39 楽しい母と複雑な父
◇◇◇
結局、家にまつわる話と、事の顛末は聞けたものの。何一つ事態は進展しないままに夕方を迎えてしまった。夏帆は明日仕事なので、夕食まで食べて帰るつもりだ。
兄一家は昼過ぎに自宅へと戻ってしまったので、家は少し静かだ。母が夕飯の支度をし、クロの散歩へ夏帆が行くことにした。
炬燵を出て、パーカーをはおり準備をする夏帆を見ていた母が、ニコニコしながら声をかける。
「すぐ暗くなっちゃうし、テオくんあたりでも連れてけば?」
「え、なんで!」
片方に袖を通したまま、夏帆が驚いて振り返る。散歩に出かけて帰ってくる頃には暗い。そんなの毎年のことなのに。
「だって、せっかく同じ世界に居られるんだもの。今だけよ」
「……あ。そっか」
(1ヶ月したら帰っちゃうのか)
そう。これは期間限定の、あくまで緊急事態。彼は仕事で壁の向こうからこちらへと来ているのだ。パーカーのもう片袖を通しながらカレンダーに目を向ける。
(お正月過ぎには、もう居ないんだ)
しゅんとしてしまった夏帆に、母が訪ねた。
「ねえ、夏帆はテオくんが好きなの?」
「!?」
またもや夏帆がガバっと振り返る。母は面白そうに、にこにこしている。この母は見たことがある……そう、確か中学生になった兄が志穂さんを連れてきた時だ。自転車の後ろに乗せてきた兄は「志穂は、クロが見たいんだって」と真っ赤な顔で言っていたっけ。
「や、えと……帰っちゃう人だし、今は仕事で来てるんだから、そんな。確かにすごく素敵な人だけど」
片手をぱたぱたと左右に振り、母の追求から逃れようとするがそれは許されなかった。
「ふーん。気になってはいるんだ」
「や、だって隣に住んでたし。ご飯も何回か一緒に食べたし」
にこにこにこ。
背景にキラキラが飛んでそうなほどの笑顔を浮かべる母に、夏帆は背中に汗が伝うのを感じた。そんな彼女に助け船を出したのは黙って新聞を読んでいた父だった。
「小夜子さん、夏帆が困ってるじゃないか」
苦笑いを浮かべ、新聞を畳んだ。母はつまらなさそうに口を尖らせた。
「ほら、クロが待ってるよ。行っておいで夏帆」
「あ、うん。いってきまーす」
これ幸いと、そそくさと玄関へと逃げ出す夏帆。ぺたんこのブーツに携帯とクロの散歩セット一式を持って外へと出て行った。
残された父はバタンと玄関が閉じられる音を聞いて、新聞をまた開く。そんな彼に妻は不満そうに言いつのった。
「あと一押しだったのに」
「小夜子さん……」
「まさか、二十三歳にもなった娘なのに、嫁に行ってほしくないとか?」
「……」
夫は無言で眼鏡を押し上げ、新聞へと目を落とす。しかし、その面は昨日のテレビ欄だ。母はみかんをむいている。
「……そういうわけじゃないさ。そういえば、お互いの部屋に穴が開いていて、仕切りは布だけって言ってたよ」
「そうね。時空の歪みの影響かしら」
「……ルームシェアみたいなものじゃないか」
「……それとは全然違うような」
母は苦笑いを零し、剥き終えたみかんをそっと夫へと差し出した。
二十三歳で彼氏もできたことのないらしい一人娘。母としてはそろそろ頑張って欲しい所だが、父としてはまだまだ複雑な所なのだろうか。
「あら? テオくんが来たみたい」
「……」
庭からクロの興奮した鳴き声と共にテオらしき声に夏帆が応えている。
「あらあら。仲良しさんね」
母の嬉しそうな声に、父は再びずり落ちてもいない眼鏡を、くいっと上げて新聞へと目を落とす。
テオは確かに良い青年だ。仕事もできるし真面目で誠実で、かといって頭が固いわけではない、柔軟な考えをすることのできる、将来有望な青年だと思う。
それに何より、本当に二人が想いを通じ合わせたのならもう、稔が言うことは何もないのだとは思う。だが、しかし……。
(異世界人なんだよ、小夜子さん……)
◇◇◇
夏帆が散歩の準備をしようと庭へ出ると、クロが甘えてきゅんきゅんと飛び付いてくる。撫でて、撫でてとつぶらな黒い瞳を輝かして見つめるので、夏帆も笑顔を浮かべてクロを撫で回す。
「クロちゃーん、いいこいいこ」
クロは撫でられてぐにゃぐにゃ。夏帆もその可愛さに顔が緩み、人様には見られたくない状態になっていると、背後から声をかけられた。
「カホちゃん、本当にクロと仲良しなんだね。今からお散歩?」
「あ、テオさん!」
緩み切った、だらしない顔を慌てて引き締めて立ち上がる。昼前に別れたテオが立っていた。全然気づかなかったのが少し恥ずかしい。
「そうです。今からお散歩で……す」
先ほどの母の『テオくんが好きなの?』の言葉が頭にポンと浮かび、夏帆は少し頬を赤くしてさっと目線を逸らした。
「カホちゃん?」
不思議そうな様子のテオに夏帆は首をぶんぶんと左右に振った。
「あ、ええと。いえ。何でもないんです! テオさんはお父さんにご用事ですか?」
「ううん。体がなまりそうだったから、散歩でもしようと思って出てきたところ」
言われてみれば確かに。テオは昼間別れた時とは違い、黒いダウンの中にジャージを着ていた。青色で胸元に“平田”と刺繍がされたそのジャージには見覚えがある。
「……そ、それってお兄ちゃんのですよね?」
「そう。イツキさんが寝間着にするといいって貸してくれたんだけど、運動するのにいいなと思って」
これってすごい着やすいし動きやすくていいよね、と嬉しそうなテオに夏帆は苦笑いを零した。隔世遺伝で祖父に似たであろう兄は身長が高い。テオと同じくらいなのだが……。いかんせん、足の長さは純国産の兄に勝ち目は無かったようである。
「ちょっとだけ裾がつんつるてん、ですね……」
「あ、そうなんだ。そういうものだと思ったよ」
全く気にしていない様子で、明るく笑うテオ。ぴったりと言えばぴったりなのかもしれないが、膝を曲げるとやはり短いのではないかと夏帆は思う。
「ね、カホちゃん。お散歩行くならオレも付いていっていい?」
「いいですよ! あ、でも。私は歩くのあんまり早くないので、テオさんの運動にはならないかもしれないですけど」
心配そうな夏帆にテオは大丈夫、と笑いかけた。
「今日は軽くウォームアップってことで。土地勘が無いから教えてくれると助かるよ」
「ああ、そうですね。この辺は道を一本間違えちゃったら、山に入っちゃいますもんね」
道案内は必要だろう。まあ、案内するような名所どころか、山と川と田んぼしかないけど。
夏帆はクロの首輪を散歩用に付け替えてリードにつないで立ち上がる。
まだ辺りは明るいが、すぐに薄暗くなってしまうだろう。念のためにお散歩バッグには懐中電灯が入っているので安心だ。
「じゃ、行こうか」
「はい」
二人とクロの影が足元から後ろへと長く伸びる。のどかな道を二人はゆっくりと歩き出した。
母が心配せずとも、テオはやってくる。
次話、散歩と約束。




