。
ジョギングが終わったら、リアムはプロ●イン飲むんでしょうね。
次話、別の場所のふたり。




