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Nemesis――ネメシス――  作者: 覇王
第1章
9/11

8  杞憂と苦悩

 『走れ』


 ただそれだけの単純な脳からの指令に則って、数時間が過ぎた。

 先程まで夕闇に包まれていた辺りは、いつの間にか淡い光が差している。延々と続く地平線の向こうからは早々と朝が進んでいる。

 そこで、ようやくセレストは考える事を取り戻した。

 ふと足元を見れば、両足は過度の疲労からか、張り裂けんばかりに腫れ上がっている。履いている靴は明らかに以前よりもボロボロに破れ、みすぼらしい限りだ。

 セレストが振り返れば、延々と続く道と長閑な田園風景が広がるばかり。来た道に心当たりは無い。


「――ここ……どこ……?」


 セレストが無意識に憂う感情を言葉にした。

 しかし、言葉に出した事によって、不安はより一層引き立てられる事になった。

 だが、後戻りは許されない。

 ここまで歩を進めてきた以上、前へ進むしか選択肢は無いのだ。

 自分に希望を託してくれたナクシアの為にも――。

 セレストは再び一歩を踏み出した。

 理念を取り戻した以上、足取りは酷く重い。今になって気付く鈍痛も精神を徐々に磨り減らしていく。更には、空腹も絶望の部品パーツの一つ。

 だが、必ずしも限り無い絶望に希望が呑み込まれるとは限らない。

 ――この世界、何が起こるか分からないのだから。


 セレストが再び歩き出して約30分。

 周囲を取り囲む景色は徐々に変化していった。

 一面の田園は、今やしっかり整備の行き届いた石畳と街路樹へと移り変わった。

 そして、ようやく『それ』が姿を現した。

 行く行く人の笑みは絶える事無く、永劫の平穏と娯楽が保障されると言われる街――ディベル。

 そこには、神裁戦争ネメシスで大きな被害を被ったとは思えない繁華が広がっていた。

 芸術性を優先した独特の建造物が建ち並び、それぞれに様々な垂れ幕が下がっている。

 しかし、その垂れ幕の多くに同じ男が描かれている。今人気の役者か何かか。

 セレストは新鮮な都会の風景に見入ってしまった。


「うわぁ……」


 意思とは関係無しに感嘆の言葉が漏れる。

 ――その時、セレストの身体に大きな衝撃が走った。

 不意に受けた衝撃に耐えられず、セレストは倒れ込む。

 すると、いたた、と渋々立ち上がる彼女の側に、一人の男が駆け寄ってきた。


「だ、だ、大丈夫であるか!?」


 上手く舌の回らない様子から、酷く慌てている事が伺える。


「大丈夫――」


 だが、その声の主を目にした途端、先程まで発せられていた声音は押し戻された。


「――あ!あの垂れ幕の人!!」


 セレストが目の前の男を指差し、大声で叫ぶ。

 男は紛れも無く、この街での有名人である筈の人間だった。しかし、それが今、何故ここに居るのか?

 その途端、男は更に慌てふためき、セレストの口に手を押し当てた。


「ふぐごふぐごごごご……!」


 男は暴れるセレストを抱え、そのまま路地へと走り出した。

 これだけでもかなり大きな出来事ではあるが、セレストの声すらも、喧騒な街の無関心な人間達には気付かれないのである。

 これが吉と出るか。凶と出るか。


 路地に着くなり、男はセレストを放した。

 だが、解放から間も無く、セレストの口に動く予兆が現れた。

 それを素早く察した男は再び彼女の口に手を押し当てる。


「お願いだから、喋らないで欲しいでござる」


 前よりも重く冷たい口調は、自然とセレストの抵抗を止めさせた。

 そして、もう抵抗する気配が無いと確認すると、男は手を放した。


「えっと……まず、それがしはロッポウというでござる。御察しの通り、ここディベルの『舞芸マイグ』役者。あ、『舞芸』というのは、エニグマ発祥の民族舞踊の一種でござるよ。で、さっきは……まぁ、色々あって……に、逃げてきた次第でござる」

「……だから、その格好で逃げてきたの?」

 

 セレストに言われるなり、ロッポウは目線を落とした。

 そして、その数秒後、狭い路地に彼の悲痛な叫びが木霊する。


「や、や、やらかしたでござるゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!!」


 一際目を引く車鬢くるまびん

 厳めしい真紅の隈取。

 肩に背負う注連縄。

 腰の真正面から垂れる金縁の大垂布。

 羽織る紅、碧、金の鮮やかな着物。

 腰に佩かれた一振りの太刀。

 背中に携えた臙脂えんじの番傘。

 確かに舞芸の衣装そのままである。逆に何故、この状態で気付かなかったのだろうか?

 この男、どこか抜けているところがあるらしい。

 すると、何やら路地の外がやけに騒がしくなってきた。

 ロッポウの言う追っ手が探しているのだろう。ここが見つかるのも時間の問題だ。


「すまない、某はこの辺りで逃げるでござる。御主も早くここを離れると良い、あいつ等は怪しいと思えばすぐに捕らえて人質にするでござる。無事を祈るでござるよ」

 

 そう早口に告げると、ロッポウは役者とは思えない程のスピードで路地を駆け抜けていった。

 次々と移り変わる事の展開に混乱気味のセレストはその様子を呆然と見つめていた。

 だが、彼女に安息は無いようである。

 路地の向こう側から、青味のある黒の特徴的な衣服を身に纏い、奇妙な仮面を身に付けた男達が凄まじい勢いで向かってきた。懐中に幾らかの暗器がある事は、大体想像がつく。


(捕まったら終わりだ……!)


 セレストの本能が危険だと警鐘を鳴らす。

 自分でも驚く程の史上最速の鼓動。

 次の瞬間、セレストは数々の摩天楼の間を駆け抜けていた。

 

 ◆


「ウグァ……グゥァ……」


 獣と変わり無い呻き声を絶えず漏らすその男に、人間との共通点は外面のみしか感じられない。

 いや、生気無くふらつく姿も人間とは似ても似つかぬものかもしれない。

 当ても無く動き続ける足は自然と気を引き、そこへ予兆無く振り下ろされる短剣は脅威そのものだ。歩く速度も速くなったり遅くなったりと定まらない為、間合いを取るのも一苦労である。

 百戦錬磨のナクシアさえも、今回の敵には苦戦を強いられそうだ。

 白鬼シラオニ討伐隊大隊長であったゲオルクを遥かに凌駕するという事は、全身を包む禍々しいオーラを見れば簡単に分かる。

 人は憎悪だけで、ここまでも強くなるものなのだろうか。

 いや、コイツは違う。何かが……違う。

 ナクシアの脳裏に勝手な考えが浮かんでいく。

 そうこうしている間にカルトは間合いを大きく詰めて来ていた。


「ウボァァァァァァァァァァァァ!!」


 力任せに振り下ろされた短剣はブゥンと大きな音を立てて、虚空を斬り裂いた。

 本来、武器の扱いには大きな疲労を伴う。それを軽減する為に、最適な構え、持ち方、斬り方が存在するのだ。

 そして、今のカルトのように力任せに攻撃を行う戦い方は、更に体力を消耗させる、最悪の戦い方なのだ。

 カルトはそのまま戦っている。それも長い時間。

 しかし、彼には微塵の疲れも見受けられない。何十回、何百回と剣を振っても、疲れる気配が無いのだ。

 実力で比べても、ナクシアの方が高い。通常であれば、ナクシアが一瞬の隙を斬り付けていただろう。

 通常であれば、だ。

 時が進むに連れて、彼の表情はどんどん曇っていった。

 ナクシアがカルトを今一つ攻められずにいるのには大きな理由が二つある。

 一つは疲れを知らない事。

 そして、もう一つは隙が無い事である。

 正確に言えば隙が無い訳ではない。むしろ隙が有り溢れている。

 だが、カルトはわざと隙を作っているのだ。

 戦い慣れている戦士の中では、稀にこのようにして自ら隙を作り、そこへ攻めてきた相手にカウンターを見舞うという戦法を用いる者が居る。

 ただ、この戦法は極めてリスクが高く、失敗した時の一撃が致命傷になりかねないという事から、使う者は殆ど存在しない。皆無と言っても過言ではない程だ。

 しかし、カルトはその戦法を今実行しているのである。

 カルトが得意とするのはクロスボウを使った遠距離からの攻撃だ。今でこそ短剣を扱ってはいるが、これは愛用しているクロスボウが損壊してしまっているからである。

 そんな中、この戦法を積極的に使う事はあまりに無謀すぎる所業と見えた。

 判断の誤り一つが生死を分ける戦場では、無謀な行動は命取りとなる。一体カルトは何を考えているのか。

 しかし、謎多きこの戦いの中にも明瞭な事はある。

 長期戦に持ち込めば持ち込む程、ナクシアの勝算は減っていくという事である。

 この戦いで最も重要なのは、スタミナの使いどころと言えよう。

 いざ確実に止めを刺せる時が来ても、そこで強力な一撃が放てなければ意味が無い。

 つまり普段はスタミナの減少は最小限に抑え、ここぞという時にだけスタミナを消費するという立ち回りが基本となる。


(勝てる……のか……?)


 最悪の事態が頭をぎった。

 ナクシアはそんな憂いを振り払うかのように、鈍剣で虚空を斬り裂いた。


 ◆


「ロッポウはどこだ!」


 この言葉を聞くのは何回目だろうか。薄暗く湿った独房にも似た空間に怒号は絶えない。

 セレストは肉体的にも精神的にももう限界だった。

 一晩中走りっ放しだった疲労と空腹が更に彼女の意識を朦朧とさせる。

 煩わしい怒鳴り声さえも、遠い遠い世界の微かなざわめきと化す。

 すると、男は諦めたのか、どこかへと去っていった。そして、間も無く戻ってきた男は明らかに不味そうな料理の盛られた皿をセレストの前に無愛想に置いた。


「さっさと食えよ。早く吐けば、それだけ早く楽になるんだ、分かったか?」


 セレストの意識はそこで途絶えた。

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